第3話 再会 

【殿山京香35歳】



 和美と裕一の一件があってから、私は怒りをぶつけるように仕事をした。文字通りの仕事漬けの毎日は勿論休日など無視だ、無視。お陰で今は、営業二課の課長になることが出来た。


 その間、田舎に帰る暇?そんなものは無いに決まっている。数えるほどの休みはひたすら寝ることに費やしていた。


 お陰でついたあだ名が「鬼の殿山」だ。

結構、いくらでも言えばいいとこれも無視した。


・・が・・。


 ある日を境に私は、ある理由でというか、いいえ違う、はっきりとしたある目的も持って田舎に帰るようになっていた。


「お姉ちゃん、また明日も行くの?」と母が、呆れたように私に言った。

「ええ、かあさん。行くわぁ!」と私は即答した。


「そぉ、じゃ明日もお弁当ね、にしても・・。毎週、毎週、電車賃使って帰って来ては山に登る。どうしたんだかねぇ~。うちの長女さんは」と言った。


 確かに母の言うとりだ。

 特急電車で長時間、海岸沿いをこれでもかと振り子のように揺られながら、この町に帰って来るのは時間的にも体力的にも金銭的にも少しきついところはある。


 でも、窓から眺める緑豊か山々と、太陽が眩しく光る青い海を見るのは、自然に心が大きく広がっていき、それはそれで気持ちが良いものだとも思っていた。


「確かに、新幹線なら東京までは確実に行っちゃうけどね。いいじゃない。それに、かあさん我儘よ」

「かあさんの、どこが我儘なの?」


「だって、帰らなきゃ帰らないで文句いうし。帰ったら、帰ったで文句いう」


「仕方ないでしょ。お姉ちゃんが極端だからよ。帰らない時は何年も帰らない、死んだのかと思うわよ。そしたら今度は、毎週のように仕事が休みの日は帰ってきて、でも家にはいない。山で一日過ごして帰って行く。本当に極端な子よねぇ」とまた呆れて母が私の顔をまじまじと見ながら言う。


「仕方ないじゃない。それこそ極端な凝り性の父親似なんだから」と私は言い返した。


「ハァーー」と力いっぱい母はため息をついた。そして、「そうね、今更、お姉ちゃんにこんなこと言っても始まらないわねぇ」と諦めたように言った。


「そうそう。それと、私が田舎に帰らないからって、いちいちまどかに報告して迷惑かけるのはやめてよね」と、私が少し怒ったように言うと…。


「あら、なんのこと?」と言いながら、母は素知らぬ顔をして私の部屋をそそくさと出て行った。


 母の文句も、気持ちも分からないでもないが、まどかに母と私のことで迷惑をかけたくないし、それに山に登るのは私にとっては死活問題なのだ。


 中学一年の春、彼と出会った。

 もう一度、彼に会いたいと思い何度も山に入りあの湖を探したけど、とうとう見つけることはできなかった。


 それが去年の秋、思わぬ偶然の出来事で、あの湖、龍神様が居るという湖の場所を知ることが出来たのだ。教えてくれたのは小学生の甥っ子のクラスメイトの可愛らしい女の子で、もっか甥っ子の片思いの相手だ。


 そして、彼女が教えてくれたあの湖の場所は、なんと中学校の裏山では無く、そこから数えて二つ向こうの山の奥だった。


 それに、その山に入る獣道の入り口には、あの日私が見たほこらも確かにあった。


 でも…、なんであの短時間のうちに、山を二つも越えて、私がそこにいけたのかは未だに謎だ。


〝そして、多分、彼の正体は龍神〟あんな山奥に家などあるはずがない。人が住んでいるとは到底考えられない。だから、そうに違いないと私は確信している。


 でも、もうそんなことは関係ない、彼が龍だろうが鬼だろうが構わない。人から鬼と言われている私には、そんなことでひるんだりしない、逆に鬼と言われている私には、ピッタリの相手ではないかと妙な自信がある。


 とにかく私は彼に会いたいのだ。どうしても…。


 だから、あの湖の場所が分かったときには、人間、バカと言われようと諦めずに思い続けていれば、思わぬチャンスが来るものだと、そのとき私は嬉しくて心密かに小躍りした。


 そして彼がこの地に留まるのは、あの湖に居るのは、梅の花が匂い立つ春とともに天から降りてきて、秋の山が紅く染まる秋に天へと昇るまでの間だと知った。


 そう、それから私は春になるのを待ち、梅の花の香りがするのを確かめて、会社の休みになるたびに、ほぼ毎週のように実家に帰り、山に登り、あの湖に出向いて一日の殆どを過ごしていた。


 すべては、彼に会うためだ。


 そう、でも悲しいかな、もう夏の終わりだというのに、私は未だに彼とは会えずにいた。


 その代りというか、本当に記憶の中から完全に近いくらいに忘れていた違う相手には、会えたもだけれども…。






 ☆-☆-☆


 春一番が吹いた日、ホテル・リッツへと続く梅田の地下街で私は突然後ろから声をかけられた。


「京香?京香じゃないか?殿山京香!」

「えっ!」


 フルネームで、しかも突然大きな男性の声で後ろから呼び止められ、私は足を止めると慌てて振りかえた。


 グレーの仕立てのよいスーツを着た。縁なしメガネに人の眼を気にした髪型が、いかにも切れる男という印象を与える。

 右手に持つカバンもどこかブランド物の香りがしていた。


〝だれ?こんな人しらない…。見たことないけど…。〟と私は咄嗟に思っていた。


「僕…、じゃない。俺だよ、俺。悠木ゆうきしんだよ。今は母方の姓になって秋川あきかわしんだけどね」と照れたように笑うと、悠木真は私に言った。


「悠木ぃ、真…て、あの、真?中学一年の時に同じクラスだった?」


「そう!その、真」

 真は本当に嬉しそうな顔で私を見た。


「私のこと、女じゃなくて、男だって言った!あの、真?」

「そう、ごめん。悪かった!」


〝ぷぅ〟と、私は吹き出した。真も頭を掻きながら笑った。

何年振りだろう、もう二十年近くだと気が付き、あの時の悔しさよりも、思わず懐かしさが込み上げてくる。


「京香、相変わらず美人だな。ぜんぜん変わってない。一目で分かったよ」

「ありがとう。素直に喜んどくわぁ。元気そうね。おばさんは、お元気?」


「ああぁー、今は、孫の面倒にかかりきりだよ」

「そう、真、結婚したんだ」


「うん、去年ね。京香は?」

「私、私は、未だに独身!」


「そっか」


 真は、複雑そうな顔をして私を見た。同情なんかしないでとの思いを込めて私は微笑だ。


「そうだ俺、弁護士になったんだ。何かあれば、すぐに相談にのるよ」


 真は素早くスーツの内ポケットから銀のケースを取り出して、名刺を一枚、私に渡してくれた。


「秋川法律事務所、独立したの?」

「いや、伯父さんなんだ。母のお兄さんの事務所なんだ。跡取りがいないから、僕が伯父さんの後を継ぐことになっている」


「そう、おめでとう。立派な弁護士さんか」

「京香は?京香の名刺もくれよ」

「OK!」


「へぇー、K&Kホーム株式会社、営業第二課課長、殿山京香か、さすがだな」と真が言った。

「なにが?」


「いや、怒らないで聞いてくれよ。大人になって、社会にでて思ったんだ。京香の性格は、仕事をするっていう点においては、いい意味でパフェクトだってね」

「はぁ?」


「あぁー、ごめん。もっとちゃんと説明したいけど、今からクライアントと会食なんだ。僕から呼び止めておいて、ほんと失礼なんだけど、もう行かないといけない。今度ゆっくり話すよ。いま言ったことの意味、決して貶しているんじゃなくて、子供の頃は気が付かなかったんだ。京香の、その性格の良いところを、悪い!ほんと時間なくて、じゃ!」


 真は時計を見て、悪いと左手でゴメンの仕草をすると慌てて走り去って行った。


 後に残された私は、新手のなぞなぞか?と真に突っ込んでやりたかったけど、相手がいないのでは仕方が無い。連絡してくるならしてくるだろう。


 真からもらった名刺を自分の名刺入れに入れて、そのまま忘れてしまっていた。

懐かしいと思いながら、何とも薄情な奴なのだ私は…。


 でもその時の私には、彼に会う為には、会える為には、どうしたらよいのかという課題をクリアする事の方が大切だったから、訳の分からない真のなぞなぞに、付き合う気が無かったのだと思う。






 ☆-☆-☆


「さぁーてぇと、用意は出来た、完璧」

 私は、嬉しくなった。

 今時は便利だ、デパートには山に登るにも気持ちが華やぐ山ガールファションが咲き乱れている。


 そう、山の木々に咲く花かと思うほどの綺麗な色の服や小物が揃っているデパートで、仕事帰りのストレス解消の一つとしてウィンドーショピングをする楽しみも増えた。


 私は彼に会った時のことを想像しながら頭の中で色を組み合わせて行く。明日は鮮やかなピンクと淡いブルーを基調にしようと決めてみた。


 もうすぐ秋がやってくる。

 今年、彼に会えるかはそれまでが勝負だ。もし会えなければまた来年の春まで待たなければならない。


 来年も駄目なら、再来年、それでも駄目なら、その次の年と永遠に続くのかもしれない、しれないけどそれでもいいと私は思っている。


 きっと私は彼に会えるまで山に入り、あの湖へ行き続けるだろう。何故なら私は、もう平気な顔をして人の心を裏切る人間の男には、なんの興味も無かったからだ。


 恋愛は何度かした。その都度、私は相手に誠実に向き合ってきたつもりだ・・。


 だけど相手は、私を都合のいい女としてしか扱わなかった。扱われなかった。そう思うと悔しくて仕方なかった。



 あれは去年の9月。

 裕一とのことがあってから「男なんかに負けてたまるか、出世してやる!」となりふり構わず仕事ばかりしていた私に、今は遠い町で教師として働いているまどかから突然連絡が来た。


 何年ぶりだろう…。

「京香、来週そっちで二日間の研修があるの。一日前の祝日に行くから休みとりなさいよ」と、電話の向こうのまどかは私に命令口調で言った。


「なに、それ、うちに泊まってこと?」と私が聞き返した。


「そう、研修中は同僚とホテルに泊まるけど、その前の日は京香んに泊まったげる」と、まどかのいつものすました声が聞こえた。


 多分、この声の調子からして、母がまた、まどかになにか言ったのだという気がした。


「随分と勝手ないいぐさに聞こえるんだけど」と、私は笑いを堪えながら怒ったように言ってみた。


 すると、まどかが「そう、そうかな~。ところで京香、また帰らなく無ってんだって?おばさんが心配してたってうちのママが言ってたよ」とまどかは言った。


〝やっぱり…〟


「どうもしないわよ。仕事が忙しいだけよ」

「それは、嘘、嘘だね。京香が田舎に帰らなくなるのは大概、男が関係してることが多い。で、今度は何かあったの?」とまどかが呆れたように、でも、心配していることは声の調子で分かる。


「ちょっとね…」

「なに?年下くんと上手くいってないの?」と、まどかは大昔の出来事、裕一のことを言い出した。


「それは、とっくに終わったの」と、私はちょっとイライラしながらまどかにきつく言ってしまった。


「ええぇー、聞いてないよー」とまどかが大きな声を出すので「うるさい!耳が痛いでしょ」と私が言うと、まどかは「ゴメン」とひと言謝ってから…。


「また、ひとりで抱え込んでるんでしょう。嬉しいことはベラベラ人に言うけど、辛いことは自分ひとりで抱え込む。それ、京香の悪い癖だよ」とまどかの声が胸に突き刺さる。


 そうだ、そのとおりだ。裕一とのことも嬉しかったから、結婚する気でいたから、まどかには一番に報告していた。


 でも、悔しいあの出来事は言えずにいた。言えずにいたから、まどかに連絡を取ることもしなかった。


「とにかく、来週行くから、会って話そう。そのときに詳しい話しを聞かせてよ、京香」とまどかはいった。



 親友のまどかに裕一との出来事を、別れた理由や怒りを愚痴にかえて言ったとき…、


「ちょっといい、京香」と前置きをしてから、まどかが一気にしゃべり出した。


「京香は美人過ぎるのよ。綺麗過ぎて普通の男は俺なんて絶対相手にされないと諦めちゃう。でも、狩りの好きな男は一か八かでやってくる。言葉悪いけど、ごめん、戦利品扱いされてるのよ。


 そんな男てさぁー。うぬぼれてんのよ。だから、多分、奥さんがいたり、恋人がいたりしても他の女にちょっかい出したり、出されたり。およそ誠実という言葉からはほど遠い男たちよ。

よく、美人は3日で飽きるって言うじゃない。あれって私に言わせると、そういう意味じゃないのかなって思うの。


 落とすまでが楽しくて、落とした後は飽きるのよ。まぁ、その時だけの快楽的なゲームなんだろうね。

でも、『美人は戦利品だぁー』なんて、いくらなんでも堂々とは言えないじゃない。


 そんなこといったら女から総スカンだよ。

 でも、美人は三日であきるって、そう言っておけば自分の側にいる女、例えば奥さんか恋人を、美人よりもおまえの方が上だぞってプライドをくすぐっといて、自分はまた好きなことが出来ように逃げ道を作っておく。


 それが『美人は三日であきる』の本当の意味で、だから目移りして浮気するのはしかたないだよぉーっていう狡い男の言い訳なのよ。


 そして、そういう男たちが自分の狡さは棚に上げて置いて、自分に都合のいい言い訳を考えておいて、女だけを下に見下すんだと思うんだ私はね。まぁ、基本的にそういうこと言う男は、どうしょうもないヤツ、狡い男ってわけだけどね」


と、まどかは真剣顔で私を見ていった。



 まどかの説明を聞きながら、私が美人かどうかは別にして妙に言いえていて何も反論できない。


「でも、京香にも問題あるのよ」と、まどかは私に怒りながら言った。


「えっ!どこがよぉー」


〝私は、狡い男に裏切られて、都合のいい女にされた被害者なのよぉー!〟と、言ってやりたいのをグッと我慢した。


 そんなことして、まどかと喧嘩にでもなったら目も当てられない。

 狡い男を失うのなんか立ち直るのに1秒もいらないけど、まどかを、親友を失うのは立ち直り不可能になるとこのときの私は思っていた。


 それにこの話の続きを、まどかの意見を聞いておくことは私にとってプラスになる良いことだと考え直したから、それ以上余計な事は言わないことにした。


「京香、あんた、今まで付き合った男たちの前で、本気で泣いたこと無いでしょ」と、意味の分からないことをまどかは言い出した。


「本気で?どういう意味よ」


「つまり!そう、本気で、かっこ悪いとか、恥ずかしいとか、そんなこと関係なく。この人の前でなら安心して泣ける。何も心配することないってこと」


 まどかの言葉に、しばし思いを過去にめぐらせる。無い、確かにそんなふうに感じて泣いたことが無い。というか、どんなに辛くても、悲しくても、怒る事はあっても涙を見せたことがあったか?と考えると、確かに無い。


「だからぁさぁー、好きだとか、付き合って下さいとかって言われれば、意識は動いて気持ちがそっちに流れるんだけど」


「けど?」と、確かに好きだと言われれば、相手を変に意識しだしていたりする。


「本当は相手を信じてないから、信頼してないから。まぁ、当然と言えば当然なんだけどね。さっきも言ったけど、基本、相手は狡い男なんだから、京香の無意識レベルは、〝こいつ!信用できない。気をつけろ!〟て、危険信号出し続けているんだから信じられるわけないもん。でも、意識レベルは、好きっていう言葉がカギになって気持ちが動きだしてる」


「ややこしい」

「そう、ややこしいのよこれが、アクセルとブレーキを、こぉー、同時に踏んでいるようなもんよ。だから首をガックン、ガックンしながら運転してるてぇことは、気分が悪くなってくるし、首は痛いし、疲れるし、酔うね。最後は酔って、気持ち悪くなって、我慢できなくなって吐くね」


「じゃ、どうすればいいのよ」


「ううーん。簡単にいうと、その人の前で泣けるかよ。それも汚く泣けるか」


「汚く?なにぃ、それ」


「皆、泣くって綺麗なものみたいに思うけど、それは演技なんだと思う。映画やドラマで見ている人を感動させる為に、どう泣くか!の勝負の演技なんだと思う。ほんものの泣くは、汚い」とまどかは力を込めていった。


「はっ?」と私がまどかに聞き返す。


「あのねぇ、仮にね、大好きで、大好きで仕方の無い人が、他の女に取られかもしれないって思ったら。何とかしようと必死になるでしょう。なりふり構わずに怒り狂うかも知れないでしょう。で、とうとうどうにもならないってなったら、悲しくて、悲しくて、自然に涙が出てくるはずよ。そして、その時の涙は、見ている人を意識しているんじゃなくて、自分の心に正直に、素直に従って出て来るの」


「うん」


 何となく、まどかの言いたいことが分かるような気がした。

 あのとき、見たわけではなかったが、柏原さんの奥さんと他の奥さんたちが暴れまわった後、なりふり構わず大泣きしたという話を私はまどかの話を聞きながら思い出していた。


 あのときの、あの5人の涙は、きっと愛する人を奪われたくないという本気の涙だったのだと思いだしていた。



「だからね、京香、よくお聞きなさい。本気で泣くっていうことはだよ、目からでる涙は半端ない量が出てくるってことなんだよ。

 一筋の涙がスーッ、となんて綺麗なもんじゃない。人間、目と鼻とは繋がっているんだから止めどなく鼻水もでる。


 情けない声もでる。情けない思いも、惨めたらしい言葉もでる。おまけに目も鼻も真っ赤かで化粧も剥げ落ちて、それこそ見た目も不細工、顔はグチャグチャ目も当てられない。


 もぉー、これでもかっていうくらい自分の、ふだん人に見せたくないものが、だぁーってイヤになるくらいでてさぁー。だから見ている人からは決して綺麗なもんなんかじゃないんだよ。むしろ汚い。


 でも、でもね。それは本当の自分の心、気持ちだから、凄く防備になってるんだよ。極端な言い方をすれば、相手に自分の命を預けているようなもん。それくらい信じているってことだよ。相手のことをね」と、まどかは真剣な顔で私に言った。



「そうかもしれない。まどかの言うとおりかもしれない」

 この時、なんとなく私は、人に良く見られたいという気持ちで相手に接していた自分の姿を思い浮かべていた。


「で、ここで大事なのが相手も自分を信頼してくれているかなんだよ。命預けてくれているかだよ。

 これが、相手が狡い男なら最低だね、〝なんじゃこりゃ〟って、それこそ尻尾巻いてさぁ、そそくさ逃げてく。だって、狡い男が欲しいのは美しい戦利品であって、汚く泣く女じゃないもんね。


 だ、か、ら、そんな男たちを幾ら思っても無駄。時間の無駄。愛の無駄。優しさの無駄。すべて無駄、無駄、無駄、ついでにお金の無駄だらけぇーーーてかぁ!」と、まどかは最後いつものようにおどけてみせた。


「もぉー、まどかぁ」


「だからね、京香。狡い男が欲しいのは生涯をともに歩くパートナーじゃなくて、自分の我が儘を、理不尽な要求をなんでも受け入れてくれる母親みたいな女。自分が甘え放題の相手が欲しいんだよ。


 でも、京香は母親じゃない。だから都合のいい女になっちゃう。でもさぁ、もうやめようよそんなこと。そんなムダなことする必要無いもん。これからは汚く泣く涙を安心して見せることが出来る相手探そうよ。


 そして、そんなかっこ悪い自分を掛け値なしで受け止めてくれる相手にしようよ。京香が汚く泣いても、それさえも愛してくれる人をね探そうよ。勿論、自分もね、自分も相手の汚く泣く涙を愛せる事だよね」


 まどかの瞳の奥がキラリと光り私の瞳を捕らえた。


「うん、そうだね。ありがとう、まどか」


 まどかの言葉に気づかされる思いがあった。

 もしかしてではなく、私は今まで付き合った男性を、本気で誰一人として信頼してなどいなかったのに、信頼したふりをして、周りの人に良く見られたいがために、一人強がって恰好つけていたのかもしれない。

 そんな自分を、かっこいいと酔いしれていたのかもしれない。


 多分、裕一のこともそうだ。

 私は年下の裕一をブランド品で着飾らせて、誰かに褒めて欲しくて、注目されたくて、若くて格好いい裕一を連れて歩くのが嬉しかっただけなのかもしれない。


 まるで金持ちのおっさんが、若い女の子をお金で誘惑するように…てっ、あのとき私は、おっさんになってたのか?ショックだ、そのことに今までその事実に気がつかなかっただなんて…。


 でも、そう考えると私は自分から都合のいい女になっていたのかもしれないと思った。


〝汚く、泣く〟かぁ、早い話、私は誰の事も本気で好きでは無かったという事だ。


「とぉいうことで、今日の〝汚く泣く〟についての、『殿山京香さん専属メンタリスト』まどかさんの講演を終わりにさせて頂きます。ご清聴、ありとうございました。尚、講演料はイタリアンランチのワイン付きでお願いします。」と、まどかが私に向けて丁寧なお辞儀をした。


「かしこまりました。まどか先生!」


 それから二人で大笑いしたあと、今は中学校の教師をして毎日が忙しいまどかと、久しぶりに祝日に休みを貰った私は近所のイラリアンレストランに出かけた。


 そしてさっきまでの狡い男の話しなどは忘れて、美味しい料理をお腹いっぱい食べ、陽気に笑ってワインを飲みほし、午後の時間を、私とまどがの共通する過去と現在を行き来するとりとめの無い話で楽しいだ。


 このとき私は心密かに思った。バカかと言われても、狂ったのかといわれても、あのとき感じた自分の心に素直にしたがってみよう。自分の気持ちを信じてみよう。


 私は彼に…。

 彼にもう一度、会いに行こうと心に決めた。






 ☆-☆-☆


 昨日は朝から湖で座りこみ持って来た推理小説の上下二冊を読み終えた。さて、今日はどうするか。


 プラプラと湖に向かう山道をゆっくりと登って行く。もうすぐ木立の壁のあたりだというところで、ふっと立ちどまり何気なく左手斜面を見た。


〝うん?何か、光ってる?〟


 よく見ると細い山道から二メートルほど下の木の根元に何かが光っているのが見える。


 暫く考えてからリュクを背中からおろして道に置き、木を頼りに摑まりながら、滑らない様に気を付けて緩やかな山の斜面を下へとおりていった。


 ゆっくりおりて、たどり着いた木の根元で光るものを手に取ってみると、それは空豆くらいの大きさで、淡くて黄色っぽい光を放つ楕円形の透明な石だ。


〝綺麗…〟と、思わず心の中で私は呟くと、落とさない様にズボンのポケットに入れ、ポケットの口に付いたボタンを留める。


 そして、また来た時の同じ様にゆっくりと上に向かって上がってから、ポケットから石を取りだしリュクの中の小さな内ポケットに入れてチャックをした。


「これでよし、それにしても思わぬ収穫。水晶かな?まさか宝石じゃないよねぇ」

「まさかね」ともう一度、小さく独り言を言いながらリュクを背負い私は湖へと向かって歩き始めた。


 今日は昼寝でもするかと思いながら木々の壁を突き抜けた私の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。


「なにぃ?これぇ、どういうこと、なにがあったの」


 湖が消えていた。


 後には大きな穴がひとつ、ポカンと間の抜けた口を開けているだけだ。崖は白く乾きひび割れて、足元には乾ききった小石の大群が、穴の一番下の方へザァザァーとなだれ込むようにして落ちている。


 あれほど輝いていた六角柱の結晶達もどこにも見当たらない。一晩にして枯れ果てた大地に、ぽっかりと口を開けた寒々しい大きな穴があるだけだ。


 信じられない。水の香りを運ぶ風さえ消えていた。


〝これは、夢!〟


 もう一度山道まで駆け戻り、私は大きく息をすってから木立の壁をゆっくりと進む、でもなにも変わらない。


 私が、何度同じことを繰り返しても乾いた光景は変わらなかった。私はその場にヘナヘナと座り込み。動けなかった。


 時間が止まったと思った。


 私と、湖、彼の時間が止まった。

 動かない、どうしょう。

 私の目は深く落ち込んだ穴の一点を、ただ、どうしていいのか分からずに見つめていた。


 乾いた風が乾ききった土の匂いを連れてくる。その匂いに気が付き、私は我に返って天を見上げた。

〝太陽が真上に来ている〟


〝お昼?私、もしかして、3時間近くもここに座り込んでいたの?〟


 そして自分の身体も乾ききっていることに気が付いた。

 気が付いた同時に涙が溢れ出て来た。後から、後から溢れてくる。止まらない、止められない。


 どうして、どうしていつもこうなの、どうして私だけがこんな目にあうの、私が何をしたというの、私の何がいけなかったの。


 私は、ただ彼に会いたかっただけなのに、名前を聞きたかっただけないに、どうして…。


〝いいえ、違う。違うでしょ、京香〟


 私は、彼を独り占めしたかった。

 誰にも見せたくなかった。

 知られたくなかった。

 まどかにさえ、知られたくなかった。

 母にも…。


 これは天罰だ。狡い私の心へ下された、神様からの天罰だと私は思った。


 そして、まどかがいう様に涙はいく筋もの後を作って流れ、すすっても、すすっても鼻水は流れ出てくる。


 湧き上がる感情のすべてを言葉にして吐きだし、罵り。

 地面をたたき、手当たり次第に小石を掴んでは投げた。


 怒りと、悲しみと、寂しさが混ざり合って何が何だか分からず大声で泣きわめいていた。


 こんなに泣いたのに、どうして私は枯れないんだろう。

 最後には疲れ果て、くしゃくしゃの顔で、「どうして、どうして」とひとり力なく呟いていた。


 だけど、誰も私の問いかけにこたえてはくれなかった。






 ☆-☆-☆


 来週も帰って来るの?と、聞く母に、「多分、来週は帰らない」とそっけない返事をして帰って来た。


 マンション5階にある自分の部屋の玄関を開け、そのまま玄関に荷物を放り出して、廊下の向こうにあるリビングのソファになだれ込んで動けない。


 留守番電話のランプが点滅していたが、・・無視・・。


 暫くしてノロノロと起き上がり座りなおす。泣きすぎたせいか頭が痛い。もう夜中を回っている。早く寝ないと明日がしんどいと、頭では分かっていても身体か動いてくれない。


 だんだんそんな自分に腹が立ってきた私は、「ええぇーい!しっかりせんか!京香」と、自分で自分に気合を入れて勢いをつけて立ち上がった。


 まずはシャワーを浴びようと歩き出した私は、電話の前を通りぬけるつもりが立ちどまり、無視するつもりの留守電話の再生ボタンを押した。


『我に会いたければ、山で拾った石を水につけよ』


「へぇ?」


 私は、あまりにも留守番電話から流れる声に驚きすぎて、どこからでたのですかという声を出していた。



 信じられない思いで、もう一度、留守番電話を聞き直そうと巻き戻していた。


・・・我に会いたければ、山で拾った石を水につけよ・・・


 確かに彼の声だ。

 忘れるはずが無い。

 慌てふためいた私は、玄関に投げ捨てた荷物をとりに走り、リュクを荒っぽく手にとる。


 チャックを開けることさえもどかしい、だんだんイライラしてきた私が力任せに引っ張るから余計に開かくなる。


「もぉ、なんで、すぐ開かないのよぉー」


 いけない、これではいけないと一旦手を止めて私は大きく深呼吸した。それからゆっくりとリュックのチャックを開ける。

 中には、あの拾った小さな石があった。


「あったぁ!あった、これよ、これ!」

 嬉しくて両手で石を包み込んでキッチンへと急いだ。


「コップ、コップ・・、水、水・・!」


 慌てふためいて食器棚を開け、コップを出そうとして私は手を止める!


〝ちょっと待って、こんなちんけなグラスに彼をいれるの?それはイヤ、絶対にイヤよ〟


 私は両手で大事に石を持ったまま「あぁー、もぉ、どぉーするのよ、京香!早く決めなさいよ」と自分に怒鳴りながら食器棚の前を右往左往していた。


 そして…、

「ああぁー、そう、そうよ!バカラのグラスがあるじゃ無い!なんでもっと早く思い出さないかなー」


 私は慌ててキッチンを出て小走りすると、テレビの横のリビングボードの扉を開けた。


 そこには私のお気に入りであり、特別の時だけに使う、断面が光を反射するように、縦に幾筋もカットされた丸いグラスか大切に置かれていた。


 私はグラスを片手でそっと取り出すと、慎重に、尚且つ、丁寧に優しく石を入れた。


「水、水よ。今度は水が必要なのよ!水道水じゃダメよ、ダメ、ミネラルウォーターでなきゃダメよ!」


 石を入れたグラスを、丁寧にリビングのテーブルに一旦置いた私は、急いでキッチンに戻り冷蔵庫を力一杯開けるも、そこにミネラルウォーターの姿は無い。私の心は落胆して大きなため息をはいた。


 それに、こういうときに限って買い置きが無いのだ。

 本当に、こんな時に限って!無いのだ。


〝もぉおーー。なんでないのよ〟とイライラしながらグラスのなかにある石をチラリと見た。怒っていても仕方がない。今、私が欲しいのは彼に相応しい水だ。


 私は急いお財布と鍵を持っち、猛ダッシュで部屋をでて、表通りのコンビニにへとミネラルウォーターを求めて走った。



 コンビニの自動扉が開くと、私は待ちきれずに奥の冷蔵庫へと急いで走った。


 ガラス越しにさっと素早くミネラルウォーターの銘柄を見て、どうせなら富士山の天然水よ!と、冷蔵庫のガラスのドアをパンパンいわせて商品を取り出し、急いでレジに走って支払いを済ませて外に飛び出すと、私はマンションめがけてダッシュで走って帰った。


 息を弾ませた私は、マンション入り口の自動扉前で、慌ててインターホン横の鍵穴にキーを差し込む。キーを回しながら…。いつもより、オートロックのマンションホールドアの開く速さが遅いのではないかとイライラした。


 そしてドアが完全に開くのが待ちきれず無理矢理中に入り、急いでエレベーターホールに向かったが…。


 私は、エレベーターが降りてくるわずかな時間も惜しくなって、横にある非常階段を5階まで一気に駆け上がった。


 ハァハァと苦しくて息が切れる。

 ついでに膝がガクガクして笑い出した。


 それでも私は大急ぎで玄関を開け、内側から鍵を掛けると、靴なんかほっちらかしてリビング目がけて走ろうとしたが、相当に慌てていた私は、さっき帰ってきたときに無造作に置いた荷物に足を取られ、玄関上り口で転んで脛をしたたかに打った。


「なんなのよー、どうしてこけるのよー」と、自分がこけたことに苛立ち一人悪態をついた。


 そして痛くて仕方のない脛を片手でさすりながら、急いでバカラのグラスが置かれたテーブルの前に滑り込む。


 早くグラスに水を入れなければと、コンビニの袋が濡れてへばりつくのをイライラしながら無理やり引っぺがし、緊張しながらミネラルウォーターの蓋を力一杯ひねって空け、一呼吸おいてゆっくりと水を注ぎこんだ。


 トクトクトクッ…と、いい音を立ててグラスの中は水で満たされていく。淡い黄色が水の中で微妙にゆらゆらと光りを集めて揺れだした。


 ドキドキする。

 背後のソファに気配を感じ、私は恐る恐る身体を半回転させながら後ろを見た。


 そこには優雅に足を組み、ゆったりとソファに座る彼の笑顔があった。


『礼を言う』


 彼の声だった、ずっと私が聞きたかった声だった。

 私は頭の中がパニックになりながらも、冷静を装い静かに立ち上がると彼の横に遠慮がちに座った。


「あの、聞いてもいいですか?」

 彼は、返事の代わりに優しく私に微笑んだ。


「どうして湖が無くなって、貴方がここに居るの。あぁ、迷惑とかじゃなくて、私は嬉しんですけどね」


 彼は頷き…、

『我らが天に帰る為の別れの宴をする前に、湖の水脈を人間たちが切ったのだ。我は眷属を天に帰すことは出来たが、我を守る為に、この石に宿る力しかもう残ってはいなかった』と静かに言った。


 彼は、残る最後の力で自分だけが天に帰る事よりも、眷属を帰すことを選らんだ。そして彼は、この小さな石に入ることで自分を守ったのだと私は理解した。


 なぜなら、もう自分達を守ってくれていた湖は消えてしまっていたから…。


 たぶん、いいえ、人間の仕業。

 どこかの大手企業が山を削り、山肌を無残に見せたままの状態の途中で、なんだかんだと理由をつけて工事を中止して帰っていったと母から聞いた。


 多分それが原因だ。

 丁度、湖のある山の反対側のあたりだと聞いている。今朝、その話を聞いた時は、まさかそれが原因で湖の水脈が切られていたなんて思いもしなかったが…。


『それに、そなたが我を呼んだ』と、彼はおかしそうに私を見てそういった。


「えっ?ええ、そう・・。そう、確かに、あなたに会いたくて、会いたかった」


『では、我はここに居よう』といとも簡単に彼は私にいった。


 その言葉に私は、嬉しくて、嬉しくて、声を出すより先に身体が勝手に動いて彼に抱きついていた。


 ヒンヤリとした水の香りがする。私は思いっきりその香り吸い込んだ。気持ちがいい。私の思ったとおり彼の正体はあの湖の龍神だった。でも、もう、そんなことはどうでもいい。


 彼の左手を私の背中に感じたとき、真に貶された悔しさと、裕一に裏切られた悔しさとの思いが、一瞬のうちに私の心の中を駆け抜けて遥か遠くにいってしまった。


 そして入れ替わるように、彼への想いを忘れるために蓋をした、私の心の奥に眠る寂しさが怒りへと変わり…。


 私は大きな声で「どうしていつも私の前から急に消えてしまうのよ!」と彼を泣きながら責めていた。


 彼は、私が彼を責める間なにもいわずに私をそっと抱いていてくれた。


 そして、彼にあらん限りの悪態を尽き果てた私は、「会いたかったのに、ずっと側にいてほしかったのに…」と何度も呟きながら、彼の胸のなかでいつの間にか泣きつかれて眠ってしまっていた。

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