第2話 裏切り者
【殿山京香31歳】
私よりも遥かに親孝行な妹が、田舎で結婚して男の子を産んだ。それがきっかけで、私は時々は田舎に帰るようにはなっていた。
その甥が先週小学校に入学した。ランドセルを背負った甥を見ながら、ふっと思った。あれは、あの出来事は幻だったのかもしれない。そう考えると湖が見つからない訳も説明がつく。
もう十年以上前も前の子どもの頃の出来事だ。無謀な考えで夕暮れの裏山に入り、遭難しなかったのが今でも信じられない。きっと、あれは帰れない恐怖が見せた幻だったのだ。
だから、初めからあの湖も、彼もこの世には存在しなかったのではないか?と私は突然、忘れてしまったはずの過去の亡霊を思い出し、目の前の書類から目を離すとゆっくりと顔をあげた。
…と…。
「どうしましょう。主任、またです」
私の目の前に二列ずつ、向かいあわせに並ぶデスクの一番左端に座っている営業事務担当の
今週に入ってから4件目の担当替えの連絡だ。
この秋、販売予定の投資物件の案内をして3か月、私の顧客で、これまでにも何件か私が担当で話を進めていた、私だからと信頼して投資物件を買ってくれていたお客様が、契約前のこの時期に来て担当者を私から同期入社の
皆、口を揃えて私への不満はない。無いが今回は「気分を変えてみたいので、縁起担ぎみたいなものだ。すまないね」と言うだけで理由がはっきりとしない。
それに、その報告が3件続いた日、部長は少し渋い顔をして私に聞いてきた。
「心当たりはないのかね?」
「ありません。皆さん、それまでは契約をいつにするかと言われていましたし」
たから、これはどうしてなのかと聞きたいのは私の方だと部長に対して言いたかった。
「そうか、まぁ、会社としては契約することに変わりがないのだから損は無い。が、しかし、」と、また渋い顔をする。
「そうですね。ですが不動産の取引で縁起を担いだり、占い師や風水師に相談されて決める方もいらっしゃるので、それを悪いと言い切れるかと言われますと、一概に何とも言えませんので」
そう、占い師のひと言でパァーになった契約が過去にもあった。これは、その人の信心の問題だから、こうだという正しい答えなど存在しない。逆に言えば、存在しない分厄介な問題なのだともいえる。
「うん、その、こういってはなんなんだがね、山本君は、同期入社の君が先に主任になった事で、ひどくライバル意識を持っているように見える。まぁ、今回の事が、その、なんだ、私が危惧している事態にならなければいいがとも、思っている」
「部長が?危惧されていること?」
「まぁ、いい。殿山君は、この件に関しては相手方、お客様には何も言わない方がいい。お客様には、私から担当変更の承諾とお詫びなりの連絡をしよう」
「はい、かしこまりました」
〝お詫びなり・・って、どういう意味?〟と思いながらも、部長の危惧が何なのか、この時の私には理解出来なかった。
それに、そうとは思わなかったが自分の何かが、或いは何か余計な一言が、顧客の気分を害したのかもしれない。
個人のお客様からすれば、大きな金額が動く取引であるから私が直接連絡を入れるよりも、部長が言うように、部長から連絡して貰う方が、お互いの感情がこじれずに今は良いのかも知れないと思った。
自分のデスクに帰ると、
「あら、早かったのね。もう少し待たされるかと思ったわ」といつもの鼻にかかる声で和美が私に言った。
「なんのこと?」
悔しいので、私もとぼけて返事する。
「なにも、ところでファイル頂けるかしら」
きつい香水の匂いをさせて、和美はそういうと横柄な態度で頂戴という様に、私に向けて手のひらを上にしながら右手を出して来た。
きっと和美は顧客からの申し出で担当代えになり、私が部長からこってり絞られてシュンとなって帰って来ると思っていたのだ。そのことでは当てが外れたらしいけど、みんなの前で恥をかかせることはどうやら派手にしたいようだ。
〝そんなこと、誰がさせるのんですか〟私は深く息を吸って、胸を張り和美に向けて感情を抑えて、怒りを隠しながら言いた。
「なに?ファイルって」と、
「あら、聞いてないの?担当代え」
「何のこと?」
私は、わざととぼけたようにもう一度和美に聞いてやった。
「だから、貴方の担当だった、柏原さん、小泉さん、岸原さん、3人の打ち合わせファイルよ」
和美は、そんなことも気が付かないのというようにイライラとして、私に小さく怒鳴った。緊張した周り皆の目が私達二人に注がれる。
「何か、勘違いしてない」と私はわざとゆっくり言った。
「なにおよぉ」と和美がイライラとした早口で返してきた。
「あなた、その3人のお客様の担当になったのよね」
「ええ、そうよ」
和美の声は、ますますイライラしだした。
「なら、私と並行して営業かけていたんでしょ?だったら自分のファイルを使いなさいよ。それと、縁起を気にされるお客様に担当を外された人間のファイルを使ったなんて、そんな縁起の悪いことが知れたら、契約自体がパァーになるんじゃない」と、私はきつい調子で言い返した。
すると和美は言い返す言葉が見つからずに、顔をまっかにして私を睨んでいる。
「これは、私からのアドバイスよ。あなたも、この仕事をしていて分かるでしょう?」
ついでに〝それくらい〟と付け加えたかったが止めた。これ以上、この女と関わる気はない。さっさっとデスクに座り、私は次の仕事に取り掛かる。
「まだ、なにか?用」と、私は和美に向けて冷たく言いはなった。
「ふん」と、鼻で息を勢いよくはいて、和美がカツカツとヒールの音を響かせ自分のデスクに無言で戻って行った。
それを見ていた加奈ちゃんが、小さく駆け寄ってくると、電話連絡メモを渡すふりをしながら「さすが主任、ナイスです」と小さな声で笑い。
「お茶いれまぁーす」と、フロァー中に響き渡る大きな声を出して、両手を飛行機の翼の様に広げながら給湯室に飛んで行った。
加奈ちゃんのその姿を見た周りの皆は陽気に笑い。張りつめていた空気の糸は切れて、いつもの活気ある風がよみがえる。
私は笑いながら加奈ちゃんの姿を目で追い、電話に手をかけ、午後から訪問予定のお客様に時間の確認の電話をいれた。
☆-☆-☆
「えっ!勘違いですかぁ?」と、あれから一カ月後産婦人科に来ていた私は気の抜けた声を出していた。
「ええ、妊娠はされていませんよ」と若い女医さんに笑顔でそう言われて…。
〝そっか、勘違いか〟とまた気が抜けたというか、力が抜けた。
いつも規則正しく来ていたものが、このひと月遅れていた。それで市販の検査薬を買い試したのだが、どうもいまひとつ信用出来なくて休みの日の今日、プロに確認して貰おうと私は産婦人科にやって来ていたのだ。
「じゃ、単なる生理不順ですか?」
そう聞き返しながら、私は心の中はホッとしたような、寂しいようなヘンな感じがしていた。
「そうですね。ここのところ、なにかストレスになるような、気にやむこととか、仕事が忙しくて疲れているとか、きちんと食事をしていなかったとかは有りませんか?」
「あります。全部、あります」
あれからもう一件担当代えがあった。
気にしてはいないとはいえ、心のどこかでショックをかかえていたと思う。それに毎月のものが来なくて半同棲に近い相手、同じ会社に務める6歳年下の
てっきり私は喜んでくれると思っていたのに、ひどく鈍い反応が返ってきてこれも少なからずショックを受けた。
おまけに断られた5件の契約の穴埋めをせねばと、この一カ月休日返上で働いた。勢い食事に割く時間も少なくなる。
コンビのお弁当にパン&ラーメン&そば・・、と思い出すだけでも栄養が偏ってまいすねと黙って自分に突っ込む。
「女性の身体は敏感ですから、余り追いつめない様にしてください」
先生に優しくいわれて公私共に反省して病院を後にした。
〝よし、今日は何か美味しいものを食べよう〟
でも運悪くお昼時でどこも一杯、順番待ちの列である。これでは並んでいる時間にイライラしてしまう。ストレス解消のはずがそれでは意味がない。
とりあえずお昼は軽く済ませて夜のディナーを豪華にしよう。帰りにデバートで好きなものを、バランスのいいものを買って帰ろうと比較的空いているカレー専門店に入った。
案内された席で野菜カレーと、トッピングにチキンを選んだ。それからサラダも頼む。
ほっとして水を一口飲んだ。
…、の直後に、奥の、真後ろ席から聞き覚えのある声が私の耳に聞こえて来た。
「まいってるんですよォ~。妊娠したかもしれないなんて言われて~」
裕一の声だ。
間違いない。
そして次に聞こえて来た声は、あの、憎たらしい和美の声だ、男に媚びを売るときにつかうあの鼻にかかった声だった。
「それは大変ね~。で、結婚するの?」
和美の声はさも気の毒に、同情するわというように裕一に問いかけた。
「いやぁー。まだ、そんなこと考えられなくてー」
裕一の声は、まるで和美に助けを求めているように聞こえる。
「そうよねぇ~、川本さんはまだ若いし。私なら、もっと川本さんの仕事のことを一番に考えてバックアップするけど、なぁー。そんな余計な事で悩ませないわぁ」
和美の声はやけに嬉しそうだ。
「そうですよねぇー。僕、そんな大人の女性がいいですよぉー」とこたえる裕一の声まで嬉しそうに聞こえる。
〝余計なことぉー!〟
裕一と和美の声だ!何で二人がここに居るの?おまけに私と裕一の超!プライベートな事を、なんで裕一がベラベラ和美に話してんのよぉ?
おまけに、おまけに、裕一の答えは私とは結婚なんて考えていないってこと?
年上の分別ある女だから?・・、てぇ!つまり!私とのことは遊びってこと!私の胸に怒りがメラメラ湧き上がってきた。
私は、衝立の上の小さな鉢植えの間からそっと後ろの席を覗き見た。
私と背中合わせに衝立の向こうに裕一が座り。その向かい側に和美が座っている。
どうやら自分達の話しに夢中で、私が入って来たことも、この席に座った事も二人は気が付いていないようだ。
「お待たせしました」と店員がカレーとサラダを持って来た。渡井は、「ありがとう」と店員に礼を言い、おもむろにカレーを持って立ち上がると…、
後ろの席の裕一の頭の上に、カレーを逆さまにしてお皿を乗せてやった。
本当に…、レイコンマ何秒の沈黙の後、「あ、あっ、あちぃー」と裕一が、頭の上にのったカレーを皿ごと両手で思いっきりはたき倒すと勢いよく立ち上がった。
皿はテーブルの上でワンバウンドして床に落ち、粉々に砕け飛んだ。中身のカレールーが飛び散り、ご飯が固まりで転げ回る。そして、その音と同時に店内にいたすべての目が一斉に立ち上がった裕一と私に注がれる。
裕一は、両手で顔にかかったカレーのルーと白いご飯を振りほどきながらこちらに振り返った。
それからテーブルにワンバウンドして飛び散った黄色いカレーのルーは、和美の悲鳴とともに、和美の顔と淡い水色のスーツに転々と黄色いシミを作っていた。
「なぁ、なにするんだー」と振り返って、私の目の前に現れた裕一の顔に、私は躊躇うことなく、今度はサラダを正面からおみまいする。
〝ナイス、京香、見事に入ったわ〟と、サラダの皿が裕一の顔にピタリとはまったことに私は満足した。
和美が青ざめて声も出せずに目を大きく開き、紅く塗り込んだ醜い口をあんぐりと開けて、裕一の後ろに見える私を指さしている。
〝相変わらず無様な顔ね…〟
ゴミでも投げ入れてやろうかと思うくらい、大きな口を開けた和美の顔を見下ろしながら、私はゆっくりと深呼吸をした。
すると、気持ちが良いくらいに何かがスーと身体から抜けていき、嵐のように波打っていた私の心が静けさを取り戻していくのが分かった。
「ごめんなさい。店員さん、お代はここに置くから。おつりはいらないわぁ」
私は財布から出した一万円札を席に置くと、あっけに取られた目の前の店員や、スプーンを持ったままの格好で私を凝視している客たちの前を、まるでそこが舞台でもあるかのように女優になったつもりで優雅に歩いて外に出た。
お店を出て、心の中で二人に向かい〝ざまぁーみろ!〟と叫びながら足早に歩く私の後を「おねぇーさーん」と嬉しそうに呼ぶ声で呼び止められた。
〝お姉さん?って私のこと?〟と、思いながら立ち止まり振り返る・・。
フワフワ栗色の髪にピンクの春らしいワンピース姿、年の頃なら二十歳前後の可愛い女の子が私めがけて走り寄ってきた。
そして彼女は、私の目の前で息を弾ませ立ち止まると、にっこり笑って嬉しそうにこう言った。
「お姉さん、凄い!スカッとしました」
ほんのりと紅く頬を染めた彼女の顔は、跳ね飛びそうなくらいの勢いで喜んでいる。
「もしかして、今の、見ていたの?」と私が聞くと…。
「はい、見ていました。あの二人が店に入る前から見ていました。そしてお姉さんがお店に入ってきて…。お姉さんがあの男の頭にカレーかけて、次にサラダをいけ好かないヤツの顔におみまして、それから〝おつりはいらないわ〟って
彼女は目をキラキラさせ、こたえてくれた。
「あら、やだぁ!恥ずかしい」と言いながらも、私はちょっと得意になっていた。
「うぅーん、全然、かっこよかったです。私、決めました。ありがとうございます。それが言いたくて、お姉さんの後を追いかけてきたんです」
彼女の顔はひどく楽しそうで、なにかスッキリとして見えた。
「そおぉ、そうなの、(でも…なんの、お礼かしら?)」と、私が問いかけるよりも先に彼女が、元気よく「はい、ありがとうございます」と勢いよくぺこりと頭を下げ、嬉しそうに笑うと元来た道を走っていった。
その走り去る彼女の後ろ姿に、いったい?だれなの?かしらとも思ったが・・。
まあ、いい。
何かは分からないけれども、彼女が何かに悩んでいて、さっきの私の姿…、行動か?それを見て決心がついたということだろう。それならそれでいいではないか、それは彼女の悩みが解決したということだから、なんにしてもいいことだと私は思った。
それよりも、私は家に帰って一仕事しなければならないことがある。だから、デパートでの買い物はこの次にして、私は家へと急いだ。
☆-☆-☆
「これでよし!」
家に帰りついた私は、まず大きなゴミ袋を用意した。それから手当たり次第に部屋中にある裕一の物を、リビングの床に積み上げた。
そして積み上げた品々を普通ゴミ、不燃ゴミ、リサイクルゴミとゴミ袋に素早く分けて入れていく。
ブランド物のネクタイ、シャツ、スーツに靴下、ハンカチ、カバン、靴、お揃いのカップに、お茶碗に箸と、裕一のありとあらゆる物をゴミ袋に詰めていく。
一瞬、分別する私の手が止まった。
殆どは私が買ったものばかりだったが、これは違う。私と裕一がつきあい始めた頃、裕一が、私の為に買ってくれたスワロフスキーのブレスレット。
それは、そのブレスレットは、唯一、裕一からの私へのプレゼントだった。
「京香、本当はこういうの好きだろ?」と言って渡してくれた、淡いライトピンクの人工皮革に、ライトピンクのクリスタルが二連になった愛らしブレスレット…。
「そう、こういうの好きよ」
子どもの頃から可愛らしものが好きだった。淡くて…、可愛いピンク色も大好きだった。
でも、『京香にはピンク色は似合わない。紺色の方が似合う』そう…、あれは確か伯母さんがいったのよね、一番初めに母の姉である叔母がそう言ったのだ。
そしたら、母さんまでそう言って…。
だからね、いままで素直に好きっていえなかったんだよね。これが欲しいって言えなくて、そのときの小さな私は、大人二人に逆らうことが出来なかった。
だから…。
本当に嬉しかった。
『京香、本当はこういうの好きだろ』って裕一に言われて、我慢していた気持ちを分かってくれる人に出会えたと思うと嬉しかった。
あぁ、この人は、裕一は私のことちゃんと見ていてくれたんだって嬉しかったんだよね、あのときは…。
なのに今なぜこんな風になってしまったんだろうと考えると、胸の奥がキュンと切なさに痛んだ。
「楽しかったなー、あの頃」とひとり呟いた。
そして私は、思わず愛らしいブレスレットを泣きそうな顔をしながら見つめていた。だからちょっとだけ、そのブレスレットを両手で握りしめて目を閉じた。
目を閉じて、裕一がこの部屋で、私の作ったご飯を口にほおばりながら、無造作にズボンのポケットから出して私に渡してくれた姿を思い出した。
「はぁ~、未練よね。いかん、いかん、こんなことで決心が鈍っていたら、あいつらの思うつぼじゃ無い。あのふたりぃー」
思い出しただけでも腹が立つ。
「もう決めたのよ、京香。後には引かない!引けないの!」
そう自分に怒鳴ると、私はそのブレスレットをゴミ袋に投げ入れた。ブレスレットは、ズボッと音を立てながら他のゴミの中に消えていった。
それから裕一の喜ぶ顔が見たくて買ったもの達を、容赦なくゴミ袋の中に捨てて行く。合計十個のゴミ袋が出来上がった。
私は詰め終えたゴミ袋を持ってマンションのゴミ置き場に向かう。二往復目に後ろから声を掛けられた。
「ねぇーちゃん、これ?みんな捨てるのかねぇ?」
リヤカーを引いたホームレスのおじちゃんだ。こげ茶色に汚れた顔に、クチュと笑うと前歯が一本かけているのが見える。
なかなか愛嬌のある顔だと私は思った。
「ええ、全部捨てます。まだ、部屋にあるから運ぶけどねぇ」と私。
「なら、全部、おじちゃんにくれんかねぇ」
「いいですよ」
「なら、上から運ぶのは、おじちゃんがするよぉ」
「OK!」
おじちゃんはリヤカーを置いて私に着いてきた。
私が3階の部屋からゴミ袋をドアの外にだす。それを、おじちゃんが両手に持って下に降りる。三回その行き来を繰り返して、おじちゃんのリヤカーはいっぱいになった。
「ねーちゃん、また、でるかねぇ?」
「ううーん。そうですね、引っ越すつもりでいるから。もう、出ないかもしれない」
「そうかねぇ。それは残念やねぇー。けど、今日、ねぇーちゃんに会えてよかったねぇ」とおじちゃんは前歯が一本かけた口を開けて嬉しそうに笑った。
「私の方こそ、助かったりました。ありがとう、おじちゃん」
「てれるねぇ~。若くて綺麗なねぇーちゃんに礼を言われるとねぇ~」
おじちゃんは目を細めて照れながら、ゆっくりとリヤカーを引いて遠ざかって行った。
それから私は引っ越すつもりでいたが、気持ちの切り替えの為にも、知り合いの鍵屋さんに連絡してその日のうちに玄関ドアの鍵を速攻で交換して貰った。
その夜、まるで裕一との別れを待っていたかのように、一ヶ月遅れのお客さんがやってきた。
私はその現実にホッとしたような、寂しいような妙な気持ちを、その夜ベッドの中でもてあましていた。
☆-☆-☆
次の週、和美も裕一も会社ではなりを潜めて極端なくらいに静かだった。私と顔を合わせようともしなければ、こちらを見ようともしない。
私はというと、収益物件のワンルームマンションを二件契約予定の女社長が、もう一件プラスの三件契約予定になり、その打ち合わせやなにやらで忙しくしていた。
それに、他の仕事もあるので、うっとうしい二人に構っている暇など私にはなかった。
だから二人が私を無視するような態度をとっても平気だし、むしろその方が私にとっては好都合だった。
あっという間の一週間が過ぎた休日前の夕方。
軽い残業が終わり帰り支度をしている加奈ちゃんに、来週の予定のお願いをした。
「あっ、加奈ちゃん。来週だけど、休み明けは朝一番で杉山さまと最終打ち合わせしてから出社するわ。たぶん、お昼を一緒にしてからだから…、2時くらいかな」と私が言うと、
「はい、わかりました。例の女社長さんですね」と加奈ちゃんがこたえてくれた。
「そお、携帯はマナーモードか、最悪電源切っているから、死ぬほどの用事じゃぁ無い限り連絡はしないで欲しいの」
「かしこまりました。死ぬほどの用が出来た時だけメールします」
と加奈ちゃんが目一杯の目力を入れて、えらくまじめくさった顔でこたえてくれた。
その顔が、あまりにも面白すぎて吹き出しそうになるのを堪えながら、私は「ありがとう。じゃ、良い週末を…」というのがやっとだ。
「はい、主任も、それではお先に失礼します」
加奈ちゃんは、私が吹き出しそうになるのを堪えている姿に満足すると、いつもの明るくて可愛い加奈ちゃんに戻って嬉しそうに笑ってスキップしながら帰って行った。
その後ろ姿に「お疲れさま―」と、私は笑いながら声をかけていた。
加奈ちゃんを見送り、
それから、忘れ物がないかと確認して帰宅した。
途中、エレベーター前で裕一が何か言いたげにこちらを見ていたから、〝言いたいことがあるなら、正々堂々と言いにこい!〟と立ち止まり裕一を睨んだ。が、裕一はモジモジと下唇を噛みながら私を見ただけだ。
〝この期に及んで、まだ、私から話しかけてほしいってかぁ?〟
「ふざけるな!」と突然私の口をついてでた言葉に、裕一は一瞬目を大きく見開いて後ろに一歩左足をさげた。
私はそれを見て〝なんで、こんな男に恋していたんだろう…〟と情けなくなった瞬間、まるでここで捨ててしまえというように「チン」と小さな音をさせてエレベーターの扉が開いたので、私は裕一を完全無視して乗り込んだ。
エレベーターの閉まる扉の向こうに、情けない裕一の姿が見える。これまでは、それが可愛いと思った。私が支えてあげなければと思った。けど、今はなんだか私の目には、裕一のその姿がみすぼらしく映る。
「こぉ…」と裕一の小さな声が聞こえた。
私は大きく深呼吸して、「あんたの子どもなんか産む気はない!」と言った途端にエレベーターのドアがピシャリと閉まった。
「産む気が無いんじゃない、初めからいなかったんだから…。
私、なんて時間の無駄をしていたんだろう」と完全に閉まった扉に向かいひとりつぶやいてみたら…、涙がひとつ頬をつたっていく暖かさを静かに感じた。
「・・・、こんなことで泣くな!京香、男じゃ無い男に頼ったおまえが悪い!もう、男なんかに誰が頼るか!出世してやる。仕事で一等賞になってやる、男社会に逆らって生きてやるー。覚えてろ若造!」
裕一の顔が頭の中に浮かんだ途端、思いっきりグーの右手でエレベーターのドアを私は一撃していた。
―ガンー
「いったぁー」
あまりの痛さに大声で叫んでしまった。叫びながら今度はなんだか無性におかしくなって、ひとり、手の痛さに涙をにじませながら大笑する私の耳に…『迷子になったのか』…と、彼の声が聞こえたような気がした。
☆-☆-☆
休み明け、朝一番からの杉山社長との打ち合わせがすみ、いつもならここで楽しいおしゃべりタイムの昼食が入るのだが、この日は杉山社長に急な予定が入り中止になった。
少し早いが外でお昼を取るのは止めて、いつもよく協力して働いてくれる加奈ちゃんをランチに誘い、ご馳走しようと私は会社へと急いだ。
「おっと!12時、5分前の到着!いいねぇー」
加奈ちゃんとのランチに間に合うと、一人ご満悦の私はエレベーターを降り、〝ただいまい帰りました〟と皆に声を掛けようとドアを開ける。
と・・、ここは、事務所の中は、嵐の過ぎ去った荒野か?と思うほどの物が飛び散り、机が横を向いて倒れ、椅子があちこちに飛んで、床に散らばる書類はまるで紙ふぶき状態だ。
「なぁ!なに!これぇーーー」と私は訳が分からず叫んだ。
「主任―」
私の声を聞いて加奈ちゃんが振り返り、半泣きでこちらに向かい駆けて来た。
「いったいこれは、どうしたの?加奈ちゃん」
私の言葉に我慢と緊張の糸が〝プッン〟と切れたのか、加奈ちゃんは大声で「怖かったんです―」と叫んで泣きだした。
慌てた私は加奈ちゃんを抱きかかえ、倒れた椅子を起こして座らせる。悲惨な事務所を、ため息交じりに後片付けしていた人達が集まって来て、泣いている加奈ちゃんの代わりに説明してくれた。
今朝、収益物件の契約をしにやってきた
初めに加奈ちゃんが応対にでて、
「申し訳ございません。山本は、ただ今来客中ですので、よろしければ私がご用件をお伺いいたします」と丁寧に相手に伝えてところ…。
「あなたじゃ話にならないの、山本和美という女を、すぐここに連れて来なさい」と加奈ちゃんは相手から怒鳴られた。
そして、一緒に居た女性までもが加奈ちゃんに対して、
「そうよ、すぐ連れて来なさい。でないと!あなたも共犯とみなすわよ!」とすごい剣幕である。
5人とも和美を直ぐにここに連れて来いと一歩も引かない。おまけに、その中の一人が興奮しすぎて加奈ちゃんの頬を平手打ちしたのだ。
加奈ちゃんは頬を打たれた痛さより、知らない人に頬を叩かれた事にショックを受けていた。
この騒動に営業の男性二人が飛んできて加奈ちゃんとパトンタッチして説明するが、5人の怒りは収まるどころか、口々に、「隠すのか!」とますますエキサイトする。
その騒がしさに別室から出て来た和美が、間が悪いというのかなんというか、高飛車に加奈ちゃんに対して「あなた、お客様の応対も満足に出来ないの?」とのたまったのだ。
その時、空いたドアの隙間から柏原さんの姿が見えたらしい。和美を出せと初めにいった女性が、「あなたぁ!」と叫んで・・、次に、和美を見た。
「このぉー、泥棒猫が!」
それからは修羅場である。
5人の女性達は和美をののしり、逃げ惑う和美を追いかけ、捕まえ、ひっぱたき、蹴り飛ばし、椅子を投げ、髪を引っ張り、服を破き、手あたり次第に机の上の物を投げつけ収まらない。
そして、なぜか止めにはいった男性社員のうち、裕一の顔をじっと見た一人が、
「こいつもよぉー、こいつ。こいつも、この女の仲間よ。女を
襲われた裕一は抵抗する暇も無く、机に向かって突き飛ばされた。
そして、その反動でバランスを失い、床に仰向けになって倒れた裕一の上に、一番体重の重そうなおばさんが馬乗りになり裕一を抑えつけると、裕一は顔をそのおばさんに連打で平手打ちされて、他の4人から寄ってたかって上着やワイシャツをはぎ取られ、哀れ、和美ともども裕一は見るも無残な格好になったらしいのだ。
そして5人の女性は散々暴れた後に、一人が泣きだし後は総崩れで大泣きの嵐になった。
その間、柏原さんは青くなって固まり、何も出来ずにボー然と事の成り行きを見ていたらしい。
はじめに和美を出せと言っていた年配の女性が柏原さんの奥さんで、後は聞かなくても想像がついた。
私から和美に担当を代えてくれと言ってきた、残り4人の顧客の奥さんたちだ。どうやら和美は、営業は営業でも枕営業をしていたらしいのだ。
部長の危惧は、この事だったのだと悲惨な事務所の光景を見てため息がでた。
部長に呼ばれ詳しく事の次第を聞かされたところでは、ある日、5人の顧客の奥さん宛に郵送で大きな封筒が届いたのだそうだ。
差出人は、うちの会社の宣伝部の名になっていたそうだ。
5人の奥さん達は、夫が収益物件をうちの会社から購入することは知っていたので、「なぜ、私宛に?」と不思議に思ったが、もしかしたら夫名義では無く、自分名義でも収益物件を買いませんかのお誘いかと考え、なんの疑いも無く封筒を開けた。
そしてそこには、和美と自分の夫がレストランやバーで嬉しそうに笑い合う顔や、和美が夫の腕にぶら下がるようにしてホテルに入っていく姿…。
加えて、車の中や路上でキスをしている、いわゆる路チュウの動かぬ証拠写真が、これでもかというくらいあふれ出てきた。
それも、
{お宅の御主人たちは、女狐と、女狐の若いヒモの男に騙されている。}と、大きな赤い文字で書かれたA4のコピー用紙には、ご丁寧なことに、騙されているとされた5人の御主人たちの名前と連絡先が、それぞれ書かれており、とどめを刺すように最後に一言。
{一人では無理でも、5人なら『悪魔』からご主人たちを救えます。}と、書かれていたのだそうなのだ。
はじめは奥さん達も半信半疑だったらしいのだが・・。
〝それは、そうだろう〟と私は思った。
だが疑い深い柏原さんの奥さんが、速攻で探偵を雇い密告の内容が嘘でないことが判明した。それで、それまで面識の無かった5人の奥さんたちが連絡を取り合い。
一致団結して、今日、契約に訪れる柏原さんの後を追って来て、今朝の嵐のような出来事が起こったのだった。
「まったく、山本君も何を思ったんだか」
ひどく疲れた顔で部長はため息交じりに力なくいった。
5人の奥様達を落ち着かせ、それぞれの家に送りとどけた部長は、夕方やっと社に戻って来ていた。
「部長の危惧されていたことって、つまりはこのことだったんですね」と固い声で私は聞いた。
「ああ、たまにね、たまにいるんだよ。こういうことしでかす子がね。それでも山本君の場合は異常だよ。しかし、川本君も一枚かんでいるとは思わなかった」と、部長が意外だったというよう言った。
「ええ、本当に」と私の声がため息のように出た。
裕一は、私から得た情報を、5人の顧客の趣味趣向を和美に事細かく教えていたのだ。
和美は、自分より先に私が主任に昇格したことがどうしても納得できず。許せなかったらしい。そして、裕一を誘惑した。
和美は裕一を誘惑して得た情報を使い、5人とはそれぞれに偶然を装い接触していたのだ。
でも、馬鹿気てる。私を貶め、勝ちたい一心で自分の身体を使うなんて・・。
「まぁ、山本君はこれが初めてではないらしい」
「えっ?それ、どういう意味ですか、部長!」
部長の言葉に私は驚いて思わず声が出た。
「これは、柏原さんの奥さんから聞いたんだか。山本君は高校、大学と同じような事をしでかしていて、中には恋人を失ったというか、裏切られたというか、それがショックで自殺した女の子が一人いたらしいんだ。その事もあって柏原さんの奥さんは、このままでは悪魔に家庭をめちゃくちゃにされると、本気で思ったらしいんだよ」
「そんなことが」
きっと、柏原さんの奥さんは探偵を使い、和美の過去を全て調べあげたのだ。
「ああぁ、怖い子だよ山本君は、これはまだ正式ではないが、多分というか、これだけの損害を会社に与えたんだ。二人には辞めてもらう事になるだろう」
5人の顧客からは、次々に今回の契約をキャンセルすると言ってきた。まだ書面で正式な契約が交わされていない以上、その申し入れをどうする事も出来ない。受けるしかないのだ。
「はい、仕方ありませんね」
「それと、宮内君には可哀想な事をしたね。今度、君と二人で何かご馳走するよ。何がいいか二人で相談しておいてくれ。今日はもう疲れた。悪いが先に帰らせてもらう。それから、宮内君には無理しなくていいから、明日も休んでいいと君から伝えてあげてくれないか」
「はい、かしこましました。お心遣いありがとうございます。本人に代わってお礼申し上げます」
私は部長をエレベーター前まで見送り。その足で早退した加奈ちゃんに、部長がお詫びにご馳走してくれるそうだから今日の事は気にしなくてもいいということ。
それに、無理しなくていいから明日は休んでいいと伝言を預かった。だから、明日は一日、ゆっくり休みなさいとメールした。
そこで、ふっと思った。
もしかして、〝私、決心しました〟と私を追いかけてきたあの子が、5人の奥様達に証拠写真と、それぞれの連絡先を送ったのは?あのフワフワ髪の彼女かも知れない。
もう、確かめようも確かめることは出来ないし、私にはそれを確かめる気も無かったけど、なんとなくそう思った。
たぶん、過去に和美に痛い目にあわされた一人か、或いは今回の関係者なのかもしれない。
〝やるじゃん、彼女!〟
私は心の中で思わず、どこの誰だか分からない彼女にエールを送っていた。
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