いつもつながれてほえるほかない犬です

いつもつながれてほえるほかない犬です


――種田たねだ山頭火さんとうか





 私は犬である。いかつい顔のグレートデンだ。

 実際は小心者であり温和な性格であると我が主も認めるところなのだが、この容貌のせいでとにかく子供に避けられてしまう。子を持つ親の方とて、我が主に連れられて散歩中の私が近寄ろうものならおびえた顔で子供の手を引くだろう。

 一度はチワワやダックスのように可愛い可愛いともてはやされてみたいものだが、それは叶いそうにない。

 私にも子犬の頃があったのでは、と思われる向きもあるだろうが、我が主に引き取られる以前のことなど思い出したくもない。察して頂ければ幸いである。

 そんな私が恋をした。いや、これは恋と言っていいものかわからぬ。なにせ相手は人間の少女なのだ。





 初めて彼女を見た時、彼女は友人たちと揃いの赤い鞄を背中に背負って歩いていた。彼女の背丈に照らしてみれば、幾分大きすぎる鞄だ。それは真新しいもののように見え、何もかもが新鮮に見える春の風景の中でも一際目立つものであった。

 世に言う一目惚れ、というものであったのだろうか。彼女を見たその瞬間、私は心臓が激しく脈打ったのを感じた。昂ぶった感情は、その場で私に出来た唯一の意思疎通手段を取らせる。私も若かったのだ。

 私は吠えた。彼女は友人に手を引かれて逃げ出した。それが私と彼女の、私にとっては悔いばかり残る出会いであった。


 その日からというもの、私は概ね毎日、彼女が家の前を歩いていくのを朝と夕の二回見ることを日課とするようになった。

 私としては、彼女に声をかけてもらったり、頭を撫でたりして欲しかったものだった。だが、あいにく私が彼女の気を引くために出来ることは吠えることしかなかった。

 リードで繋がれた私にとっては、彼女の元へ駆け寄ることは到底不可能なことであるし、彼女の方も恐ろしい形相をした私の方へわざわざ近寄ったりはしない。それどころか、毎日私から距離を取って歩いているようにさえ思われた。

 早朝に我が主と共に外出する時以外、鎖に繋がれ自由に走り回ることも出来ないというこの現状に不満がないわけではない。

 ないわけではないが、仕方のないことであるとは理解できる。

 万一私を野放しにして問題になろうものなら、我が主の責任が問われる事態となろう。

 公園に野放しのグレートデンがいたとなれば、子供らやその親は落ち着いて遊べるであろうか、否である。人間社会で生きていく限り、私は繋がれることを良しとせねばならない。

 私が最も信を置く我が主と共に生きるためならば、鎖に繋がれることくらい甘受しようではないか。不似合な恋心など捨て去るべきなのである。


 それからしばらくの月日が流れたが、私の本能は理性の抑止さえ跳ねのけようと陰で奮闘していたらしい。毎日彼女の姿を眺めて(と言ってもわずかばかりの時間ではあるが)いるうちに、彼女への思いはますます募っていくのだった。

 私は彼女を振り向かせようと、幾度か挑戦をしてみた。だがその結果はいつも同じ。赤い鞄を背負った少女は怯えた顔でこちらを見るばかりである。

 いつしか私は吠えることを止めていた。その間にも少女は齢を重ねていく。我々犬から見ればゆっくりとした成長ではあった。それは私が急速に年老いていったということでもある。



 彼女と出会って、六年の歳月が過ぎようとしていた。


 私は医者にかかる年になり、少女の方は老いたグレートデンを見ても、そう怯えはしなくなった。だからと言ってこちらへ近寄って来ることもなく、ただ毎日私の目の前を、少しの距離を取って通り過ぎていくだけだった。

 私はこれまでの経験上、少女と出会う機会はもはやそう多くはないと知っていた。恐らく今年の桜が散り始める頃には、彼女と会うことは出来なくなるだろう。

 これまで毎日ここを通っていた揃いの鞄を背負った人間の多くは、六年が過ぎ去るとここを通らなくなるのである。時たま見かけることはあっても、毎日決まった時間に現れることはもう二度となくなる。

 なぜかは知らぬが、そう決まっているらしい。真新しかった少女の赤い鞄は、すっかり彼女の背に馴染んでいる。残された時間が長くはないことを告げていた。



 ある日のことだった。いつもとは違い、昼前の時間に少女が目の前を歩いていた。隣には母親らしき姿も見える。少女は胸に花飾りをつけているようだ。

 私はそれが何を意味するのか、少なくとも私にとって何を意味するのか、経験から知っていた。今日が最期の日なのだ。

 私は思わず立ち上がって吠えようとした。だが出来なかった。一つは私自身の老いによるもの。もう一つは少女の表情を見てしまったからだった。

 彼女の目は赤く、少し前まで泣いていたのだろうと想像できる。一方で今の彼女の顔は明るい。少女に何か重大なことが起きたのであろうとわかったが、それが何か、見当もつかない。

 だが少なくとも、少女のその不思議な笑顔は、私に吠える気を失くさせたのだった。

 その時ふと物音がして、私は振り返る。見れば我が主がいて、リードを外出用のものと付け替えていた。


「ベン、散歩行くぞ」


 我が主が歩き出したので、慌てて私もそれについていった。普段私を連れての散歩は早朝に行うと決まってあるのに、どういう風の吹き回しだろうか。



 敷地を出ると、少女とその母親のうしろ姿が目に入る。さほど距離は離れていない。

 私たちは少女とその母親の後ろをついて行く。確かにこの道は我が主のいつもの散歩コースだ。今日はこの道を通るのは二度目だが。

 少女と母親は時たま何か言葉を交わしているようである。しかし、少々距離があるのと、私の耳もいささか衰えたせいで、その内容までは聞き取れない。

 私も老いたものだ。今年の夏、あるいは冬は厳しいものになるかもしれない。覚悟だけはしておこう。

 老いたと言えば我が主も同じだが、それでもまだ我が一生分くらいは生きてはくれそうである。とはいえ彼も足腰が強い方ではない。


 あの曲がり角を曲がって、次の十字路。ここ最近の我が主はいつもそこで引き返すことを選んでいた。親子が角を曲がる。ややあって、我々も後に続いた。

 少女と私、親子と我々の距離は変わらぬままだ。少女の小さな話し声は私まで届かない。私の気配とて、彼女に気付かれることはないだろう。

 そして、親子は十字路をまっすぐ進む。私たちはそれを眺めながら歩く。

 一歩ずつ、往年に比べれば頼りない足取りで、けれども着実に歩いていく。

 我が主の一歩先を行く私が、十字路の手前まで来た。私は立ち止まる。我が主も横に並ぶ。

 私は立ち止まったまま、少女のうしろ姿を見ていた。少しずつ、その背中が小さくなる。

 そして、私は踵を返す。帰ろう。もう十分だ。所詮は報われぬ恋。老い先短い犬が、血迷った夢を見ただけだ。


 リードが引かれた。


「ベン、もういいのか?」


 いつもはここで引き返す我が主であるが、今日は十字路の手前で動かなかった。

 流石に我が主は私の主であるだけのことはある。私のことなどすべてお見通しのようだった。

 私は再び我が主の元まで戻り、そこで立ち尽くす。少女はいくらか小さくなっていたが、まだ視界から消えているわけではない。

 私はそれを静かに見ていた。我が主も付き合ってくれる。


 ――強い、風が吹いた。


 ふと、少女がこちらを振り向いたように見える。母親もこちらを向いたようだ。

 果たして目が合ったのだろうか。少女はこちらを見つめている。私もそちらを見ている。けれど少女が私を見ているのかは、定かではない。


「――――悠希ゆうき? 行くよ」


 ――風に乗って、少女の母親の声が聴こえた気がした。



 少女は黙って、前を向いて歩きだしたようだ。

 私も踵を返して歩き出す。今度は我が主もついて来た。

 いつも通りの、静かな散歩道。ああしかし、今日は少しばかり風が気紛れだ。

 私はふと立ち止まり、そして息を吸う。我が主も歩みを止め、私の隣に立った。

 

 一つ、吠える。


 老いた身の全てを振り絞り、その声はかすれながらも、可能な限り力強く吠えようとした。この恋に終わりを告げるために。

 久しく行ったことのない、遠吠えだった。気紛れな風が吹く。

 果たしてこの春の風は、我が遠吠えを運んでくれるだろうか。

 どこまでも、どこまでも遠くへ。彼女に必ず届くように。

 彼女は耳にしただろうか。一匹の老犬の、最後の遠吠えを。


 そうであるならば、私には何の未練もない。

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