自由律短編集
鹿江路傍
かへす傘又かりてかへる夕べの同じ道である
かへす傘又かりてかへる夕べの同じ道である
――
*
秋の終わり。高校の通用口で私は立ち止まる。
雨が降っていた。
雨はしばらく止みそうにないし、風も強い。
天気予報で分かっていたはずなのに、朝は降っていなかったから油断した。傘を持っていないのだ。
「何だ
「……まあね」
「馬鹿だな」
容赦なく言い放ってくれたこの男は
背が高く見てくれも悪くないのだけれど口が悪い。そのため若干のとっつきにくさはあるけど、慣れてしまえばどうってことはなかった。むかつきはするけど。
「たまには傘を忘れる日もあるでしょ」
「いやないね、ちょっとは頭の回る奴なら置き傘なり折り畳み傘なり準備してるだろ。第一今日の予報は70%だぜ?」
うんまあそうなんだけどね。今朝の私は楽天家に過ぎた。
私は恨めし気に空をにらんだ。かといって、雨脚は弱くなったりはしない。天は非情だ。
「ったくしゃーねーな。貸してやるよ」
そう言って佑月はビニール傘を差し出した。反射的に受け取りそうになったが、その前に。
「って、あんたはどうするの?」
「頭の回る俺はいつもこれを鞄に入れてるんだよ、お前と違ってな」
一言か二言余計な嫌味を付け足してくれちゃってまあ。
こんな物言いの奴に借りを作るのは何だかためらわれるが、この雨では傘がなければ五秒と経たずに濡れ鼠確定だ。
不承不承、私は
「明日返すから」
「当然だろ。つか礼も言えないのかお前は」
「……傘をお貸し頂き、大変有り難く存じます。このご恩は生涯忘れません。はい、満足?」
「わざわざ馬鹿丁寧に言う辺り、捻くれてんなお前」
いやね、あんたの口がここまで悪くなければもう少し素直にもなりますよ?
あんたがこっちの傘を使えば? そう思ったけど、まあコイツに気を回してやる必要もないかと思い直して口にはしなかった。
*
――まさかそのせいで、あんなことになるとは。
借りた傘をさして帰ったこの時の私には、分かるはずもなかった。
*
次の日の朝。灰色の雲が空を覆っているが、曇天から雨粒は降りてこない。
天気予報を見ると、曇りマークが並ぶものの、午後からの降水確率は10%。
私はビニール傘を手に学校へと向かった。そこかしこに出来た水たまりを避けながら。
「はい。これ返す」
教室には既に
「……ああ、そういや貸してたっけな」
どこか元気のない声で言いながら、
そして盛大にくしゃみをした。
「なに、風邪でも引いたの?」
「いやな、昨日の帰りに傘がぶっ壊れちまったんでな」
そういや風も強かったもんね。折り畳み傘の強度では耐えられなかったか。まああの雨の中傘もなしに帰れば風邪も引くだろう。
「それはご愁傷様でした。ご冥福をお祈りします」
哀れな折り畳み傘と
「お前は元気そうだな」
「おかげさまで、私もこのビニ傘も元気ですよ」
「そりゃよかった。お前のことはどうでもいいけど、傘が無事でなによりだ」
こいつ、いちいち人を挑発しないと死ぬ病気なのか。いや、私の言いぶりもアレだったけどさ。
*
そして放課後。またしても通用口で、私はため息をついた。
雨が降っていた。昨日よりはましだけれども、天気予報は嘘を吐いたらしい。
いや、正確には嘘は吐いていないか、10%だし。私の天気予報への勝手な信頼が裏切られただけの話。
ふと何か大きなものが動いた気配がした。気づけば隣に
「で、
ここで立ち止まっている時点で、私が傘を持っていないのは明らかなのに、意地の悪い奴。
「私の学習能力はチンパンジー並みでしたごめんなさい」
残念ながら私は折り畳み傘も用意しなかったし、置き傘にするためにもう一本傘を持ってくることもしなかった。
「……ならしゃーねーな。貸してやるよ」
そう言って彼はビニール傘を差し出す。
「は? 今日はあんたも傘ないでしょ」
こんな時のための折り畳み傘は昨日の嵐によって既に亡き者となっている。
ちょっと頭が回る程度では、今日もまた雨が降ることは予想できなかかったらしく、
「走って帰りゃ大したことねーよ」
「あんたは風邪引いてんでしょーが。あんたの傘なんだから自分で使って帰れば?」
「ああそうだな。馬鹿は風邪引かないらしいからいいか」
まーたこの人は憎まれ口を叩く。やっぱり病気なんじゃないの?
「あー、狭いけどしゃあない。お前も入れ」
何を言っているんですかコイツは?
私が躊躇っていると、
「なんだ、恥ずかしいのかよ。乙女じゃあるまいし」
乙女だよ! ……一応ね。
しかし待てよ。ここで拒んではまるで私が佑月を意識しているみたいだ。向こうは何とも思っていない風なのに、何だかこれでは負けたみたいな気分になる。
「……しょうがないな」
*
あくまで他に手段もないからやむを得ず、という体で私は
必然的に、私と
校門まで来て、改めてこの状況を冷静に考えてみる。私は相合傘をしているのだ、と思うとやっぱり恥ずかしくなった。
せいぜい誰かに見られないことを祈るしかない。幸い辺りに他の生徒はいないようだ。既に帰ったか、室内で部活に精を出しているか、親に車を出してもらったか。あるいは何かの偶然で。
「お前、確か家は運動公園の近くだったっけな」
「う、うん。そうだよ」
突然話しかけられたので、少し動揺する。あくまで急に話しかけられたことに対してだ。……何を言い訳してるんだか、自分でもよくわからない。
「なら俺の家のが近いか。ちと遠回りになるけど文句はないよな」
有無を言わさなかった。いや、そのことについて文句はありませんけど。
それから
「――――見えたな」
ぽつり、呟くように彼は言った。
「あのアパート?」
「そうだ」
そして無言でアパートの前まで行く。佑月は私に傘を差し出した。
「明日返せよな」
「分かってるって」
私は佑月からビニール傘を受け取った。今日彼に返すはずだった傘を、なぜかまた借りる羽目になってしまった。まあ折り畳み傘をぶっ壊してしまうよりはマシな選択肢だったかもしれないけど。
「んじゃな。気ぃ付けて帰れよ」
おや? 佑月にしては珍しく殊勝な言葉じゃん。熱でもあるのだろうか。あるのかもしれない、風邪引いてるし。
「あんたの口からそんな言葉が出るとは、明日は槍でも降るかもね」
「何言ってんだ、傘を壊さねえように気を付けろって意味だよバーカ」
ああそうですか。まったく。
……おっと、お礼を言ってなかったっけ。
「……此度も傘をお貸し頂き、まことに有り難く存じます。わたくしめには過分な厚遇ですが、謹んでお受けいたします」
「相変わらず嫌味な奴だな」
それはお互い様でしょうよ。言葉には出さず、胸の内で呟く。
私は傘を手に踵を返す。一度だけ振り返ると、佑月もアパートの部屋へと姿を消したところだった。
…………まあなんだ、あんたの顔が少しだけ赤かったのは風邪のせいだということにしてあげるよ。
私は雨の中を歩き出す。少し歩くと、いつもの通学路に出た。
昨日と同じ道を、同じ傘で帰る。ビニール傘を叩く雨の音色まで同じだ。
昨日と違うところは、私も風邪を引いたみたいだということだけ。たったそれだけだ。
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