春の幽霊

二階堂くらげ

春の幽霊


 春の幽霊


 青年が二限の講義を終え帰路に着こうとした金曜の正午、青年は幽霊を見る。

そのとき青年は自転車を捜していた。青年が二年次に進級して間もない春先のことだった。青年は今年度から通うことになった新しい学び舎にまだ馴染むことができず、妙に良く差し込む陽の光に照らされ白く輝くぴかぴかの壁や、床や、音もなく開くスライド式のドアや、病院の待ち受け場に並んでいるような背もたれのない椅子たちの輝きに辟易としていた。コンクリートの冷たさを愛せないほど無粋ではない青年は、何の素材でできているのかもわからない、ひたすらしっとりとした光沢を滑らかに湛える壁も、リノリウムではない床も、まだ好きになることができないでいた。この建物に青年が愛するような、小学校の教室の後ろにあった棚と一体化したコートをかけるフックや、図工室の四角い椅子や、高校の校舎の廊下に並んだ小さなロッカーのような温かみはどこにもなかった。代わりにこの建物が持っているものと言えば、張り付けられたような笑みだけだった。

青年はそれを実に大学生らしく感じていた。大学生はまさにこの建物の綺麗な白い内装のように笑う。そしてそのようにして笑えない人間に後ろ指を差して、子供だと揶揄してはまた笑うことをする。それは化粧にも似て、メールで使われる絵文字のようでもあった。大人になるとはこういうことなのか、高校時分のように笑いながらまた馬鹿なことを言い合ったりすることはもうできないのか、青年は友人と飲み屋や食堂で古い友人について話している中で、そういった揶揄の言葉を耳にするたびに悲しくなって、寂しくなって、笑い返すことしかできず、しかもその自分の笑みまでもが彼らの張り付けられた笑みと同じなのではないかと身を震わせながら怯え恐れるしかなかった。青年にとって大学は孤独な場所だった。青年が新しく通うことになった建物もその一部でしかなく、まだ寒い春の北風と共に青年の孤独を深めることしかしなかった。

「そういう気持ちが僕に幽霊を見せたのかもしれない」

 青年はおどけた。話を聴いている相手は怪訝そうな顔をしながらも口を挟もうとはせず、柚子ハイボールのジョッキグラスにちびちびと口をつけていた。

青年は続ける。新しい建物で講義を受けるようになってからまだ日が浅い青年は、その建物の駐輪場のどこに自転車を駐輪することがより青年をより満足させるかについての研究がまだ不十分だったのだと語った。青年は小さい頃から日頃のルーティーンを無心でこなすということを知らず、色々な暇つぶしを試みてはそこで何かを発見したり、細かい問題を改善したりすることに喜びを見出そうとすることが常だった。駐輪場はその最たるもので、青年が白い孤独感から解放され自分の自転車へと向かう足取りの中で何を感じ、何を考え、自転車のナンバーロックを外すときにどんな気分になるのか、その時間の豊かさを追求する一部として自転車の駐輪位置を色々と試すことを青年は楽しんでいた。

その中で、その日はたまたまそれまで試していた位置とは大きく離れた位置に自転車を駐輪した青年は自分がどこに自転車を駐輪したのかを忘れてしまった。青年は広い駐輪場を見渡して、自分の自転車の特徴の中で最も簡単に目につく茶色のサドルを探した。茶色のサドルはそれほど珍しい訳でもなかったが、青年はこの自転車に乗り始めてからこの自転車を探すときにはそれを目印にするのが一番見つけやすいことを知っていた。加えて青年の愛車は折り畳み自転車であったため、まずは茶色いサドルを探し、それが折り畳みであるかどうかで絞り込みをかけるというのが青年のいつもの手段だった。

茶色いサドル、あれはママチャリ。茶色いサドル、あれはハンドルが曲がっている。茶色いサドル、あれは折り畳みだけれども違う。そうしているうちに青年がそれを見つけるまでに時間はかからなかった。それは青年の自転車よりも遥かに青年から近い位置にあった。それを見つけたとき、青年の心臓に冷たい血液が送られた。それはよく見覚えのあるミントグリーンをしていて、所謂ママチャリの体裁をしており、茶色のグリップがつけられたハンドルは無理なく握れるよう大きく湾曲して後ろを向き、その先にはグリップと同じ色赤茶色だったはずのサドルが薄汚れたオリーブのような色をして座っていた。

しかし籠のデザインが違う。リアタイヤにかかる銀色の泥はね避けも良く見れば異なっている。青年はほっと胸をなでおろして、同時に自分は何に怯えているのだと滑稽さに呆れかえった。それでも青年にとってその安心感は代えがたいもので、青年は見つけた瞬間は一刻も早く視界から消し去りたいと願ったはずのその誰かの自転車を、思い出とは重ねても重ならないということを感じるためだけにしばらくの間ただぼんやりと眺めていた。

「ミントグリーンの自転車なんて、全部なくなればいいのに」

 青年が心の中でそう呟いて、自分の自転車はここではないと反対側に振り向いたまさにその時だった。青年の心臓に再び冷たい血液が送り込まれる。心臓はパニックを起こして急速に脈動を増し、次第に嫌な熱を発し始めた。曲がりのない真っ直ぐなフレーム、高校の駐輪許可シールのないリアタイヤの泥はね避け、木かプラスチックの茶色い編み込みがボトムに入った籠、そのどれもが青年には見慣れないものだったが、しかしそれは大きく湾曲したハンドルをしていて、その先のグリップは赤茶色をしていて、まだ新しいサドルが本来の赤茶色を鮮やかに発しながら、その金属部分を花曇りの薄暗い光の中で鈍く輝かせていた。

青年はぞっとした。それは青年がついさっきそうではないとわかって安心していたものそのものではなかったが、限りなくそれに近いものだった。青年はその自転車から、その現実から目を離すことができなくなり、思わず歩み寄って、自分の目を疑った。しかしそれはどうしようもなく青年の知る自転車だった。

その持ち主の来訪にいち早く気付けたことは奇跡か皮肉か、多分後者だろうと青年は嘲った。その自転車の持ち主こそが、青年の言う幽霊だった。細く華奢な身体も小さな顔も、どこから見ても綺麗な曲線を描くやや短めの黒髪も、忘れようがなかった。青年は目の前で起こっている出来事を夢と倒錯しそうになるほど動転しながらも、やっとの思いで彼女の傍を通り過ぎた。彼女が青年に気づいた素振りはなく、彼女はそのまま自転車のロックを外し大学の本通りを北へと抜けていった。青年は彼女のサドルに座る姿勢やペダルの漕ぎ方に釘づけにされながら、その姿が見えなくなるまで彼女を見つめていた。

「それを見てから駐輪場に行くときいつも怖くなるんだ。ミントグリーンの自転車はないか確かめてしまうんだよ。僕のお気に入りの駐輪場所とやらも、幽霊の自転車となるべく道が重ならない場所に自然と決まってしまった」

 彼女が本当に青年に気づかなかったのか、それとも気づかない振りをしたのか、青年にはわからなかった。そんなことも霞んでしまうくらい、青年には恐ろしいことがあった。それは青年が彼女の自転車を見つけてしまったことでも、偶然彼女を見かけてしまったことでもなく、青年が彼女とすれ違ったとき、自然と身体が彼女の方へ向かって行ったことだった。青年の身体はその胸を彼女の肩にぶつけようとしたのだ。それは高校生のときに度々あった、男子同士が出会い頭に肩と肩と軽くぶつけあってスキンシップをとろうとするものの派生であり、彼女が非常に小柄なので彼女の肩が青年の胸に当たってしまうというだけのことだった。

 それは親愛の証だった。じゃれあいの始まりの合図だった。青年が昔よく彼女にそうしたことを青年自身ですら忘れていたというのに、この身体はそれを自然と行おうとした。勝手に動き出していた。そのことが青年にとってはたまらなく何よりも恐ろしかった。

青年はその日の帰り、漕いでいる自転車の上から道端につくしを見つけた。青年は集団恐怖症ではなかったが、一定数まとまって群生していたつくしにそれと似た気持ち悪さを感じた。

青年はそのときふと思った。自分はまた幽霊と会うだろう。そのとき幽霊が自分に気づくかはわからない。僕の身体はまた霊的な磁力じみた力で引き寄せられてしまうだろうか。彼女が僕に気づいたとして、気付かなかった振りをしてくれるだろうか。僕がどれほど忘れてしまったとしても、彼女は確かに僕の心の一部分を永遠に取り殺し続ける。そのことをたまたま思い出してしまったのだ、ミントグリーンの自転車のせいで。

小さな絶望は春めいて、それはつくしによく似ていた。

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春の幽霊 二階堂くらげ @kurage_nikaido

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