16 夢から覚めて

  

  ◆◆◆


 「別に死ぬつもりなんてなかった」


 しゃくりあげながら、わたしは言った。


 「ただ眠りたかっただけ……」


 頬を涙が伝っていく。

 涙は後から後から止めどなく流れ続けた。

 寂しさがシクシクと胸を噛んで、心が散り散りになってしまいそうだ。

 左腕の骨折よりも、寂しさのほうがよほど痛かった。


 「寂しいよ。寂しいよ。寂しいよ……」


 わたしは泣きじゃくっていた。

 泣きながら、子供みたいだな、と気恥ずかしく思う。取りつくろうように右手で顔を隠してはみたものの、すき間からは絶え間なく嗚咽おえつが漏れた。


 「大丈夫。全て夢です」


 飄々ひょうひょうとした──場にそぐわないくらい呑気のんきそうな声がして、ソファのスプリングが微かにきしむ。

 わたしが横たわるソファの端に、イルマがそっと腰かけたのだ。


 「貴女は夢の中でチカの未来と“混線”したのです。十五年後の」


 話しているのがイルマ自身なのか、それとももうひとつの夢で会った影法師かげぼうしなのか。確かめたい気もしたけれど涙に歪んだ視界の中で、その区別は判然とはしなかった。

 ただ思いのほか室内が明るいことに、わたしは少なからず驚いた。

 てっきり夜だと思っていたのだ。


 「わたし」


 つっかえながら、わたしは懺悔ざんげのような告白を続ける。


 「分かってた。そんなこと分かってた」


 「はい」とこれもまた飄々ひょうひょうとイルマ。


 「彼とは『ごっこ遊び』だったし、『ごっこ』が長引けば自分に不利になるのもちゃんと分かってた」


 言いながら、こんがらがった糸のように絡み合った、わたしとチカの記憶を、ひとつひとつ整理していく。


 チカは分かっていたのだ。

 彼との関係が長引くリスク。

 誰もが歳を取るのだという現実。

 刻々と失われていく時間の意味。

 若さと美貌などほんの刹那の幸運に過ぎないこと。

 残念ながら彼との関係はズルズルと続いてしまったけれど、彼女はきちんと自立した未来像を思い描き、十五年の間に着々と行動に移していった。

 チカは現実主義であると同時に徹底した即物主義でもあった。

 彼女は不安を覚えるたびに、その不安にきっちりとした形で備えを施した。

 投資の一環で購入したマンションも、独り身での老後を見据みすえ定期貯金の他に利率のよい積立型の保険に加入したのもそのためだ。

 仕事も精力的にこなし、デザイナーとして着実に実績を積んでもいった。

 歳を取るということ。

 一人りだということ。

 チカはちゃんと分かっていた。

 ──はずだった。


 「……罠」


 不穏な響きに、わたしの眉が曇る。


 全ての始まりは『ごっこ遊び』からだったのだろう。

 『ごっこ』という軽い語感は、始まりこそ確かに遊戯ゆうぎ感覚ではあったけれど、その後のチカのバランス感覚をいちじるしく損なう要因になった。


 彼からの雑な扱いは、チカの自尊心を大いに踏みにじった。──と同時に、一種の寛大かんだいさとしてチカを受け止めてもいた。

 彼がチカに見せた雑さとは、男女の駆け引きなどといった計算されたものではなく、妻帯者さいたいしゃ特有の生活感に他ならない。

 既婚者が生活するうえで、ただ単にそうならざるを得ない雑さ。

 それがチカには彼の余裕に映ったのだ。

 加えて、雑な扱いに慣れていなかったチカにとって、彼の態度は自分への不当な低評価に感じられたし、何かの間違いにさえ思われた。


 彼はまだ“ワタシ”の良さを分かっていない。

 だからもっと本当の“ワタシ”を知って欲しい。


 恋する者の常である、想い人の前で最高の自分でありたいという叶うはずもない願望は、結果的にチカを都合の良い女へと仕立て上げていった。

 不本意ながら典型的とも言える不倫関係の泥沼にズルズルとはまり込んでいきながら、プライドがそう言わせるのか、チカはそれさえも『ごっこ』なのだと自分自身をあざむいた。


 『ごっこ』という響きはとても便利だった。


 彼への不満も、彼の家族への罪悪感も、背徳感からの苦悶くもんも、全て『ごっこ』という一言によって遊戯へとすり替えられた。

 そして彼との不毛な関係が長引くリスクが、不安となって脳裏をよぎるたび、チカは「分かっている」と自分に言い聞かせた。


 分かっている。

 分かっていてあえてそうしている。

 だから大丈夫。


 そう考えることで、チカは心のバランスを保ったのだ。

 分かっている、という確信はかえって彼女を頑なにした。

 それこそが──


 「──罠だった」


 わたしは呻くように呟いた。

 自身を欺くことによって自分で自分を罠にはめたのだ。


 「分かってるから大丈夫なんてウソだ」


 彼との関係がグダグダになるほど湧き出してくる不安を、貯金やマンション購入といったきっちりとした形で解消していった。

 だけど……。


 「……解消なんてされてなかった」


 形をどれだけ補っても、どうしようもない寂しさだけは、消せなかった。

 周到なチカにとって寂しさも想定内だった。

 彼と別れたあとの寂しさにも想像がついた──つもりだった。


 けれど実際に体験する寂しさは、想像をはるかに超えていた。

 想像は真実を惑わせる媚薬びやくのようなもの。実体験という圧倒的な質量の前では、想像などほんのお遊戯でしかなかった。

 寂しさに負ける形で、不本意な恋愛と、不本意な復縁を繰り返しながら、とうとう不本意な軌道修正きどうしゅうせいさえ難しい年齢になってしまったのだ。


 十五年は長すぎる。

 もう取り返しはつかない。


 寂しさと憎しみに追い立てられ睡眠薬を噛み砕きながらチカは絶望していた。

 ただ眠りたいというのは本心からだ。

 と同時に、もう目覚めなくていいとも願っていた。


 「そんなことないのに」


 かすれた声で、わたしはチカに話しかけた。

 チカならまたいくらでも恋人が現れただろうし、違った形の幸福だっていくらでもあっただろうに。

 いくら切々と訴えても、チカからの返答はない。

 彼女が居るのは十五年も先の世界なのだ。


 「悲観することなんて、なにもなかったのに」


 けれど十五年後のチカは、そう思わなかった。

 寂しさと憎しみのあまり、視野狭窄しやきょうさくおちいっていた彼女には、それだけの余裕もなかった。

 理想が高く向上心の強いチカは、辛辣しんらつな厳しさを周囲に向けがちではあるけれど、同じ厳しさが彼女自身を痛めつけてもいる。


 ──ああはなりたくない。


 かつて投げかけた峻厳しゅんげんな眼差しは、十五年の歳月を経て、全てチカのもとへと返された。

 チカを追い詰めたのは、チカ自身だ。

 チカは思い通りにならない自分と自分の人生を許せなかったのだ。


 「そんなことないのに」


 わたしは同じ台詞を繰り返す。

 だいぶ落ち着きを取り戻したわたしは、チカと自分を分離して考えられるようになっていた。

 急速にチカとの距離が開き始めると、彼女への批判を交えた同情的な言葉が次から次へと溢れ出ては、泡のように消えていった。

 いくら言葉を重ねても、他人だから言える綺麗事でしかないという事実が、言葉を虚しく響かせる。


 わたしは沈黙した。

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