15 罠


 彼らには若く愛くるしい姫しか見えない。

 “ワタシ”はもう姫ではなかった。


 空気になったのだ。

 空気。


 居ても居なくてどうでもいい、誰からもかえりみられることのない存在。


 いっそ開き直ってしまえば楽だろうに、まだまだ捨てたもんじゃないという一抹いちまつの希望と、昔ほどではないにしろ時折は示される、ささやかな異性からの親切が、かえって“ワタシ”を苦しめた。


 分かっていたはずだ。

 “ワタシ”ぜんぶは分かっていた。


 誰だって歳は取るのだ。

 自分だって例外ではない。

 若さにおごる者は若さぐらいしか取り柄がないから、殊更ことさらに若さにすがっては、オジサンオバサンを嘲るのだ。

 自分は違う。

 若さや容姿を主軸に置かない価値観を心がけてきたつもりだ。

 肉体的な輝きは、必ず失われるものなのだから。

 それでも──


 加齢によって失うものは、あまりにも多すぎた。

 女性は五十歳を過ぎると社会から無視される、と言った識者は誰だったろう。

 オフィスで、街路で、コンビニで、すれ違い様で……。

 年々“ワタシ”は空気になっていく。

 そして彼ももういない。

 “ワタシ”は一人だ。


 「──ずっと一人?」


 知らず知らず呟いていた。

 老婆のようなしゃがれ声が耳について、ぞっとする。

 声までもが老いはじめている。

 ちらりと垣間見る自分の容姿。ふと耳にはいる自分の声。階段で息が続かなくなった体力。うっかりばかりが増えた判断力。アレとコレとソレしかでてこない記憶力。

 日常のいたる場面で“ワタシ”は加齢を痛感する。

 その度、怖くなる。

 その怖さは寂しさにひどく似ていた。

 追い打ちをかけるように、一人? という自問が“ワタシ”を打ちのめす。

 キシキシと音をたてて寂しさが心を噛み千切る。

 そうして、結局、毎晩ねむれなくなるのだ。

 早く眠ってしまいたいのに眠気はなかなかやってこない。

 眠れない時間の分だけ、寂しさは刻々と濃度を増していく。


 気をまぎらわせたくて“ワタシ”はジュエリーケースの淵を指でそっとなぞった。

 ふたが天使のカメオになったロココ調のジュエリーケース。

 ずいぶん昔、彼にすっぽかされた自棄やけで衝動買いしたのを今でも覚えている。一緒に買ったクロアの靴はとっくに擦り切れて履けなくなった。

 眠れない夜が続くようになったのも、ちょうどその頃からだ。


 あれから十五年。

 “ワタシ”は今年で四十歳になる。


 「……四十」


 何かの冗談みたいに聞こえて、笑いが込み上げてくる。

 最初はくつくつと、次にケタケタと笑い、最後にはお腹を抱えて笑い転げた。

 涙が頬を伝う。

 笑い声のすき間から嗚咽おえつが漏れる。

 どうせ部屋には“ワタシ”一人しかいない。

 笑おうが、泣こうが、発狂しようが、どうだっていい。

 真っ暗な部屋に帰って寒々とした蛍光灯の下で、デパ地下の惣菜を一人で頬張るよりは、まだこうしていたほうがましだった。

 “ワタシ”は一人だ。

 十五年続いた彼とは終わった。


 ──十五年。


 途方もない歳月の長さが、胸にずしりと重い。

 もちろん十五年の間、彼との関係を何度も終わらせようとしたし、実際に一年以上、離れていた時期だってある。

 呼び出せばすぐに遊べる男友達だってたくさんいた。

 それでも結局、また彼のところに舞い戻ってしまったし、彼だってそうだった。


 ――お互いたのしんだじゃないか。


 別れ際、彼の台詞せりふは典型的なくらいサイテーだった。

 にも関わらず、彼は心から“ワタシ”との別れを悲しんでもいた。

 寂しくなるなぁ、とそっぽを向いて涙を隠す彼。

 その言葉に嘘はない。

 彼の悲しみが本心であればあるほど、“ワタシ”は決して相容れることのない永遠の溝を思い知った。

 セックスと疑似恋愛という刹那せつなを、彼はたのしんできたのだ。

 それは“ワタシ”だって同じはずだった。


 でも彼と“ワタシ”では、失うものがあまりにも違いすぎる。

 出世は順調、職場での人望も厚く、愛妻家で子煩悩こぼんのう

 “ワタシ”から十五年の歳月を奪っておきながら、彼はなにひとつ失ってはいない。


 “ワタシ”は一人きりだというのに。


 今更になって恋愛というものが、若さと才知を賭けた『誰かと居る未来』のための投資なのだと痛感する。

 その機会をまるまる食潰しておきながら、お互い愉しんだじゃないか、と見せる彼の無責任な涙には、怒りを通りこして呆れた。

 涙を見せるくらいに愛があったのなら、どうしてもっと早くに身を引いてくれなかったのだろう。


 結局、彼は自らの愉しみを優先しただけに過ぎない。

 空気に成り果てた“ワタシ”に、今更どうしろというのだ。

 今更──本当に今更すぎる。


 “ワタシ”はギリギリと奥歯を噛んだ。

 ふつふつと憎しみが込み上げてくる。

 どうやら今夜も眠れそうにない。

 毎夜毎夜、覆いかぶさってくる寂しさと、その後にやってくる憎悪が、“ワタシ”から眠りを奪っていく。

 寂しさと憎しみにジリジリと胸を焼かれながら長い夜を過ごし、白み始めた空を見上げるあの絶望を思うと、たまらなく怖くなる。


 分かってる。

 そんなこと分かってる。


 喰いしばった歯のすき間から言葉がもれた。

 そうだ“ワタシ”は分かっていた。

 そんなこと分かっていた。


 「──罠。これは罠!」


 弾かれたように“ワタシ”は叫んだ。

 ざっ、とジュエリーケースの中身をテーブルにまき散らす。

 そのまま無数の錠剤じょうざいを、口の中いっぱいに放り込んで、水もなしにバリバリと噛んだ。

 苦味と粉っぽさで何度もむせながら、意地のように錠剤を噛み砕いては呑み下していく。


 眠りたい。

 ただ眠りたい。


 バリバリ


 夢も見ずに眠りたい。


 バリバリ


 唯々。


 バリバリ


 ねむりた──

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