13 ワガハイ


 夢だと思えば、ずいぶん気持ちも楽になった。

 ありえない事態もすっと心に馴染んで、影が誰であるのかにも、ごく自然に目ぼしがついた。

 影がもう片方の手で何かを抱きかかえているのがわかる。

 黒猫だ。

 彼は影になっても、いつものように黒猫を抱いていた。


 「イルマ」


 わたしは影に呼びかける。


 「どうしてわたしの影の中にいるの?」


 影──イルマが答える。


 

 ――僕は貴女で、貴女は僕だ。いつだって僕は貴女の影です。



 なるほど、とわたしは悟った。

 ロジックを伴わない直感的な理解が、抽象画への理屈を超えた感銘かんめいのように、わたしの心にしっくりとはまり込む。

 “タンデムパートナー”とはそういうことなのだ。

 いったいなにをどう理解したのか、わたしはそれを言葉では説明できない。

 でも分かる。

 とても不思議で、とても愉快な感覚。

 そして──とても危険だ。


 ――危険です。


 わたしの察知に呼応するようにイルマが言った。

 これは間違いなく夢だった。

 だからわたしはまだ眠っていなくてはいけない。

 夢から覚めてしまうとわたしと影は分離して夢と現実の拮抗きっこうが崩れてしまう。

 それはとても危険なことだった。


 ――Yes.


 影は生徒を褒める教師のように肯くと、そっと屈みこんで黒猫を放す。

 黒猫はするりと影から滑り出てきて、わたしの前に現れた。

 黄色い目が暗がりの中で赤く底光りして見える。

 黒猫がアパートに住みついたのは何時からだったろうか。

 わたしには覚えがない。

 気づいた時にはイルマの腕の中にいた。

 そして、曇天の日の影のような気紛きまぐれさで、姿を現したかと思うとふいっと何処かへ消えてしまう。

 不思議といえば不思議で、典型的といえば典型的な、半野良の黒猫。

 名前はまだない。

 だからなのかイルマは黒猫を「ワガハイ」と呼んでいた。

 ワガハイはツヤツヤとした毛並をわたしの腕にすり寄せて丸くなる。

 背中を撫でるとゴロゴロと心地よさそうに喉を鳴らした。

 ワガハイに誘われるように、わたしの意識が急速に霞み始める。


 とても──眠い。


 わたしはソファに身を横たえて、うつらうつらと目を閉じる。


 ――おやすみなさい。


 影が囁いた。



   ◆◆◆



 ――マスター白髪増えたねぇ。


 “ワタシ”の指摘にマスターは、でしょう? とアンジェリーナ・ジョリーみたいに器用に動く眉を、片方だけ撥ね上げた。


 ――染めようかと思うんですよ。

 ――えー。だめだめ。絶対。


 “ワタシ”は首をふる。


 ――素敵なロマンスグレーがもったいない。染めてはだめ。絶対に。


 “ワタシ”が切々と訴えると、マスターははにかみ笑いを零した。

 BGMのギターの低音が店内に響く。


 ニール・ヤング。

 ジョニ・ミッチェル。

 ジョン・フォガティ…


 変わらない音色と変わらない空気。

 少し老けたけど相変わらずはにかみ笑いが素敵なマスター。

 いつものバーでカウンターの端に座り、“ワタシ”はマスターおすすめのカクテルを楽しんでいた。

 今日のカクテルは紅色をした甘酸っぱいチェリーブロッサム。

 ジンベースが多いカクテルだけど、これはブランデーベース。

 辛味のあるジンよりも、柔らかなブランデーのほうがいい。

 マスターは“ワタシ”以上に“ワタシ”の好みを知っていた。


 ――変わらないねぇ。店もマスターも。ほっとする。


 しみじみ言うと、マスターはまたはにかんで笑う。

 カラン、と店のドアが開いた。

 “ワタシ”は振り返らない。

 分かっているからだ。

 彼は来ない。

 いつものバーで、変わらない音色と変わらない空気に浸されて、変わらないマスターのはにかみ笑いが何度こぼされようとも、彼だけは来ない。


 終わったのだ。


 コツコツとヒールの音が背中ごしに聞える。

 バーに入って来たのは見慣れない女だった。

 女はカウンターの向こう端に腰かける。

 年の頃は二十代前半か。

 美人だ。

 きりりとしたメイク。

 隙のないファッション。

 全身から漂うエネルギー。

 若さと美しさへの絶大な信頼から溢れでる自信をまとって、女はぴんと張った猫の尻尾のように、背筋をのばして座っている。

 一人らしく連れ合いの姿はない。

 待ち合わせだろうか。

 まるでかつての“ワタシ”のようだ。

 “ワタシ”の目に彼女は初々しくしゃちほこばって見えた。

 それとも──

 “ワタシ”はちらりと指先を見やる。

 三週間前に塗ったネイルが、いやでも目にまった。

 仕事にかまけて放置されたネイルは、無残にもあちこち剥げて痛んでいた。

 無残なのは爪だけじゃない。

 服によったシワのあちこちから、歳相応のラインの崩れが垣間見える。

 靴先にはねた泥は、拭くのも億劫おっくうでそのままだ。


 彼女がしゃちほこばっているのか。

 それとも“ワタシ”がゆるんでいるのか。

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