12 夢路


   ◆◆◆


 二十時三十分。

 “ワタシ”は竹ノ内のオフィスを出た。


 生暖かいビル風が夜空に向かって拭き抜ける。

 きっちりと着こんだスーツの上下は、風にこゆるぎもしなかった。


 すごいなぁ。

 さすがだよ。


 総務のイケガヤの声がまだ耳に残っている。

 “ワタシ”はカツカツとヒールを響かせ表通りを歩いた。

 

 まいったなぁ。

 君のキャラ最高だね。

 ミソラちゃん。

 

 どんなに歩いてもイケガヤの声が後からついてくる。

 下心丸出しのお世辞をデスクの隣で延々と聞かされたのだから無理もないだろう。

 ミソラは今年の新入社員だ。

 容姿は十人並だけれど愛嬌あいきょうは人一倍あって、気が付けば部のマスコット的な存在になっていた。

 目ざといイケガヤが食らいつくのも当然だろう。

 新入社員が入るたび、イケガヤがキレイどころから順々にバンザイアタックをしかけるのは、その後の玉砕ぎょくさいとセットで毎年の恒例行事になっていた。


 「ホント男ってバカ」


 呟いて“ワタシ”は歩みを速める。

 すれ違い様にスーツ姿の男と肩がぶつかった。


 チッ。


 邪魔だと言わんばかりに男は舌打ちして行き過ぎる。

 謝りもしなかった。

 とっさに頭を下げた“ワタシ”が馬鹿みたいだ。

 “ワタシ”はむっつりと俯いて夜のオフィス街を歩いた。

 取り立てて入り用があったわけではないけれど、そのままバーに行くの手持無沙汰てもちぶさたで、“コンビニへ立ち寄った。

 店に入ると、さっそく喉飴を選んだ。

 若い頃はオバサンがいつもバッグに飴を忍ばせているのが不思議でならなかったけれど、今ならその訳が分かる気がした。

 最近、喉が乾燥するせいで飴が手放せない。

 喉が渇くのではなく、乾く。

 乾いた喉がぺったりとはりついて、よくむせるのだ。


 “ワタシ”はハーブミントの喉飴を手にとってレジに並んだ。

 店員は見るからに学生アルバイトだった。いつも“ワタシ”の胸ばかり見ていたあの店員は、いつの間にかいなくなって随分になる。

 学生アルバイトは、バーコードを読むのも、レジを打つのも、つり銭を渡すのも、全部が全部、面倒臭くてたまらないといった様子で動いた。

 レシートは渡しもしなければ、「いりますか?」とも訊かれなかった。

 “ワタシ”は何も言わずにきびすを返す。

 出入口で男性客と入れ違いになった。

 男は自分でドアを開けると、“ワタシ”の脇をすり抜け店内に入る。

 ガラスドアは“ワタシ”の鼻先でパタンと閉じた。

 なんとなく可笑しくて、“ワタシ”はフンと鼻で笑った。


 「ホント男ってバカ」


   ◆◆◆


 不意に目が覚めると、辺りは真っ暗だった。

 窓からもれる月明かりに、テーブルの天板が青白く浮かんで見える。

 身じろぎすると背中の下でソファのスプリングがキィキィとコウモリの鳴き声みたいな音をたててきしんだ。

 ソファで寝てしまったのだ。

 ずいぶん長く眠っていたような気がする。


 「…えーと」


 状況がつかめなくて、わたしは首を傾げる。

 竹ノ内のオフィスを出たところだったはずだ。

 鼻先で閉じたコンビニのガラスドアに貼られた、アルバイト募集の文字が脳裏にくっきりとやきついていた。

 あれ? ともう一度首を傾げた。

 わたしは竹ノ内のオフィスに勤めた経験もなければ、そもそもOLですらなかったし、あのコンビニへは行ったことも見たこともない。

 わたしは誰?

 独りごちってみて、その台詞の陳腐ちんぷさに、自分で噴き出しそうになる。


 わたしは……。

 思い出せない。


 頭の中にもやがかかっていて、その先にはどうしても進めない。

 ここがアパートのリビングで、ターコイズグリーンの長ソファで眠ってしまったのは分かる。

 ソファの反対側にはキッチンスペースがあり、キッチンスペースの隅には冷蔵庫があって、冷蔵庫の中にはミネラルウォーターのペットボトルが三本と呑みかけが一本残っているのも分かる。


 なのに自分が誰かは分からない。


 おかしな気分だった。

 上半身を起こして軽くソファから身の乗り出す。

 視界の端で黒い何かが、ごそり、と動いてわたしはぎょっとした。

 弾かれたように振り返ると、壁に映った自分の影が目にとまる。


 「……なんだ」


 ただの影か。

 ほっと息をついた瞬間、影が動いた。

 今度こそ、わたしの心臓は凍りつく。

 身じろぎひとつしていないのに、影はゆっくりと片手をあげて人差し指を口元にあてた。


 ――静かに。動かないでください。


 影が告げた。

 声でもなく音でもなく、頭の中に直接、声が響いてくるわけでもなく。

 それでもわたしは音のない声を文字のように感じ取るという、経験したことのない知覚プロセスを経て、影の意図を理解した。


 なんだ夢か。


 わたしは胸をなで下ろす。

 これは夢だ。

 夢の途中でこれは夢なのだと気付く経験はよくあった。

 きっとこれもそのたぐいなのだろう。

 そうでもなければ、この体験は、あまりにも突飛で、あまりにも荒唐無稽こうとうむけいすぎた。

 とてもまともな神経では受け入れそうにない。

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