11 限界
美人はプライドが高く扱いが難しいと言われる。
チカ視点で言えば
チカは雑な扱いに慣れていない。
『彼』の雑な態度は、チカを大いに打ちのめした。
チカにとって自尊心の
どうしていいのか分からないのだ。
このまま恋愛相談の流れにでもなれば、わたしからも何か言えたのかもしれないけれど、残念ながらチカはそれを望んでいなかった。
『ごっこ』とはいえ不倫関係なのだから、口外は
「会社辞めよっかなー」
代わりにチカの口からこぼれたのは転職相談だった。
「移動願い、ダメそうですか?」
「全然、ダメ」
チカは
建築デザイン科卒のチカはエディトリアルデザイナーではなく建築デザイナーを希望している。
会社でも建築デザイン関係の部に移動願いは出しているけれど、なしのつぶてなのだそうだ。
「このままじゃ建築士の資格も取れないじゃない」
建築士の受験資格には実務経験が必要だった。
就職して三年目。
実務を積めないまま時間だけを浪費することに、チカは焦り始めている。
それでも行動に踏み切れないのは、上司である『彼』の存在が大きいのだろう。
既にだいぶ出来上がっていたチカは兎も角よく喋った。
いつ終わるともしれない話を聞きながら、チカが持ち込んだ紙袋をぼんやり眺めていると、『CROA』のロゴに目がとまる。
“トレース”の補足情報で、イルマはCROA──クロアのオープン・トゥに花丸を付けていなかっただろうか。
いくらわたしでも、それがイルマ独特のヒントであろうことは気づいている。
「…これ」
反射的にクロアの紙袋を指さした。
「それね!」
チカがパッと表情を輝かせる。
「靴。一目惚れ! クロアのブティックで衝動買いしちゃって──」
チカは袋から箱を引っ張り出す。
箱と一緒にジュエリーケースが転がり落ちた。
ロココ調に似た珍しいデザインで、
これも衝動買いしたのだと言ってジュエリーケースを袋に戻すと、チカはクロアの靴を見せて、「カワイイでしょ」とわたしに詰め寄った。
同意の相槌を返しながら、わたしは内心で首を捻る。
靴の可愛さに疑念があったわけではない。
きっとなにかヒントがあるに違いないと身構えただけに、拍子抜けだったのだ。
靴にしてもジュエリーケースにしても、なんの変哲もなかった。
とてもチカの危機に繋がる重要な情報が隠れているようには見えない。
それともわたしが何かキーワードを読みこぼしてしまっているのだろうか。
わたしはちらりとイルマを見やる。
彼は窓辺に避難して部屋飼いの猫のように外ばかり見ていた。
きっとイルマはなにも教えてくれない。
なにせ彼は空気なのだから。
七月の講評会も終わり、残すは夏休みを待つばかりになった。
学生なら誰もが夏への期待に胸がふくらむ時期だろう。
けれどわたしの気分は最悪だった。
チカの“トレース”を開始して一週間が過ぎようとしている。
昼間は学校に顔を出して必要な課題をこなし、残りの時間の全てを寝る間も惜しんで“トレース”に費やした。
にも関わらず、情報らしい情報には辿りつけないまま今日に至る。
“トレース”のほとんどは、ここ数週間ばかりのチカの記憶。
旅行とファッションと『彼』のこと。
ずっと同じループがランダムに続く。
可能性の未来――未来の記憶ともいえるチカの死に直接つながる記憶をつきとめたかったけれど、わたしの“トレース”は過去の枠から一歩も踏み出せないでいた。
チカの命がかかっているというのに。
責任の重圧と
いっそ全部投げ出して逃げだしてしまいたくなる。
「予知なんて無理だよ」
わたしは “トレース”を中断した。
「予知なんて無理でしょうね」とイルマが適当な合いの手を入れる。
このやりとり。
いったい何度目だろう。
「予知なんて無い。全ては既知だっけ?」
耳ダコだよ、と毒づいて、わたしは席を立つ。
そのままふらふらと歩いて壁際の長ソファに転がると、手足を投げ出した。
ターコイズグリーンのビロードが目に鮮やかな猫足ソファは、先住者の置き土産だったけれど気に入っていた。
スプリングが背中の下で軋む。
引っくり返った視界の中、窓から青空が見える。
わたしはぼんやりと流れていく雲を眺めた。
けだるい日曜の午後。
ともかく眠かった。
完全な寝不足だ。
疲労と寝不足で思考がささくれだっているのが自分でも分かる。
どんなに焦っても、あるいは焦れば焦るほど、わたしの“トレース”は過去という
知りたいのは過去ではなく、これから起こるであろう未来なのに。
イルマは「予知などない」と言う。
「全ては
過去しか覚えていないのは人間の思い込みなのだそうだ。
わたしの“トレース”が過去の枠から逃れられないのも、イルマに言わせれば「思い込み」のせいらしい。
相変わらずイルマの解説はものの見事に理解不能だった。
なにより無茶ぶりにもほどがある。
疲れと苛立ちのあまりふて寝するしかないわたしに、イルマは諭すように言った。
「過去を振り返るように未来を思い起こすのです」
「無理だよ」
「耳を傾けてください。未来の余韻に──」
「無理!」
思わず声を荒らげてしまった。
そんなつもりはなかったのに。
ただの八つ当たりだ。
自分が情けなくなる。
わたしは右腕で顔を覆って目を閉じた。
ほてったまぶたに肌がひんやりと冷たい。
墜落するように意識が落ちていく。
限界だった。
「……ごめん。ちょっと寝かせて」
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