6 ごっこ


   ◆◆◆


 いつものバーで。


 書類に捺印しながら、彼はそっとささやいた。

 差し出した書類を持つ手。

 指輪がちらりと光る。

 書類を受け取って“ワタシ”はデスクに戻る。

 返事はしなかった。

 する気もなかった。

 最近、彼はよく指輪をはずし忘れる。

 外でははずす。

 それが二人の間で交わした約束だった。

 約束にも満たない不文律ふぶんりつなら、他にもたくさんあった。

 何事にも律儀りちぎな彼が、その律儀りちぎさを忘れはじめたのは、いつからだろう。

 指輪をはずし忘れる。

 待ち合わせには遅刻する。

 手配するホテルのランクと階層は低くなった。

 “ワタシ”へのあつかいが雑になったのだ。


 慣れ?

 親しみ?


 そう言えなくもないけど、許しがたい裏切りでもあった。

 そろそろ飽きてきたのかもしれない。

 この関係に。


 分かってる。

 そんなこと分かってる。


 今度こそはと自覚的に“ワタシ”はいつもの口癖を呟いた。

 “ワタシ”は、分かってる。

 これは遊びなのだ。

 『ごっこ』遊び。

 『不倫ごっこ』なのだ。

 約束ごとのいちいちがベタなのは、それがたわむれだから。

 たわむれを強調するように、おおよそ不倫と聞いて思いつくような、ベタな展開と約束事を、“ワタシ”は好んで主張した。

 そもそも二人のはじまりは『片思いごっこ』からだった。

 『片思い』する部下の“ワタシ”と、『片思い』される上司の彼。

 最高にスリリングな『ごっこ』だった。

 意味深な流し目。

 そっと触れ合う手。

 思わせぶりな言葉の数々。

 そのたびに彼は、どぎまぎしていた。

 アメリカのM州大を出て、NY市場で億の金を動かし、JBB社にヘッドハントされた彼。

 その彼が“ワタシ”の一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくに、まるでうぶな中学生みたいな反応をみせる姿は、たまらなくかわいかった。

 さして時間もかからず、『片思いごっこ』は『不倫ごっこ』に移行した。

 おしなべて言えば“ワタシ”はずっと『悪女ごっこ』に夢中だった。

 『悪女ごっこ』

 そう。

 本気じゃない。

 これはあくまでもたわむれなのだ。

 “ワタシ”はちゃんと、分かってる。

 分かったうえで、あえて選択した。


 だから大丈夫。


   ◆◆◆


 「少し休みましょう」


 急にイルマが席を立った。

 彼はそのままキッチンスペースに向かう。

 キッチンと言ってもリビングダイニングだから仕切りも何も無い。

 彼は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取りだすと、こちらに投げて寄こした。


 「──あっ。ちょっ」


 わたしは慌ててキャッチする。

 掴みそこなったペットボトルが、腕の中で二度三度とはねて、最後になんとか手の中に納まった。

 骨折で左腕を吊っているのに、この扱いはあんまりだ。

 わたしの口から「もう」と軽い非難の声が漏れる。

 “トレース”だっていいところだった。

 ようやく情報らしい情報。何かの糸口らしい場面に行き当たったというのに。

 一度中断した“トレース”は同じ場面から再開できるとは限らない。


 「水を」


 もう少しだけ、とペンを握ったわたしを、イルマが止めた。


 「水を飲んでください」


 どうして?


 尋ねようとしたけれど、声は出なかった。

 喉がカラカラに乾いていた。

 誇張こちょうでもなんでもなく、本当にカラカラなのだ。

 乾燥した喉の上下がぴったりと貼りついてふたでもされたようにふさがっていた。

 相変わらず頭痛もひどい。


 「“トレース”中は時間感覚を失います。水分補給に気を付けてください。脱水になります」


 イルマに言われて、わたしはようやく合点がてんがいった。

 確かにフクやスミを“トレース”した時も、同じような状態になった。

 あれは脱水症状だったのだ。

 なるほど、と納得して、わたしはペットボトルの蓋をあける。

 身体がびっくりしないよう、注意深くゆっくり水を口に含むと、すぅっと身体にしみていくのが分かった。


 「──もう夜?」


 一息ついて、わたしは周囲を見回した。

 外は真っ暗で、柱時計は九時を少し過ぎたところだった。

 “トレース”を開始してから六時間以上が経過している。

 わたしはノートをパラパラとめくり、六時間の成果を確かめた。

 成果──と言うにはあまりにも無意味な単語の羅列られつ

 ファッション。

 旅行。

 料理。

 お酒。

 恋。

 チカの記憶は、どれも今を生きている。

 死のかげりは何処にも見当たらなかった。


 「こんなんで間に合うのかな」


 はなはだ頼りないわたしのぼやきに、「大丈夫ですよ」とイルマが応える。

 本当に? と視線で問うと、彼は太鼓判たいこばんすような笑顔で肯いた。


 「時間ならたっぷりあります」

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