5 さかさ文字


延々えんえんと続く名詞の横にフリガナでもふるようにイルマが意味を付け加えていく。


 ザワークラウト(ドイツ語/漬物)

 レバークネーデル・ズッペ(ドイツ語/肉団子スープ)

 ブラートヴルスト(ドイツ語/ソーセージ)

 ヴァイツェン(ドイツ語/白ビール)

 ジェジェ(イタリア語/衣料品ブランド名)

 パジェ(フランス語/衣料品店・銀楽)

 アムール・ド・パトゥ(フランス語/衣料品店・原渋)


 カッコ書きの後ろには、〇△×といった記号から点数やパーセンテージまで記入されていて、それぞれが等記号や矢印によって複雑に絡み合っていた。

 イルマ曰く、チカの評価を分かりやすく図式化したものらしいけれど、かえって情報が混迷こんめいしていくだけのような気がしなくもない。


 「……それにしても」


 ノートを眺めてわたしは呟いた。


 「なんだろう……。この台無しな感じ」


 イメージの中に漂う洒落しゃれた雰囲気は、文字によって書き起こされ日常的な意味を付与されることによって、ものの見事に台無しにされた。

 せっかくのお洒落しゃれに水をさされたような気がして、わたしは鼻白はなじろむ。

 チカの思考はワルツのように軽快けいかいいさぎよく、心地良かった。


 好きなものは好き。

 嫌いなものは嫌い。


 彼女は経験によってつちかわれた常識と、自らの好悪の感情に絶大な信頼を寄せ、それを世界の主軸にえている。

 モラトリアム的な煩悶はんもんは存在せず、その価値観と美意識にはブレがない。

 そういった意味では成熟のひとつのあり方とも言えた。

 アイデンティティが完成されているのだ。

 自己イメージには常に具体的なヴィジョンがともない、地に足がついている。

 抽象的な飛躍ひやくもない。

 良くも悪くも彼女の世界は半径五メート以内にあった。

 ともすれば理屈屋たちから、浅慮せいりょとして嘲笑ちょうしょうされ兼ねないその思考形態はしかし、掘り下げに向けるエネルギーを、より広範囲な拡散に向けることで、膨大なイメージを網羅もうらしている。

 思索家たちが抽象的な概念の大行列に四苦八苦しながら、事物の本質に迫るのに対し、彼女たちははるかに軽いフットワークでそれらを飛び越え、イメージライブラリーでのカテゴライズによって、瞬く間に事物の相対的な価値を弾き出していく。

 思考でもなく道徳でもなく、ましてや規定やルールですらないその枠組みは、美意識としてチカの言動の多くを規定していた。


 「……美意識ってすごいね」


 自然と感嘆かんたんの声がもれた。

 そのいさぎよさに、その容赦のなさに、小気味よさを覚えると同時に、わたしは少し怖くなる。


 「同時代、同世代、同共同体、同ヒエラルキー内などといった限定的な条件下でのみ機能する価値観ですからね。瞬時に物事を仕分けできる反面、寛容かんようさを犠牲にしています」


 言いながらイルマはノートに記号を書き足した。

 クロア(フランス語/ブランド名)のオープン・トゥ(靴の種類)に、大きな花丸がつけられる。


 「“トレース”を続けてください」


 催促さいそくされてようやくわたしは自分の手が止まっていたのだと気付く。

 慌ててペンを握り直すと“トレース”のために意識を集中した。

 チカの雰囲気を自分にまとわせるようなイメージで、自分で自分をチャンネリングする。

 カメラのピントがあうように、イメージがぴったりわたしに重なると、右手が文字をつづってノートの上を滑り始めた。

 手癖に任せて絵を描いている感覚に近い。

 手が勝手に書いていくのだ。

 あっと言う間にノートは名詞の装飾そうしょくで埋め尽くされていった。


 「チカさん。楽しそう。とても──」


 死ぬなんて思えない。


 最後の言葉をわたしは呑みこんだ。

 声に出す勇気はなかった。


 「自殺ではなく事故に近いですからね」


 イルマが頷く。

 彼の赤ペンがわたしの“トレース”に追随ついずいする。

 テーブルの向かい側から書き込んでいるのに、文字の向きはきっちりとノートの向きに合っていた。

 鏡文字の速記にイルマは何の苦も感じてはいないらしい。

 そればかりか彼は既にことの真相を知ってもいる。

 ただし、知ってはいても教えてはくれないし、「手伝い」はしても「解決」はしてくれない。

 それが“彼ら”のマナーなのだそうだ。


 「イルマが教えてくれたら万事解決なんだけどな……」


 イルマにはイルマの理由と破れないルールがある。

 それは分かっていても、いっかな要領を得ない“トレース”に、わたしの口から弱音がもれる。

 イルマは申し訳なさそうに眉尻を下げた。


 「教えないのではなく教えられない。解決しないのではなく解決できないのです」


 しないのではなくできないのだと、イルマは重ねて言った。

 それはルールというよりも仕様に近い拘束力こうそくりょくを持って、イルマの行動を制限しているらしい。


 「本来なら“手伝い”という干渉かんしょうさえ、難しいんです」


 心底すまなさそうなイルマの様子に、逆にわたしの方が申し訳なくなる。

 スミのときは真っ先に遁走とんそうされてしまったのだから、こうして手伝ってもらえるだけでも有り難いのだ。


 「ごめん。感謝してる」


 ぽつんと謝って、わたしは“トレース”を続けた。

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