4 シチュエーション

  

   ◆◆◆


 わかってる。

 そんなことわかってる。


 「はい?」

 隣のデスクからタナカさんが問い返してくる。

 それではじめて自分が独り言を呟いていたのだと知った。


 「え?」


 逆に“ワタシ”は訊き返す。

 あたかも何も言ってないし聞こえてない、という表情で。

 「え? あれ?」と彼女は目をしばたかせ、自分の空耳だったのだろうかと首をひねって黙った。


 まただ。

 また独り言だ。


 最近多い。

 “ワタシ”は頬杖をついてPC画面を見る。

 ファイルを眺めながら、ぼんやりと時間が過ぎるのを待った。

 営業がすべて出払った後の企画デザイン部のフロアは閑散かんさんとしていた。

 デザインを扱う企業だけにオフィス内のデザイン性は高い。

 白とパステルカラーを基調とした配色は、仕事場というよりちょっとしたアミューズメント施設のようだ。大手広告代理店であるJBB社が、竹ノ内というオフィス街にかまえる本社ビルのフロア。

 ここが“ワタシ”の勤務先だった。


 業界屈指の広告代理店。

 安定した昇給と休暇を保証された理想の職場。

 夏には二週間のバケーション、さらにクリスマス休暇まである。

 友人たちは黄色い声を上げて“ワタシ”を羨ましがった。

 たしかに自分でも恵まれた環境だと思うし、そう思おうと努力もしている。

 だけど──


 胸の奥から沸き上がる暗鬱あんうつな気配に溜息がもれる。

  “ワタシ”は首を振って面倒な思考を振り払うと、ファイルを閉じた。

 デスクトップ画面の壁紙に貼り付けたケルン大聖堂が目に留まる。

 ゴシック・リヴァイヴァル建築の極みとも言えるケルン大聖堂の重厚な塔が、天をつくようにそびえる姿は画面ごしにも壮観そうかんだった。


 ケルン大聖堂のあるドイツを夏のバケーション先に選んだのは半年前。

 旅行を三週間後にひかえ、全ての手配は終わっている。

 気分がざわつくたび、“ワタシ”はこうして旅行先に想いをせた。

 心のカンフル剤のようなものだ。

 旅行先を思うと、自然に心も弾む。

 ドイツ旅行はこれで三度目だ。

 既に旅行での入念なヴィジョンは完成されている。

 “ワタシ”はそのヴィジョンを指でなぞるように丁寧に確認していく。


 見事なアーチとバイエルン窓が素晴らしいケルン大聖堂。

 ステンドグラスが美しいアーヘンの礼拝堂。

 たっぷりと大聖堂めぐりをしてその後は、フランクフルトに立ち寄って中世の街並みに囲まれたレーマー広場を散策するのもいいだろう。

 ふらりとレストランに立ち寄って昼食をとるのだ。

 食事は酸っぱいザワークラウトにボリュームたっぷりのレバークネーデル・ズッペ。ぴりっとしたブラートヴルストをヴァイツェンで楽しむ。

 街の空気を楽しみたいから座るならテラス席がいい。

 でもドイツは夏とはいえ雨がふると屋外は寒い。気温の予測が難しいのだ。


 ──どんな服を着よう?


  “ワタシ”はイメージの中で街並みに合わせた服をコーディネイトしていく。

 ケルンにはジェジェのガーリー系サマーニット。

 アーヘンはパステルシフォンのブラウス。パジェにありそうなの。

 フランクフルトはアムール・ド・パトゥのドレープたっぷりなドルマンカーディガンで色はネイビーがいいだろう。

 下はぐっと落ち着いたアイボリーのキュロット。

 靴はヌーディーピンクのパンプスにしようか。


 ぱりっと、あるいは、ふわっと、それらを着こなして、ドイツの街を歩く自分の姿を思い浮かべるのは楽しかった。


   ◆◆◆


 「なに言ってるのかさっぱりだよ。名詞が多すぎる」

 「トレースを続けて下さい。僕が情報を補足していきますから」


 なげくわたしにイルマがおうじた。

 彼はコントみたいな猛スピードで、ノートに赤ペンをはしらせていく。

 わたしがトレースした端から不足情報を書き足しているのだ。

 “混線”によって知覚した誰かの記憶を、文字として書き起こす作業を、わたしたちは“トレース”と呼んでいた。

 “トレース”元は、チカの記憶。

 依頼主はタマサカさんだ。


 チカが死ぬ。

 詳細を突き止めて阻止しろ。

 イルマも手伝え。

 以上だ。


 わたしに“混線”という情報ツールがあるように、タマサカさんにはタマサカさん特有の情報ツールがあるのだと聞いている。

 おそらくはそこから得た情報なのだろう、端的たんてきな物言いでそれだけを告げると──ほんとうにそれだけしか言わなかった──タマサカさんはきびすを返して帰っていった。


 情報の真偽を確認する暇はおろか、引き止める隙もなかった。

 もちろん断る余地も。


 おかげでわたしは大いに慌てた。

 ノートを開いてテーブルに陣取り、腰を据えて “トレース”に取り掛かったものの、名詞の洪水とシチュエーションの連続に、悪戦苦闘していた。

 わたしの“トレース”はまだまだ頼りない。

 必要な情報を必要な時に必要な部分だけ引き出せたらいいものを、いらない情報ばかりが掘り起こされて、肝心の真相にはなかなか辿りつけないのだ。

 出てくるのは、ここ最近のチカの記憶で、三週間後に迫ったバケーションを心待ちにする気持ちで溢れかえっている。

 自分でトレースしておきながら、意味がさっぱりわからなかった。


 チカの思考は名詞が多く記号化が激しい。

 ひとつひとつの名前を知識として知ったうえで、それらに付随する微細なニュアンスを把握していないと、名詞とシチュエーションの羅列られつにしか見えないのだ。

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