2 水と油



 頭が痛かった。


 左目の奥深くがズキズキとうずく。

 両手で頭を抱え込みたかったけれど左腕のギプスが邪魔で、仕方なしに顔だけでテーブルに突っ伏した。

 天板に押し当てた顔の左半面がひんやりと心地良い。

 心なしか頭痛も少し和らいだ。


 「……疲れた」


 でしょうねぇ、と適当な相槌あいづちをうちながら、イルマはケーキを食べていた。

 キシとチカが帰るなり、イルマは五日間の断食を命じられた後のパブロフの犬のような食欲を見せた。

 きっと彼はケーキをひとつ残らずたいらげ、わたしからケーキを片付ける手間と、食後のデザートを食べる喜びをはぶいてくれることだろう。


 「欲しかったのなら一緒に食べればよかったのに」


 「必然が無い限り、僕にはいかなる干渉も許されません」


 「宇宙人としての心得?」


 冗談のつもりで言ったはずが、イルマは真面目に頷いた。


 「第三者の存在は僕を空気にします」


 「空気ねぇ……」


 言いながら、わたしはもう一人の空気──キシについて考えた。


 あれから。

 キシは一言も話さなかった。

 内省的ないせいてきで感じやすいキシは、チカの嫌悪に敏感に反応したのだ。


 自分は人を不快にする。


 そう悟って以来、キシは人との関係を保つ唯一の手立てとして沈黙を選んだ。

 けれど、どれだけ口を閉ざそうと──否、口を閉ざすほどにキシの内側は、出口を失った言葉たちであふれかえっていく。


 何故、チカは嫌悪を示したのか。


 沈黙の内に、キシは幾つかの類推るいすいを重ねた。


 テツガクやシソウというものは流行らない。

 そもそも文化的に馴染みも薄い。

 そうした流行らないものをわざわざ口にする者の中には、哲学云々よりも自らの顕示欲と承認要求を満たす道具として、それらを用いる者も少なくない。

 社会に認められない己の心を言葉でよろい、軽蔑することでしか報復できない、無力で臆病な者たちにありがちなエゴを、そうしたプロセスを経る必要のない心の持ち主たちは、独特の嗅覚によってするどく嗅ぎ付け、看過かんかする。

 何を言うかではなく、誰が言うかが問題であり、それらを量るバランス感覚の有無が重要なのだ。

 おそらく、その感覚によって自分もまたチカに嫌悪されたのだろう。



 帰るまでの間に、キシはそう心の内で結論していた。

 いつもながら、わたしはキシの分析に舌を巻いてしまう。

 卑下しすぎな部分はあるものの、ほとんど正解だった。

 キシの状況把握は適格なのだ。

 ただし把握までにかかる時間差が、彼の内界と下界をへだてる、決定的な溝となっているのも確かだった。

 総じて空気が読めないと評されるキシの原因もまたそのタイムラグにあった。


 もちろん、わたしはそれをキシの口から聴いたわけではない。

 “混線”によって感じとったのだ。


 感覚。

 感情。

 記憶。

 可能性。


 色々なものに“混線”しているわたしは、キシとチカの今しがたの体験さえ、“混線”によって知覚していた。

 キシが分析したように、チカは嗅覚――理屈ではなく感覚としてキシの話を、そして残念ながらキシ自身を、嫌悪した。

 美意識として受け付けない。

 チカがよく使う表現を拝借はいしゃくするなら「生理的にムリ」なのだ。


 キシとチカ。


 二人はまるで水と油のように、相反した思考プロセスの持ち主だった。

 キシにとってコミュニケーションはボールの見えない球技だったけれど、チカはそのボールを手にとって軽々とジャグリングしてみせるような存在なのだ。


 チカの思考プロセスを言語化するのは難しい。

 その多くは言語外にある。

 彼女はイメージで考え、フィーリングで決める。

 季節と気分と時流にあわせ自在に着替えるジャケットのように、彼女は場の空気を読み、好みのものをまとう。

 彼女は自分の『好き』に絶大な信頼を寄せている。

 そして、キシの話はチカの好みに合わなかった。


 「何が?」


 と問われれば、


 「全部」


 とチカは即答するだろう。

 あるいは、


 「言い方がイヤだったの」


 と言葉の平手打ちがピシリととんでくるかもしれない。


 三人でテーブルを囲んでケーキを食べながら、ふたつの真逆ともいえる感性の狭間で、わたしは汲々きゅうきゅうになっていた。


 “混線”しているわたしは二人の感性のどちらにも共感してしまう。

 好悪の感情を振り分ける余裕はない。

 情報量があまりにも多すぎるのだ。

 負荷ふかえかねたわたしの脳は、悲鳴を上げていた。


 「頭痛い……」

 「そのうち慣れますよ」

 「本当?」

 「たぶん」

 「明日から講義出れる?」

 「どうでしょうねぇ」


 何度目かになる同じ会話を、わたしは儀式のように繰り返す。


 「大丈夫。すぐ治まりますよ」と確約かくやくして欲しかったけれど、イルマの返答は曖昧あいまいだった。

 イルマはくつろいだ様子で、ケーキのひとつひとつを堪能たんのうしていた。


 「突破しましたからね」


 しばらくは不安定でしょうねぇ、とイルマは言う。

 彼はいつも空模様の話でもするような口調だから、わたしも自然現象のようなニュアンスでそれを聞いてしまう。

 のんきで他人事めいた距離感が、“突破”という語感がもつ強さを、ほどよく緩和かんわしていた。


 「突破ねぇ……」


 わたしは窓に切り抜かれた小さな青空を見上げた。

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