1 メンドくさい話



 ニーチェが神は死んだと宣言した時代、社会的規範として機能するはずだった大きな物語は喪失そうしつした。サルトルは『自由の刑にしょされて』と表現しているね。サルトルと親交があった──喧嘩別れしたけどね──カミュが書いた『異邦人』は、まさに自由の刑に処された人間と旧来の宗教的な倫理感との軋轢あつれきを書いてるんだ。相対主義にどっぷりひたった現代は正しさの定義を持てない。だから書物にしても作者のエゴがべったりなアフォリズムは流行らないし──



 ボソボソと小さな声で、だけどとても丁寧なキシの説明は、まだまだ終わりそうになかったけれど、テーブルの向かい側で頬杖をついていたチカは、「あー。あたしそーゆーメンドくさいのムリなのよねー」という顔をしながら、


 「あー。あたしそーゆーメンドくさいのムリなのよねー」


 と言った。


 キシはまるで頬でも打たれたように、ぴたりと黙った。


 「……すいません」


 ボソリと謝罪するキシに、わたしは慌てて首を振る。


 「キシは悪くないよ。質問したのはわたしだし!」


 すごく分かりやすかったよ、とわたしは大袈裟おおげさに頷いてみせる。

 事実、『物語の喪失』について、キシに説明を頼んだのは、わたしだった。

 何かにつけて難解なんかいなロジックに触れる機会が多いわたしは、気になるキーワードがあると、こうしてときどきキシに解説をお願いした。


 哲学や文学に造詣ぞうけいのあるキシは、面倒臭がりもせず、問われるままに答えてくれる。正直、何を言っているのかさっぱりなところもなくはなかったけれど、画一的で教科書のようなイルマの解説よりも、ずっと取っ付きやすかった。


 「イルマ君にも訊いてあげたら?」


 チカはちらりと目線で窓辺をさした。

 心なしか熱のこもったその視線の先に、イルマがいた。


 いつものアパートの、いつもの屋根裏、いつもの窓辺で、いつもの黒猫を抱いてその毛並をゆっくりと撫でながら、イルマは静かに外を眺めている。

 まるで部屋飼いの猫みたいにイルマはいつも外ばかり見ていた。


 「イルマが喋ると余計こじれるから……」


 もごもごと口の中で言ってわたしはケーキをつついた。

 テーブルにはジュレやフルーツでデコレーションされた、ジュエリーみたいなカップケーキが、本物のジュエリーボックスに納められて、宝石のように燦然さんぜんと輝いている。


 骨折で入院していたわたしの退院祝いにと、チカが届けてくれたのだ。

 たまたま訪れていたキシも誘って、ちょっとしたティータイムになったのだけど、わたしはケーキの豪奢ごうしゃな存在感に圧倒されていた。

 雑誌にもたびたび取り上げられる有名店のケーキらしく、その美しさもさることながら値段のほうも気掛かりだった。


 「あのう……チカさん」

 「チカでしょ」


 間髪かんぱつ入れずに訂正されて、わたしは言いなおす。


 「チカ……。これ高いです……よね?」


 呼び捨てと丁寧語の混在に、わたしの台詞せりふはちぐはぐになる。

 それでもチカは、わたしたち後輩に「さん」付けを許さなかった。


 ――さん付けはヤメテ。オバサンみたい。


 チカの断言には迫力があった。

 大輪の花のような長身の美女──チカにピシャリと言われてあらがえる人は、そうそういないだろう。

 おかげでわたしは彼女の名前を口にするたび、不自然な会話の語尾をもごもごさせなくてはならなかった。


 「あたしが食べたかっただけだから気にしないで」


 尻込しりごみするわたしにチカはさらりと言った。

 チカは今年で二十五歳になる。

 わたしが住む屋根裏の真下の住人で、在学期間は重なっていないけれど、同じ美大のOBだった。


 タマサカさんとも面識があって、それが縁でわたしとも親しくなったのだ。

 大手広告代理店で雑誌などを手掛けるエディトリアルデザイナーを務める彼女は、けして暇というわけでもないだろうに、茶菓子をたずさえては、たびたびわたしの部屋を訪れた。


 なんでも目の保養ほようなのだそうだ。

 そう言ってはばからないチカの視線は、いつもイルマの姿を追っていたけれど、肝心かんじんのイルマは全く意に介した様子もなくマイペースだった。


 イルマは「その必要がないから」と、わたし以外の人間とは、ほとんど言葉を交わさない。

 「モデルみたい」という惜しみないチカの賛辞は、「カタログから選びましたしね」の一言で済まされ、「フランス語みたいなベルベットボイスね」という手放しの称賛は、「日本語とフランス語の周波数帯は近似してますからね」というトンチンカンな返答でかわされた。

 それが返って彼の印象をミステリアスな存在に仕立て上げてしまうらしい。

 チカは毛糸玉にじゃれつく子猫のような旺盛さで、イルマのつれない態度を楽しんでいるように見えた。


 「それにしても」


 紅茶を一口ふくんでチカは言った。


 「タマサカ君って、そんな理屈っぽい人だっけ?」


 チカが首を捻る。

 『物語の喪失』というロジックの出所はタマサカさんだった。

 なにかの説明の拍子に出てきた言葉で、その意味をさっぱり理解できなかったわたしは、キシに説明を乞うたのだ。


 「理屈というか屁理屈というか……。喋り出すと止まらないというか」


 「そう? あんまりそうゆうイメージないなー。自信家で現実主義で学者肌というより即物的な実業家タイプだと思ったけど」


 自信家で野心家。

 旅好きで海外暮らしも長い。

 建築史に詳しく装飾華美そうしょくかびなルネサンス以降の建造物よりも、重厚なゴシック建築を好み、旅先でもノートルダムやバシリカ聖堂などに立ち寄っては、その見識を広めている。


 チカの話すタマサカさんは、わたしが知るタマサカさんとは異なり、むしろわたしがチカに寄せる印象に近い。

 チカの美大での専攻は建築デザインだった。

 わたしがそれを不思議がると、そうなのよね、とチカは溜息をつく。


 「人によってずいぶん印象が違うの。タマサカ君」

 「自信家なのは確かなんですけどね」


 「そうそう」とチカが甲高い声で首肯する。

 その時、イルマが何かを呟いた。


 ――ダイモーン。


 そう聞こえた気がして、わたしはイルマを見やる。

 彼は相変わらず定位置から1mmも動いておらず、うっそうと茂った樹木の葉叢はむらを、蓬莱ほうらいの玉の枝ででもあるかのようにじっと眺めている。

 空耳かと思った矢先、キシが反応した。


 「内なる声──ソクラテスの?」


 やはり、と言うべきなのか、キシの問いにイルマからの返答はない。

 イルマの声に気付かなかったチカは、突然のキシの独り言に、きゅっと眉を寄せて、「あー。もうっ!」と呻いた。


 「テツガクとかシソウとか、そーゆーメンドくさいのやめて!」


 「……すいません」


 ピシャリと言われ、キシはまた頭を下げて黙った。

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