四、麗木司良の憂鬱と異変の続き


 夢だ、と司良には分かった。

 その笑顔が目の前にあるはずがなかった。

 だけど、夢だと口にして終わるのが嫌で、ただ、笑う。

 好きだという言葉ばかり重ね続けた。

 愛していると言ったことは無かった。

 ただ、無力な雛が寄り添うように、寒い冬に温めあうように、愛し合っていた。

 怠け者の所作と言われようが、確かに自分達はそれを求めていると何度も繰り返し確かめ合い、繋がり合っていたのだ。

 その板一枚下が地獄であっても、幸せだった。

「ねえ、空が死にそうなくらい青いよ」

 彼女はふわりと不吉な喩えをしてへらりと笑う人だった。

 既に自分の未来を決めて、全てを捨て去る前兆だったのかも知れないが、最早それを訊く術はない。

 その頃、自分は、彼女を見詰めているので精一杯で、彼女が消えてしまわないようにじっと傍に居ることしか知らなくて、彼女の心の襞に触れる一瞬が愛しくて、それでいて彼女の心の内の何も見えてはいなかった。

 愚かだったのだ。

「死にそうなくらい?」

「そう、あの端からぱきぱきって空が割れて、何か不吉なものが捻じ込まれてきそうな感じ。綺麗ね」

 彼女の声が好きだった。その内容よりも声を聞いていた。

 彼女は手で四角形を作り、カメラを空に向ける真似をする。

 風がロングのワンピースを柔らかく膨らませて、地上に降り立ったばかりの天女を想像させた。

 しかし天女となるには、頬の痣や腕、足の傷が痛々しすぎた。

「いつも思うんだけど、晴湖、どうしてカメラ買わないの?」

「だって、撮っちゃったら欠片しか残らないもの。風景の欠片、気持ちの欠片しか。ねえ知ってる? 記憶って、消えちゃう訳じゃないんだよ。どこかに仕舞い込まれてるだけ。だからもし私とシロウがどこかでこんな風に綺麗な空を見る時があったら、そう言えば今日も綺麗な空を見ていたねって思い出す可能性もあるんだよ。そっちの方が、ロマンティックじゃない?」

「晴湖ってさ、時々凄いロマンティストだよね。俺は、ちゃんと思い出せるかな?」

「思い出すの。思い出さないと……」

 彼女の桜色の爪が、自分の頬を抓む。

「ひたひひたひ!」

 思い切り爪が食い込んで、自分は涙目になっていた。

 自分の滑稽な様子を見て彼女は満足したのか手を離した。

「酷いなあ!」

「そんな酷い女がいいんでしょお?」

 う、と言葉に詰まった自分に彼女はまた一頻り笑って、くるりと背を向ける。

「じゃあ、またね」

「うん、また明日」

「……また明日」

 とんとんとん、と小さくなっていく背中。踏めもしない影。

 彼女が首を括ったのはその夜だった。



 酷く渇いた喉に、司良は咽る。

 時計を見ると、午前五時。

 いつもの起床時間まであと一時間もある。

 しかしもう眠る気にはなれなかった。

 夢も見ないように眠りたいと願っていたのに、久し振りに見た夢は最悪だった。

 睡眠時間とノンレム睡眠の波の関係がどうこう、というのを思い出したが、そんなもの、何の役にも立ちはしない。

「……気持ち悪」

 よろけ、壁にぶつかりながら台所に行き、水道の蛇口を捻る。

 コップを流れに差し出し、一杯、二杯。

 それでも渇きが癒えなくて、水道から直接水を飲む。

 顔が冷たくて目や鼻に水が入って苦しくなってきた頃に、漸く蛇口を閉めた。

「ちくしょ……はるこ……」

 最近は、見なくなっていたのに。

 帰ってきて、食事をして、泥のように眠れていたのに。

 今更。

 ずるずると、ステンレス台に背中を預けてしゃがみ込む。

 膝を抱えて、胸のうちをぐるぐる回るものを遣り過ごす。

 少しだけ落ち着いたところで、

「メシ……」

 口に出して、頭が冴えてきた。

 仕事に出掛ける準備をしなくてはいけない。

 その前に、と司良は飾り棚の一段目を引いた。

 中に入っているのは空色の封筒一つ。

 震える手で粘着力の弱まったシールを慎重に剥がして、便箋を取り出す。

 何度も何度も読んで、手垢の付いた便箋。

 きっちりと力を込めた字が並んでいる。

 それは、遺書だった。



『     司良へ


 今までありがとう。

 何度も愛してるって言いたかったけど、言えなくてごめんね。

 司良を愛して、楽しくて、もしかしたら世界はもっと綺麗になるかと思ってた。

 でも、どうしても、私には、だめだったの。

 誰も恨みたくないのにそうできそうにないから私は逝きます。


 一緒に暮らそうって言ってくれてありがとう。

 大好き。

 

 司良に会えてよかった。

 先にいってるから。あっちで待ってるから。

 司良は精一杯生きてから、来てね。


愛してる。さようなら。


           はるこ    』



 また目を通して、文面を撫でて、丁寧に折り畳んで仕舞う。

 そして昨日炊いたご飯と納豆と目玉焼きという、栄養バランスの悪い食事を摂る。

 なかなか箸が進まないが、無理矢理にでも詰めておかなくては仕事中、辛い。

 皿を水に浸けて仕事に行く仕度をし、アパートを出た。

 下紅戯屋に、バスを使っていくのは初めてだ。

 排気ガスの匂いに眩暈がする。

 修学院離宮道のアナウンスまで、司良は目を閉じていた。



 下紅戯屋に着いて裏口に周り中に入ろうとすると、ばちっと静電気のような痛みが走った。

 じんじんとする痛み。

 右手の指先が切れて、血が出ている。

 何で入れないんだろう、と司良が困惑していると、中から戸が開いた。

 仁式だった。

 仁式は怒っているような鋭い目をしていたが、外にいるのが司良だと分かって小さく息を吐き出した。

「何だ麗木か、どうした? 結界が反応……」

 そこまで言って、仁式の言葉が途切れた。

 仁式は今度は大きく、遠慮なく溜め息を吐くと、

「麗木、回れ右」

と言い放ち、指をくるりと動かした。

 司良は言われた通りにする。

「オン・マリシエイ・ソワカ」

 とん、と仁式の手が、司良の肩甲骨の間に触れた。

 じんわりと温かなものが伝わり、それは司良の全身に広がり、朝の夢見が悪かったせいで酷く沈んでいた司良の気持ちを穏やかにさせた。

 指先まで温かくなって、司良は肩から力を抜く。

「完了だ。こっち向いていいぞ」

 言われて振り向くと、仁式はおかしなモノを手にしていた。

 鼻、と思しき部分が長く、くるりと巻いた牙があり、ピンク色で、仁式の頭ほどの大きさしかない生き物。

「こいつを結界が探知したんだ。霊的且つ害あるモノはシャットアウトするようにしてるからな」

「何ですか、それ?」

「獏だ」

「獏? 悪夢を喰うって言う?」

「本来はそうなんだが、たまに性質の悪いのがいてな。わざと悪夢を見せて、それが育ったら喰おうと考えるのもいる。今日の夢見は悪かったんじゃないか?」

「……はい、最悪でした」

 司良の視線が泳いだが、仁式は突っ込もうとはしなかった。

 言いたくなるまで待つと言ったからには、急かすつもりはないのだろう。

 ただ淡々と、獏を見ながら喋る。

「お前、こいつを憑けられたんだ。昨日の自転車の時だろうな。気付かなかったなんて、鈍感なんだな、お前」

 味噌糞に貶された司良は、ちょっと首を竦めた。

「それで、その獏……はどうするんですか?」

「喰うか?」

「喰えるんですか?」

「醤油で味付けてよく煮込むと美味い」

「食べた経験ありっ?」

「冗談だ。呪詛を付けて返すだけ」

 さらりと流された司良は、がくりと肩を落とした。

「ビックリさせないで下さいよ……」

「だから、洒落だったんだが」

「仁式さんが言うと洒落に聞こえませんよ」

 邪心とやらを喰っている人が相手では。

 その仁式は印を結んで何やら呟いていたが、最後に獏を思い切り平手打ちした。

 するとまるで何もなかったかのように、獏の姿は霧散した。

「もう大丈夫だから仕事に掛かれ」

「はい、有り難う御座います」

「気にするな。っと、まずは指の手当てをしなけりゃな。荷物置く前に事務室に来い」

「はい」

 司良はちょっと躊躇いながら一歩踏み出す。

 今度は弾かれなかった。

 ほう、と詰めていた息を吐く。

 そして仁式の一歩ほど後ろを歩く。

 事務室に入ると、仁式は戸棚を漁り始めた。

 物事を段取り良く進めるきっちりしたタイプに見える仁式だが、見えない所ではかなり手を抜いている。

 その証拠に、救急箱を取り出すまでに壊れかけた眼鏡ケースやら使っていない灰皿やら修道者の持っているような鈴やら折り畳み傘やらも一緒に出す羽目になっている。

「ああ、あったあった」

 白い救急箱。

 消毒液と包帯を出し、仁式は手早いと乱暴の間くらいの手際で司良の指先からまだ溢れている血を止めていく。

「上手ですね」

「よく怪我したから。練習中とか。テーピングも結構、自信があるぞ」

「へえ。仁式さんも怪我なんてするんですね」

「だからお前、俺を何だと思ってるんだ。昔は痣に切り傷擦り傷なんて当たり前だったけど、金が無かったからよほど酷い怪我をしない限り病院も行かなかった。その代わりに応急処置は上手くなったんだよ」

 一見華奢に見えて、何をしていたのかは知らないが、体育会系だったという仁式である、これまで数え切れない怪我をしてきたことだろう。

 それを応急処置で治してきたとは。

「どうして金が……と、スミマセン」

「いや、訊かれて困ることじゃないから気にするな。親と仲が悪くて仕送りがなかったんだ。親は俺に家業を丸ごと継がせたがっていたんだが、俺は親父の代でここは終わりだと思ってて、帰ってくれば喧嘩三昧。一時は勘当するしないってところまで行ったんだぜ。お袋が取り成してくれなけりゃやばかった」

 救急箱を戸棚に突っ込み、一緒に出したガラクタとも雑貨とも覚束無い物を仕舞いながら仁式は話し続けた。

「で、まあ色々あって最終的には俺はこっちに戻って来たわけだが、その頃には親父はおろか、お袋も死んでて、俺は親不孝者のままになっちまった」

 司良は実家の両親を思い出す。

 こちらに残って仕事を探すと言った時は大層心配を掛けたが、最近連絡していない。

「おい、麗木、仕事に掛かれ。今日は水仕事はするな。ああ、それから、急で悪いが夜も頼む」

「あ、はい」

 慌ててタイムカードを挿し、荷物を置きに走る。

 そして羽織を纏って仕事を始めた。

 その日の嫌がらせは電話が二本。

 昼前に一本と夕方に一本。

 昼の電話は司良が取る直前で天野に取られ、夕方の電話は仁式が奪い、何か司良には理解できない言葉で言い返して切った。

 二度目の電話の後、仁式は

「お前は暫く電話取るな」

と言い、何か落ち度があったかと、司良を慌させた。

「どうしてですか? 俺、電話応対そんなに下手なんですか? それなら頑張って直しますから…」

「違う違う、毎回電波越しに呪詛が来てンだよ。危ないんだ。だからお前は取るな、俺か他の奴に任せておけ」

 呪詛、と言われてしまえば、あくまでも一般人である司良にはどうにもできない。呪われて死ぬのは御免である。

 だから

「分かりました」

と大人しく引き下がった。

「さて、今日は下から予約が入ってる。お前に任せる」

「下のお客の担当って、干野さんじゃないんですか?」

 司良は首を傾げた。

 普段、人間の客を部屋に通すのは仁式か干野だ。それなのに仁式が司良に任せると言ったということは、干野はいないということになる。

「今日は奴は休みだ」

「休み? 風邪か何かですか?」

「人間の姿を保てないでいるから休ませた」

「病気とかで?」

「いや……お前にも関係あることだな、話すから一緒に来い」

 二人は事務室に入る。

 仁式は引き出しからチラシを一枚取り出し、裏返して司良に見せた。

「触るなよ、朝みたいなことになる」

 言われた司良は、伸ばし掛けていた指を慌てて引っ込める。

 白いチラシの裏面には、新聞や雑誌と思しき物から文字を切り張りして作ったらしい文章が一行、あった。


 『ヨコシマグイを止めロ、イタンめ       しに神』


「先週辺りから、似たようなのが届いていた」

「これって……脅迫状?」

「ああ、俺が処理するようにしてたし、他の奴等には触らないように言ってあったんだけど、干野は昨日の晩にうっかりこれに最初に触れて、妖力を殆ど奪われた。新聞の間に挟まってて気付かなかったらしい。今は元の姿に戻って、伏見稲荷に籠もって妖力を溜めている。一週間もすれば妖力は回復して戻って来られると思うが、その間は働けない」

「じゅそ、っていう奴ですか?」

「ああ、そうだ。俺は呪詛に耐性があるから良いが、とにかく攻撃的な一発を籠めてきやがったから、俺しか扱えない」

 干野の姿を思い浮かべて、悪寒が走った。

 堂で丸くなっている姿は狐ではなく干野の姿でしかイメージできなかったが、そこは息苦しそうな気がした。

「麗木、そろそろお前にも対抗手段を取ってもらう。暫くすれば止むと思っていたが、相手は本気でうちを潰しに掛かっているみたいだからな。うちの従業員が傷付くのは見たくない」

 仁式は戸棚の下の引き出しを漁り始める。

「とりあえずは……数珠で、良いか。いきなり攻撃用を持たせても扱えないだろうしな」

 と一人ごちると、長い数珠を出してきた。

「麗木、お前、これ持ち歩け」

「数珠……」

「不満そうだな?」

「いえ、そんなこと」

「顔に書いてあるぞ。ふまん、って」

 慌てて司良は顔を擦った。

「心配するな、ソレな、うちで実際に使っていた道具だから、守りの効果は抜群だ。それから、真言も一つ教えておく。オン・アロリキヤ・ソワカ。言ってみろ」

「おん、あろえきら・そわか?」

「何でアロエなんだよ。オン・アロリキヤ・ソワカだ」

「おん・あろりきや・そわか」

 仁式はたどたどしい言い方に首を捻りながらも、

「まあ、それでいい。何かあったらそう言え。その数珠はそれだけで結界を巡らせているようなものだから、どこに行くにも持っていけよ」

と釘を刺しておいた。

 と、がらがらと引き戸が開く音がする。

「ゴメン下さい……」

 そして小さな声が聞こえた。

 仁式は音も無く慌てた様子も無くすっと事務室を出る。

 お客様だ、と司良も後を追う。

 玄関に暗く疲れた表情の、まだ若い男が立っていた。司良と同じか少し上くらいだろうか。笑えば溌溂とした二枚目になるだろうに、今は、道端で見掛けたら大丈夫かと声を掛けずにはいられないような憔悴ぶりである。

 仁式はすっと膝立ちになり、

「いらっしゃいませ」

と柔らかな笑みを浮かべた。

「予約した佐藤ですが……」

「はい、お待ちしておりました。『鴉の間』にどうぞ」

 ということは邪喰いをするのだろう。

 仁式は司良に荷物を運び終えたら茶葉の補充と洗濯物干しを言い付け、佐藤を鴉の間に案内する。

 司良は厨房で焚田から茶葉を貰い、部屋に備え付けの茶筒の中身を確認して詰めていく。

 それが終わると洗濯されたタオルや手拭いを、従業員用の棟の裏に干す。

 そして何か仕事は無いかと探して窓拭きをして、夕飯を配膳する時間となった。

「シロ坊、これ、鴉の間に」

 焚田に言われて司良は鴉の間に夕飯の膳を持っていく。

 夏らしく鱧料理が中心で、鱧の天婦羅や落としが並んでいる。

「失礼します」

 鴉の間に入ると、佐藤が机に肘を突いてぼんやりとしていた。

「お食事で御座います」

「あ……はい、どうも」

 司良は机の上に皿を上げていきながら佐藤に話し掛けるが、佐藤はああだのふうんだのと上の空の返事をし、時折暗い目を向けるだけだった。

 司良は、何故普段は下からの客を仁式と干野だけで応対しているのか、その理由がよく分かった。

 引き摺られるのだ。佐藤と接していると、離れて見ていた時には分からなかったが、どんよりとした気配に纏わり付かれているような気になる。

 気を強く持たなくては、と司良は深呼吸した。

 自分も負の念を抱えている身であることを自覚してからは、普段はそのことについて考えないように気を付けているのだが、客に引き摺られたら元も子もない。 

「それではごゆっくり」

 すうっと閉じる襖にも、何の反応も返ってこなかった。

 ちょっぴり切ないまま、司良は通常業務に戻る。

 風呂の用意をし終わると、夕飯の時間になった。

 休憩室に入るともう夕飯が並んでいて、今日の夕飯は鯖寿司、小茄子の浅漬け、大根の田楽、卵ふわふわと呼ばれる、濃い目の出汁を取った吸い物に少し砂糖を加えた溶き卵を落とした物、であった。

 鍋島、小林と司良は先に夕飯に手を合わせた。

「今日は鱧の匂いだと思ったんだけど、違ったんだわな」

「それはお客様と、ナオサンのだってさ」

「お客様は分かりますけど、仁式さんも?」

「邪喰いは体力勝負だからね、精を付けろっていう焚田さんの気遣いだろう」

 鍋島は鯖寿司に手を出す。

 先に卵ふわふわを突いていた小林は、嬉しそうに笑った。

「懐かしい江戸の味なんだわな」

「江戸ってことは、東京にいらしたんですか?」

「そう、ワシは江戸生まれの江戸育ちなんだわな。徳川さんが公方さんだった頃には人間に憑いたりして、結構、やんちゃもしたんだわな。ただ、関東大震災の後の始末にうんざりして、こっちに移ったんだわな」

「へえ……鍋島さんも?」

「いや、俺は九州の出だよ。いわゆる江戸時代にさるお大名の家で暴れたら退治されかけて、命からがら逃げてきたところを、ナオサンの曽祖父の更に祖父さんに拾われたんだ」

 見た目は司良とそう変わらないが、二人もやはり妖怪。

 司良の見たことの無い時代の話を、まるで昨日のことのように語っている。

 と、がらりと障子が開いて、天野と八速が入ってきた。

「司良君、ご飯食べたら帰っていいってぇ」

 天野が間延びした口調で言う。

「え、干野さんの代わりじゃないんですか?」

「バスが無くなっちゃうじゃないの。家、遠いんだから帰れるうちに帰りなさいね」

「でも……」

「ボディガードに、ナオサンが式神付けてくれるって言ってたから、大丈夫だよぉ」

「しきがみ?」

「下級の守り神みたいなもんなんだわな」

「このお札持って帰れってぇ」

 八速が帯から細長い紙を取り出す。

 司良はそれを受け取りながらも、恐る恐る口を開いた。

「俺、泊まるつもりでいたんですけど……。蒲団、干野さんの分が余ってますよね?」

「それならこっちは助かるけどさ、今日、『邪喰い』があるのよ?干野さんいないから手伝わなくちゃいけなくなるの」

「だから帰れってナオサン言ってるんだよぉ。司良君、あの姿怖いんでしょ」

「いや、でも手伝ってくれるなら良いんじゃないか?」

「司良が自分でナオサンに言いに行けばいい話だわな」

 八速は少し考え込んだが、

「……それもそうね」

と呟いた。

「司良君、やってくれるならナオサンに話、通しておいて」

「分かりました」

 司良は食べるペースをアップする。

 そして他の従業員達よりも一足先に食べ終えると、事務室に向かった。

 とんとん、と軽くノックして中に入ると、仁式は一人用の土鍋で鱧鍋の最中だった。

「どうした、麗木?」

「えぇと、ご飯食べたら帰っていいって言われたんですけど」

「ああ」

「泊まっていって良いですか?」

 言うと、仁式の眉間に皺が寄った。

「式神をお前のボディガードに付けるから、帰りのことは心配しなくて良いんだぞ?」

「いえ、そうじゃなくて、それもあるかも知れないですけど……俺はただ、お手伝いしたいだけです」

「俺はまた、あの姿になる。それと一つ屋根の下だぞ?」

「み、見なければ大丈夫です!」

 本音を言えば、帰りたくなかった。

 自分だってバイトだが下紅戯屋の従業員で、職場が大変な時に一人だけのうのうとしているつもりは無かった。

 それくらいの愛着を、司良はこの仕事場に持っていた。

 言い募る司良に、仁式が折れる。

「何をそんなに一生懸命なのかは知らんが、手伝ってくれるなら助かるよ」

 司良は頭を下げて、事務室を後にした。

 座敷に戻ると、全員が司良の帰りを待ち侘びていた。

「どうだったんだい?」

「オーケィが出ました。泊まらせてもらいます」

「妖怪と雑魚寝だけど、勘弁してね」

「はい」

 夕飯を終えて、従業員達は散り散りになる。

 遅くに降りてくる、夜にしか動けない神々を迎えたり、客の膳を下げたり、苦情を受け付けたりと、昼よりも賑やかである。

 消灯は十時、寝ずの番をする者が常時一人事務室の隣りの空き部屋に詰めて、一人が仁式の「邪喰い」の手伝いをし、残りの者は「邪喰い」が終わるまで待機という決まりになっていた。

 十時を目前にして、また電話が掛かってくる。

 溜め息を吐いた仁式は、事務室から出て、電話を取り上げた。

 また、仁式にとってはさほど強力ではない呪詛が流れてくる。

 それをすぐに切ると、その足で「鴉の間」に向かった。

 ほとほとと襖を叩き、中からはいと聞こえた後で襖を開ける。

 佐藤は机に肘を付いてぼんやりしていた。

 明らかに顔色が悪い。土気色。死んだ人間のようだ。

「お辛そうですね」

「……ええ」

「楽になりたくはありませんか?」

「どうやって、ですか」

 仁式の目元が柔らかく弧を描いた。

「貴方の苦しみを、俺が引き受けます」

 仁式は蝋燭を一本灯し、他の明かりを全て落とした。

 蝋燭の火が揺れる「鴉の間」で、仁式は佐藤と向かい合う。

 喧騒とは無縁の下紅戯屋の中でも、更に静かになる。

 風の音や蝋燭の芯が焼ける音まで、はっきり聞こえるようだ。

 仁式は佐藤の目の前に右手を翳した。

 すると佐藤の身体から力が抜け、くたりとその場に崩れる。

 佐藤の身体を優しく仰向けにすると、仁式は体重を掛けないように跨いだ。

 胸の中心に手を置き、深く息を吸う。

「導けや心の中の闇き場所我と汝と結ぶ縁で」

 言い聞かせるようにゆっくりとゆったりと唱えられる、仁式だけの言霊。

 黒い着物は羽根を撒き散らし始め。

 奴婆珠の黒き羽根は、ふわりと佐藤を包み込んだ。

 佐藤の身体が小刻みに震え始める。

「貴方の魂の一番闇い処を、切り離します。何も心配なさらず、俺に身を任せて……」

 意識がなく聞こえていないだろう相手に、優しく話しかける。

 果たしてそれが届いたのか、佐藤から強張りが解けた。

「天土の理に従いて光は明るき処へ還れ、闇は冥き処へ還れ、我は冥きを喰う者ぞ、我は闇を孕む者ぞ、我は光の眷属ぞ、還り給え、現れ給え、還り給え、現れ給え……」

 撫でるように抑揚を付けて言霊を発していると、佐藤の口からぬらぬらと光沢を放つ黒い塊が抜け出てきた。

 それ自体が意思を持っているかのように、塊は佐藤の中を出たり入ったりしていたが、やがてそれは佐藤の口から抜けた。

 仁式は口を開ける。

 すると黒い塊は仁式の口に入り込んできた。

 遠慮も無く口の中で暴れ回り、喉を滑り落ちていく。

 この瞬間は、いつも慣れない。

 邪心は決して美味い物ではない、それどころかいつでも苦く、血腥い。

 相手の辛い記憶の断片が流れ込んできて、当人の辛さの度合いにも依るが、精神が壊れそうになることもある。

 それは、出来事自体の重さとは必ずしも比例ない。

 どれほど邪心の持ち主が、原因となる出来事について思い詰めたのか、ただその一点で邪心の大きさが決められる。

 そして仁式にとっては、口に入れるまでは「邪喰い」としての能力だが、飲み込むに至っては邪心と己の精神力との戦いになる。

 仁式は脂汗を掻きながら、その邪心を全て飲み込んだ。

 嘔吐感も耐え切って、ふうっと安堵の息を吐いた、その時。

「ぐ、が……」

 びくびく、と二度、三度痙攣して、仁式は崩れ落ちるように佐藤の横に倒れ込んだ。

 しゅるりと羽根は着物に戻る。

 熱いものが込み上げてくる感覚があって仁式は咄嗟に口元に手をやったが、ごぼっと音がして手の間から血が溢れてきた。

 抑え切れなかった血は畳をじわりと汚していく。

 喉に絡む血の苦さに仁式はもう一度噎せ、げほっと咳をする。

 口に溜まった血がびしゃりと畳に落ち、仁式の顔や髪を汚す。

 そしてそれに気付くことも無いまま、仁式の意識は落ちた。



 仁式が「邪喰い」の最中に意識を失った頃、鴉の間の前に控えていた鍋島は、中が余りにも静かなのを訝しんでいた。

 そろそろ終わって、出てくる頃なのに。

 仁式に何かあったのだろうかと思い、襖を開けようとするが、その襖に手を掛けた途端に中から冷たい風が吹いてきた。

 咄嗟に目を閉じたのは一瞬で、目を開けると、己の、人間と同じだったはずの手は、猫の手になっていた。妖怪の姿に戻っているのだ。

 鍋島は焦った。

「ナオサン!」

 襖を開けると、異臭がした。

 すうすうと安らかな寝息を立てている男と、血溜まりに頭を突っ込んでいる男が灯りに照らされる。

「ナオサン! ナオサンッ!」

 鍋島が必死に声を掛けながら揺さ振る。

 仁式は薄らと目を開けた。

「ああ、鍋島……」

 仁式が口を開くと、つんと鉄の臭いが濃くなった。

 血を吐いたのだ、と鍋島は理解した。

「ナオサン、大丈夫か!」

「ああ……邪心に、呪詛が仕込まれてた、……事務室の棚の上から……黒い、匣を取ってきてくれないか……それから、」

 げほ、と再び血を吐いて、仁式は懐から束ねられた札を取り出した。

「麗木をこちらに寄越してくれ、この札を……うちの柱に貼るように……今ので結界が緩んだはずだから……、それから、手の空いてる、奴で、佐藤様を違う部屋に運べ……」

「はい!」

 鍋島は急いで司良を探す。

 司良は鴉の間に向かって走ってきていた。

 が、鍋島の姿を見て身体を仰け反らせ、足を滑らせて転んだ。

 腰を抜かしたようで、後ろに下がろうとしているが全く功を奏していない。

「化け猫!」

 とうとう叫んだ司良に、鍋島は不機嫌を露わに

「化け猫じゃなくて猫又だ」

と答えた。

 声で分かったらしい司良は、あっと小さく叫ぶ。

「……もしかして鍋島さん?」

「そうだよ」

「あの、仁式さんに何かあったんですか?」

「え?」

「だって、何か仁式さんの気配が……変な風が……上手く言えないんですけど、仁式さん、大丈夫なんですか?」

 ああ、と鍋島は漸く納得した。

 仁式は司良とは波長が合うと言った、その理由を。

 仁式の霊力の暴走など、普通の人間なら気付かない。

 しかし司良は気付いた。

 それは自分の体調の変化を感じられるように仁式の変調を感じ取れるからだと、司良自身は理解してはいないが。

「ナオサンは『鴉の間』にいる、今は凄いことになってるからびっくりすると思うけど、ナオサンには触れないで、札があるから、それを宿中に貼ってくれ」

 言い付けて、鍋島は他の従業員達を探した。

 案の定、従業員達は本性を晒していた。

 豆太は狸明神、天野は天降女、八速は絡新婦に。

 皆、仁式の霊力を無防備に浴びてしまい、人型にその身の霊力を押し込んでおけなくなっていたのだ。

「おい、お前達手を貸してくれ」

「ねえ、何があったの?」

「ナオサンが呪詛でやられた」

 さっと従業員達に緊張が走る。

「それで、ナオサンは……?」

「大丈夫だと思う。医者に診せたいけど、それよりもお客様を違う部屋に移さなくちゃならない。俺は匣を持って行くから、お前達、先に行っててくれよ」

 それを聞いた従業員達はふっと力を抜き、それから急いで「鴉の間」に向かった。

 反対方向から司良が札を貼りながら近付いてくる。

 今の従業員達が妖怪の一群にしか見えない司良は、彼等に気付いて一瞬身体を強張らせたが、

「司良、ナオサンは?」

と先頭を歩く狸……小林の声に、安堵した。

「まだ呪詛が満ちてるからあまり寄るなって……」

「分かった、ありがと」

「札、頼んだんだわな」

「気を付けてねぇ」

 司良は小さく頷いた。

 鴉の間に入ると、血溜まりの中の仁式と、眠っている佐藤が目に飛び込んできた。

 黒い着物は闇に溶けて、仁式の顔、腕の一部分だけが浮き上がっているようだった。

 足を止めた彼等を、仁式はうっすらと目を開けて睨む。

「おい、お前達、ぼさっと、人のこと眺め、てないで……佐藤様を移せ……」

 そう言う言葉の弱弱しさが心配になったが、それでも支配人の命令だと三匹の妖怪は先に佐藤を動かした。

 その後から鍋島が入ってくる。

 鍋島が黒い匣を置くと、仁式はその中から非常に長い注連縄と、それを架け渡す台を六つ取り出した。

 そして自分の周りに台を置き、それに注連縄を乗せて架け渡していく。

 間もなく仁式は注連縄に囲まれた。

「ナオサン、具合はどうだ?」

「ああ、大丈夫、少し時間は掛かるが……、呪詛は体内を回ってないから、死ぬことは無い。暫くこの部屋は使えないか……畳が、全部貼り替えだな、くそ」

 先程より幾分かしっかりした声で、仁式は会話に応じる。

「皆、元の姿に戻っちまっただろ。悪いこと、したな……」

「司良もいるし、佐藤様の接客は司良に任せれば大丈夫だよ」

「人間雇っておいて良かったろ」

「そうだね」

 はあ、と仁式の口から重い吐息が漏れる。

 あまり喋らせない方が良いと判断して、鍋島は腰を上げた。

「何か飲む物持って来るよ」

「ああ、冷蔵庫に……ペットボトルの紅茶があるから、頼む」

 鍋島が座敷を出ると、佐藤を運び終えた従業員達と札を貼り終えた司良が一緒に遣って来るのに出くわした。

「舞太郎、ナオサンの具合は?」

 八速が心配を顔中に露わにして訊ねる。

「大丈夫だと思うけど、やっぱり医者に診せておきたい」

「いつものお医者でいいなら、わしが行くんだわな」

ぴっと豆太が立候補した。

「外、有象無象集まってきてるけど大丈夫か?」

「何言ってるんだわな。わしも明神の端くれ。明神が、百鬼夜行如きに遅れは取らないんだわな」

 行ってくる、と言い残して豆太の姿が消えた。

 そして鍋島は厨房に向かう。

 八速、天野と共に残された司良は寒気を感じ、二の腕を擦る。

「司良君、どうかした?」

「はい……外から冷たいものが来てる感じがして……」

「ナオサンの霊力を感じて、百鬼夜行が集まって来てるからね。司良が結界強化してくれたお陰で入って来られないから、すぐに帰ると思うけど。お茶淹れるから、休憩室に行きましょ」

 大勢いたところで、何の役にも立てない。

 仁式を護るために天野を残し、八速と司良は座敷に入った。

 緑茶を淹れて、一匹と一人は溜め息を吐く。

「仁式さんに、こういうことはよくあるんですか?」

「無い、とは言えないわね。ナオサンの祓いの方法は、とても特殊だから。この世に二人といない『邪喰い』よ。同業者には、あまり好かれてない。年に二、三回は呪詛が来るの。もっとも、こんな手の込んだ呪詛は、久し振りだけど」

 八速は無理に笑おうとして、却って泣き出しそうだった。

「何度呪われても懲りないんだから、本当に、馬鹿」

 吐き捨てる言葉に込められた、心の底からの心配。

 じわっと八速の目が潤み、彼女は慌てて顔を伏せる。

 司良は何も言えず、ただ、湯飲みの中に映る自分の顔を見ているしかなかった。



 豆太は、下紅戯屋の主治医、黄田卍と共に離宮道を早足で歩いていた。

 その医者は医者と言っても正規の医者ではない。だからと言って、いわゆる闇医者という奴かと言われれば、そうではない。

 この世の規格外の存在、つまり妖怪を専門とする医者である上に自身も異形の存在だったから、人間の通う医大に通っても仕方がないのである。

 百鬼夜行を蹴り飛ばしながら豆太と卍は裏口から中に入ると、真っ直ぐに鴉の間に向かった。

 襖を開け、仁式が結界の中にいるのを確認して胸を撫で下ろすと、卍は黒い診察鞄を下ろし、注連縄を緩めて人が二人入っても余裕ができるように架け直す。

 そして作務衣の合わせ目を直して黒い鞄から白衣を取り出して袖を通し、眼鏡を上げて気合を入れていると、仁式が閉じていた目を開けた。

「卍の、か」

「うん、あっし」

「また、世話掛ける……」

「いいよ、直ちゃんのにはもう慣れた」

 卍は、鞄を掻き回して丸薬を取り出した。

「まず、呪詛の残滓を吐いちゃお。これ飲んで」

 仁式は言われるがままに丸薬を口に含み、飲み掛けの紅茶と一緒に飲んだ。

「はい、これ口に当てて、吐いて」

 出された分厚いガーゼに、込み上げてきた血を吐き出した。

 卍はそれを始末すると、仁式の首に手を当てて脈を測り、口を開けさせてペンライトで中を照らす。

「最初に呪詛ごと全部吐いちゃったのが良かったね。あっしがすることはあまり無いよ。気分が悪いとか辛いとか、無い?」

「少し、胸焼けがしてる。あとくらくらする」

「それは大丈夫、貧血のせいだよ。すぐに収まるから」

 卍はそう言いながら、ペンライトを片付けた。

「呪詛は吐いたから、……もう、そんなに、心配、要らないのに、あいつら……気ィ回しすぎだ……」

「いいことじゃないの、従業員に好かれてるって、大事だよ。それに、直ちゃんだって、身体の中は見えないでしょ? 何かあってからじゃ遅いんだから、皆の行動は正解」

 ああ、と吐息と共に仁式は頷く。

「一応飲み薬も飲んでおこっか。霊力を抑える薬ね」

「手回しが良いな……」

「そりゃあ、うちにいたって感じられたからね。直ちゃんの霊力が暴走してるのが」

「……どこまで広がったんだ、俺の」

 仁式はゆっくりと身体を起こすと、飲み薬を受け取った。

 薄い緑色の液体が湯呑に満ちており、甘ったるそうな匂いがしたが、それを一気に飲み干す。

 匂いからの想像通り、べたべたと纏わりつくような甘さと、少し苦い後味が絡んできた。

「……不味い」

「良薬口に……それはあんまり苦くはないけどさ。とりあえずそれで今晩は霊力暴走しなくなるから、熟睡しても大丈夫だよ」

「ああ……普段なら熟睡してたって暴走させないのに……」

「それは身体から呪詛を追い出そうとする生理的な反応だから、仕方ないね」

「そうだな……あぁ、天井がぐるぐるしてる……」

 仁式はまた横たわって目を閉じた。

「ねえ、直ちゃん」

「何だ」

「本当は、呪詛のこと、分かってたんじゃないの?」

「……どうしてそう思う?」

「だって『邪喰い』は本当は『吸収』するのが仕事なのに、呪詛が君の魂にまで届いた痕跡は無かったよ。だから、食べたけど、『吸収』はしてないんだなって」

「俺は……まだ新米だ。感知できなかったんだ」

「うん、確かに直ちゃんは新米だよね。だけど、でも直ちゃんの感覚の良さは、あっしが一番知ってる。呪詛の匂いと邪心の匂いの嗅ぎ分けくらい、雑作も無いでしょ?」

 仁式は小さく溜め息を吐いた。

「嗅ぎ分けてたさ。でも、俺の今の知識じゃ、それを分離させる方法が分からなかった。二色の毛糸を混ぜて毛糸玉を作ったようにぐちゃぐちゃで……俺にはどうにもできなかった。でも放っておいたら佐藤様が危険だった。だから、飲んだ」

「うん、そうだろうね」

「飲んで……正解だった。無理に分離させてたら……佐藤様に、呪詛が掛かるように、なってたから」

 ほう、と卍は目を見開いた。

「送り主は分かったの?」

「ああ。……死神」

 そして仁式は卍と反対の方に顔を向けた。



 続々と戻ってくる従業員のために新しいお湯を用意しようと座敷を立った司良は、ばったりと卍と出くわした。

 卍は目を眇めて司良を頭の天辺から爪先まで観察するように視線を走らせ、

「珍しいね、人間なんて」

と相好を崩した。

「初めまして、こちらでアルバイトをさせてもらってます、麗木司良と申します!」

 司良は勢い良く頭を下げる。

「そんなに緊張しなくていいよ。あっしは黄田卍。下紅戯屋の、主治医ってところかな。あっしも従業員の同類」

 卍はにこにこと笑っている。

「そうだ司良君、丁度いい、あっしはちょっと事務室に行ってくるから、直ちゃん見ててもらえるかな?」

「え、でもお湯……」

「一緒に沸かしてくるから。誰か見てないと、直ちゃん、ワーカホリックだから起き出しかねないからね」

「分かりました」

 司良は卍にポットを預けて、鴉の間へ行った。

 座敷の中は、明るくなっていた。

 とは言っても、目を閉じれば気にならない程度の明るさだが。

 仁式は帯を緩め、合わせ目を寛げた状態で結界の中で仰向けになっていた。

 前髪の白い部分が、血でべったりと汚れている。

 恐らく、視覚で認識できないだけで、他の部分も血に染まっているのだろう。

もう乾き始めているのか、血は赤黒くなっていた。

「麗木か」

 眠っていると思われた仁式が、目を閉じたまま呟いた。

「はい、俺です。……えっと、仁式さん、苦しくないですか?」

「問題ない。最初に粗方吐いちまったし、残りもさっき、卍ののお陰で吐き出せた。霊力を抑える薬も飲んだし、結界の中にいるから安全だ」

 早口で捲くし立てる声が酷く掠れていて、それに何故か胸を締め付けられた。

 無理をしているのだろうと思う。

「何か、俺に出来ることはありませんか?」

「無い……と言いたいところだが、お前の言霊が欲しい」

「言霊?」

「言葉には力があるんだ。特にお前は俺と魂の波長が合うから、俺に対する効力が強い。……御託も疲れるんだ、くれるなら、傍に来てくれ」

 言われるがまま、司良は仁式の傍に寄った。

「あの、何て言えば良いんですか?」

「そうだな……『おお 取り払え チャンダーリー・マータンギーよ スヴァーハー』と」

「ええと、もう一回お願いします」

「『おお 取り払え チャンダーリー・マータンギーよ スヴァーハー』。医薬の仏、薬師如来の真言だ。覚えたか?」

 司良は小さく頷いた。

「おお、取り払え、チャンダーリー・マータンギーよ、スヴァーハー。おお、取り払え、チャンダーリー・マータンギーよ、スヴァーハー。おお、取り払え。チャンダーリー・マータンギーよ、スヴァーハー。おお 取り払え チャンダーリー・マータンギーよ、スヴァーハー」

 仁式の力がゆっくりと抜けていく。

 浅かった呼吸も、ゆったりと深いものに変わる。

 司良は仁式の、投げ出された手を取った。

 節が出っ張っておらず、ほっそりとした印象通りの手だ。

 そして、ひんやりとして冷たい。

 女性のような手だとは思わないが、綺麗な手だと思う。

「あ、眠った?」

 突然後ろから声を掛けられて、司良は跳ねた。

「寝て、ねえよ……」

 応える声に、更に肝が冷える。

「おおお起きてたんですか!」

「寝てるなんて一言も言ってない」

「何か反応して下さいよ!」

「あんなまじまじやられたら、逆に言い出しにくいじゃねえか」

 言って欲しかった、と司良は項垂れた。

 卍は首を傾げた。

「どうしたの?」

「何でもありません!」

「そう?」

 まだ首を傾げながらも、卍は仁式を起こした。

 そして手拭いを渡す。

「はい、自分でできるよね?」

「ああ、有り難う」

 仁式は手拭いで髪を拭いていく。

手拭いはたちまち赤くなった。

「司良君、もういいよ。お疲れ様」

「あ、はい」

「麗木、助かった。やっぱり俺とお前は相性が良いらしいな」

「ど、どう致しまして」

 司良はぺこっと頭を下げた。

「おい、頭下げるのは俺だろ。何でお前がやってるんだ」

「何となく……」

 ふっと仁式が笑い、卍は肩を揺らしている。

「麗木、もう寝ていい。他の奴にもそう言っておけ。それから、明日は休みだ。完全休業。で、佐藤様の見送りはお前に頼む」

「はい、分かりました」

 司良は辞去の意を込めて頭を下げ、すっと立ち上がった。

「失礼します」

 すうっと障子が閉まる。

 仁式は乱暴に頬に付いた血も拭い、またごろりと横になる。

 吐き出された息は溜め息というより、漸く気が緩められるという安堵の吐息に近い、それで。

「もっと、努力しないとな……」

「直ちゃんは頑張ってるよ。陰陽師として修行を始めてたったの四年、ここを継いでからはまだ三年じゃない。それで、ここまでできてるんだから、上等以上だよ」

「卍のは優しいから……そう、言う、あいつら、も……俺は、まだ足り……ない。もっと」

「うん、そうだね。お休み」

「わるい……あと、まかせる」

 ことりと音がしそうなほどの呆気なさで、仁式は眠った。

「お休み、暫しの安寧を」

 卍は言霊を残して、静かに立ち上がった。

 そして従業員達にお休みと挨拶して出て行った。



 翌朝、五時半に司良は起き出した。

 宿泊室の蒲団を片付け、身支度をして部屋を出て、客より早く朝食を摂る。

 厨房に入ると見知らぬ老人が何もない所から火を起こしていたが、驚く司良にその老人は焚田だと名乗った。

 焚田の正体は「老人火」という妖怪なのだそうだ。

 食事を供する焚田は司良よりももっと早く活動を始めている訳だが、しゃっきりとしていて、眠そうな感じは見えない。

 朝御飯は、ご飯と豆腐の味噌汁と卵焼きと漬物だった。

 普段、栄養バランスなど考えずに適当に菓子パンなどを食べている司良からしたら、結構なご馳走である。

 その朝食を急いで腹に収めて、七時には客、つまり佐藤に配膳をする。

 移動した座敷で、佐藤は申し訳なさそうに小さくなっていた。

「あの……私、昨日の夜の記憶があンまり無いんですが……、どうして部屋が変わってるんでしょう?」

「ああ、昨日の部屋はですね、ちょっと色々あって、使えなくなってるんです。それで移って頂きました」

「そうですか……あ、支配人さんは?」

「今日は、休暇なのでおりませんで」

 司良は佐藤を安心させるために嘘を吐きながら配膳する。

「ごゆっくりどうぞ」

 部屋を出た時に口を突いた溜め息。

 しかし司良は頭を切り替え、直ぐに他の仕事を始めた。

 風呂の栓を抜いたり、玄関の掃き掃除をしたり。

 そうしているうちに膳を下げる時間になり、司良は佐藤の部屋に戻った。

 佐藤は食事どころか荷物も纏め終わっていた。

「ご馳走様でした」

「お粗末様でした」

「そろそろチェックアウトしたいんですが……」

「はい、少々お待ち下さい。これを片付けたら清算致しますから」

 司良以外は皆妖怪に戻っており、頼みの仁式は寝込んでいるから司良が働かなくては。

 と思って気負っていた司良は、仁式に遭遇して驚いた。

 着物はいつもよりもゆったりと着付けてあり、羽織は文字通り羽織っただけで袖を通していなかったが、それでも彼は血を吐いたばかりの人間だとは思えないほどしっかりと立っていた。

「仁式さん! 何で起きてるんですかっ? 寝てなくっちゃ」

 焦る司良に、仁式は笑みを返した。

「もう平気だ、お前のお陰で大分楽になった。もう清算だろう。俺がやるから、お前、それ片付けたら荷物持ちに来い」

「いいですよ、俺がやりますから」

「良いんだ」

 すっと、纏う空気が柔らかくなる。

「ここは、俺のだ」

 そして結局司良は仁式に清算を頼んで、厨房に膳を運んだ。

 その足で取って返すと、玄関で仁式と佐藤に追い付き、

「バス停までお持ちします」

と言ってボストンバックを持った。

「よろしくお願いします」

 佐藤は軽く頭を下げる。

「大したお持て成しもできず、申し訳ありませんでした。ここが永久の別れになりますように」

 仁式は深々と礼をした。

「ええ……有り難う御座いました。もう、何であんなに恨んでいたのか思い出せないくらい楽になれました。感謝しています」

 佐藤も腰からお辞儀をして、引き戸を開けた。

 後から司良も付いていく。

 からからからから、と引き戸が閉まって、二人と壁越しの距離ができて。

 仁式はその場に崩れ、肩で息をする。

 袂に入れておいた、卍が処方していった丸薬を飲み込んで、漸く落ち着いた。

 そしてまた立ち上がり、表に「本日休業」の札を出す。

 怒鳴って起こして歩く元気は流石になかったので、厨房からフライパンとお玉を借り、宿泊室でそれを思い切り叩いた。

 まるで空襲警報を聞いたかのように、妖怪達は跳ね起きる。

 そしてきょろきょろと辺りを見回し、何事も無かったと息を吐き、はっと気付いて仁式に詰め寄った。

「ナオサン、何で起きてるんだわなっ?」

「寝てなくちゃ!」

「昨日血を吐いたばっかりだって忘れたのか!」

「結界に戻ってよぅ」

 司良と同じ反応で、言われた仁式は、ちょっと静かにしろ、と妖怪達を諌めた。

「今日は完全休業だから、仕事をする訳じゃない。分かるな?」

 妖怪達は一斉に頷く。

「だから、忙しくて身体に負担を掛けるということも、無い。精精のんびりして、きちんと栄養を取れば、また明日には通常業務に戻れる」

「本気で戻る気なの?」

「胸焼けが無くなれば呪詛の効果はもう無い。後は体力の問題だからな」

 支配人の言葉に、不承不承ながらまた頷き。

「で、一つ提案」

 潜めた声に、自然と頭が近くなった。

「不本意ながらも休みが出来た。伏見稲荷に、弁当でも持って干野の様子を見に行こうと思うんだが、お前等もどうだ?」

「え、ホント?」

「俺一人だと止めるだろ」

 従業員達は顔を見合わせ、力強く首肯した。

「行きたい奴全員で行こうと思うんだ。そうしたら、何かあってもお前等が守ってくれるだろ?」

「それは勿論だけど、会えるんかいな?」

「行ってみないと分からないな」

「お弁当は?」

「俺と焚田さんで作る。ていうかもう下拵えは終わってる」

「司良はどうするんだ?」

「行きたけりゃ連れて行くし、帰りたければ帰らせる」

 てきぱきと質問に答えて、仁式は輪から離れる。

「で、行く奴は?」

 全員がさっと手を挙げた。

「了解、俺は着替えてくるから、この部屋片付けておけよ」

 はーい、と元気のいい声が返ってくる。

 仁式は肩を震わせながら、ずり落ち掛けた羽織を直す。

 と、引き戸を引く音がしたので、一旦玄関に戻った。

「ご苦労さん」

「いえいえ」

「今日の業務はこれで終わりだ。お前も帰っていいぞ」

「はい、分かりました。……仁式さん、身体、辛くないですか?」

「全く問題ない。お前も大概心配性だな。そんなことよりも、全員で店を空けるからお前も出て行ってくれないと困るんだ。そろそろ支度してくれ」

「え、どこか行くんですか?」

「伏見稲荷にな。言っただろ、干野がそこにいるって。今から見舞いだ」

「じゃあ、俺も行っていいですか?」

「ああ、但し急がないと置いていくぞ」

「はいっ」

 司良はばたばたと走っていった。

 苦笑いをしながらそれを見送った仁式は、離れの自室で着替えを済ます。

生地の色のお陰で羽織を羽織れば充分隠せるが、着物には血が付いたままだったのだ。

 仕事着の黒に近い濃紺がベースの細かい格子の模様の単衣に、赤と黒の墨流しの模様の兵児帯を締める。

 羽織も薄い絽を選び、袖を通しながら厨房に入った。

 焚田が弁当を詰めていた。

 大きな三段重ねの重箱に、きっちりとおかずと稲荷寿司が詰めてある。

「悪いな焚田さん、殆ど手伝いもしないで」

「構わん。儂も行くぞ」

「ええ、もちろん」

 仁式は重箱を持った。

 そして焚田と共に玄関に向かう。

 既に戸締りを終えた従業員達が勢揃いしていて、こういう時だけは素早いと仁式を苦笑させた。

「それじゃ、行くか」

 ぞろぞろと離宮道を、二人の人間と五匹の妖怪が歩いていく。

 司良は妖怪達が見付けられたらどうしようと内心冷や冷やしていたが、どうやら妖怪達が見えているのは自分と仁式だけらしいと分かり、徐々に落ち着いていった。

「あんまりびくびくするな。余計怪しいぞ」

「だって、皆が見えてたらと思うと……」

「大丈夫だ、大抵の人には、俺達は重箱を持った二人組の男に見えてるよ」

「それならいいんですけど……」

「まあ、そういう力のある奴には見えるだろうけど」

「ええっ」

 司良はまた挙動不審になったが、仁式は平然と、真っ直ぐ前を向いたままだ。

「ところで麗木、お前、盆はどうする?」

「え、お盆ですか? 一応、実家に帰るつもりでいますけど。墓参りも行かなくちゃ」

「そうか。なら、式神は付けたままでいいな? 盆前に片ァ付けられればいいんだが、もしかすると持ち越すかも知れない」

「ええ、というか、こちらこそよろしくお願いします」

 バス停に着くと、どちらからともなく無言になった。

 仁式は沈黙を苦にしていないようだったが、司良は内心酷く困っていた。

 仁式ともう少し喋ってみたいと思うのに、何も話題が出てこないのだ。

 今更天気とか当たり障りのない話をするのもどうかと思うし、かと言って、こんなところで仁式の裏の仕事や妖怪のことを聞いてみるのも憚られる。

 暫し悶々としていると、二分遅れでバスが来た。

 二人と五匹はぞろぞろと乗り込む。

 途中で一度乗り換えて、伏見稲荷付近で降りる。

 そこから四十分ほど鳥居を潜っていけば、全国の稲荷の総本山、伏見稲荷だった。

 観光客が歩いている横を素通りし、彼等は裏手に回る。

 そして仁式が壁の一枚をぐっと押すと、人が一人通れるくらいの隙間ができた。

「早く入れ」

 促されて、司良は中に駆け込む。中は薄暗かった。

 仁式がペンライトを灯すと、正座しているモノが見えた。

「おい干野、体調はどうだ?」

 話し掛けられたモノは、はっとしてこちらを向いた。

 それは、姿こそ狐なのだが、人間のように服を着て人間のような振る舞いをする、妖怪だった。

 狐の姿の干野は、床に手を付いてお辞儀をした。

「お陰様で、大分良くなりました。今週中には仕事に戻れると思います。……ところで、昨日は何かあったのですか? ナオサンの気が大分乱れていたようですが。皆も、元の姿に戻っているし……」

「お前にまで俺の気が伝わってんのか……」

「私はいつでも下紅戯屋を心配しておりますから。ナオサンの、制御された清冽な気が、昨晩は濁って溢れたのも分かりました。……もしかして、また呪詛ですか」

「ああ。昨日は『邪喰い』をしたんだが、邪心に呪詛が掛けられてた。ソレ関係で、全員に相談したいことがある。が、その前に飯にしようぜ」

 仁式は持ってきた弁当を広げた。

 従業員達はわっと重箱に群がる。

「あ、稲荷寿司持ってきてくれたんですか」

「お前のところの神さんの分もあるから、持っていってやれ」

 蓋に幾つか稲荷寿司を乗せると、干野は頭を下げた。

 そして暗がりに消え、暫くして戻ってきた。

「悪かったな、俺のせいで、こんなことになって」

「ナオサンのせいじゃないですよ、私の不注意でした」

「いいや、違うんだ」

 仁式は自分の取り皿に卵焼きを乗せていたが、それを置いて溜め息を吐いた。

「全員、食いながらで良いから俺の話を聞いてくれ」

 それに応えて全員の視線が仁式に集まった。

「今回の件はいつもと同じだと思っていたんだが、どうも大分違うようだ。相手は『下紅戯屋』じゃなく、『俺』らしい」

 仁式は激情をやり過ごすかのように唇を噛んでから、

「今回の相手は、『死神』平塚織斗だ」

 敵の名を告げた。妖怪達はびくっと身体を震わせる。

「平塚織斗?」

 事情を知らない司良だけが聞き返した。

「ああ。麗木、お前、死神って見たことあるか?」

「え、無い、です」

「それは幸運だったわな。死神は、別に神様じゃないんだわな。大抵は人間だわな」

「死神なのに、人間?」

 全員が頷き、鍋島が小林の続きを引き取る。

「死神と呼ばれているのは、寿命よりも生き過ぎてしまった人間を『葬送法』に則って迎えに来る人間だよ。泰山府君……閻魔大王から閻魔帳を預かり、死ぬはずの人間が生きていることを確認したら、冥府に導く。本来死神の業務は隠密裏に行われ、穏やかなものだ」

「しかし、例外はいる。それが、平塚織斗」

 仁式は、髪の白い部分を弄りながら続ける。

「奴は、一人分の仕事をするために犠牲者が出ても構わない。大雑把なくせに陰湿で、そして……仕事の邪魔をされることを、最も嫌う。恐らく俺の客に、奴の担当する相手がいたんだろう。それが誰かは知らない。自殺か何かさせるつもりだったのが、俺が邪心を喰ったから、キレてるんだ。奴は、俺の力が消滅するか俺を殺すまで止まらない」

「それで、ナオサンはどうするんですか?」

 干野がおずおずと尋ねる。

「迎え撃つ」

 仁式はきっぱりと言った。

「但しそれは俺一人がやる。俺個人のことに、お前達まで巻き込めない。全員に一ヶ月の暇を出す。一ヶ月経ったら戻って、俺が生きていても死んでいても、下紅戯屋を開けて欲しい」

 しん、と静まり返った。しかし、干野が進み出る。

「ナオサン、それだけは止めて下さい。私は巻き込まれたって気にしません。いえ、却って巻き込まれた方が有り難い。私は、下紅戯屋の従業員です。もしも昨日、あの手紙に呪詛が掛かっていると知っていても、同じことをしました」

 干野の言葉に、他の従業員達も頷く。

「俺だって干野だったらそうしたよ」

「そうだわな、ワシ等、ナオサンの式神じゃなくても、ナオサンを棄てて逃げたりしないんだわな」

「今の下紅戯屋の長はナオサンでしょお?」

「ナオサンには、私達に命令できるのよ。下紅戯屋を守れって」

 従業員、と言うからにはあくまでもそうなのだろう。

 仁式と彼等の間は式神の契約ではなく、情で結び付いている。

 司良も皆と同じ気持ちだと伝えようと、考えながら喋る。

「仁式さん、俺も、暇は要りません。俺は、ただのバイトですけど、仁式さんが血を吐いた痕を見て、凄く、怖かったです。俺達がいない間に仁式さんだけ危険な目に遭っているなんて、嫌です。仁式さんが狙われてるなら、皆で迎え撃ちましょうよ。俺は使い走りくらいしかできないけど、頑張りますから!」

「……麗木、お前こそ一番最初に逃げていいんだぞ」

「いいえ、逃げません!」

 司良は怒鳴り、全員の注目を集めた。

「仁式さんに死なれたら、仕事とか、無くなりますし……」

 段々と語尾が小さくなり、司良の目線が泳ぐ。

 司良は本質的に嘘が下手だ。

 すぐに顔に出てしまう。

 仁式は司良が動揺している様子を眺め、口角を上げる。

 そして、全員をゆっくりと見た。

「お前等、いいのか? 最悪の場合、俺と心中することになるかもしれないんだぞ?」

「覚悟の上です。お願いですナオサン、旅館を開けて下さい」

干野が代表して答え、誰も異を唱えようとしないのを見て取り、仁式は諦めるように小さく頷いた。

「そういうことなら、分かった。お前達には感謝する。但し、全員死ぬなよ。俺に後悔させないでくれ。危険を感じたら、即逃げるように」

 はい、と答える声がぴたりと揃った。

 焚田が鮮やかなオレンジ色のゼリーを配る。

「じゃあ、平塚の特徴を言っておく。奴はダークグリーン色のスーツを好んで着ている。それから長い髪を一纏めにしている」

「は……派手な人ですねえ」

「見付けられるのと逃げられるのは別の問題だ」

「分かってます」

「油断するなよ」

 話し合いながらの昼食を終え、荷物を纏める。

 そして干野に

「お大事に」

と告げて、一行は伏見稲荷を後にした。

 何故仁式が、平塚織斗の姿形を知っているのかという不思議に司良が気付いたのは、アパートに戻ってからだった。

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