三、異変の始まり

 午後十二時半、頃だった。

 休憩室の座敷で、昼の情報バラエティ番組が流れて、昼食を終えた従業員達は思い思いに寛いでいた。

 麗木もごろりと横になっていたが、身体を回転させて小林に顔を向ける。

「あのぅ、小林さん」

「何かいな」

「ちょっと訊きたいんですが……」

「おう、何だ?」

「仁式さんの下の名前って……」

 と、気の抜けた顔をしていた小林の目がかっと見開かれた。

「小林さん?」

 小林は名前を呼ばれたのにも気付かないかのように視線を一点に向けたまま、身体を起こした。

「小林さん?」

 司良も釣られて身体を起こす。

 と、鍋島が襖を開け、八速と天野がそれに続いて出て行った。

「どうかしたんですか?」

「何か壊れた音がしたんだわな。ワシ等も行くんだわいな」

 司良も小林と共に、遅れてばせながらその現場に向かう。

 他の従業員は、珍しいことに昼は休んでいる干野までもが、既にそこに集まっていた。

 窓硝子が割られていて、廊下に硝子の破片が散らばっている。

 そして、硝子を割った原因であろう大きな石が一つ、所在なさげに転がっている。

「おい、そんなに集まっても仕事はないんだから、来なくても良いんだぞ」

 箒と塵取りと雑巾を物置に取りに行っていた仁式が、全員集合の状態に呆れを露に注意した。

「珍しいことがあるもんだと思って見に来ちゃったんですよ」

「凄いねえ、粉々だ」

「近所の子供の悪戯かしらね」

 ばらばらなことを言っていると、廊下に上がった仁式が

「喋ってる暇があったら、画用紙か何か持って来い」

と言い付けた。

「じゃあ、私が行って参ります」

 干野がすっと中に戻っていく。

 そうして間もなく、白い画用紙を持って来た。

「悪いな」

「いえ、日に当たりすぎて気分が悪くなっておりましたので」

 それから全員で手分けして硝子の破片を集める。

 それが終わったところで、三味線の音が三度、した。

 掛け時計の音である。

 一時間に一回と、一時半に鳴るようにセットされている物で、それを聞いた仁式は、

「一時半だ、各自仕事に戻れ! 後は俺がやっておく!」

と怒鳴った。

 従業員達はそれぞれの仕事に戻り、干野は奥に引っ込んだ。

 仁式だけが硝子の始末と残りが無いか点検している。

 そして雑巾掛けまで済ませて画用紙を手に取り、ガムテープを頼むのを忘れたことに気付いた。

 二度手間だが取りに行こうと腰を浮かしかけて、その目当ての物を持ってこちらに近付いてきている麗木と目が合った。

 まさか振り向くと思っていなかった麗木はちょっとだけ目を見開いたが、それでも手の中の物を差し出した。

「あの、ガムテープ、要りませんでした?」

「助かる」

 ついでに麗木に画用紙を持ってもらい、それで無残な穴を塞いでいく。

「雑談して良いですか?」

「仕事中だぞ」

「だって、紙持って立ってるのって退屈で」

「じゃあこれ貼ってる間だけだ」

 仁式はガムテープを切った。

「陰陽師について、ちょっと調べてみたんですけど」

「ふうん?」

「こういうのって、……ええと、式神とか使って直したりするもんだと思ってました」

「こういうの?」

「窓硝子の破れ」

「よく知らない、が随分飛躍したな」

「昨日あの後、本屋に行って立ち読みしたんです。で、なんか、そういうイメージが」

「馬鹿かお前は、小説か漫画の読みすぎだ。まあ、アレはアレで面白いけど」

「読むんですか?」

「読むよ、それなりに。娯楽として、面白いし。でも現実には、壊れたのに一瞬で直るような家があったら気味悪いだけだろ」

「それもそうですね」

「陰陽師は天候を見たり病気を診たりするのが元の仕事だったけど、今じゃあ天候はアメダスに任せた方が正確だし、病気になったら医者に行く方が良い。保険料払ってんだから。で、俺は呪術や何かができるけど、ここは物理的には壊れるし手入れを怠りゃ朽ちる、普通の旅館だ。霊的な攻撃には結界が貼ってあるから負けないけど、逆に普通の石には負けるんだよな」

 ぺた、ぺた、と隙間風が入らないように貼り付けて、最後に隙間が無いかを離れた所から点検して、開け閉めを繰り返し、仁式はうむ、と頷いた。

「俺は修理の連絡をしてくるから、麗木、お前も仕事に戻っていいぞ」

「はい、失礼します」

 麗木はくるくると余った紙を丸めながら、頭を下げる。

 そしてそれぞれの仕事に戻った。

 しかし、夕方。

「今日は」

 がらり、と裏口の戸が開いた。

「はい、ただいまぁ」

 天野が返事をして出て行く。

 寿司桶を持った若い男が、にこやかに立っていた。

「『特上寿司・松』八人前でよろしいですね?」

「は?」

 そんなものを、誰が頼んだのだろうか。

 祝い事も無いはずだし、何かあれば朝のうちにそうと、仁式から通達があるはずだが。

 しかし連絡ミスでもあったのかも知れないと、天野は言われるまま金を払った。

 そして寿司の乗った盆を事務室に運ぶ。

「ナオサン、お寿司が届いたんだけど……」

 出納帳を探していた仁式は、ぐわんっと音がしそうな勢いで天野を見た。

「は? 寿司? 何の話だ?」

「え、だって、今、お寿司屋さんが……」

「そんな物は頼んでない」

「え、えええええっ!」

 天野は絶叫した後、泣きそうな顔で仁式と寿司を交互に見た。

 仁式は眉間を揉む。

「……仕方ない、いる奴全員で食うぞ。干野と、あと麗木にも声を掛けておけ」

 それから天野が立て替えていた代金を払うと、休憩室に全員集合させた。

 客に何かあれば内線が入るはずだから、全員が一堂に会していても問題ない。

「今日はちょっとした手違いで寿司が余った。喰っていいぞ」

 仁式からそう聞かされた従業員達は、まるで生まれてから今日まで今まで一度も食事をしたことが無いかのような勢いで寿司に手を伸ばした。

 その様子を眺めながら、仁式は今日一日について考えた。

 まるで、嫌がらせをされているようだ。

 仁式が「邪喰い」を始めた当初にも似たようなことがあった。

 しかし近頃は、そんなことも無くなっていたはずなのに。

 いや窓硝子は近所の子供のうっかりだ、寿司はどこかと間違えたのだろう、どうか全てが偶然であってくれと思いながら、仁式も穴子を確保した。



 だが。

 仁式の願い虚しく、その後も嫌がらせと思しき行為は続いた。

 翌日、庭に、仁式が手入れしている庭に泥が撒かれていた。

「滅茶苦茶だね……」

「ああ」

 仁式は庭に下りて泥に触る。

 乾いていて、ついさっき撒かれたというわけではないようだ。

「いつやられたんだわな?」

「ここの結界は人間には反応しないから分からない」

 塀にもべったりと泥が付着しており、その日は半日潰して、三人がかりで泥を流す作業に追われた。

 その日から、悪戯電話は一日三回。

 そして注文していない筈のありとあらゆる店屋物が毎日届く。

 犬の死体が玄関前にあったのが三日目、猫の死体があったのが五日目、鳥の死体が何羽分も撒き散らされていたのが、猫の次の日。

 再び硝子が割られる事件も起こり、従業員一同のストレスは頂点に達しかけていた。

 特に仁式の苛立ちは、そのまま勤務態度に反映されていた。

 口数が減り、失敗するとじろりと睨まれる。

 はっきり言うと、遠慮なしに怒鳴られるよりも数段怖かった。

 嫌がらせと仁式の不機嫌に釣られるように、従業員達もぎすぎすしていき、小さな喧嘩をしては謝り合うという光景があちこちで見られるようになっていた。

 現状を緩和すべく、

「明日は休みにする」

 そう仁式が宣言したのは、嫌がらせが始まって二週間目の、昼の休憩時間。従業員達は色めき立った。

「ホントッ?」

「嘘吐いてどうする」

「やっぱ無し、とかないわよね?」

「無い無い。一日丸ごと休みだ。俺は仕事してるから、来たい奴は自由に来い。疲れてる奴は好きな所に行って休んでこい。『下』からの予約は受け付けて良いが、『上』からは全部断れ。明後日からはいつも通りだから、休み惚けしないように、羽目を外すのも程程にな。以上」

 言うだけ言って、また座敷から出て行く。

 仁式の言う「下」が、人間の世界を指すということを司良は漸く覚えた。

 下紅戯屋が坂の途中にあるから、ここに泊まる客は坂を登ってくることになる。

 下から来るから、「下」だ。

 因みに「上」と言われたら高天原のことで、神が下りてくるから上なのである。

 つまりは、人間の客の予約なら受ける、人間以外の客なら受けないということなのだ。

「あれは相当キテルわね」

「明日は大変だわな」

「で、明日どうする?」

「どうするもこうするも、折角の休みだからぁ」

「先斗町で呑む!」

「じゃあ、久々に皆で繰り出すかいな」

 くるん、と八速が司良を見た。

「司良君はどうする?」

「俺……俺はいいです。家で寝てます」

 人間が、しかもまだ入って大して経っていない人間が妖怪達の中に入っていっても互いに気を遣い合うだけだろうと思った司良は断った。

「そう? 残念だわ」

「この機会に司良の歓迎会もしたいと思ったのにな」

 妖怪達は口々に言うが、司良は

「俺はあんまり酒は呑めないんです。だから、気を遣わなくていいですから、楽しんで来て下さい」

ともう一度断った。

 そうして一日の仕事を終え、買い物に向かった。

 近所に市場があるにはあるが、市場は閉まるのが早いため、司良が利用しているのは専らスーパーである。

 冷蔵庫の中身を苦心して思い出しながら、食材を買い込む。

 安い食パン、牛乳、米一キロ、マヨネーズ、鶏肉、キャベツ。

 そして、出入り口付近で売られていた、安い林檎。

 艶艶としたそれを見ていたら食べたくなり、一袋籠に入れた。

 会計を済ませ、重くなった自転車を漕いでアパートに帰る。

 適当に冷蔵庫に詰め込んで、シャワーで風呂を済ませて蒲団に倒れ込んだ。

 目覚ましを止めて、昏昏と眠った。

 起きた時には十時を回っていた。

 こんなに寝坊をしたのは久し振りだ。

 寝過ぎによる軽い頭痛を冷水で顔を洗うことで消して、トーストと牛乳と林檎と炒めたキャベツの簡単な朝食を作る。

 そして食べ終えて皿を片付け、洗濯物を干し掃除機を掛ける。

 しかし、それでもまだ午前中で。

 平日に暇、なんて久し振りのような気がして、何だか気持ちが落ち着かない。

 実際は、下紅戯屋に雇われてから一月も経っていないのに。

 ごろりと横になってみるが、最早眠気はやって来ない。

 来たければ来いという仁式の言葉を思い出し、林檎を持って遊びに行ってしまおう、と決めてからの司良の行動は早かった。

 水で髪を撫でつけ、財布と自転車の鍵と、夏場には必須のミニタオルをポーチに突っ込んで、それを腰に巻く。

 自転車を漕ぎ出したのが三十分ほど後で、正午を少し回ったところで下紅戯屋に到着していた。

 『定休』という札が、ぶらぶらと揺れている。

「こんにち……うわっ」

 戸を開けて、驚いた。

 変な匂いがする。いや、匂い自体は変でも何でもない、だが、それがここに充満しているというのが問題なのだ。

 甘い甘い、菓子屋のような匂いだ。

 司良は厨房に走る。

 がらりと扉を開けて見たのは、これまたおかしな光景だった。

 襷を掛け、白い前掛けをして頭巾を被った仁式が、何やら掻き混ぜている。

 その傍らには果物やチョコレートが用意されて、レンジが音を立てて何かを知らせている。

「仁式さん?」

 ボールを凝視していた顔が、ついと上がった。

「何だ、来たのか。お前のことだから一日中寝てるつもりだと思ってたんだがな」

「何か、落ち着かなくて。今日は、嫌がらせは?」

「また呪詛を電話越しに流されたから切った」

 それはお気の毒に、と心底司良は思った。

 チン、と音がして、仁式はしゃがんだ。

「ところで、何やってるんですか?」

「菓子作ってる。今、スポンジが焼けたところ」

 オーブンから取り出されたのはふっくらとしたスポンジ。

 仁式はそれを竹串で刺した。

 生地が付いてこないのを確認し、シロップを薄く塗っていく。

 シフォンケーキにするらしい。

「……お客さんでも?」

「阿呆、今日は休みだっつってんだろ」

「じゃあ、何でそんな物を?」

「……趣味」

 生クリームにチョコレートを混ぜ込みながら響かせた、其の言葉を司良は噛み締める。

 趣味。しゅみ。シュミ。

「何か、」

「言ったら頭から生クリーム掛けてやる」

 う、と司良の言葉は腹の中に帰っていった。

「そうだ、これ、差し入れです」

 林檎の入った袋を差し出す。

「気が利くな」

 そして中を覗き込んだ仁式は、

「アップルパイに変更だな」

と言って手早く何か捏ね始めた。

「幾つ作るんですか!」

「まだ序の口だ。大物はパイで終わりだが、今からクッキーを焼いて、わらびもち作って、大福作って、ムースもマカロンも欲しいし」

 くるり、と手元を見ていた目が司良を視界に入れた。

「全部とは言わないから、喰っていけ。というか全部喰われたら俺が困るんだが」

「あ、有り難う御座います」

 仁式は生地を冷蔵庫に放り込んで、林檎を砂糖で煮始める。

 その合間にわらびもちの用意。

「よく、お菓子作りはするんですか?」

「ストレスが溜まった時とかな。昔、……友人に教わってから、止められなくなっちまって」

 応えながらカラメルを舐める。

「器用なんですね」

「普通だ。何回か練習すればお前もできるようになる。何なら教えてやろうか」

「遠慮しておきます」

 甘い物は嫌いじゃないし、疲れた時にはコンビニでプリンやケーキを買うこともあるが、自分で作りたいと思うほどに飢えている訳ではない。

「それは残念だ」

 さほどそう思っていない口調で言って、仁式は生クリームとカスタードクリームを混ぜ合わせている。

 そしてパイ生地に塗って、その上に軽く砂糖で煮た林檎を乗せていく。

「アップルパイに使う林檎って、生で使うんだと思ってました」

「それだと風味が足りない。軽くコンポートしてから使う方が良い。クリームも使うから、甘すぎないようにはしてある」

 へえ、と司良は感心する。

 仁式が菓子を作っているのを見るのが面白くなっていた。

「座敷に行ってても良いぞ。退屈だろ」

「いえ、そんなこと無いです。見てていいですか?」

「作るか?」

「だから作りませんって」

 その手際の良さを、指の動きを、目で追う。

 そうしているうちにオーブンにクッキーが入り、わらびもちが冷蔵庫に突っ込まれ、マカロンに使うメレンゲの作成に入る。

 本当に手際が良い。

 機械のように正確に材料を量り、混ぜ、加工していく。

 クッキーと入れ替わりにメレンゲがオーブンに入り、ムースと大福が作られていく。

 最後にパイがオーブンに入った頃には三時を回っていて、司良は目の疲労を感じていた。

「馬鹿だな、座敷に行ってろって言ったのに」

「つい、夢中になってました」

 前掛けで手を拭いていた仁式は、視線だけで明快に呆れたと言っていた。

「お前、酒はいける口か?」

「そこそこですね。仁式さんは?」

「甘い物ほどじゃないが、俺もそこそこだな。暇ならいい酒があるから呑んでいけ」

「え、良いんですか?」

「大の男に菓子喰わせてさようならってのもな。先約は?」

「無いです」

「あいつら、お前を呑みに誘わなかったのか?」

 あいつら、とは従業員達のことだろう。

「誘われましたけど、断りました」

「良い判断だ」

 奴等、揃いも揃って穴の空いたバケツみたいなもんだから、と仁式が言う。

「どんな蟒蛇だって、人間じゃああいつらに太刀打ちできない。のこのこ付いて行ったら酔い潰されただろうな」

 頭の手拭いを外すと、ぱさっと台の上に置く。

 見た目からしてさらりとした黒髪と白髪が仁式の顔を覆った。

「もしかして俺、命拾い、しました?」

「生還おめでとう。そういう訳で、今日、ここにいるのは俺とお前と寝てる焚田さんだけだ」

 寝てるんだ、と司良は呟いた。

 何となく、早起きなイメージのある老人なだけに意外だ。

「じゃあパイが焼けたら三時にして、その後で飯の仕度。夕飯は遅くてもいいな?」

 さくさくと司良に夕食までご馳走することを決めて、仁式はオーブンを覗き込んだ。

 あと十分。

 襷も外されて、完全にいつもの仁式に戻った。

 と、がらがらという音が微かに聞こえた。

「今日は、ナオサーン?」

「いるわよね?」

「お邪魔するわいな」

「どうもぉただいまぁ」

 どかどかと複数の足音は、真っ直ぐに厨房に向かってくる。

 予想通りの姿が、現れた。

 つんと酒精の香が、仁式と司良の鼻を突く。

「あ、いたいた」

「お前等、呑みに行ったんじゃなかったのか」

 仁式が驚きを眉間に乗せる。

「行って呑みまくってたんだけどね」

「やっぱりここが一番落ち着くわいな」

「ナオサンの菓子、喰いたいしな」

「できてるんでしょお?」

 ぴーぴーとオーブンが音を立てた。

 現れたアップルパイは、綺麗な飴色をしていた。

 それもテーブルに上げて、仁式は冷蔵庫を開けて今まで作った菓子を出す。

「お前等、これ持って行け。珈琲飲む奴は何人だ?」

 司良、小林、天野が挙手。

「紅茶」

 八速と鍋島が手を挙げた。

「あとは緑茶で良いんだな」

 珈琲メーカーと砂糖の壺と紅茶の缶とティーポットと緑茶の缶と急須、そして人数分のカップを特大のお盆に載せて、仁式は足で戸を開ける。

 従業員達はそれに続く。

 休みだったはずが従業員が勢揃いしてしまった下紅戯屋は、いつもと変わらぬ騒がしさになり、奥で惰眠を貪っていた焚田も起き出してきた。

「何じゃお前等、遊びに行っとったんじゃなかったのか?」

「おうちが一番だわな」

「そうかい。ところで直坊、また菓子作ったのかえ」

「ああ、今から茶。焚田さんは何か飲むか?」

「緑茶」

 あいよ、と湯飲みが追加された。

「切り分けとくわね」

 八速がケーキを引き寄せる。

 と、電話の呼び出し音が鳴った。

 仁式がすいっと立ち上がる。

 そして電話を取った。

「はい、こちら下紅戯屋」

「……」

 無言。

 悪戯か、と思い耳から離す、と、微かな声がして耳に戻した。

「……枯れ、まがれまがれまがれまがれまがれ……」

 聞こえてきたのはくぐもった呪詛。

 「まがれ」は禍あれ。或いはまかれ。つまり、死ね。

 その言葉は絶えもせずに続いている。

 なんて陰険な。仁式は眉を顰めて

「アビラウンケンソワカ」

と早口で返して今度こそ電話を切った。

 座敷に戻ると、茶会が始まっていた。

「はい、ナオサンの分」

 シフォンケーキとアップルパイの乗った皿が仁式に渡った。

 和菓子はまだまだ余っている。

「電話、誰からでした?」

 日陰に小さくなっている干野が問う。

「悪戯電話だ。いつものだな。お前等、念のため外出する時はできるだけ複数で行けよ」

「襲われるとか? まっさか、俺達だぜ?」

「お前達が強いのはよく知ってるさ。だけど、お前達にだって勝てないものはあるだろう? 暫く大人しくしてろよ」

「はぁい」

「麗木、他人事みたいな顔してるけどな、バイトと言えどうちに雇われてる以上、お前も危ないんだからな。夜道注意、昼道注意、背後注意、知らない人に付いて行かないこと、変な気配を感じたら逃げること」

「判ってます」

 司良は頷いて、大福に手を伸ばした。

 散々飲み食いしたものの、用意された菓子は余った。

 仁式が作った以外に誰かが買ってきた菓子を混ぜていたのだ。

「麗木、少し持って帰れ」

 仁式はタッパーにアルミで仕切りを作って、そこに菓子を詰めていく。

それでも余った分は。

「明日の朝飯だな」

 全員、その呟きは聞かなかったことにした。



 付けられている。

 誰かに後を付けられている。

 そう司良が気付いてから、彼此五分。

 自転車なのに。漕いでいる音などしないのに。

 ずっと自転車と同じ速さで、何かの気配が付いてくる。

 これが仁式の言っていた「危ないもの」かと理解した。

 何かアクションがあるならともかく、こうして黙って付いてこられるというのは。

 かなり、怖い。

 恨みだの辛みだのを愚痴愚痴と吐かれた方がマシだ。

 仁式に遅いから泊まっていけと言われたのに、遠慮なく甘えておけば良かったと思った。

 そうだ、呑んでおけば良かった。

 確か、自転車でも飲酒運転になるのだ。

 呑んでしまえば堂々と泊まれたのに、どんちゃん騒ぎの始末に追われていて、自分が呑むどころではなかった。

 従業員達は先斗町で散々呑んで来たはずなのに、仁式の菓子を一通り食べると酒を出して呑み始めたのだ。

 本当に穴の開いたバケツなんだ、と従業員達の呑みっぷりを思い出す。

 付いて行かなくて助かったと真剣に、思った。

 そこまで考えて一旦思考が止まり、また後ろが気になってきたので、ナップサックの中の菓子の詰まったタッパーに無理矢理意識を向けた。

 アップルパイ。大福。マカロン。クッキー。どれも美味しかった、と漸く意識が逸れ始めたところで、ぱしゅっと音がした。

 何だ、と思う間もなく、自転車の漕ぎ心地が変わる。

 がこんがこんという音がする。

パンクした。付いてくる気配は消えた。

 自転車を下りた司良は、携帯電話の明かりで自転車を点検し、やられた、と肩を落とした。

 肉眼ではっきりと確認できるほどに大きな穴が開いていた。

 乗って行ったらホイールが変形して、後々の修理費用の方が高くつくだろう。

 携帯電話を取り出して、下紅戯屋に電話する。

 呼び出し音が三度、四度。

「はい、こちら下紅戯屋」

「もしもし、麗木です」

「おう、どうした」

「やられました」

「どんな状況だ?」

「自転車をパンクさせられました」

「家には帰れるか」

「はい、歩いて帰れる処にいます。大丈夫です」

「じゃあ明日は歩いてか、いや、遠いな。バスで来い。一時間以内なら遅刻も許す。……怪我は、無いな?」

「ええ、それも大丈夫です」

「それなら良かった。自転車は早いうちに修理に出しておけよ。うちのせいだから、修理費は経費で負担してやる」

「はい、分かりました。有り難う御座います」

「気を付けてな」

「はい。……お休みなさい」

 口を突いた言葉に、沈黙が返る。

 おかしなことを言っただろうか、と不安になり始めた時、

「お休み」

と心地よいテノールが返事を寄越した。

 じわ、と司良の胸の辺りに温かさが広がる。

 お休み、と言ったのも言われたのも、久方ぶりだった。

「お休み、麗木。また明日」

「また明日」

 ぷつりと、電話は切れた。

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