二、下紅戯屋、支配人仁式
翌日、司良は、八時四十五分に出勤した。
既に他の従業員達は動いていた。
「お早う御座います」
「お早う」
玄関の掃除をしていた番頭の鍋島に挨拶をして裏口に回る。
そして荷物を置いて、事務所に向かう。
「失礼します」
「おう」
仁式は分厚い帳簿に何か書き付けていたが、司良が入ってきたのを見て一旦手を止めた。
「お早う御座います」
「お早う。昨日は言ってなかったんだが、来たら、そこにタイムカードの機械があるから、カード入れろ。これがお前の分」
昨日と打って変わって、乱雑とも言える口調。
ついっと事務机の上を滑ってきたカードには、仁式の字で、司良の名前が書いてある。
筆で書かれた流麗な字である。
司良はそれを言われた通りに機械に通して刻印して、カード入れに突っ込んだ。
「それからこれが羽織。サイズが合うか見るから着てみろ」
「はい」
羽織ってみたそれは、司良にぴったりだった。
紐を結んで、姿見でおかしいところが無いか点検した後で、仁式に向き直る。
「どうですか? 見苦しくありません?」
「いや、別に。お前、着痩せするタイプだったんだな」
「ええ、まあ」
さてと、と呟いて仁式は腰を上げた。
そして事務室の扉を開けると、廊下に向かって
「小林ィ!」
と叫んだ。
「はいほぉい」
間延びした返事と共に小林が現れる。
「小林、今日明日、麗木に一通り仕事教えてやってくれ」
「合点だわいな」
それを聞いて、司良は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「よろしくだわな」
「小林、今日はお客様の到着が早いから、掃除より先に蒲団をやってくれ」
「らじゃ。それじゃ、司良、行くんだわな」
「はい」
小林に連れられて、司良はリネン室に向かう。
小林は一人で奥に入り、司良に向かってシーツや枕カバーをぽんぽん投げてくる。
司良の下紅戯屋バイト初日は、小林と一緒に全部の部屋の蒲団のシーツを取り替えることから始まった。
そうして二時間。
「麗木、小林、掃除はどうしたァッ」
予告通り、「従業員と同じ扱い」を受けて、司良は小林に連れられつつ、くるくると働いていた。
説明を受けた時は一時間半の休憩は多いのではなかろうかと思ったが、むしろ足りないくらいに思える。
掛け蒲団を抱えて足を滑らせていると、箒と塵取りを持った小林に追い抜かれざま肩を叩かれた。
「ま、頑張るんだわな」
先に座敷に入った小林は手早く押入れから埃を拭き出して、新聞紙を敷いていく。
それから司良から蒲団を受け取り、押し込んでいった。
「はいお仕舞い。司良、茶菓子の用意するんだわな。こっちは掃除してるんだわな」
「はい」
司良は厨房から茶菓子を受け取ると、急いで戻る。
凡ての部屋の菓子入れに菓子を補充して、小林と合流した。
「後は花だからナオサンに任せるから……一応終わりだわな」
「はい」
小林の言葉に司良は素直に応える。
花は仁式の担当となっているらしい。
そして掃除道具を片付けて、昼だった。
従業員専用の座敷に入ると、八速、鍋島がいて、昼食の用意をしていた。
「お疲れさん」
「お疲れ様です」
鍋島が濡れた手拭いを投げて寄越す。
司良はそれで汗と頭を拭いた。
頭がひんやりしてきて、酷く火照っていたのだと気付く。
「どうだった、初仕事?」
「大変でした」
その素直な答えに、苦笑いが返ってくる。
遅れて天野も現れ、茶と弁当が配られた。
弁当は料理長の焚田の手製である。
「仁式さんと焚田さんは?」
「ナオサンは事務室、焚田さんは厨房で食うんだわな」
「ナオサン、仕事しながら食べてるわよ、きっと」
そういう訳で、従業員と司良は弁当を食べることとなった。
一時半まで各々寝転んでいたり古いゲームをしたりオセロをしたり新聞を読んだりと各々身体を休め、時計から三味線の音が流れてきたのを聞いてバラバラに散っていく。
午後は午後で、旅館の周りの掃き掃除やら打ち水やら忙しい。
今日は小林がいるから良いが、一人になったら大変だろうなと思い、選んで良かった、採用されて良かったと思う。
ポットの湯を取り替える仕事をしていると、
「それ終わったら帰っていいんだわな」
と小林が声を掛けてきた。
時計を見ると、丁度五時である。
司良は急いで全室の湯を取り替えていき、事務室に入る。
「失礼します」
仁式は何故か、段ボール箱の中を漁っていた。
「どうした?」
「小林さんに上がっていいって言われたんですけど……」
仁式は腕時計で時間を確認し、
「お疲れ」
と声を掛けた。
「タイムカード切って帰るの忘れるなよ」
「はい」
軽い音がして機械にカードが吸い込まれ、また出てくる。
「お疲れ様でした」
「筋肉痛注意。湿布買って帰った方が良いと思うぞ」
ああ、やっぱり。と司良は太腿を擦った。
さっきからぴきぴきと痛いのだ。
「また明日」
仁式は顔を上げないままひらりと手を振った。
変な宿だな、と司良が思い始めたのは、数日して、筋肉痛が引いた頃だった。
司良の働いている時間内には客はあまり来ないのに、翌日になると、殆どの部屋が使われていた痕跡がある。
いつ来ようとそれは客の勝手なのだが、示し合わせたように夕方から夜に掛けてのみ客が来るというのも、妙な話である。
しかし詮索するなと最初に釘を刺されているから、誰かに訊いてみたくても訊けないでいた。
昼間にある人気と言ったら客よりも従業員の方が多いのだが、毎日きちんと客が来ているので、毎日掃除、蒲団、座布団干し、ゴミ捨て、皿洗い、庭掃除と忙しい。
しかも仁式はそのほっそりとした容貌に合わず、自分より年上の従業員にも敬語を一切使わず怒鳴りつけていた。
長年勤めている従業員に「お前何年この仕事やってんだこんな仕事もできないんなら辞めろ」、司良に「足を動かせ足をッ棒なのかそれは」という激しい言葉がぽんぽん出てくるし、掃除後の窓枠に指を滑らせるという小姑じみたことまでやる。
それでも従業員達が文句ひとつ言わずに仕事をしているのは、仁式自身はきっちりと、タイトなタイムテーブルの中で仕事を終わらせているからだ。
支配人として、彼にしかできない仕事も受け持っている。
小さな旅館だがそれに比例して従業員も少ないため、完璧な旅館の姿を保つには手の空いた者が率先して仕事を片付けなくてはならないのだ。
仁式の罵倒で実際の忙しさより三割増しくらいに忙しく感じられる職場だが、くたくたになって帰りたいという司良の希望には合致していた。
そして有り難いことにはただ忙しいだけではなく、職場の人間関係が悪くなくて、居心地が良いのだ。
基本的には、司良が初日に案内された座敷で休憩することになっている。
客に呼ばれて席を外したり急な使いが入って休憩時間が潰れたりすることもあるが、流石に休憩時間と定められている時間には仁式の罵倒は飛んでこない。
「概ね、良い職場だと思うわ」
とは八速の言葉だ。
司良が働き始めて丁度一週間目の、珍しく何事も無く、全員揃って昼食を摂っている最中のことである。
「この職場には慣れたか?」
という鍋島の質問から、下紅戯屋の職場環境についての雑談に話が及んだのだ。
「良い職場には賛成だ」
「ナオサンが体育会系でちょっと厳しすぎる……けど、厳しいのは仕事だけで、プライベートとは分けてるわな」
「公が乱暴ってどうなのお?」
鍋島、小林、天野が続く。
「初めて会った時は敬語だったのに、次の日にはもうあの喋りだったからびっくりしたよ」
確かに、とは司良の心の中の声である。
それにしても明らかに年上らしい彼等にも、出会った翌日からあの喋り方で接していたのかと思うと驚きだ。
「でもナオサン、優しいわよ」
八速の言葉には司良以外が頷いた。
アレのどこが優しいのだろうと司良は首を傾げたが、思い当たる節があるらしい面々は数度頷き、何となく沈黙が落ちた。
と、突然襖が動き、噂の張本人、仁式が現れた。
「……影」
ぽつりと天野が落とした言葉の意味を正確に察知したらしい仁式は眉を顰めたが、何も言わず、
「お客から貰った。焚田さんは要らないそうだから、お前達で残り全部食っていいぞ」
と言って饅頭の箱を置いていった。
中身は三分の一ほど無くなっていた。
仁式一人で二十四個入りの三分の一、八個。そして残り十六個を五人で分けろということらしい。
「ナオサン、食べ過ぎだわな」
「甘味王だからねェ。早食い競争に出られるよねえ」
文句を言いながらも饅頭は次々に消えていく。
最後に余った一個をじゃんけんで争奪し、勝った天野は意気揚々と饅頭を手にした。
そして茶を淹れ直し、それを飲み干して休憩時間終了となる。
「麗木、いるかッ」
座敷を出た途端に飛んできた声に、司良の背筋が伸びた。
大急ぎで玄関に向かう。
仁式は、さっき怒鳴ったのが嘘のように和やかに、客を迎え入れていた。
その客は従業員の中で一番体格の良い舞太郎より更に二回りほども大柄で、仁式よりも頭一つと半分ほど背が高く、その上髭が濃くて髪が長い。
両腕の太さを合わせたら、仁式の胴よりも幅があるのではないだろうか。
何より気になるのが、その客がひどく時代錯誤な格好をしていることだ。
高校時代に国語の資料集で見た、万葉集を題材にした絵に描かれている男のような格好だったのだ。
ぎょっと凝視してしまった司良を、仁式も客も咎めなかった。
「麗木、この方を『海の間』に案内して差し上げてくれ。この御方は五十猛様と言って、うちの大切なお得意様だから、くれぐれも粗相のないように」
「はい」
急いで表情を引き締めて、五十と呼ばれた男の荷を受け取る。
その格好とひどく不釣合いなボストンバックは、何も入っていないんじゃないかと思うほど、軽かった。
「それではどうぞ、こちらへ」
「ああ」
踏み出した五十は、つっと仁式に視線を戻した。
そして何かを指で挟むような仕草をする。
「そうそうひいさま、また碁の相手を頼むよ」
ひいさま。つまり、お姫様。
その呼び名があまりにも似合わない支配人を見やって麗木は噴き出しそうになり、その張本人は苦虫を噛み潰したような表情をしたが、夜にならお相手致しましょうと返してすぐに事務室に入っていってしまう。
「あの、ひいさまって?」
「彼の渾名」
似合わない、と言ってしまいそうになり、司良は口を噤んだ。
司良は仁式の名前をまだ知らず、ナオ何とかだということが朧げながら分かっている程度であるが、それを言うのは何となく憚られ、五十が喋るのに任せている。
「彼、自分の名前がひどく苦手みたいでね。そのまま本名で呼んだら返事してくれないんだ。身体ばっかり大人になったみたいだけど、そういうところは相変わらず変わんないね。どうも頑固でねえ。ひいさまの方がましだなんて変わってるよ」
どうやら五十は昔から仁式を知っているらしい。
相当昔からのお得意様ということなのだろう。
五十が思い出し笑いをしている間に、部屋に着いた。
「どうぞ」
司良は襖を開け、五十を通す。
「有り難う、荷物はそこらに適当に置いておいてくれればいい。あとは勝手にやらせてもらうから」
五十は座布団を敷くと、どっこいしょと言って腰を下ろした。
肩を回すとごきごきと音がする。
そして用意してあった生麩饅頭を一口で食べてゴミを捨てると、急須を出して茶を淹れ始めた。
馴れ切っているといった様子で、司良のすることは何も無い。
「ごゆっくりどうぞ」
司良は部屋の隅に荷物を置き、襖を閉める。
そして通常の業務に戻った。
ゴミを纏めて収集場所に出し、洗面所で手を洗っていると、
「麗木、碁のセット、五十様の部屋に運んでくれ」
と仁式が声を掛けてきた。
「あ、本当に碁やるんですか」
「ああ、もちろん。あの方は強いから、下手な打ち方をしたら怒られて大変なんだが、仕方ない」
仁式は嫌そうに言いながら、玄関の花瓶を取り上げた。
「そうそう、部屋にあの方がいなくても気にしなくて良いぞ。よくあることなんだ、いつの間にかいなくなるのは」
付け加えられた言葉にこの一週間で何度目かになる疑問符を飛ばしながらも、物置の中から埃塗れの碁のセットを探し出し、綺麗に磨いて「海の間」に運ぶ。
仁式の言葉通り五十の姿はなかったが、言われた通りに碁の道具を部屋の隅に置いた。
本当に、この旅館はおかしなところだらけだ。
そんなに儲かっているようにも見えないのにこの高給、不思議な客達、忙しくてどうしようもないという時に限っていつの間にか片付いている仕事。
最もおかしいのが仁式自身だと司良は思うが、さりげなく色々訊ねてみても「契約違反」と言われ、かわされてしまう。
その仁式は花を取り替えた後、予約客を迎えに行くと言って出掛けてしまった。
「おぉい、誰かいないかぁ」
いないと思っていた五十の声に、司良は出てきたばかりの海の間に戻りかけたが、
「碁の相手が欲しいだけだから良いよぉ」
ぽん、と天野が司良の背を叩き、追い越していく。
司良には碁はできない。
なので天野の仕事を代わるべく、掃除用具置き場に向かった。
まずは予約客が使うことになっている部屋を掃除する。
シーツを入れて茶葉が足りているか、菓子があるかも確認し、掃除用具を片付ける。
そうして廊下の窓硝子を拭いていると、
「どうぞこちらへ」
と大きな鞄を持った仁式が客を連れて現れた。
その客は、どう見てもよれよれのサラリーマンだった。
顔色は蒼く無精髭を生やしており、頻りに眼鏡を上げ、溜め息を吐いている。
口にしたら客を選ぶなと怒られそうだが、宿の雰囲気にそぐわない人物だった。
観光を楽しみに来た、という様子には見えない。
そして、五十はお得意様と言いながらただのバイトの司良に案内させたのに、何故こんな疲れたサラリーマンは支配人直々に案内しているのか。
やはりこの旅館はよく分からないなあと思いながら、司良はその客に挨拶した。
仁式は客を「鴉の間」に通し、暫く中に籠もっていたが、
「それではごゆっくり」
という言葉と共に出てきた。
そしてぼけっと立ち尽くしている司良を睨み付ける。
「おい、さぼってんじゃねえぞっ。きりきり働け」
今までの、穏やかで旅館の主らしい物腰から一転、手が止まっている司良を客に聞こえない程度の音量で怒鳴り付け、短い煙管を取り出して足音もなく事務室に戻っていく。
司良は慌てて窓硝子拭きを再開させた。
満足のいくまで磨いた後に床磨きに取り掛かると、
「司良」
と小林に声を掛けられた。
「ナオサンがな、今日残業できないかって言ってるんだわな」
「いきなりですね」
「うん、本当は舞さんがやるはずだったんだけど、急用で駄目になったんだわな」
「何時までですか?」
「九時までだけど、無理なら断って良いそうだわな」
「いえ、大丈夫です」
「ありがたいわな、じゃあ、また後で」
小林は了承を仁式に伝えるべく戻っていく。
そう言えば夜だけ勤めているらしい干野という人物と顔を合わせることになるなと、その背が消えてから気が付いた。
午後五時、いつもなら帰り支度をしている司良だが、今日は残業ということで灯りを点けて回っていた。
それから仁式に呼ばれ、事務室に寄る。
「失礼します」
声を掛けて入ると、仁式ともう一人、初めて見る人物がいた。
「悪いな、残業させて」
「いえいえ」
「確か前も話だけはしたと思うが、こいつが干野月光だ。干野、彼は麗木司良、先週から働いてる」
紹介された二人は互いに軽く頭を下げる。
正面から見た干野の顔は縦長で、目が細く、色白だ。
これが狐顔、の見本のような男だった。
仁式同様、少し険しいところがある。
「初めまして、麗木司良さん。干野月光です、よろしく」
干野の声は少し高めだった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
司良は先程よりも深く頭を下げた。
「干野は『海の間』の床延べと、岡村様の食事の支度を頼む。麗木は風呂掃除、それが終わったら『山の間』の掃除だ」
「はい、畏まりました」
「分かりました」
「麗木は夜の仕事は初めてなんだから、分からないことや何か困ったことがあったら遠慮なく干野に訊けよ。鍋島がいない時は干野が責任者をしてるから、快く教えてくれるぞ」
あまり「快く」という言葉が似合わない表情の干野をちらっと見て、司良は
「はい」
と頷いた。
「じゃあこれから四時間、頼む。夕飯は七時半だ。七時半になったら座敷にいろよ。食ったら九時まで干野の指示を受けろ。俺は寄り合いに行って来る」
短いセンテンスの繰り返しで告げると、仁式は仕事用の羽織を脱いで無造作に机の上に置き、紋付きの羽織を羽織って茶封筒を取って出て行った。
相変わらず忙しい男だ。
司良は風呂掃除に向かった。
まずは洗面器を積み上げて、タイルもデッキブラシでごしごしと床を磨き、壁を束子で擦っていく。
そして壁と床を流し終え、気合を入れて風呂桶に取り掛かる。
浴槽は今時珍しい本物の檜風呂なので、頻繁に掃除しないと湯垢でぬるぬるになってしまうのだ。
一生懸命、しかし傷付けないように束子で磨き、水を汲んで流していく。
最後に熱い湯を張り、その間に脱衣所のタオルを取り替えて使用済みの物を洗濯機に放り込む。
ほどほどの湯量になったら湯を止めて完了である。
それから「山の間」を掃除していると、干野が入ってきた。
「終わりましたか?」
「まだです……スミマセン」
「こちらは終わりましたよ。もう夕飯の時間だっていうのに、まったく……」
干野は文句を言いながらも、手伝うつもりで来たのだろう、畳用の雑巾をバケツに浸して固く絞った。
「あ、有り難う御座います」
「ナオサンに頼まれましたから。それに、貴方の手付きは危なっかしくて。バケツを引っ繰り返しでもされたら堪りませんよ」
仁式ほどではないが厳しい言葉に、司良は雑巾を持つ手に力を込め直した。
そして二人は黙黙と掃除をする。
何だかんだ言っても流石に責任者の代理を任されるだけある。
干野はてきぱきと働き、且つ司良に指示をしていった。
終わって道具を片付けた時にもう一度
「有り難う御座いました」
と礼を言うと、干野は漸く
「どういたしまして」
そう、素直な返事を返した。
「私は厨房に行ってきますので、先に座敷に行ってて下さい」
「はい、分かりました」
司良が座敷に入ると、小林、八速がいた。
「司良君、お疲れ様」
八速は労わりの言葉を掛け、熱い茶を差し出す。
「干野には会えたんかいな?」
「はい、掃除手伝ってもらいました」
そうしているうちに
「碁なんて大ッ嫌い!」
と怒鳴りながら天野が襖を荒荒しく開けた。
「また怒られたのね?」
「そうなのぉあの碁狂人! この手は下手だとかあの手は甘いとか煩いったらもう」
よしよしと八速が天野を慰めていると、干野が弁当を抱えて入ってくる。
「焚田さん弁当到着ですよ」
言いながら一人一人に弁当を渡す。
そして引き返して、鍋を持ってきた。鍋の中身は味噌汁。
台拭きを鍋敷き代わりにして鍋を机の上に置き、各々が味噌汁を椀に装う。
「頂きます」
司良は下紅戯屋で夕食を取るのは初めてだ。
カジキの南蛮漬けに大根の煮物、牛肉の野菜巻きと夏蜜柑餅、そして梅干混ぜご飯と若布の味噌汁という内容で、十分お腹一杯になる量どころか、栄養バランスをあまり考えない食事ばかりしている司良にはありがたい内容だった。
「麗木さん、食事が終わったら事務室の電球を換えて下さい。それが終わったら帰って結構ですよ」
「はい」
頷いて、司良は煮物を飲み込んだ。
夕食後、言われた通りに電球を取り替え、ついでに薄く埃を被った傘を掃除していると、仁式が寄り合いから戻ってきた。
そこで改めて帰宅の許可を貰い、掃除を終えた司良が下紅戯屋を出たのは、九時を十分ほど回った頃だった。
アパートに着いたのが九時四十分。
大家に注意されないように足音に気を付けながらアパートの階段を上がり、さて鍵を、と思った時に、気付いた。
鍵財布携帯電話その他諸々を入れた大事なウエストポーチを、下紅戯屋に置いてきてしまった。
無いと困る物のオンパレードに、司良は迷わず引き返すことを選んだ。
下ってきたばかりの道をせっせと登る。
いつもほどのスピードが出ず、途中で押して歩いたりして、下紅戯屋に着く頃には流石に息が上がっていた。
勝手口から入ると、八速に出くわした。
「あら、司良君、どうしたの? 忘れ物?」
「ええ、ポーチ忘れて。家の鍵も入ってたんで、取りに」
「それならナオサンが持ってたわよ」
「じゃあ、事務室ですかね?」
「ううん、事務室はもう一度閉めてるから、まだナオサンが持ったままだと思うわ」
「どこにいるか分かります?」
「確か、『鴉の間』で岡村様のお相手をしてたと……」
「行ってみます」
司良は走り出した。
司良の背を見ながら小林が空の膳を持ってやってくる。
「亜美さん、司良どうしたんだわな」
「何か、忘れ物したらしいわ。ナオサンが持ってたはずだって言ったら走り出していったのよ」
ふうん、と頷きかけた小林の顔色が変わった。
「ちょっと待て、今何時だっ?」
二人は同時に壁掛け時計を見た。十時二分。
「マズイ! 十時から始まってる!」
八速に膳を押し付けて、小林は司良を追い掛けて走り出した。
小林が渡り廊下を渡り切った時、司良は既に「鴉の間」の襖に手を掛けていた。
制止するより早く、
「失礼します」
と声を掛ける。
そしてがらり、と襖を開く。
中は、真っ暗だった。
その明暗の差に一瞬気を取られていた司良は、目が慣れると共に目の前の光景に立ち竦むことになった。
部屋の中央で、男が倒れている。
それは岡村なるサラリーマン。
そして彼に、馬乗りに圧し掛かっている存在。
黒い着物、赤い帯。
そして羽織を羽織っていない、偶に見る格好の仁式。
しかしそれは仁式なのに仁式ではなかった。
着物の袖は、翼になっていた。
それは烏のように艶艶とした黒い翼で、岡村を覆い、畳の上に広がり、時折震えて羽根を撒き散らす。
仁式は、何か呟いている。
襖が開いて司良が入ってきたのにも気付かず、恍惚然として天井を見上げている。
それはあまりにも現実離れした光景。
小林が司良を引き摺っていこうとしたが、司良の身体は文字通り強張ってしまって、動けない状態だった。
ふ、と仁式の声が止む。
すると岡村の口から黒い煙が立ち上り、それと共に黒い塊が出てきて、煙と塊は仁式の口の中に入っていった。
部屋には灯りが入っていないのに、その一部始終ははっきりと司良の目に映っていた。
黒い塊を飲み込もうとする仁式の口の端を濡らす唾液、空気を取り込もうと薄い胸の動いている様子、一点を凝視して見開かれた目に浮かぶ涙、苦しさからかその白い額に浮かぶ幾つもの脂汗すら、はっきりと。
現実の出来事とは到底思えない事態が進行しているのに、司良は目が離せず、声も出なくなっていた。
時間を掛けて煙と塊を全て飲み込んだ仁式は、長く息を吐く。
翼はいつの間にか袖に戻っている。
と、入り口に目をやった仁式と、立ったまま腰を抜かしている司良の視線が絡んだ。
仁式は驚いて目を見開き、何か言おうと口を開ける。
それを合図にしたかのように司良の身体は自由になり、反射的に駆け出した。
「え、おい、麗木っ」
声が追い掛けてくるが、それを振り払い、自転車を漕いで逃げ帰った。
またウエストポーチを忘れたことに気付いたが、司良にもう戻る気は無かった。
あんな、恐ろしいものがいる職場など。
化け物、という言葉がぐるぐると回る。
ひとまず駐輪場で夜明かしをし、朝になったら大家に謝って開けてもらおうと決め、自転車を引っ張って行く、と。
駐輪場に、ウエストポーチが、落ちていた。
どうして。どうしてここに。
ぞっと背筋を凍らせながらも、それを拾い上げる。
中を点検するが、無くなった物はなく。
隅に鎮座していたキーホルダーを取り出し、何度か失敗しながらも自分の部屋の鍵を開けた。
そして中から鍵を掛け、電気を点ける。
ジャケットを脱いだだけのでうつ伏せに寝ていると、電話が掛かってきた。
「はい、麗木です」
「俺だ」
下紅戯屋の主、仁式の声にひっ、と司良の喉が鳴った。
それは相手にも聞こえたらしく、盛大な溜め息が返ってくる。
「……辞めたいか」
短い沈黙の後のその言葉はひどく淡々としていた。
「……ハイ」
だから、司良は肯定の返事をした。
「分かった。今まで働いてもらった分の給料は払う。うちは現金払いをしてるんで、一度会わなきゃいけない。明日十二時に、五条大橋の牛若弁慶像の前に来られるか」
来られるか、と言いながら有無を言わさぬ響きがある。
司良はイエスかノーかを考えるのを止めた。
銀行の通帳番号を訊かれなかったから、給料を貰うには直に会うしかないのだと諦めて。
「何でそんな場所なんですか?」
「野暮用で出るんだ。お前の方は大丈夫か?」
「……はい、大丈夫です」
それじゃあ明日に、と電話が切られた。
逃げたら口封じに殺されるのだろうかと誇大妄想をしながら、司良は受話器を置いた。
翌日、昼前、司良は五条大橋まで自転車を走らせる。
言われた待ち合わせ場所には、黒にも見える濃紺の小袖と朱色の帯という出で立ちの仁式がいた。
流石に旅館の羽織は羽織っていない。代わりに表地が黒地、白い糸で車輪と扇柄が描かれた羽織を纏っていた。
その姿は人目を引いた。
常に人の身を竦ませる鋭い目付きを潜ませてぼんやりと立っている様子は、そこだけ時代劇のようで浮き上がっていたが、一幅の絵のように決まっている。
仁式は羅宇煙管を咥えて煙をふかしつつ腕組みをしていたが、司良に気付いて携帯灰皿にカツンと灰を落とした。
「こんにちは」
「逃げずに来たか。感心感心」
腰の煙管入れに煙管を仕舞うと、軽く司良の二の腕を叩く。
それに司良は身体を強張らせるが、仁式は何も言わず、袖に手を入れただけだった。
司良の反応に、気付いているのかいないのか。
「ラーメンと餡蜜、どっちがいい?」
「何ですかそのバラバラな二択」
「俺はまだ昼飯食ってなくて腹が減ってるが甘味も捨て難いという二択だ」
言われてみれば司良もまだ昼食を食べていない。
昼食どころか、緊張しすぎて朝も食べて来なかった。
しかし、仁式と長くいたくないという気持ちもある。
「遠慮するな、俺の奢りだ」
司良が考え込んでいるのを誤解したのか或いは分かっていてわざと取り間違えたのか、仁式は軽く懐を叩いてみせる。
「はあ、有り難う御座います……」
そんな心配はしていないのだが、と思いつつ司良は考える。
食欲か、恐怖か。
「じゃあラーメンで」
結局食欲が勝り、素直に答えた。
「分かった」
「あ、給料は?」
「持ってる。後で渡す」
時間にすれば二、三分ほど歩いた後、仁式は「どんどこ亭」という真っ赤な暖簾の掛かったラーメン屋を指差した。
司良は店の脇に自転車を置き、二人でそこに入る。
丁度昼時で席は殆ど埋まっていたが、運良くカウンター席の空きを見付け、並んでそこに腰を下ろす。
そしてそれぞれ、メニューを視線でなぞった。
「俺は味噌チャーシューにするけど、お前は?」
「塩バターで」
仁式は味噌チャーシューと塩バターと餃子を二皿頼んだ。
置かれた水を飲み、濡れ布巾で手を拭く。
「で?」
「ん?」
「本当に、お金渡してラーメン奢るために呼び出したんじゃ、ないでしょう?」
「鋭いな」
「それぐらい分かります」
そうか、そうだろうなと呟いて、仁式はもう一口水を飲んだ。
「まああれだ、お前が辞めるのは仕方ないが、誤解されたままもお前が知らないお前のことを伝えないままも気持ち悪いからな、最後に伝えようと思ったんだ」
「誤解? 俺の知らない俺?」
また訳の分からないことをと思いながら、司良も水を飲んだ。
「まず、誤解を解いておきたい。お前、俺が妖怪で岡村さんを食ったと思ってるだろ」
「違うんですか」
「違う。そもそも俺は妖怪じゃない、純粋人間」
「じゃあ、あの羽根とかは?」
「あれはなあ……」
仁式は白い髪を指先で弄っている。
「麗木、陰陽師についてどれくらい知ってる?」
「陰陽師……映画くらいでしか知らないです」
「陰陽師は古代の律令制下に於いて陰陽寮に属した官職の一つ。陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって占筮及び地相などを行う役職として配置され、後には本来の律令規定を超えて占術、呪術、祭祀全般を司る職掌のことを言う。中世以降には、主に各地において民間で個人的に占術・呪術・祭祀を行う非官人の者を指すようになり、現代においては民間で私的祈祷や占術を行う神職の一種として定義付けられている。と、ネット上の、某辞書にはこんな感じで載っている」
「え、と、はい?」
淀みない説明は、司良の頭のキャパシティを超えた。
仁式はそれを横目で見やる。
「つまり、元々公務員だったはずが、平安時代後期から、陰陽師はオカルティックな仕事を公にやり始めた。その系統を受け継いでいる現代の陰陽師は凄く妖しくて、呪術や悪霊、妖怪を祓う祈祷を行なっている者である、ということだ」
一転してかなり大雑把な説明になったが、司良にはそれも何とか理解できた程度だった。
「それで、それがどうかしたんですか?」
「俺がそれだ、って言ったら?」
それ、と一瞬考えて、司良は顔を顰めた。
「……からかってます?」
「何でここでからかうんだ。理由がない」
「陰陽師って、こういう?」
司良はカウンターに星を描いた。
司良でも知っている、晴明桔梗印と呼ばれるものである。
「……順応早いな、お前」
「だって、あんな姿見せられたら……」
疑いたくても否定したくても。
「まあ、そうだろうな。あ、因みに俺はこっちの系統だ」
仁式は横と縦の線を交互に描いていく。
「……網目?」
「本当に知らないんだな。これは、九字。ドーマンとも言う。播磨……今の兵庫県辺りを牛耳っていた陰陽師蘆屋道満が使っていたとされ、この別名が付いた。……麗木、ここまでで、頭、付いて来れてるか?」
「何とか」
「よし。それで、だ。俺はそういう技能の他に、少し変わった能力も持っているんだ。それを利用して、『邪喰い』という仕事をしている」
「よこしまぐい?」
「邪心……誰かが憎い、死にたいとか殺したいとか傷付けたい、そういう心は誰でも多少は持っている。普通の精神状態の人間なら無意識下に抑えられるか、意識されても実行には至らない。だが、心のバランスを失った者は、邪心に心を支配されることがある。俺は膨らみ過ぎた邪心を、現実で実行される前に喰い、彼等を平常に戻す。……いや、この言い方は正確じゃないな」
仁式の目が一瞬泳いだ。
「俺の身体の中には八咫烏が存在している、というか、肉体を共有している。そいつが邪心を嗅ぎ付け、欲しがる。俺がその邪心の持ち主に交渉してそれを喰う。そしてバランスを失った人に安定を取り戻させる」
あの煙と塊が見えたんだろうと訊かれ、司良は頷く。
「あれが、邪心が実体化したものだ。そいつを俺が喰うことで、あの人は心の安定を取り戻した。本当は自殺しようとしてたんだそうだ。リストラされ、次の仕事が見付からなくて、食うに困っていたんだと」
司良は何も言えなかった。
本当に誤解だったとしたら、自分は仁式に酷い態度を取った。
しかし、仁式のあの黒い異形の姿を思い出すと、怖いという感情が渦巻いた。
「はいよ、味噌チャーシューと塩バター、餃子二つね」
注文したものが置かれ、二人は手を合わせた。
仁式はヘアピンを取り出して、前髪を分けて留める。
それがやけに可愛らしい、小さな花にピンクのラインストーンをあしらったものだったので司良は仰け反ってしまった。
「仁式さん、それ、仁式さんの趣味ですか?」
それ、と言いながらヘアピンを指すと、仁式はいや、と言いながらそれを撫でた。
「八速にもらった」
「え、亜美さん結構可愛い趣味……」
「あいつはまた違う友達にもらったんだそうだ。捨てていいと言われたから捨てるって言ってたのを貰った。飯食うのに髪が邪魔だったから」
じゃあ切れば良いのに、とも、亜美さんって結構酷い、とも言わなかった。
言わずに、初めて露になった仁式の顔をじっくりと眺めた。
端整な顔立ちをしていて、仁式の落ち着いた雰囲気とも合っており、童顔と言われがちな司良は少し羨ましかった。
しかし、そんなことをしている場合ではないと思い直す。
まだ、司良は仁式に訊きたいことがあった。
「えっと、邪心を持った人って、どうやって分かるんですか」
「電話帳の『し』のところに、うちの電話番号が見える。その人は邪心持ちだ」
へえ、と流そうとして、司良は引っ掛かりを感じた。
「俺も見えたんですけど……」
そう言うと、仁式は同情を露に司良を見た。
そして、上から下まで視線を巡らせ、溜め息を落とす。
「やっぱり気付いてなかったか。お前は、十分に邪心持ちだよ。多分……自殺志願」
司良の身体が固まった。
箸に絡んだ麺が丼に落ちる。
自分と仁式とそれ以外に境界線を引かれたかのように、司良は周りが真っ白になっていくのを感じた。
そして自分を振り返る。
見たくないものを無理に見せられたように、息が苦しい。
この長い不調、倦怠感、厭世感、胸苦しさ、それらは。
「そう、ですね……そうだと思います。いつもぼんやりと辛かったけど、死にたかったんでしょうね……」
その理由は言わない、いや、言えなかった。
「ああ、俺の方も、邪念持ちから電話が来たのに、泊めてくれじゃなくて仕事くれって言われたから驚いたよ。でも、会ってもっと驚いた。お前の邪心は、普通なら心の全てを支配していても良いほどに膨れ上がってるのに、お前の中では不安定ながらバランスが取れてるんだからな」
「え、っと……?」
また、意味の分からないことを言われた。
仁式といると分からないことばかりだ。
司良が理解できていない様子なのを見て取って、仁式は説明を加える。
「つまり、例えるなら目隠しして後ろ向きになって平均台の上を歩いてるようなもんなんだ、今のお前の状態は。しかもそれで何故かちゃんと前に進めてしまっている。お前、うちに来てからまだ一度も笑ってないぜ。気付いてたか?」
「……いえ、そうでしたか?」
全く、気付いていなかった。
「ああ。そのうちに邪心を切り離してやろうと思ったんだが、お前の心の核とべったりくっ付いてしまって、無理に剥がすとお前の精神が先に壊れちまう。難しい事例だな、それは」
「はあ……」
「それに、折角見付けた『力』の持ち主だったんだがな」
「へ?」
「お前に見せたあの、福沢諭吉の紙。あれ、人外のものを見る力のある人間だけが読めるよう術が掛けてあったんだ。だから、採用するのを決めた。俺以外では初めての人間の従業員だから色々と助かるなとも思ったし」
「ええ? じゃあ、あの人達は……?」
「全員、妖怪だ」
きっぱりと言って、餃子を口に放り込む。
咀嚼する動きが続き、喉が蠢いた後、水を流し込む。
「話を戻すが。俺は麗木に辞められるのは気掛かりだし惜しいと思うが、それを止めようとは思わないし、これからどうするかはお前の自由だ。まあ、どうしようもなくなったら電話帳を捲ってくれりゃ、助けてやれるけど」
仁式はそれで話を終えるつもりのようで、懐から封筒を出して司良の方に滑らせた。
指はほっそりとしているだけでなく、白い。
よく見てみれば仁式は、どこもかしこも白かった。
顔も首も腕も。それが黒々とした髪や衣服と好対照で、ほっそりとした容姿と相成って儚い印象を与えそうだが、仁式は逆に一本芯の通った強さを窺わせている。
先に食べ終え、仁式から目を逸らした司良は、することも無くなり封筒の中身を確認する。
六万八千円。七日働いてこれだけの給料を貰えるというのはとんでもなく良い条件だったが、仕方ない。
「残業手当は時給千五百円だから」
最後の餃子を食べ終えて飲むタイプの口臭ケア剤を水で流し込みヘアピンを外しながら、仁式は追加事項を口にした。
「……あの、最後に一つ訊いていいですか」
「何だ」
「あの邪喰いですか、とっても辛そうに見えたんですけど」
「まあ結構、切り離す時と飲み込む時が苦しいし、吐きそうになるし、怖いな」
「怖い?」
「邪心は、相手の一番辛い記憶の塊だ。時には俺まで引き摺られそうになるよ」
「……そんなにつらいのに、どうしてその仕事を?」
仁式は、虚を突かれたように司良を見た。
「それ、訊きたいのか?」
「ええ、……話して頂けるなら」
白い髪を弄りながら考える。
「それは、殺人事件も自殺もなくならないのに、どうしてこんな仕事をしているのか、という意味で訊いているのか?」
「ええ、それも含めて」
「言いたくないと俺が言ったら?」
「……それは、諦めますけど」
冗談だ、と言って仁式は司良から目を逸らした。
「確かに殺人事件も自殺も無くならないだろうな。でも、こういうのは数字じゃないと思う。広く見れば人間は数字に変換されてしまうだろう。けれど、その数字の全てに人生があって、そのたった一つの数字に死んでほしくないと思う人はいるんだ。俺に全てを救うことはできないが、それで平安を得る人もいるんだから、無駄ではないと思っている」
そう言う仁式に、司良は違和感を感じた。
何故か、それは本音ではないのだと、直感で感じてしまって。
そんな麗木の様子を見て、仁式はにやりと笑った。
「信じてないって顔だな」
「そ、そんなことは……」
「まぁ、今のは人前で言える建前ってところだな。俺も何年か前まではお前と同じ考えだったよ。何故、無くなりもしないことのためにこんな仕事があって、しかも、俺にその力があるんだって。だから偉いことを言う資格は、本当は無いんだけどな」
で、と仁式は頬杖を付く。
「本当の『俺自身』の理由は、多分、麗木が自殺したい理由と半分くらいは似る」
がたっ、と司良は立ち上がり掛けたが、それより早く仁式に肩を掴まれ、また椅子に戻った。
「……俺が自殺したい理由、知ってるんですか?」
「全部は知らない。俺は何でも解る訳じゃないからな。けれど、お前の邪念に毎日接してれば、少しは分かることもある」
「もう半分は?」
「……証明、だ」
仁式の目が鋭く輝いた、ように見えた。
「証明?」
「証明」
「何の?」
仁式は、ふっと笑みを落とした。
それ、に、胸が締め付けられた。
「ヒミツ」
仁式は俯き、その口元だけが暫く覗いていたが、やがて笑みの形の口も一本の線のようになり、何の感情も籠もらない表情を司良に向けた。
「お前、大学に入った頃は何してた?」
「何って……真面目に授業出て、バイトして、飲み会も結構行ったし、それから彼女と……会ったりしてましたよ」
「同じだよ」
「はい?」
「俺も、大学に入った頃はそんなもんだった」
「本当ですか? ていうか、大学行ってたんですか」
「行ってたさ。俺を何だと思ってるんだ」
「スミマセン……なんか、仁式さんって浮世離れしてる感じが」
「そうか? 日本には義務教育だってあるし、勉強はしたぞ。大学だって真面目に通った」
仁式は、偏差値が日本でも指折りの高さの大学の名を挙げ、司良をもう一度驚かせた。
「想像もつかないだろ。俺自身、こうなるなんてずっと思ってなかった。こう見えてな、バリバリの体育会系だったんだぜ? そもそも俺は人と違う家業も、自分も、嫌だった。だから高校からは東京にスポーツ留学して家から逃げてたし、そのせいで言葉は未だに直らない。でも、今ここでこうしてるのも、後悔はしていない」
心底驚く司良を尻目に、仁式は伝票を手にして立ち上がった。
「じゃあ、達者でな。やばくなったらいつでも来い。それから。月並みだけど」
仁式の手が、司良の頭に置かれた。
冷たいかと思っていたが、案外温かくて、そう言えば最後にこんな風に誰かに触れられたのはいつだったか、司良は考えた。
「変えようと思えば、変えられる。這い上がってこられるか、そのまま堕ちていくかは、お前の手の中だ。健闘を祈る」
すっと離れる体温。
それが惜しいと感じたのは無意識で。
ひらりと手を振って羽織を羽織り会計をしようとする、その裾を、司良は捉えていた。
「何だ?」
何故引き止められたか分からず、仁式は首を傾げる。
「俺の邪心、切り離せますか」
「まあ、時間は掛かりそうだけどな。依頼か?」
「いいえ……いえ、そうなんですけど……」
「はっきりしろ」
「俺、いつか死にたい理由を仁式さんに話します。今はまだ、言おうとすると苦しくて……でもいつか、聞いてくれますか」
「お前が話したいのなら、聞く。言えるまで待てって言うなら、いつまでも待つ」
「それから、もう一度笑えるようになりたいんです。笑い方を思い出したいんです」
「そうか」
「だから、だから……依頼したいんですけど」
「ああ、いつでも請ける」
「でも、金がなくて、それで、」
「それで?」
「辞めたいって言ったの、無しにしてもらえませんか」
言い切った安堵から、司良の口から、は、と吐息が漏れた。
「あんなに怯えて逃げたくせに?」
「それはその、すみませんでした」
「……お前はそれで良いのか?」
「いいです」
「俺はこれからもあの姿になるぞ」
「はい」
「こき使うし」
「それは俺がそう望んでるから良いです」
「危ない仕事もあるかもしれない」
「良いんです。お願いします」
深々と司良は頭を下げた。羽織の裾を握った手はそのままで。
仁式が良いと言うまで外れそうに無い力を込めて。
「……今日、仕事をサボった罰として明日は八時に出て来いよ」
「はい、有り難う御座います!」
今度こそ会計を済ませ、仁式は店を出て行った。
翌日、七時五十分に下紅戯屋の従業員の荷物置き場に行くと、旅館の羽織の紐を結んでいた鍋島が驚きの表情を向けた。
「お早う御座います」
「お早う。てっきり辞めるんだと思ってたよ」
「辞めようと思ったんですが、辞めるの止めました」
「ややこしいなあ」
鍋島は苦笑いして、衿を正した。
「優しいだろ、ナオサン」
「ああ……ええ、何となく分かりました」
優しいと言われて思い出すのは、あの不思議な色の笑み。
仁式も何かを抱えているのだろう、それを忘れることもそれから逃げることもせずに向き合ってここにいるのだろう。
あの笑みの中に映る自分の姿を見つけた時、その卑小さに怒りが湧いた。
司良は忘れてはいなかった。けれど向き合ってはいなかった。
そして激しい感情をまだ持っている自分を、忘れていたことに気が付いた。
「司良君、そろそろ行くよ」
「あ、はい」
声を掛けられ、急いで羽織を羽織る。
鍋島と共に事務室に顔を出すと、帳簿を付けていた仁式が顔を上げた。
「お早う御座います」
「お早う御座います」
鍋島、司良の順に挨拶をする。
「お早う。麗木、庭掃除してこい」
「はい」
司良はタイムカードを切ると一礼して出て行った。
それを見送り、鍋島は仁式の目の前に手を置いた。
いや、正確には、仁式の目の前の業務日誌の上に、である。
仕事の邪魔をされた仁式はぎろりと鍋島を睨むが、幾ら仁式が陰陽師であったとしても、鍋島とて見た目とは裏腹に齢数百年を生き抜いてきた妖怪である。
簡単に気圧されはしない。
「おい、仕事の邪魔だ」
「まだ始業時間までにはちょっとあるよ」
そう言うと、仁式は横目で時計を確認して、顎で鍋島に話すよう促した。
「良いのか? 司良君」
「何が」
「ここに置いておいても。ナオサンのこと、ばれちゃったんだろう? 豆太から聞いたよ。記憶を弄る予定じゃなかったのか」
「それについては本人から撤回の要請があったから、承諾した」
「どうして?」
「不安か?」
「当然だよ。一緒に働いていくのに、また逃げられるようじゃ困るんだ。それに、こっち側のことをうっかり誰かに漏らされでもしたらどうするんだよ?」
「普通は信じないと思うぞ、陰陽師と妖怪が経営する宿なんて」
「でも、万が一ということもある。ナオサンは楽天的過ぎるよ」
そうだな、と仁式は肯定し、しかし、と続ける。
「麗木は間違いなく人間だから、色々と助かってるのは嘘じゃない。見えるし、強くは無いが『力』もある。あいつとは魂の波長も合うんだよ、珍しいことに。それに、奴は俺に依頼したいそうだ。自分の邪念を祓うのを」
「……本当かい?」
「ああ。それと、逃げるかどうかということに関しては、もう心配しなくて良い。お前達の正体を知っての上での辞職撤回だ」
「言ったのかっ?」
「言った。それに、俺のことも全部言った。それでも良いと。だから、改めて受け入れることにした。なかなか、しなやかな男じゃないか」
初めて麗木を人間として誉めて、仁式は帳簿の上の手を払う。
そしてかつかつと続きを書いていく。
書きながら、動く気配の無い鍋島に話し掛けた。
「まだ納得できないか」
「……いえ、そんなこと、」
「態度が気に入らなけりゃいびり出せば良い。得意だろ?」
「一言余計だけど、それは彼の態度を見て決めるよ」
「そうしてくれ。一先ずは今まで通りで頼む」
そして時計に視線を走らせる。
「始業時間だ。仕事に入れ」
「はい、失礼します」
鍋島も一礼して出て行く。
仁式は、出勤簿の司良の名前を、ペンの頭で叩いた。
「人間とは、二度と付き合わないつもりだったんだがな」
その呟きを聞く者はいなかった。
仁式は備品表に印を付け、去る客を見送るために立ち上がる。
「邪心」の持ち主だった岡村は、仁式に「邪心」を喰わせて、文字通り憑き物の落ちたすっきりした顔をしていた。
きちんと畳まれた蒲団、空になっている食器が安定を取り戻した彼の精神状態を表しているようで、仁式は嬉しくなる。
「岡村様、お早う御座います」
「あ、お早う御座います」
「よく眠れましたか」
「ええ、お世話になりました」
岡村は、深く頭を下げた。
「バス停まで、荷物をお持ち致します」
来た時には自殺道具が入っていた、今はそれが捨てられた分軽くなった鞄を、仁式は持ち上げた。
そして仁式と岡村は、最寄のバス停を目指して歩く。
「支配人さん、身体、大丈夫ですか?」
「慣れておりますから。こちらこそ、無体な真似を致しました」
「いいえ、有り難う御座いました」
ひんやりとした朝の空気を、山本は胸いっぱいに吸い込んだ。
「良い天気だなあ……」
「そうですね」
「こんなに綺麗なのに、見ないなんて勿体無いことをした」
小さくバスの姿が見えた。京都市バスの、京都駅行き。
「それでは、お世話になりました」
「これからは、ほどほどに緩やかに生きていって下さいね」
「はい、次は普通に観光しに来られるように、頑張ります」
「次はうちには来ないで下さいね。京都には、うちよりもっと良い旅館が沢山ありますから」
岡村はぷっと吹き出した。
「旅館経営者がそういうこと言って大丈夫なんですか?」
「ええ、全く問題ありません」
仁式は岡村の荷物を渡した。
「支配人さんも、お元気で」
岡村は深深と頭を下げると、バスに乗り込んだ。
バスは透明な温度を吐き出しながら人の世界に走り去る。
岡村の後頭部が小さくなって。
それが完全に見えなくなってから、仁式は宿に戻った。
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