一、麗木司良
面接玉砕二十二件目。
その前の段階、電話で断られたのを合わせると、八十件目。
麗木司良はぼうっと天井を見上げていた。
つい一時間ほど前に首に巻いたばかりのタオルがもう汗を吸い込んでじっとりと重くなり始めており酷く不快なのだが、今は冷房を動かす金すらも惜しい。
額に浮いた汗を半端に湿ったタオルで拭って、貼り付いた髪を掻き上げた。
天井の染みをじっと見詰める。
それが何かの模様に例えられないのが残念だ。
現在、七月末日。
ずっと貯めていた貯金はみるみる目減りし、尽き掛けている。
司良は今年、京都の大学を卒業した。
しかし、就職活動も大学院への進学も何もしなかったために、現在見事な無職。
働く気はあったのだが、その頃司良は就職活動をできるような状態では、なかったのだ。
暫くは、学生時代に真面目にバイトをして貯めた金プラス親の仕送りプラス短期のバイトで食い繋いではいたものの、そろそろ焦らなければいけない時期だった。
いい加減に親の脛を齧っているのも心苦しい。
安定した収入を得て自活して、冷房くらい好きに動かせるようにならなければと思ってはいる。
が、何とか電話段階を突破し、勢いを付けて面接に挑んでも、落ちること滝の如し。
頭を使う仕事はしたくなかった、毎日へとへとになって蒲団に転り込むような生活がしたいと真剣に思っているが、正直にそう言ったために全敗している。
不真面目に仕事をするつもりなど全くないが、理念も無く、理想も無く、夢も無く、しかもそれを馬鹿正直に言ってしまう、そんな人間を雇ってくれる奇特な会社などあるはずも無い。
だが、面接先の気に入るような綺麗な理由を捏造する元気すら無いのである。
我ながら馬鹿なことをしている自覚はある。
だが、あるだけで全く活かされていない。
電話をし、運良く面接に漕ぎ付けても、面接が終わると共に不採用宣告をされて力尽き、アパートの自室で転がるという日々を送っていた。
前の面接で不採用の即決を受けたのが一週間前。
そして電話で断られて五件。
そろそろ次を探さねば、と司良は電話帳を捲った。
肉体労働のできそうな職場。と条件を掲げて探していく。
「これでいっかなあ……」
下紅戯屋。旅館、となっている。
したこうぎや、と読むのだろうか。
雑用係としてでも雇ってもらえればいいのだが、と、司良はその番号を押す。
呼び出し音が三回。
「はい、こちら下紅戯屋です」
低く、よく通る声が流れ出した。
したこうぎやではなく、しもこうぎやと読むらしい。
先に名乗ってくれて助かったと司良は胸を撫で下ろした。
本題に入る前から心証を悪くしてはたまらない。
「もしもし、突然で申し訳ありませんが、そちら、従業員の募集はなさってらっしゃいますか?」
何故か沈黙が落ちる。そのまま十秒ほど後に、
「従業員……ですか」
と呆気に取られたような答えが返ってきた。
これは駄目だなと見切りを付け、謝って切ろうとした時。
「そちら……貴方のお名前を教えて頂けますか?」
意外な事を聞かれ、司良の声が詰まった。
「う、麗木司良です」
やばい噛んだ、と思ったが、相手はただ、
「ウララギシロウさんですね?」
と繰り返した。
「はい、そうです」
答えると、先ほどよりは短い沈黙の後、
「現在、正社員は募集していないのですが、アルバイトであれば仕事があります。いかがですか?」
と答えが返ってきた。
司良は正社員ではなくアルバイトという待遇に少し迷ったが、この好感触を逃せない、とすぐに迷いを捨てた。
「アルバイトで結構です」
そう答えると、
「では、面接をしたいと思いますが、いつがよろしいですか?」
と問われた。
「できれば明日にでも」
今度は考える間もなく即答する。
「分かりました。うちの場所はご存知ですか?」
「え、と……いいえ、分かりません」
電話帳で適当に調べたので、住所なんて知らない。
「では、修学院離宮への行き方は?」
「それは分かります」
「その前の、修学院離宮道沿いです。離宮道に入ったら教会が見えると思います。直進して信号を二つ越えた所にあります。道の左側で、看板も出ていますから、すぐに分かるはずですよ」
「はい、分かりました」
「では、明日の午後二時からでよろしいですか?」
「はい、よろしく……あ、履歴書とかは……」
「それは採用するかどうか決めてから頂くことにしてますから、明日は手ぶらで大丈夫ですよ」
「分かりました。宜しくお願いします」
失礼します、と言って麗木は電話を切った。
そして、慌ててコンビニに向かう。
実は司良は、京都に住み始めてからこれまで、修学院離宮など行ったことが無い。
だから、京都市の地図を購入したのだった。
翌日、司良は自転車を修学院離宮に向けて走らせていた。
時計で時間を測ると、ほぼニ十分経っている。
通うには近い距離とは決して言えないが、今の自分には丁度良いと司良は思う。
言われた通りに教会を横目に通り過ぎ、二つ目の信号で自転車を下りた。
夢中で漕いでいてあまり気付いていなかったが、ずっと上り坂で大分息が上がっている。
汗が目に入って沁みた。
ぐいっと手の甲で汗を拭い深呼吸をし、息を整えて、自転車を引いていく。
個人商店が並んでいる道を、左側、左側、と呟きながら歩いていくと、「下紅戯屋」の看板が見えた。
現在は茶色くなっているが元は白かったと思われる木の板に、楷書体で書いてある。
薄っすらと黄ばんだ塀は古いがきちんと手入れが行き届いて、蔦も絡んでいない。
門の傍からにょきりと頭を出している梅の木は巨木と言える大きさで、そのままでも見惚れるような美しい枝振りの木だが、春ならば花を咲かせて彩を見せるだろう。
平屋のこじんまりとした旅館で、瓦葺きの屋根が美しい。
何もかもが時代と風格を感じさせる。
観光客や住民が行き交う通りに面しているのに、何故か其処だけが切り離されたように静謐な雰囲気で。
隠れ家と呼ぶのが相応しい。
こんな凄い所に電話してしまったのかと少し後悔しながら、時計を確認した。
現在一時五十二分、これくらいなら早過ぎるとは言われないだろうと判断し、自転車を門の外に置いて引き戸を開けた。
下紅戯屋と染め抜かれた暖簾に頭を突っ込み、
「すみませぇん」
と声を張り上げる。
「はぁい、暫しお待ちを」
奥から声がする。電話の声。
ややあって、手拭いで手を拭きながら男が現れた。
細いと言うよりいっそ華奢と表現した方が合うような体格で、季節に合わない彼岸花の模様の黒い着物に朱と紅の格子の帯を締め、黒に紛うほどに濃い藍色の羽織を纏った男である。
髪は首筋にも耳元にも掛かっていて長いが、それよりも、前髪が一房だけ白いのが目を引く。
顔の半分近くがその白い髪で隠されている上に、露わになっている右目の目付きが鋭く、笑顔だが気圧される強さがあった。
男はすっと膝を付く。
「御宿泊ですか?」
「あ、いえ、ええっと……昨日、お電話しました……」
どもる司良に、男が気付いた。
「もしかして、昨日お電話下さったウララギさんですか?」
司良がこくこくと頷くと、男の表情から鋭さが消える。
そして男は小さく頭を下げた。
「お待ちしておりました。ところで、何でここまで来ました?」
「自転車です」
「それなら、それを裏口から中に入れて、従業員用の出入り口から入ってきて下さい。裏口は、右手から回るとすぐですよ」
「はい」
言われた通りに自転車を裏口から中に入れて、従業員専用という看板のあるドアから中に入る。
すぐに男がやってきて、司良に上がるように促す。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。では、どうぞこちらへ」
男は衣擦れの音と共に立ち上がる。
くるりと背を向けると、鮮やかな赤色で円と、その中に紅と書いてあるのが見えた。
廊下はひんやりしていて、司良の汗が引いていく。
男は司良を座敷に案内した。
そこには既に座布団が向かい合わせで敷いてあり、男が入り口側の座布団に腰を下ろし、司良が奥側の座布団に座った。
「珈琲と紅茶と緑茶、どれがお好きですか?」
「あ、何でも大丈夫です」
そう言ってから、何かリクエストした方が良かったかと思う。
が、男は気にした様子もなかった。
二人分の湯飲みと急須を出して茶を淹れている。
「どうぞ」
「はい、頂きます」
司良は茶を一口啜り、ほうと息を吐く。
男も同じように一口啜ると、メモ帳を取り出した。
「では、そろそろ始めましょうか」
「はい」
「採用するかどうかにあたって幾つか質問をさせて頂きます」
「はい、よろしくお願いします」
「まずは、お名前がどういう字を書くのか教えて下さい」
「ウララギのウララは麗しいという字で、ギは植物の木です。シロウは、司るに良いで司良と書きます」
「変わった字ですね」
「よく言われます」
うららぎしろう、と口の中で呟きながら、男は袂から筆記用具とメモ用紙を出し、そこに司良の名前を書き付けた。
「お幾つですか?」
「今年、二十三になります」
ほう、と口だけで呟いて、男は頬を掻く。
「失礼かも知れませんが、年齢よりも若く見えますね。十代かと思いました」
「それも、よく言われます」
「それで、どうして君はうちを希望したんですか?」
司良は来たかと思いながらも、いつもと同じ理由を述べた。
「とりあえず肉体労働ができそうな所を探して電話帳を捲って、見付けました」
しかし男は
「そうですか」
と言って、納得したように小さく頷いただけだった。
これには司良の方が拍子抜けしてしまう。
男はそんな司良の様子には頓着せず、
「では、これを読んでみて頂けますか」
と言いながら懐から紙を一枚出した。
「はあ……」
司良はそれを受け取った。
書いてある言葉は、何の変哲も無いもの。
司良の眉間に皴が寄ったが、書いてある通りに読み上げた。
「『福沢諭吉は潮干狩りに行って財布を落としました。』」
変哲はないが、意味が分からない。
「はい、有り難う御座います」
男の手に戻ったそれは、折り畳まれて懐に入れられる。
その文章が何なのかは説明されず、司良は首を傾げていたが、
「結構です。採用しましょう」
と即決されて、今度はうろたえた。
志望理由はいつも面接官に嫌われるそのものだし、あの文章がそんなに重要なものだったかと思い返してみるが、やはり、司良には意味不明の文章だ。
司良が考え込んでいると、男が司良の名を呼んだ。
「本採用の前に言っておきたいことがあります」
男の表情がひどく真摯だったので、司良の背筋も伸びる。
「この旅館には、普通の旅館と違うところが幾つかあります」
「た、たとえば?」
「そうですね、分かりやすい例としては、通すお部屋によってお客様への対応が変わることです。あるお客様は放置し、あるお客様は持て成す。そして、それを疑問に思ってはいけません。知ろうとせず、淡々と仕事をこなして頂きたいのです。可笑しなことを言うとお思いでしょうが、それができるなら、貴方と契約しましょう。嫌だと仰るなら、お帰り下さい」
柔らかく、男は言う。
「あ、あの、俺……は……」
戸惑い、語尾が小さくなっていく司良に、男の言葉が重なる。
「別に帰ったからと言って怒ったりしませんよ。こんな意味の分からないことを言われたら悩むのが普通でしょう。よく考えなさい。返事は待ちます」
「いつまでですか?」
「今週中まで、ですね。それまでに連絡が無ければ、この話は無かったこととします」
今週中。何だか妖しいが折角採用すると言ってくれたのだし、今は無職で今月の家賃の払いをしてしまったら家計は危ないし他にも諸々の支払いをしなくてはならないし。
様々なことが頭の中を駆け巡って、司良の困惑は長くは続かなかった。
「は、働きます!」
「……よく考えましたか?」
「はい、考えました! 大丈夫です」
男は小さく溜め息を吐いた。
「念のため、もう一つ行っておきます。うちは見掛けは小さい旅館ですが、仕事はハードです。基本的に雑用ばかりですが、それでもよろしいんですね?」
「はい、それで結構です」
「分かりました。何時間ほど働けますか?」
「朝から晩まで大丈夫です」
「週に何回程度?」
「月曜から金曜までいつでも。週七日でも平気です」
「それは有り難い。では、勤務時間は朝九時から夕方六時まで九時間、十二時から一時半まで休憩で土日休み、時給千二百円、残業代、休日出勤手当有り、給料日は毎月十五日、という条件でいかがでしょうか」
サラリーマンのような勤務条件だと思ったが、金の無い身としては有り難い。時給も非常に良い。
「結構です、それでお願いします」
司良が了承すると、男はメモに自分で言ったことを書き留め、司良に渡した。
男の字は、その外見を裏切らず流麗だった。
司良はメモを折り畳み、腰に下げているポーチに捻じ込む。
「正式な契約書は後日お渡しします」
「はい、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ。申し遅れましたが、私はこの旅館の支配人の、仁式と申します。一緒に頑張りましょうね」
眩しいものを見るようにして仁式は笑う。
すると目元の鋭さが落ちて、少し親しみ易い表情になった。
「今日はとりあえず従業員を紹介して、うちの間取りを教えますから、付いてきて下さい」
「はい」
仁式はすっと立ち上がる。
司良も釣られて立つが、足が痺れていてバランスを崩した。
机に頭から突っ込みそうになり、慌てて手を付く。
真っ直ぐに立てずに四苦八苦している司良の腕を、仁式が強く引っ張った。
「大丈夫ですか?」
「はい……」
「うちでは正座のままで接客をする機会もよくありますから、慣れて頂かないといけませんね」
司良が歩けるようになるのを待って、仁式は歩き出した。
痺れの余韻で揺ら揺らとしながら、司良はその後を追う。
まず案内されたのは、「従業員専用」と書かれた札の下がっている座敷。
「入るぞ」
言うなり仁式は襖を開けた。
そこでは、仁式と同じ羽織を羽織った男女四人が寛いでいた。
男性二人、女性二人。
机の上には食器が上げられている。
四人は仁式と、その後ろの司良を見て食器を重ねて整頓し、背筋を伸ばした。
仁式はやれやれと肩を竦めると、司良を見た。
「麗木さん、彼等がうちの従業員です。まず、番頭が二人おります。こちらが小林豆太」
呼ばれた男が手を上げる。
眉が少少太めで目が大きすぎる感があるが、全体的には爽やかそうで、なかなか好い男である。
「それから、鍋島舞太郎」
小林が手を下ろし、もう片方の男が手を上げた。
肩に厚みがありがっしりとした体格で、浅黒く鰓の張った顔の真面目そうな好青年といった様子だ。
「そして、仲居も同じく二人。こちらが天野羽菜」
目のぱっちりとして唇のふっくらとした、ショートヘアの女性が高々と手を上げる。
返事する声も笑顔も、その容貌に合っていて愛らしい印象だ。
「最後に同じく仲居、八速亜美」
顔の横で女性が手を上げた。
眼鏡を掛け、切れ長の目に薄い唇、髪を清楚にアップし落ち着いた印象を与える、天野とはまた違ったタイプの美人である。
「その子、何? どうしたのぉ?」
天野が興味津々といった様子を隠しもせずに訊ねてくる。
「明日から働いてもらうことになった、麗木司良君だ」
「よろしくお願いします」
司良は頭を下げる。
「え、雇ったの?」
「本気か?」
従業員達は一様に驚き、仁式と司良を注視する。
「大丈夫、試験はやった」
仁式が答えるとまあ、とか、それならという囁き声が聞こえ、先程の文章には何か意味があったらしいと司良は確信した。
その重要性は彼等には分かっているらしい。
「それに。彼はうちに、電話してきたんだよ」
仁式が付け加えた言葉に、一同が納得する気配がした。
あの紙を読んだことと電話したことが何故採用される理由として納得される要素となるのか、司良の混乱はますます強まり採用を辞退しようかとも思うが、あんな暴言を吐いても採用してくれる所など……恐らく、ここだけだろう。
司良が自分を納得させていると、仁式が司良に振り返った。
「お客様のお世話をするのはここにいる四人と、それから今はおりませんが夜だけ働いている、干野月光という男がいます。そのうち機会があれば紹介しましょう」
「はい、よろしくお願いします」
従業員達は口々によろしくと言い、頭を下げた。
「お前等、仕事は時間通りに始めろよ。それからそこ、味噌汁が零れてるから拭いておけ」
仁式の言葉には
「はぁい」
と揃った返事が返され、それを聞きつつ二人は座敷を出た。
「次は厨房に行きましょう」
厨房は従業員用座敷の更に奥だった。
「焚田さん、入るぞ」
仁式が中に声を掛けて、暖簾を潜る。
中では、老人が一人、じゃが芋の皮を剥いていた。
「麗木さん、こちら、お客様にお出しする料理から我々の賄いまで、料理を全て担当している焚田昇平さんです」
自分の名を呼ばれた時だけ、老人は眼差しを司良に向けたが、すぐに興味を失ったようにじゃが芋に視線を戻した。
「焚田さん、彼は麗木司良。明日からアルバイトとしてここで働いてもらう」
ほう、と焚田は呟いた。
「珍しい……というか、初めてだのう、バイトを入れるのは」
「そうだな」
「良いのかい、直坊」
「ああ、もう決まった」
「それなら文句は言わないさ」
ここの主はお前さんだからと焚田の手と口が一緒に動く。
「さて、うちの従業員はこれで全員です。もう少し、中を回りましょうか」
中、と言っても、仁式自身が言うように、この旅館は平屋なので、それほど大きいとは感じなかった。
その代わり、平面に広かった。
「この旅館は、外からは分かりにくくなっていますが、二棟が続いています。私達のいるこの棟は、従業員用です。他の旅館なら事務用の部屋が一室と更衣室があれば事足りるんですが、ここの従業員達は全員住み込みでして。だから、大勢が生活するのに不自由ないように作ってあるんです」
その言葉に、麗木はさすがに驚きを隠せなかった。
「え、全員住み込みって……どういう関係なんですか? 親戚か何かですか」
「全員他人ですよ。ちょっとした事情がありまして、皆一緒に暮らしてるんです。……さて、厨房の他には、物置とリネン室と更衣室に仮眠室兼休憩室……さっきの部屋ですね、それから向こうの右側が風呂場、左がトイレ、一番奥に私の私室があります。客間を見せますから、こちらへ」
客間は、渡り廊下を挟んで隣りの棟である。
そこは仕事場の棟よりも一部屋ごとの間取りが大きく、余計な物は置かず、寛げる場所として磨き上げられ、花が飾られたりしていた。
夏の涼しさを重視してか、北向きにずらりと並んだ部屋。
その前で、仁式は足を止めた。
「客間は全部で六つあります。奥から順に、『海の間』、『山の間』、『空の間』、『天の間』、『地の間』、『鴉の間』となっていてお客様を何処に通すかは私が決めています」
「質問良いですか?」
「どうぞ」
「どうして一つだけ『鴉』なんですか? 他は全部自然っぽい名前なのに」
「さあ、私は知りません。下紅戯屋が出来たのは明治の終わり頃ですが、当時からそうだったとだけ聞いておりますよ」
漆塗りの板に「鴉の間」と書かれ、黒い鳥、恐らく鴉の絵がその字を囲んでいる。
おかしな名前の「鴉の間」だが、中を覗くと非常に豪華な部屋だった。
控えの間に本間があり、縁側があって中庭に出られるようになっており、書院造の棚と床の間も付いている。
床の間には白い香炉が置いてあった。
部屋には香が染み付いているのか、仄かに甘い匂いがする。
他の部屋も全て見て回ったのだが、「鴉の間」が一番広くて、手が込んでいた。
「麗木さん、他にも覚えてもらいたい部屋が少しありますから付いて来て下さい」
「あ、はいっ」
一度戻って渡り廊下に出る。
先ほどは説明を聞いていて叶わなかったので、司良は坪庭をじっくりと眺めた。
一見無造作に置かれているように見える岩。
突如出現したような石灯籠。
適当に生えているように見える草木。
しかし司良は、それにむしろある種の整然さを感じた。
見せる事を計算して作られた庭。
二人は渡り廊下のほぼ中央で足を止めた。
「この庭は、私が自分で手入れしているんですよ」
「自分で? この岩とかも?」
「それは昔からありましたが、あの塀の所にある小さい木は私が自分で植えました」
「植木屋さんとかは?」
「呼びません。あまり、人にここを弄られるのは困るので」
そこも拘るのか、と思いながら司良は仁式の背に付いていく。
次に案内されたのは掃除用具やら普段は使われないのであろう雑貨類やらが詰まった物置と、蒲団が置いてある「リネン室」という名の座敷。
最後が更衣室であった。更衣室は木の板で男女別に分けられていて、畳の上直に小さなロッカーが置いてある。
「元は客間だったのを改造したのでこんな妙な作りなんですが、勘弁して下さいね。鍵は明日渡します。あまり大きい荷物は持って来ないように。男性従業員の服装規定はあまり細かくありませんが、上着は白いシャツかワイシャツに羽織が規定です。羽織は自分で管理して下さい。但し、汚れたり破れたりした場合は自分で何とかしようとせずに、私に申し出て下さい」
「はい」
「他に何か質問はありますか?」
司良は少し考えた後、
「仁式さんの下の名前は?」
と問うた。
が、その瞬間、仁式の眉間にぐわんという勢いで皺が寄り、
「それは追い追い。後は?」
と思い切り誤魔化された。よほど言いたくないらしい。
司良はまたちょっと考えて
「特には」
と返事をする。
「では、明日からよろしくお願いします」
ああそうそう、と仁式は思い出したように付け加えた。
「明日から他の従業員と同じように貴方を扱います。バイトだからと言って甘やかしませんから、そのつもりで。それから、出入りするのは裏口からでお願いします。履歴書は今週中に提出して下さい。明日は初日ですから、荷物を置いたら事務所に顔を出して下さいね」
「分かりました」
司良はよろしくお願いしますと頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます