想いは粘着質

涙墨りぜ

想いは粘着質

 大雨の中、傘を盗られてしまった僕は、しかたなく鞄を頭の上に掲げて走っていた。

 前方にとぼとぼと、内股気味に歩いている傘をさした女子。

 僕は意を決して、その後ろ姿に声をかけた。

「おーい!」

 女子はびくりと体を震わせはしたが、立ち止まって僕が側に寄るまで待っていてくれた。

「あの、いきなりで申し訳ないんだけど、僕、傘盗られちゃって……この雨だし、悪いんだけど」

 僕が懇願の言葉を言い終えないうちに、その女子は僕に傘を押し付けた。

「え、あの」

「…………」

 無言のまま立ち去ろうとするその子を、僕は慌てて引き止める。

「ま、待って」

「……何?」

 じっとりとした目が、訝しげに僕を見る。

「何、って」

「傘、いるんでしょ」

「いや、だから、入れてくれないかなって、思って」

 僕がおかしいこと言ってるのか? いやでも、普通頼まれたからって傘渡して自分は雨の中徒歩で帰らないだろ。

「うん……だから、ね、何も傘を寄越せって意味じゃなくて」

「そうなんだ」

 少し困ったような、驚いたような顔でその子はそう言うと、こくんと頷いて僕の差し出す傘に入った。


「家、こっち?」

 そう尋ねると、また、あの怪しむような視線を向けられた。

「……私の住所なんか知りたいの?」

「いや、傘借りてるけど、家の方向違ったら一緒には行けないじゃん?」

 何だこの子。

「私の家なら今通り過ぎた」

「え?」

 はやく言ってくれよ……。

「ご、ごめん、あの、あれだったらもうここで」

「わかった」

 女子はすい、と僕から視線を外すと、傘から出て歩き出した。

「お、おい!」

 曲がり角を曲がった彼女を追いかけた、が。

「え、あれ?」

 その姿はどこにもなかった。

「うわ、なんだこれ気持ち悪い」

 道路の溝のあたりに、何やらべっとりとした肌色のものがついている。ペンキ……ではなさそうだけど、何だろう。

 まあそんなことはどうでもいい、あの子はどこだ?

 いなくなった女子を探して当たりを歩きまわってみたが、結局見つけることは出来ず、僕はその子の傘をさして家に帰った。




 傘を返そうと思ったが、女子の手がかりがなさすぎる。

 学校指定の制服にボブカット、傘はえんじ色っぽい無地の傘。

「どうするかなあ」

 だが、僕は意外にもすぐに、その女子を見つけることができた。

 それがいい形だったかは、別として。


「岡部、お前三木と付き合ってんの?」

「ミキ?」

 傘を家に保管したまま数日が過ぎた。

 隣の席の矢島から突然、やけに真剣な顔で尋ねられるまで、あの女子のことはほとんど忘れていた。

「三木涼子だよ。ほらあの、A組にいる」

「知らない」

 ミキは苗字か。ミキスズコ。うん、知らない。

「相合傘してたって噂になってる」

「……あー、あの!」

 僕は傘を借りた経緯を話し、返せるなら返したいから三木を知ってるなら会わせてほしい、と言った。

 だが、矢島の返事は意外なものだった。

「あのさ、三木には関わんないほうがいいよ」

「?」


 関わらない方がいい。噂になってる。付き合ってんの? ……か。


「何、三木っていじめにでもあってんの」

「あー、うん。まあな」

 矢島は噂好きで、それなりに学校内の人間関係には詳しい。

「ぶっちゃけた話な、お前には黙ってたけど、三木をいじめてるリーダーがさ」

「うん」

「お前のこと気になってたらしいんだわ」

「は?」

 何だそれ。僕もモテるのか、と思うと少し浮ついた気分にならないでもないが、この場合その話はめんどくさいやつだ。

「関口麻衣子っていってさ。三木の変な噂流したり、死ねとか学校くるなとか言っていじめてるんだ」

 三木の挙動がおかしかったのも、いじめられて怯えていたからだと思えば納得がいく。

「それで、三木に傘借りたのはまずいってわけか」

「うん」




 次の日、購買でパンを買った時、三木と偶然再会した。

「あれ、三木、さん」

「……あ」

 僕の顔は覚えていたらしく、少し目を丸くして会釈してきた。

「こないだ、ありがとう。あの、傘、返したいからさ」

「…………」

「また、どっかで渡せないかな、って、思うんだけど……さ」

 じっと見られるとなぜかたじろいでしまう。

 三木涼子はたっぷりの沈黙の後、口を開きかけた。が、そのとき。


「三木、なにしてんの」


 すくんだように硬直したのち、おそるおそるといったように振り返る三木。

 後ろには、一人の小柄な女子が立っていた。

「関口さん」

 あー、これが関口麻衣子か。でも意外だな。こんなちっちゃくて可愛い感じの子が、いじめっ子。

「な、なんでもなくて、これは」

 おろおろと、僕と関口を交互に見る三木。関口は苦々しげな表情だ。

「は。猫かぶりが。化け物、死ね、なんで学校来てんの」

「おい、なんかわかんないけど、そんな」

「来て」

 関口はいきなり僕の手をとって、ずんずんと引っ張って歩き出した。

「なんだよ」

「いいから」

 真剣な声色に、なんだか気圧されてしまい、僕は体育館の裏まで付いて行ってしまった。


「もう私が岡部くんのこと好きなのは噂になってるから知ってると思う」

 ここで告白? なんか、すごいな。そんな場違いなことを考えていると、関口はこう続けた。

「どうせ私は終わり。いじめてた奴に好きな男とられて笑い者。でもそんなのはもういい。もう、いい」

 関口は俯いたまま、僕にとんでもないことを言った。


「三木涼子は、ほんとに化け物なの」


 化け物? あんな虫も殺せなさそうな子が?

「前に、学校でウサギ飼ってたでしょ」

「うん」

「あれを、喰ったの」

「は?」

 関口の話すところによれば、三木は昼休み、誰もいないのを確認するようなそぶりをした後、突然右腕をスライム状に変形させたという。

 そして、ウサギの飼育ケースの隙間から差し入れ、ウサギを溶かしてしまった。

 肌色のべとべとに覆われ、ウサギはみるみるうちに小さくなってしまったのだそうだ。

 そのとき、とてつもない異臭がして、ウサギが溶かされていることがわかったという。

「それで」

「びっくりして、声をあげた。そしたら気づかれて、私思わず、化け物、って叫んで」

「……ちょっと信じがたい話だよね」

「わかってる。それで先生たちが飛んできて、でも、そう、私の言うことなんか信じてもらえるはずなくて」

 そりゃそうだ。僕だって半信半疑どころか、信じるほうがどうかしてると思ってる。

「言ったの、それ」

「言えるわけ、ない……」

 その後、ウサギは誰か不審者が校内に入って連れ去ったことにして、三木もその目撃者ということになった。

 それから、関口は三木を恐れるようになり、同時に友人らがいつ三木に襲われるかわからないと警戒し始めたのだという。

「信じなくてもいいよ、信じられないなら。でも、三木には関わってほしくない」

 好きだから。その言葉は、ずしりと心を重くした。




「肌色の、べとべと」

 思い当たるところは、あるのだ。あの帰り道、急に姿を消した三木。側溝にはりついた肌色の物体。

 あれは、確かにスライム状と言えばそんな感じだ。

「いや、でも、まさかね」

 そんな気味の悪い話があるはずない。そもそもヒトの腕がスライムに変形って、何だそれ。

 馬鹿馬鹿しい。そうつぶやいてベッドに転がった瞬間、玄関のチャイムが鳴った。


「はい」

 三木だったら恐ろしいな、と思ったが、インターホンの向こうにいたのは関口だった。

「岡部くん……」

 こわばった表情は、今日の昼休み、三木のことを話したときの比ではなく、僕にすがるような目さえ向けていた。

「とりあえず、上がりなよ」

 僕は玄関まで歩いて行って、家のドアを開けた。


 部屋に上がった関口は、きょろきょろと部屋の中を見渡した。それは好きな男子の部屋を興味深く観察しているというより、三木の痕跡がないことを確かめるような雰囲気だった。

「大丈夫、三木とはこないだはじめて会って傘借りて、そんで今日が二度目だから」

「……そう」

「何があったの?」

 関口は、しばらく黙って俯いていたが、小さくこう言った。

「三木涼子に、明日話があるって言われた」

「……うん」

「多分、もう我慢できないから、私を消すってことだと思う」

 話があるって言われただけで? 確かに関口の存在は三木にとっては邪魔だろう。スライム云々とか、そんなの抜きで。でもなあ。

 関口は小さく震えていた。本気で怯えきっている様子だ。

「大丈夫?」

「あいつのことを敵にしたときから覚悟はしてた、してたけど、でも。怖いよ。私もあんな風に溶かされるのか、とか、思ったら」

 とうとう泣き出してしまった。僕はティッシュを差し出しながら「でも、話がしたいだけかもしれないじゃないか」と言ってみた。

「違う、絶対違う。私にはわかる。あいつ……三木、笑ってたの」

 ウサギを溶かした時と、今日の放課後。それ以外に三木が笑顔を見せたことはないという。

「うーん、よくわかんないけど……そんなに心配なら僕が一緒に行こうか?」

「だめ、だって、三木が」

「まあ、一応ね? ヤバいと思ったら逃げるよ。だからさ」

 僕の家をわざわざ調べて来たってことは、助けを求めたかったんだろう。

 どこまで本当の話かわからないし、可能性としては関口の妄想、ってのが一番ありそうだけど。

「ありがとう」

 関口は涙を拭いて、少し笑んだ。

 なんだかその顔が、とてもかわいらしく思えて、僕はちょっと頬が熱くなるのを感じた。

「どうしたの」

「い、いや」


 帰っていく関口の後ろ姿が、なんだか小さく見えた。いや、小柄な子ではあるんだけれど、なんか、守ってあげたくなるような。

「関口、さん」

「何?」

 思わず声をかけてしまったけど、特に言いたいことがあったわけではない。

「えっと、その、リボン、可愛いね」

 リボンのついた、髪を留めるやつ……バレッタ、だっけ。それをなんとなく褒めた。

 気持ち悪いって思われないかな、と思ったけれど、関口は照れたように笑って「ありがとう」と言ってくれた。




 翌日の放課後、僕と関口は中庭で落ち合い、体育館裏の空きスペースに行った。

 関口の脚は震えていて、僕はきっと大丈夫だからと声をかけながら、ゆっくり行った。

「三木」

 びくん、と体を震わせる仕草は相変わらずで、三木は僕達の方を向いた。

「なんであなたがいるの」

「えっと、それは」

「どうだっていいでしょ、話って、何よ」

 かちかちと歯を鳴らしそうな様子で、それでも噛み付く関口。

「…………」

 三木が笑った。にたりと。にたり、と言っても女の子の笑みだ、そこまでおぞましい印象はない。

 しかしそれは関口を牽制するには十分な効果を発揮したようで、関口は目を剥いたような表情で二、三歩後ずさりした。

「怖いんだ、関口さん」

「な、何よ、別にそんなことない……」

「嘘ばっかり」

 くす、と口に手を当てて笑う三木。

「今までいっぱい我慢してたけど。私ちょっとやりたいことあるから」

「…………」

 三木が関口に近づいていく。三木はさらに後ずさりしたいのを抑えるように、体に力を入れた様子だった。

「これ以上私の悪い噂とか流したり、してほしくないし」

「やりたいことって?」

 思わず僕は口を挟んでしまった。しまった、と思ったが、三木は僕にも笑顔を向け、こう言った。

「あなた、えっと、岡部くんっていうんだね。岡部くんが聞いたらびっくりすること、だよ」

 その口調と表情は、まるでサプライズのプレゼントについて話しているかのような、無邪気なものだった。

「三木……」

「とにかく」

 関口に視線を戻すと、三木は言った。

「もうこれ以上私の邪魔をしないなら、見逃してあげる」

 見逃す?

「……じゃあ、あなたは皆に、危害を加えたりしないって、約束してくれるの」

 おいおい、本当の話なのか? その、スライム云々、って。これじゃ本当に、三木の方が優勢だ。

「さあ?」

「さあ、って……」

「ウサギはお弁当を忘れちゃったから失敗だったけど、私はそもそもヒトに溶け込みたい派だから……」

 ウサギ。肌色の、スライム。

「じゃあ皆に危害は」

「基本的にはね。関口さんは、いざとなったら私の非常食になってもらうけど」

「おい三木」

 僕は混乱する頭でなんとか状況を整理し、話に再度割り込んだ。

「よくわかんないけど、なんで今までは我慢してたんだよ。今急に行動を起こしたみたいな、その理由は?」

「うん」

 三木ははにかんだように笑う。先ほどまで言っていた台詞とのギャップに、さすがに僕もぞくりとした。

「岡部くんのことがね、好きになっちゃって」

「え」

「なっ」

 僕も関口も目を丸くした。三木は構わず続ける。

「私と付き合うなら、私がいじめられっ子じゃ、岡部くんかわいそう。私、もっと強くなきゃって思ったの」

「そんな、理由?」

「うん」

 柔らかな笑みを見せる三木に、僕はそれ以上何も言えなかった。あっけにとられて、どうすべきかもどうしたいかもわからなかった。


「ふ、ふざけるなぁあっ!」


 一瞬沈黙に支配された体育館裏の空気を、関口の怒声が切り裂いた。

「おい関口」

「あんたねえ! 何なのそれ? ふざけないでよ! さっきから好き勝手……」

 関口は完全に冷静さを失っていた。

 三木に向かって駆け出したかと思えばそのまま蹴りを入れ、一緒に倒れるようになりながらもすぐ起き上がる。

 そして、三木を無理やり引き起こすと首を両手で絞めはじめた。

「冗談じゃないわ! あんたみたいな化け物が! なんで岡部くんと付き合えるのよ! ワケ分かんないこと言わないでよ!」

 止めなきゃ、三木が死んでしまう。僕が慌てて駆け寄ろうとしたそのとき、絞められている三木と目が合った。

 だいじょうぶ、と口を動かす三木。笑顔は変わらず。

「三木、」

 変化が起こった。三木の首を絞めていた関口の指が、ぐぷり、と、ありえない深さで三木の首に埋まった。

「え、あ」

 さっと青ざめる関口。だがそのときにはもう遅く、三木はどろどろと、そう、スライム状のものに変形を始めていた。

 制服が、髪が、顔が、手が、足が、全部どろりと溶けるように崩れ、でろでろと肌色になり、ひとつの粘土のようにまとまっていき、そして。

「関口!」

 それは、ねたりねたりと、関口を覆い尽くそうとしていた。

「おかべ、く、」

 振り返った関口の表情は恐怖で引きつり、涙さえ浮かべ。

 やがてその口をふさぐかのように、どろりとスライムの一部が顔を覆おうとする。

「関口!」

 関口の口から、三木だったものが、流し込まれている。

 あまりに異様な光景に、足がそちらへ駆け寄ることを拒否する。それでも僕は走った。

「関口、おい」

 どろり、どろり。

「あ、あ……」

 僕が関口を引き戻そうと肩を掴んだ時には、関口の顔はすべてスライムに覆い尽くされていた。

「やめろ、三木、おい」

「危ないよ、離れてて岡部くん」

 三木の声が、スライムのどこかから聞こえてきた。

 そして同時に、熱いような痛いような、なんとも言えない感覚が、指を刺激する。

「なっ」

 思わず僕は手を引っ込めてしまった。何だ? もしかして、これって、酸……?

「関口、」

 完全にスライムに飲み込まれた関口は、みるみるうちにその形を小さくしていった。

 じゅうじゅうと音がして、煙と、それから鼻をつく匂いも。

「あ、あ」

 関口の言っていたことはすべて本当だった。僕は、関口に何もしてやれなかった。


「岡部くん」


 弾むような三木の声で我に返る。

 どろどろと、スライムが蠢いて、僕は思わず身構えた。

「大丈夫だよ、岡部くんを食べたりしないよ」

「み、き」

「邪魔者はいなくなったね。関口さんも岡部くんが好きだったみたいだけど……ひとつになったからもう関係ないよね」

 とろり、スライムが人の形に戻る。

 ゆっくりと時間をかけ、髪の毛や制服の布の質感まで忠実に、俺が知っている三木涼子の姿に戻った。

「あ、これ」

 溶かし残しだろうか、僕が昨日褒めたリボンのバレッタが、地面に落ちている。

 三木はそれをショートヘアーの自分の頭に合わせたあと、「髪伸ばさないとね」とはにかんだ。

「あ、そうだ。改めて」

「え?」

「岡部くん、こないだ一目惚れしました。これからよろしく」

 断られる前提など微塵も考えていない告白の言葉。僕は一瞬迷って、その手をとった。

 びくりとして身体を退こうとする三木を引き寄せ、なるべく不自然でない笑顔を向ける。

「まだみんなには内緒だよ、三木」

 関口の言う通り、こいつは危険だ。僕は関口のようにではないけれど、関口がしていた役目を継ぐような形になるのだろう。

 僕が、三木の檻にならなければいけない。


 どうやら僕の青春は、絶望の色をしているらしい。

 そしてその色は、隣にいる彼女の肌の、透き通るような薄橙だ。

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