無限の要素は有限とする

 空一面が灰色な、雪の止んだ午後三時。雑居ビルの二階に位置する広い窓が特徴的な喫茶店に、少年と少女はいつも気が付けば集まっていた。他に客はいない静かな空間。他愛もない会話を延々と、ぬるさを通り越して冷めきってしまったコーヒーとミルク入れを観客にして続ける。二人はこの時間をとても楽しく感じていたし、永遠に続けばいいとさえ願っていた。そして永遠に続いた。


「――――だったんだよ、びっくりだよね」

「それ、ほぼパイナップルじゃん」

「まあごもっともな話だよね。自分でもどうかと思う。ところで、さっきからどうしたの」

「あの時計、さっきからずっと三時のままだと思うんだけど」

「壊れているんじゃないかな。店員さんを呼んで言おうか」

「いや、別にいいんだけど、店員さんもしばらく見かけていないから、どうしようかと」

「放っておけば?そのうちなんとかなるって」

「そういうものか」

 この時。正しく言えば最初に彼女が話し終えた時から。彼らまたは彼女らは、いくつかのルールに縛られた。しかし残念ながら、彼らまたは彼女らは縛られたことに気付かなかった。そして勿論、彼らまたは彼女らは無意識にルールを外れないように振る舞うことになった。最後に、悲しいことだが、ふたりはルールを知らなかった。

ひとつ、彼らまたは彼女らの発言はカギカッコによって区別される。

ひとつ、彼らまたは彼女らの会話は、少年が始めるものとする。

ひとつ、彼らまたは彼女らの記号表現は、表記可能であり表記される。

 ここから、彼らまたは彼女らはただ一意にテキストを生産することが導かれる。なぜならば法則がテキストを前提としているためであり、すべて事象は法則によって説明されることが原則であるためである。

「ニュートン物理学で時間の向きが存在しない話はしたっけ?」

「知らない、どんな話?」

「たとえば、運動方程式F=maとか、x=1/2at^2+vt+x_0とか、高校物理で教わるような力学の公式には、時間があらわれる。でも、式の意味だけ見ると、時間を表すtには正負の方向に対称性がある。つまり、時間が未来から過去に流れていても物理の世界には問題が起こらない」

「それは困る」

「そこで熱力学を使う。正確に言えばエントロピーを使う。エントロピーというのは熱力学で用いられる考え方だけれども、ものすごくわかりやすく言えば、乱雑さのことなんだ。時間が経過するにしたがって、エントロピーは増大する、つまり乱雑さが増してごちゃごちゃするんだ」

「どうして時間が経っただけでごちゃごちゃするの?」

「たとえば、コーヒーにミルクを注ぐ。時間が経つにつれてブラウン運動によってミルクの成分はコーヒーに均一に広がっていく。ミルクとコーヒーが独立して存在しているのと、ごちゃごちゃと混ざり合ったのでは混ざった方がエントロピーが大きい。簡単に言えばこれが、時間が経つとエントロピーが増加するということなんだよ」

「よくわからないけど、覆水盆に返らずだね」

「そう、そんな感じ」

 この場所では時が止まっている。正しく言えば、時が止まっても進んでも、ましてや戻ったとしても観測できないでいる。どうしてこんなことになったのかはわからない。ただ、これが原因なのか結果なのかの因果はわからないけれども、この部屋という閉じた系のエントロピーは変化していない。コーヒーが冷めきってしまったから、熱力学第二法則は観測できない。観測できないのだから、無いと言っていい。少年も少女もエントロピーを凌駕することはなく、ただ観測者でしかない。そして観測者は、その立場から動くことはない。

「もしもし?」

「どうしたの、急に」

「なんでもない。ただ、なんとなく」

「そう、相変わらずあなたには退屈しないから助かる」

「ありがとう、さっき『もしもし』と言ったのは、ただ、ぼんやりとした状態の人に話しかけるにはきっかけか、合図が必要だと思って」

「なんでまたそれに『もしもし』が採用されたの?」

「人が人に話しかけるんだ、通信と似たようなものだろうし、通信するならばそのルールにのっとるべきだ。そして、過去最も普及した通信のマナーは電話通信には『もしもし』を付けるという不要な原則だ。僕は日本中、いや、世界中の『もしもし』を一挙に集めれば家が建つほどの電話代が節約できると信じているよ」

「でも、存在している『もしもし』には理由があるでしょう?」

「そうだね、言うと心地いい」

「もしもし」

「ね?」

「よくわからない」

 彼らまたは彼女らが発した言葉はただひたすらに情報としての価値を持つ。それ以上の価値は持たない。一文字当たり2バイト。65536のn乗分の1だけの偶然の連続で二人の会話は続くかもしれないし、もしかしたら正しい数え方は音素なのかもしれない。発話の速度や音程も情報の単位かもしれない。いずれにせよ、延々と続く時間の中で二人は、あらゆる言葉の組み合わせを産み出し続けた。ただ確実なのは、ふたりの発する情報は連続関数ではなく、離散世界の関数で示される。

「ものすごく巨大な図書館の物語は、前に話したっけ?」

「知らない、どんな話?」

「ある国には、過去、現在、未来にある、ありとあらゆる本があつめられた図書館がある」

「あるわけない」

「あるんだよ。だって物語だもの。その図書館には一部屋に一人、司書がいる。これは司書の物語だ。彼は自分の働く図書館が、どれだけ大きいのか知りたかった。しかし、すべての本を収めた図書館だ、自分で歩いて数えるにはひろすぎる。そこで彼は、ある武器を使った」

「武器?」

「計算だよ。この図書館の蔵書はすべて、aページでできていた。それぞれb行で書かれていて、1行当たりの文字数はc文字。図書館の棚はd段になっていて、一段にe冊の本が入る。一部屋にはその棚がfだけあって、すべての部屋が同じつくりである。そして、この世界で使われる文字は、記号や空白含めて全部でx種類だ。」

「随分と文字とりどりな物語」

「彼はこの世界に、どれだけの本が存在できるか考えた。すべての本があるっていうのだから、どんな文字列だって存在するはずだろう。つまり、x^(abc)だけの本がこの世界には存在できる。そして、この図書館の部屋数はx^(abc)/defになる」

「随分だね」

「随分だよ。ただし残念ながら、この物語の結末がどうなっていたかは、忘れちゃった」

「それもまた、随分だね」

 少年と少女は話し続けた。自分たちの役目が話すことだと知っているかのように。それと共にX^(ABC)にたどりつこうとしているかのように。しかし勿論、彼らまたは彼女らは部屋から出ることは無かったし、話し続けた。彼らまたは彼女らは、一冊の本を読む際にtだけの時間がかかるとすれば、tx^(abc)だけの時間が必要なことを知らなかったが、勿論時間は観測されなかった。

「僕たちはどれだけの会話を続ければ、新しい時間に到達できるのだろうね」

「さあ? わからないけれど、こうして会話を続けて確かめているんじゃないの」

「違いないね。幸いにもこうして、延々とおしゃべりを続けることはできる」

「どうしてこうなったかは知らないけれど、一人じゃなくて良かったとは思う。それも心から。あなたとは話していて面白いもの」

「そうか、大した娯楽も提供できないかもしれないけれど光栄だ。それにしたって、ちょっとしたゲームだってできやしない。そういえば、完全情報ゲームって知ってる?」

「知らない、どんなゲーム?」

「残念ながらゲームの名前ではない、分類。すごく単純に言うと、以後や将棋やチェス、五目並べに代表されるような、お互いがお互いに取れる行動が完全に分かっているゲーム」

「そんなの、やれることが限られているじゃない」

「そうだよ、オセロなんてマス目は64個しかない。どうあがいても(64-4)!=60!通り以上の組み合わせは存在しない。結果だって、白と黒の2^64通りしかない。」

「その数字ってどのくらい?」

「だいたい十の十九乗を二倍したよりも小さいくらい」

「意味がわからない」

「二千京よりちいさい」

「意味は分かるけど規模がわからない」

「不可説不可説転と比べれば塵芥だね」

「それもまた数の単位?」

「10^(7*2^122)を表す単位」

「いらない」

「ほんとにね、何の話だっけ?」

「さあ? またなにか話してくれる?」

 少年はありったけの娯楽を少女に提供した。少女はありったけの肯定を少年に提供した。そしてふたりはいつまでも話し続けた。しかし存在しうるすべての可能な文字列にはたどりつかない。そもそも時間がないのだから。時間がない以上は有限時間の中で実現不可能なことも何だってできた。彼らまたは彼女らがオセロを持っていたならば、もうとっくの昔にすべての組み合わせを対局し終えたであろう時間が流れた。否、時間は流れなかった。

「最大の自然数は存在しない」

「何かの呪文?」

「いや、単なる自然数の性質。自然数は無限に存在し、自然数と同じ数だけ整数があり、整数と同じ数だけ偶数があり、同じ数だけ素数があり、同じ数だけ分数がある。ただし、議論領域に実数を持ち出すと厄介だ。やつらは濃度が整数よりもずっと濃い。ℵ_0(アレフ・ゼロ)よりも一段上だという連続体仮説もあるけれど、残念ながら証明不可能だという証明がされてしまった」

「よくわからないけれど、残念だね」

「そうだね、とっても」

 数学の世界に時間の概念は無い。いうなれば彼らまたは彼女らは物理学の世界から数学の世界へと置き換わった。いや、置き換わってはいない。すべてをそのままに時間の概念だけがパラダイムシフトした。そして少年と少女は観測者になると同時に閉じた系の唯一の事象になった。観測者は観測されることが無いのが物理実験の基本原理であり、観測者が観測されるならばその観測者は純粋な観測者としては不適切だ。彼らまたは彼女らは純粋な観測者であり、そしてこの系の唯一の事象でもある。

「円周率については話したっけ?」

「何度か出てきたけど、どうかしてた。平行線に針を投げ続ける話は特にどうかしてた」

「πの持つ乱数性については?」

「聞いたことない」

「円周率を無限に続く完全な乱数だとすると、円周率の中にはこの世のありとあらゆる数字が含まれているはずなんだ。君の電話番号や生年月日。もしかしたら君のDNAだって、ATGCを数字にできるなら存在する。円周率という無限の中に有限の組み合わせが確実に存在していることが期待できる」

「どんな数字でも?」

「そう。観たかったあの映画も、ダウンロードする0と1にすれば数字になる。きっとどんな作品も円周率の中にある」

「映画なんて撮る気しなくなるね」

「つまり、みんな手元に円周率を置いておけば、どんなデータも『n桁目からm桁目まで』の形でダウンロードできる」

「ダウンロードが手軽になる」

「ただ、この形式には酷い問題があって、『n桁目からm桁目まで』を指示するためには、ものすごい桁数先の数字を指示しなくてはいけないことになる。たとえば、10^65535ですらちっぽけにみえるみたいなグラハム数より大きい数字。これを指示するようなデータは、確率的に考えると、元のデータを送信するのとあまり変わらない大きさのデータになる」

「意味ない」

「そう、意味ない。あと、無限に長い円周率を保存できる技術がない」

「意味ない」

 彼らまたは彼女らは無限に感じる時間を二人で過ごしたのかもしれないし、過ごしていないのかもしれない。どちらであったとしても観測できないのだからそれは存在しない。現代の物理学は実験結果を信じるが、すべての実験結果は観測の結果でしかない。だからここでは物理学が通用しない。なぜならば観測できないから。観測者は存在していても変化が無ければ時間を観測することはできない。彼らまたは彼女らは何も観測できなかった。ただただ情報を互いに交換し続けた。

「もしもし」

「もしもし」

「起きていますか?」

「寝てはいません」

「If Then」

「End If」

「明日の天気は?」

「明日は来ません」

「For i 1 To infinity」

「Next」

「いってきます」

「いってらっしゃい」

「ありがとう」

「どういたしまして」

「Do while」

「Loop」

「見えますか」

「星です」

「さようなら」

「さようなら」

「       」

「       」

 もうずいぶんと前から、意味を感じられる情報を送信していない。言葉というよりも文字列となった情報を、二人は吐き出し続けた。きっと、彼らまたは彼女らの存在意義はそれしかなかった。おじいさんは光る竹を切らずにはいられないように、おばあさんは大きな桃を持って帰らずにはいられないように。ここまでの彼らまたは彼女らの会話はすべて、無限にも思える乱雑な文字列の中から奇跡的に構築された文面だったのだろう。もし、彼または彼女らの少なくとも一方が彼または彼女ではなかったならば、少なくとも無限の時間を過ごすことは無かった。しかし、彼は少年であり、彼女は少女であった。少年が何を言ったのか、少女は覚えていた。彼らまたは彼女らは存在可能なすべての文字列を発言した。そのすべてを記憶していくことは即ち無限を保存しておくことであり、すべての文字列が含まれた彼女の揮発性記憶装置には、シェイクスピアも夏目漱石も、あなたのATGCも、すべて記憶されていた。しかし、すべてを参照することはできない。無限を参照する能力はノイマン型コンピュータにすらない。有限時間内で無限の文字列を解析することはどのようなアルゴリズムを用いてもできない。

 じきにふたりは、存在しうるすべての会話を済ませてしまった。少年は話すことを止め、少女は覚えることを止めた。二人は過ごしていた。過ごす時間がないのだから、無を過ごしていた。

 さいごに、少年はやりのこしたことをした。観客であったミルクをコーヒーにそそいだのだ。真っ黒なコーヒーにはミルクの渦巻きが描かれ、次第にやさしいブラウンに落ち着いた。ふたりはそれを眺めた。二人が観測した現象はまさしく、エントロピーの増大であり、時間の観測であった。途端に彼も、彼女も、揮発性の記憶は消去され、冷めきったコーヒーを口に含んだ。時間は存在した。

 午後三時一分、少年と少女は一瞬の無限の中で既にした会話に花を咲かす。大きな窓から覗く灰色の空模様は、一分前とほとんど変化していなかった。

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