第6話 災いの始まり

 高天ヶ原たかまがはら高等学校の数学の教師である高崎賢たかざきけんは、今日も当たりさわりのない教師生活を送っていた。自分の受け持つクラスが問題を起こさなければそれでいい。とにかく、目立たず平穏無事であればいい。立派な教師を目指そうとは思わないし、卒業式で生徒と泣き合うような教師でもなかった。賢は、そういう意識低い系の男だった。あの女が赴任するまでは……。


 4月、賢が担任だったクラスが3年生になった。一年間共にした生徒たちだ。知らない奴らではないが、賢にとっては正直どうでもいい奴らだ。同じく、4月に新しい教師が赴任してきた。名は栗田さおり。専門は美術の女教師だ。年齢は40代と聞いていたが、中々の美人である。職員室の自己紹介では、趣味がランニングと言っていたが、あの若さと体型はランニングで作られたものなのだろう。もっぱら賢の興味は生徒より、さおりに向けられていた。賢は妻子持ちではあったが、栗原に惹かれていた。惹かれていたといっても異性としてではなく、自分にない何かにだ。その何かを知りたくて、積極的に栗原と話すようにしていた。


 ある日、賢は、栗原から、レンズが傷だらけでとても使い物にならなそうな虫眼鏡を渡され、変なお願いをされた。


「この虫眼鏡の中心に穴を開けてもらえませんか?。」

「この古い虫眼鏡ですか?穴を開けてどうするんですか?」

「個人的に作っている作品に使うんですが、私不器用なんで、うまくできないんです。お願いできませんか?道具は用意してありますんで……。」


 賢は、戸惑いはしたものの、頼まれた通りに穴を開けた。穴を開けた瞬間、背筋がゾクッとする感覚があり、「色んな物が良く見えるぞ。」としゃがれた老人のような声が頭の中で響いた気がした。


「高崎先生、何か感じませんでしたか?」

 栗原が賢の顔を真剣な顔で覗き込む。賢には栗原の瞳孔がかなり開いているように見えた。そんなに近くで見ているわけでもないのに栗原の肌質が気になる。髪の毛も今まで気づかなかったが意外と枝毛がある。なぜだか、色々目について仕方がない。


「変化ですか?虫眼鏡に穴が空いただけですが……。」

「いえ、高崎先生の方ですよ。穴を開けた後で、何か感じませんでしたか?」


 賢はさっき聞こえた声について話そうかと思ったが、馬鹿にされるのが怖くて黙っていることにした。それよりも、若く見えた栗原の見た目が急に老けたように見えたことのほうが気になっていた。


「そうですか。この虫眼鏡ははずれだったみたいですね。」

「外れ?」

「もう、遅いので帰ります。」


 不機嫌な様子で席を立つ栗原。


「栗原先生、虫眼鏡忘れていますよ!」

「それ、もういらないので高崎先生にあげます。」


 賢の手には、穴の開いた虫眼鏡が残された。いらない物ではあるが捨てるのも気が引けたので、とりあえず机の引き出しにしまうことにした。その見慣れたいつも使っていた引き出しの汚れも気になる。目に映る全てが気になって仕方がなかったが愛する家族が待っている家に帰ることにした。


 次の日の朝、賢はベッドから起き上がり、妻の用意した朝食を子供たちと食べていた。


「ねえ、賢ちゃん。眼鏡は?」


 いつの間にか、賢の目が異常なまでに良くなっていた。それまでかけていた近眼用の眼鏡が必要なくなったのだ。昨日からの異変は、この異常なまでに良くなった目のせいだったのだ。ただ、一時的に目が良くなっただけかもしれないので、賢は念のため眼鏡をかけ学校に行くことにした。職員室に行くと、賢は栗原からまた変な質問をされた。


「あれから何か体調に変化はありませんでしたか?」

「いえ、特に……。」


 とっさに嘘が出てしまった。説明が面倒くさいというのもあったが、なぜか本当のことを言ってはいけないと直感的に思ってしまったからだ。


 それからというもの、毎日、学校へ行く前に自宅マンションのベランダに立っては、広場を挟んだ向かいのマンションに住む無褒美なOLの生着替えを目に焼き付ける毎日を楽しんでいた。そんな楽しい毎日を送っていたある日の放課後、自分のクラスの木田莉子きだりこが職員室にやってきた。


「高崎先生。栗田先生について、どう思いますか?」

「どう?どうって、どういうこと?いい先生じゃない?栗田先生と何かあったの?」

「隣のクラスの友達から聞いたんですけど、今日の美術の時間に栗原先生が骨董品みたいに古い物をみんなに配って、一度壊してそれを元に新しい作品を作らせる授業をしたそうです。」

「うん。それで?」

「古いものとはいえ、物を壊すことに抵抗がある子がいて、抵抗したら、無理やり手を掴んで壊させたそうです。」

「無理矢理はよくないね。でも、栗原先生も何か伝えたいことがあったんじゃない?食育で飼育していた生き物を食べるのと同じなのかも知れないよ?」

「たぶん、違うと思います。明日、うちのクラスもその授業をするので、高崎先生、授業を見に来てもらえませんか?」


 賢は自分の授業スケジュールを確認した。ちょうど栗原先生の美術の時間は空いていた。


「分かったよ。授業のやり方に口を出すわけにはいかないけど、授業の様子は覗いてみるよ。」

「よろしくお願いします。」


 莉子が職員室を後にした後、隣のクラスの担任である音楽教師の愛平由香あいひらゆかが賢に話しかけてきた。


「さっきの話なんですけど、実は私のクラスなんです。私も生徒から聞いたんですが、その子がかなり抵抗したのに無理やり、物を壊させたそうなんです。」

「愛平先生の生徒だったんですか?」

「はい。私も最初はただの授業だと思っていたのですが、生徒によく聞いたところ、おかしいんですよ?栗原先生は物を壊させた後、生徒一人ずつに体の変化はないか?何か見えないか?聞こえなかったか?と聞いて回ったらしいです。授業後に何か変化があったらすぐに教えてほしいと話していたそうですよ?」

「えっ?体調について聞いてきたのですか?」

「はい。なんなんでしょうね?意味わかりませんよね?」


 賢は思い出した。栗原に虫眼鏡に穴を開けることをお願いされたこと。次の日から異常に目が良くなっていたことを。賢の平穏無事な教師生活に終わりが来た。

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