Episode 03 Other Side -麻子- 後編

「はぁ……はぁ……紗栄センセ!」

「おう、やっときたか」


 小走りでワタシたちはフーカの住んでいたであろうマンションから学校まで戻ってきた。

 元々、長距離は得意ではないため走ったところでさほど早くは帰ってこれなかった。

 紗栄センセは校門に寄りかかって待っていてくれた。わざわざ待っていてくれたのだろうか。


「お待たせしました」

「ふはぁ……おねえちゃん、ずっと待ってたの?」

「まさか。このくらいに来るかなって思って体育館から出てきた。で、フーカはどうだった?」


 ワタシたちは息を整える間もなしにそのまま学校の敷地の中に入る。

 体育館までは校舎をくぐって奥の方に歩いていかねばならないので少し距離がある。


「マンションがなくなってました。住める状況ではなかったです」

「あらー、そっか。じゃあフーカは……」

「生きてるかどうかはわからないです。ただ、あの日もずっと両親を心配していたから、もしかするともうこの辺にはいないかも知れないですね」

「アンタとの約束を破ってでも?」

「ええ、きっとなんか事情があったんじゃないですか? もしくは忘れちゃったとか。フーカはなんだかんだ抜けてるとこがあるんで」


 ワタシはハハハと、肩をすくめて笑う。

 ところで、先程から一緒に横を歩くタマちゃんに元気が無いように感じる。

 フーカのマンションに行ったときもそうだ。

 顔をうつむかせて、顔色もやや悪いようなきがするのだ。


「タマちゃん。調子悪い?」

「え、タマ。そうなの?」

「ふぇ? そ、そんな事ないですよマコ先輩。心配しないで、おねえちゃん」

「……」

「まあ、タマちゃんがそういうなら、良いんだけど、さ」


 紗栄センセはどこか納得いかないといた様子で、ワタシもそう思うが、タマちゃんがそういう以上突っ込んで聞くのは無しにしようか。


「それで、紗栄センセ。【獣化病】起こした人がいるって……」

「そうそう、体育館の中が大パニックでさ。まさか、【獣化病の始まり】の日に渋谷いたり、その日の夜にラジオ聞いてたりで【獣化病】起こした人がいて、避難所になってるここで起こした人がいないもんだから……本当に万が一って、あるんだなって」


 確かに体育館に近づくに連れ、なんと形容のしがたい気持ちの悪いざわめきが耳に入ってくる。


「で、小学生や中学生のガキは体育館の外に出して、関係のない人も出てもらっている。私はまあ、先生やってるからって、仕切りやらなんやら雑用頼まれてさ」

「……って、ワタシたちが帰ってくるって口実にしてサボりたかっただけなんじゃないですか?」

「………………ソンナコトナイヨ」

「じゃあ、今の間は何ですか!」

「まあ、いいじゃねーか。ほら、体育館だ。変化はゆっくりだったからまだ続いてるはずだ。見るか? いやなら止めないけど」

「ワタシは見ます。タマちゃんは?」

「あたしも……ついていきます」

「そか、じゃあ、覚悟しなよ」


 と、閉まっていた体育館の鉄の扉を開ける。

 ワタシが朝、ここに来た時は全ての扉が全開だったはずだ。きっと、外に出た人が見なくても良いように閉めたのだろうか。

 開いた途端、締め切られた体育館の中の生暖かい空気が肌に触れる。そして、


「――ッ!?」


 鼻につく、動物園で嗅いだことのある動物特有の臭いだ。

 中には、二十人ほどの大人の男の人が円を囲むように体育館の端で集まっていた。それぞれ、スコップや鎌といった武器になりそうな物を手に持っている。

 ワタシ的にはそこまで構える必要はあるのだろうかとも思った。直接聞いた情報ではないが【獣化病】を引き起こした人とは意思の疎通が図れているとかどうとか。

 円の中心には当然ながら【獣化病】によって身体が変化している人がそこにいる。


「はいはい、三森帰ってきましたんでどいてくださいねー」


 と、紗栄センセが数人の男性らをどかして、ワタシたちもそれに続いて円に交じる。

 円を作っているのはみんな男性で、女性はワタシとタマちゃん、紗栄センセだけだ。

 で、中心にいる人だが、


「が、ぁ……がぁ」


 身体のほとんどが黒い毛で覆われていて、身体が肥大している。着ていたであろう服はビリビリに敗れて、布切れになって床に散乱している。

 人間の部分は片腕と片足だけで後は鋭い爪やら顔を牙がチラチラと見える。

 耳はまるっこく頭の上にくっついていて、変化した腕と足は太くなっている。

 これはもう、


「クマ、ですね」

「……うん」


 タマちゃんがつぶやいた。

 中心の男性は苦しんでいるが、ワタシたちにはどうすることもできず、変化を見守ることしかできないのだ。

 クマに変化しつつある男性は、どうしてここまで苦しんでいるかは今のワタシにはわからない。でも【獣化病】で変化するときは、こうしてみんな苦しんでいるようなので、そういうものなのだろう。

 ゆっくりゆっくりと人間の部分がクマに侵食されていく。

 のたうちま回って――ワタシたちが来た時はそれなりに激しかったが――最終的には動きがゆっくりになり、動かなくなった。

 その頃にはもう、完全に人間ではなくなっていた。

 そして、体育館中に静寂が訪れる。

 だれも動けずだれもしゃべらない。

 クマを中心にして、大人が取り囲んでいる。

 無言のまま、お互いに目配せをし始めて、誰かが言った。


「【獣化病】って、感染るんじゃないか?」


 その一言が引き金だった。

 その瞬間に紗栄センセはワタシたちを後ろに押し倒した。


「見るな!」


 静かに、でもワタシたちに聞こえるように言った。

 後頭部を打って、痛みを紗栄センセに訴える前に目を覆われていた。紗栄センセか。

 しかし耳を塞ぐとこはできず、聞こえてくるのは金属音、何かを叩く打撃音、そしてクマであろう鳴き声だ。でもその声もかすれたようなヘタクソな声だった。

 それと男性の罵声。

 ワタシは疑問だった。【獣化病】って病気なの? それって、空気感染するの?

 それはまだわかっていないのだ。一つの疑心が生まれれば暗鬼が見えてしまうのだ。

 感染を防ぐための正義の行動となるわけか。そんなわけあるか!

 ワタシは抵抗する気にはなれず、紗栄センセに目を塞がれたまま仰向けだった。

 気がつけば打撃音はなくなり、


「これどこに運ぶよ」


 とその後の心配をする声ばかりになる。

 それに対して紗栄センセは、


「どうしてこんなことをした! 殺す必要はなかっただろ! なぁ、誰だ!? 感染るとか適当なことを抜かしたのは!」


 開放されて天井のライトが眩しかった。

 そのまま仰向けのまま、紗栄センセの声を聞く。


「姿が変わっても、一人の人間だったんだろ! テメェらは人殺しだ!」

「じゃあ、アンタは絶対に伝染らないって証明できるのか! クマに襲われないって確証はあるのか! 【獣化病】の人間を一人始末することで、ここにいる者の安心が得られるんだったら安いもんだろ!」

「て……コノヤロ――」

「おねえちゃん!」


 タマちゃん!?

 その声を聞いて起き上がる。

 今まさに男性の胸ぐらをつかんで殴ろうとしてた紗栄センセ。それを止めようとするタマちゃんがそこにいた。

 腕に指が食い込んでいるのだろうか、紗栄センセの腕から血が出てる……?


「おねえちゃんがそんなことしたら……ダメだよ。一緒になっちゃう」

「タマ……」

「だから――」


 なぜだ? タマちゃんが走って体育館から飛び出してしまった。

 ワタシを横切る時、腕で目元を覆っていた、泣いてた?


「タマ!」


 男性をそのまま放り、追いかけようとする紗栄センセ。いや、タマちゃんの足には敵いっこない。


「ワタシも追いかけます」


 目の前の光景を目に焼き付けつつ、紗栄センセと一緒にタマちゃんを追いかける。

 どうせもう、ここにはいられないだろう。いたくもない。

 クマだった人がぐったりをして血だまりを作り、数人の男性がどこかに運ぼうとしたその光景を。

 ワタシは死ぬまで忘れないだろう。

 

 

 タマちゃんが校舎の中に入っていくのが見えてから、先行していた紗栄センセがピタッと立ち止まった。両手を両膝に添えて肩を上下させている。

 紗栄センセに追いついてから横で立ち止まる。どうやら紗栄センセは息を切らしているようだった。


「ぐえぇ、おばさんにゃちょっと荷が重すぎたわ……準備運動無しで全力疾走じゃここが限界だった」

「いやいやまだお姉さんで通せますよ」

「まあ、現役には勝てないわな。私はもうだめだから、アンタ追っかけてくれ。ここで待ってるわ……息整うまでにはタマは捕まるんじゃない?」

「分かりました」


 紗栄センセは「はぁはぁ」と荒い呼吸をしながら、腕をかいている。さっきもそんなことをしていたような気がしたんだけど、かゆいのだろうか。

 それよりも、タマちゃんだ。あんな飛び出した方をするだなんて今まで見たことなかった。

 あんな光景を見せられてたら仕方ないようにも思えるが、それにしても随分と焦っていたようにも見えたんだ。


「ワタシにまかせてください」

「おう、任したよマコ先輩」

「……もう」


 そしてワタシは紗栄センセをおいて、校舎の中に入っていくのだ。

 土足を履いたままリノリウムの床に足をつける。

 自分のクラスの下駄箱まで行けば上履きはあるんだけど、そんな悠長なことをしたくはなかった。周辺を見る限り、タマちゃんの靴は見当たらなかったので、タマちゃんも土足のまま上がってしまったのだろうか。

 校舎の中には避難している人はいないと聞いている。避難する人が増えれば教室も利用されるんだろうけど、現在はその必要はない程度なんだそうだ。

 なので人の気配がすれば、それがタマちゃん……であると信じたい。

 まず階段の方に向かって耳を澄ませる。が、階段を登っている音は聞こえない。遠くで誰かが歩行している音が確かに聞こえる。その音も上の階ではなさそうだ。

 じゃあ、一階か。

 音がする方向にタマちゃんがいると信じて、ワタシはそっちの方向に駆ける。

 ――あれ?

 なんだか、脚に違和感がある。

 なんとなく早く走れるようになった気がすると同時に、腿のあたりにかゆいような痛いようなムズムズとした気持ち悪い感覚そこにある。

 もしかすると、という嫌な予感がするけれどそれよりもタマちゃんだ。紗栄センセにもお願いされたんだ。タマちゃんをちゃんと見つけて連れていかなければ。


「おや……?」


 廊下の突き当りで何かが落ちているではないか。

 それは白色ベースにピンク色のラインが可愛らしい小さめの靴――タマちゃんの靴じゃないか!

 土足だった気がついて脱ぎ捨てたとか? ……いやいやそんなバカな。

 そして、T字路の校舎の奥に続く方には点々と色々なものが落ちているではないか!

 もう片方の靴に、黒色の靴下、そして白いパンツ……え、えぇ……?

 まるで道標にパンをまいているかのようにタマちゃんが身につけていたものが無造作に落ちていて、それは女子トイレに続いていた。

 トイレの入口には制服のスカートが落ちている。

 ワタシの足が止まる。

 タマちゃんはトイレでどうなっているのか。この状況はどう考えたってお手洗いでトイレに入ったってわけじゃないだろう。

 全裸じゃないとトイレには入れませんなんてことも当然無い、か。

 残る考えといえば……覚悟を決めなければならないか。


「ふぅ……」


 手の指が曲げ難い。太もももムズムズするし……あーあ、ワタシも覚悟しないといけないんかな。

 思ったよりもショックは少ない。それとも、感覚がどうかしてしまったのか。まあ、いいか。

 手のひらを胸に強く当てる。体操服ごしに胸板がベチンと音を立てる。大丈夫。きっと、大丈夫。

 トイレに足を踏み入れると、タマちゃんのブラがありその先の一番奥の個室にはワイシャツがダランとだらしなく床に落ちていて何かが潜んでいる。もぞもぞと動いている。


「……タマ、ちゃん?」


 ワイシャツを抱きかかえるとそれなりに重量があり、中でもぞもぞ動くものは柔らかくて温かかった。どうにか這い出とうとしているみたいだったので、ワイシャツのボタンを外してあげる。すると、


「……!?」


 そこから出てきたのはネコだった。ミケネコだった。

 ここでワタシの時間が止まる。

 目の前にいるのはミケネコだ。タマちゃんの服は全て床に散らばっていた。そしてタマちゃんの姿はどこにもない。そこから導かれる答えといえば――


「タマちゃんなの?」


 じっとワタシの顔を伺っているミケネコに尋ねる。

 すると、それにしっかりと答えるように、


「にゃあ」


 頷いて答えた。

 ワタシの腕が震える。ワタシはどんな表情をしているのだろうか。


「タマちゃん、なの?」

「にゃあ」

「タマちゃん、なんだよね」

「……」


 最後は声が返ってくることはなかったが、三回とも頷いてしっかりとこのミケネコがタマちゃんであるといことを示す。


「そっか……そっか……」


 タマちゃんを抱きかかえたまま、ワタシは立ち上がってトイレを後にする。

 もうここにはいれない。もしバレたら、殺される。大人の間違った正義によって。


「タマちゃんが調子悪そうにしていたのは、ずっと我慢してたんだね」

「……」


 顔が縦の振られる感触が返ってくる。

 タマちゃんはもうワタシのわかる声では答えてくれない。でも一つ確信があるのはただネコになったわけではなく、記憶や意識は人間だった時のタマちゃんのままなんだと思うことだ。

 そうでなければ――ただのネコになっていたならば――こんな長時間抱きかかえていられないはずだ。

 抱きかかえたままで見えるワタシの指の先は黒く染まりつつあった。曲がりにくくなっているのは黒くなって硬化し始めているんだろう。

 中指が黒くなっていて、他の指が少し短くなっている。気のせいかもしれないけど、そんな気がした。

 タマちゃんの靴が落ちていたところを曲がると、


「……よお」


 紗栄センセが校舎の中に入ってきていた。壁に背を預けていて、ワタシを見つけたら笑顔を浮かべる。その前の表情はなんだか影があった。


「紗栄……センセ……」


 紗栄センセの姿を見た途端、ワタシは耐え切れなくなってしまった。

 目頭が熱くなって、目の前が霞む、喉の奥から嗚咽が溢れでて、床に膝を落とす。


「おうおう、どうした? 大丈夫か?」

「た、タマちゃんが……タマちゃんがぁ……」


 ワタシは紗栄センセにネコになったタマちゃんを見せつつ。

 紗栄センセは思ったよりも反応を見せず、


「ああ……そっか、やっぱり」


 と答えるのだった。


「なんとなく、そんな気がしてたんだよね」


 と紗栄センセは腕をかいている。ずっと痒そうだ。


「な、なんで……」


 紗栄センセはずっと優しい表情をワタシに浮かべ続けていてくれる。


「姉妹舐めんな。調子悪そうだったんだよ、あん日から。ただの体調不良じゃなさそうだと思ってたから、そうなるんじゃないかなって気がしてたんよ……そして、私もな」

「紗栄センセも……?」

「まあ、腕がずっと疼いてんだよなー。産毛も結構生えてきてる」

「そう、ですか……」


 だからずっと腕を気にしていたのか。


「気になさんな。死ぬわけじゃないんだろ? タマはタマなんだろ?」


 ワイシャツを取っ払ってタマちゃんを肩に乗せている。タマちゃんはポンポンと紗栄センセの肩を叩いている。


「……だから私も最後だからってタバコ吸ってたんだよね、ははは……はぁ」


 紗栄センセがため息を付いて辺りが静かになる。


「一瞬で動物になるのと、ゆっくり動物になるのってどっちがいいんだろうね」

「それはわかりません。でも、結局動物になってしまったら今までどおりに過ごすことはできなくなります。それにここにいたら危険になります……ワタシも」


 と紗栄センセに指を見せる「あちゃー」と思ったよりもあっさりとした反応だった。


「そういうことだな。私たちは家があるけど、マコは? 確かご両親帰ってないんだろ?」

「はい……だから、ワタシは……」


 あのフーカの住んでいたマンションを思い出す。あいつはきっと渋谷に向かっているような気がしてならない。それにワタシの両親もそうだ。ならば、人間であるうちに――


「――人間であるうちに渋谷まで行きたいです」

「そう言うと思ってたよ」


 と、紗栄センセはポケットから何かを取り出した。

 うずらの卵のような金色のペンダント? 首にかけるにはチェーンがやたら長い。


「ロケットペンダント。アンタとフーカの写真が入ってる」

「え、いつの間にそんなものを……」

「【獣化病の始まり】の日から用意してたんだ。フーカがいなくなったら、マコは探しに行くと思ってな。ほれ、首にかけろ」


 ロケットを受け取って首にかける。やっぱり長くて、ロケットの部分が胸の下まで垂れ下がってしまう。


「長くないですか?」

「いやいや『人間サイズ』だともしかしたらなくすかもしれないじゃん」

「……それも見越して?」

「ふふふ、養護教諭なめんなよ」

「いや、関係ないんじゃ……まあいいです。ありがとうございます」

「ああ、できれば次会うときも人間で……ってわけにも行かないだろうな」

「そう、ですね」


 【獣化病】はこうして人間の姿を奪っていくんだ。もしかすると、ただ命を奪うよりも残酷なのかもしれない。ワタシはそう思う。

 【獣化病】は感染しないというのは、紗栄センセはもうすでにわかっていたのだろう。だってすでに【獣化病】は始まっていたのだから。感染するならば一緒にいた避難所の人はもう全員姿が変わっているということになるんだ。


「本音を言えば、動物になっちまえばずっと怠けてられるってもんなんだけどね」

「……ナマケモノですか」

「怠けて何が悪い。これで弟が『動物の声がわかる』っていうのが嘘か本当かもわかるしね」

「そういえば、弟さんいるんでしたね」

「ああ、アンタのひとつ上だね。アイツの能力が本物だったら、アイツ通して会話でもできんじゃないの? ……ってことで行っといで、フーカに「何一人で行動してるんじゃい」って伝えてこい」


「はい! じゃあ、行ってきます。紗栄センセ、タマちゃん」


 そういってワタシは校舎の外に向かって駆けていく。

 荷物は、準備は――いらないか、どうせ【獣化病】が進行するんだ。

 フーカが渋谷に向かっているということを信じて、願わくば人間であるうちにあることを信じて、



 ――この地獄のような場所を後にする。

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