Episode 04 出会い
「もう少し……もう少しで……!」
わたしは【獣化病の始まり】の日の夜から歩き通しだった。
歩き通しと言いながらちゃんと休んだり、寄り道をしたりしたけれどももう少しで渋谷に到着するはずだ。ここは一軒家ばかりの住宅街だが、少し遠くには高くそびえるビル群が見えている。
大きなリュックを背負って、梅雨を明けて真夏になろうとしているのに男性用の長袖のジャージを羽織って歩いていた。額には汗が滲んでもう何十回拭ったか数えるのも馬鹿らしかった。
【獣化病の始まり】から一週間経つか経たないかといったくらいは時間が経過している。
一週間も経とうとすれば【獣化病】についてわかったことも色々と出てきており、様々な情報が飛び交っていたりもする。それは人伝えの噂であったり、ニュースを通しての情報だったりする。
数日前からは【獣化病】に詳しい研究者が出てきて様々な検証結果や情報を報道することが多くなった。
まず【獣化病】は突発的に発生する現象であり、発生したものは動物の姿に変わってしまうということ。
【獣化病】によって変化した人は人間だった時の意識を持ったままであること。
視覚や聴覚といった感覚は基本的に人間のままであること。
身体的特徴は変化した動物に依存すること。
という情報は耳にした。
更に、【獣化病の始まり】の発生した渋谷の死骸のいくつかと衣服に残ったDNAに対して鑑定を行ったところ、そのサカナと衣服をまとっていた人間のDNAが一致したという報道もされていた。
【獣化病】だから感染するという噂が一度広まったが、それはニュースを通じて否定され、『病という文字が付いているが病的なものではなく現象に近い』という情報が報道されている。
現在、公共の電波はニュースばかりでテレビ番組は通常の番組はもう放送されていない。ラジオに至っては以前よりも報道が少なくなり自由な番組が増えたらしい。もっとも、ラジオを持っていないので聞く機会は一切ないわけであるが。
【獣化病の始まり】については、大量拉致事件であったり行方不明事件と言われていたが、【獣化病】によってそこにいた人間が姿を変えて命を落としたという結論が得られている。
そして【獣化病】は未だに広がりを見せていて、動物の姿に変える者は徐々に増えている。人間の姿に戻ったという情報は聞かない。さて、戻ることはあるのだろうか?
そんな疑問を持ちつつも私は渋谷の駅を目指して歩き続ける。
住宅街を歩いているが、ところどころ倒壊した家が存在する。地震や台風で崩れたのではない。建物内で【獣化病】によって大型の動物に変化した人によって崩されている。建物は基本的に人間にサイズを基準に作られているためそれ以上の重量の動物になったら耐えられないのだ。
それによって変化した人や倒壊に巻き込まれて命を落とす人間も多い。
そうした今でも、【獣化病】によって姿を変える人、その後の事故によって命を落とす者が増えて、きっと近い将来、人間は誰一人いなくなってしまうだろう。と、噂さえされている。
そのとき、わたしは何をしているのだろうか。
わたしはどんな動物になっているのだろうか。
そもそも、わたしは生きているのだろうか。
人間いればいるほど、その恐怖が増していくのだろう。
それが怖かった。
足が止まり、身体が震えてしまうほどに。
「ワンッ!!」
「――ッ!?」
目の前が暗くなってしまいそうになっていると、わたしの足元からイヌの鳴き声がした。
その声に、わたしは我に返り、周りの景色が再び目に入るようになる。
住宅街であるが、倒れた電柱があったり、おもちゃみたいに崩れている家や一部が崩れて中が見えてしまっている家もある。周囲を見渡すだけで、随分とボロボロになっていることがわかる。
ひどい家だと、血痕が赤黒く固まっていて言葉にできない有様とい場所もある。
【獣化病】というのは、人の姿を変えるだけでなくそれ以上の破壊をもたらしているのだ。家の中で巨大な姿になってしまった場合、壁や柱をなぎ倒し、本人に掛かる力もそうとうなものなのだ。そういった生物に変化してしまった場合、命は絶望的であろう。
そんな様子で、建物が倒壊してそのままの場所もあれば、別の場所では片付けが行われているところもある。
人が複数人で瓦礫を別の場所に移動している光景もあれば、毛むくじゃらなクマや、たてがみが立派なライオンといった姿も見受けられた。本来であれば、そんな動物がこんな住宅街を闊歩していれば大問題で、危険極まりない。だが、今はそうでない。
彼らはきっと"元"人間なのだ。
【獣化病】によって姿を変えてしまった者。そんな彼らも、片付けに参加してるのであった。
人間としての理性を持ったまま別の生物に姿を変えるという苦しみは、どれだけのものなのだろうか。わたしにはわからない。
あのように【獣化病】を受けれいることができた者もいれば、できない者もいる。
そのような"人"の中には、暴れだしたり、自ら命を断ってしまう者もいるというのは聞いたことがある。
そして、まだわたしは"人間"の姿なのだ。
歩き続ける理由は、この光景を見ることではない。
そうだ。わたしはまだ、足を止めてはいけないんだった。そんなことを考えている場合ではないんだった。
わたし、日向風香は【獣化病の始まり】の発生した東京・渋谷の隣の県、神奈川・横浜からずっと歩き通しだった。
サイズの合わず、お兄ちゃんの大きいリュックを背負って、男性物の長袖のジャージとズボンを身にまとって一歩一歩、進んでいた。ジャージもサイズが大きいため、袖を折って、ズボンに至っては裾が地面についてボロボロになってしまっている。
髪の毛も、ここ数日まともな手入れをしていないからパサパサになっていて、汗と交じると少し気持ちが悪い。普段からあまり長くしていないのが幸いだった。
足元には一匹のイヌがいる。
様々な想いが交錯する中、わたしは一歩一歩進んできたのだ。わたしは一人じゃないから。
例え姿が変わったとしても、こうして一緒にいてくれる人がいるから。
「もう少しだね。お兄ちゃん」
「ワフッ!!」
そう、このイヌこそがわたしの兄であり、【獣化病】により姿を変えた者の一人。
日向春斗、お兄ちゃんの名前だ。
ずっとお兄ちゃんがついてきてくれたからここまでこれた。リュックだって、お兄ちゃんが用意していたものだった。もしも、お兄ちゃんがいなければきっと途中で諦めていたことだろう。
姿を変えてもこうして守ってくれているのだ。【獣化病】で人間の姿だった時にできたことが難しくなり、お兄ちゃんだって大変だと言うのに、だ。
「……」
姿がわかってもお兄ちゃんなのだ。
住宅街のずっと向こう側。高い建物がぴょこぴょこと顔を出す、あそこが渋谷の駅前だろう。
ずっとそこを目標に進んできたのだ。お母さんとお父さんが行方不明になった場所。【獣化病の始まり】が起こった場所。まさにそこへ。
もう戻る家がなければ、ただただひたすら目的地を目指す。後のことはそこについたら考えればいい。
それだけを考えてながら歩みを進めている。
しばらくは人がそれなりにいて、物音が多かった場所から、いつの間に静かな場所に迷い込んでしまったようだ。
人の気配もほとんどなく、こういう場所は危ない。横浜からここに来る間に親切な人に教わったことだ。
あまりにも静かな場所は【獣化病】を恐れて集団で、学校などの人が集まれる場所に避難してしまっているのだ。急に【獣化病】によって姿を変えることで、建物の倒壊に巻き込まれることや、根拠のない『感染する』ということを恐れての避難とのことだ。
そしてもぬけの殻となった住宅街に集まるのは、窃盗や迷い込んだ人の身ぐるみを剥ぐ強盗といった、危険な人たちが集まりやすくなっている。
本当なら戻って、人が多い場所を迂回するべきなのだが、渋谷のビル街が目前なのだ。迂回している時間がもったいない。そう思う。
だからこそ、
「急ごうか」
「……」
と、足を早めようとしたら、お兄ちゃんの返事はなくピタリと足を止めてしまった。
「どうしたの? お兄ちゃん」
不安になってわたしは拳を胸に当てる。
お兄ちゃんはまっすぐ前を見て、歯を見せている。
小さく「グルル……」と、イヌそのものの唸り声のようなが耳に届く。
お兄ちゃんには何が見えているのだろうか。
【獣化病】で動物に姿を変えたからと言って、その動物の身体的特徴――四足歩行であったり、尻尾が自由に動かせるといったもの――は顕著に見られるが、感覚的な特徴――嗅覚や聴覚――は殆ど見られないようである。
なので、においや音で何かを感じ取っているわけではなく、目で見えたもので判断しているのだろうか。
わたしも釣られるようにお兄ちゃんの視線の先を追ってみる。
すると、道の向こう側から、ここからでもわかるほどに恰幅の良さそうな男の人が歩いてくる。
裾がだらしなく地面についているズボン。そのポケットに手を突っ込んで、横にゆらりゆらりと揺れるように歩いている。
筋肉質というより脂肪がたくさんついていそうで、上半身は高そうなスーツのジャケットを羽織っている。ボタンはつけていない。
耳やチラリと見える手首はキラリと太陽の光を反射していて、金属でできたアクセサリーをたくさんつけているようだ。
一言で表すと「感じの悪い」おじさんであった。
わたしたちが立ち止まっても、そのおじさんは構わずにこちらに向かって歩いてくる。
このまま踵を返すのも不自然であるし、だからといって立ち止まっていても距離が縮まる一方だ。
距離が近づけば、目が合ってしまう。
目が合った途端に、そのおじさんの垂れた目が、邪悪に微笑む。
ついに距離は数メートルも無いほどに近づいた。
このまま走り抜ければすれ違うだけだが、
「やあ、お嬢ちゃん」
歯を見せた笑みを浮かべながらおじさんが優しそうな雰囲気で声をかけてきた。
最低限の反応として、会釈だけして足を止めない。
隠しきれていない威圧感があり、どうしてもそういう人は苦手だ。
まだわたしの前方におじさんがいる距離。
おじさんだけがピタリと足を止めて、
「一人なのかい?」
おじさんが口を開く。
思っていることが顔に出ていたのだろうか。そうであれば、察して欲しいがそういう訳にはいかないのだろうか。
面と向かっては言えないが、おじさんの表情と言葉が合っていない。
お兄ちゃんに目配せすると、やはり警戒している。
わたしとおじさんがすれ違い、横に並んだ瞬間。
「――ッ!?」
「お父さんは? お母さんは? 一緒じゃないのかい?」
腕を掴まれた!
痛みを伴う強さで掴まれて、わたしの身体は引っ張られてしまう。
わたしは顔を見上げると、おじさんの笑みはすでに喜びのそれに変わっていた。
しまった!
と思ったときには遅い。
足だけでもと、逃げようとしたが、一女子高生で振り払えるものではなかった。
「どこに行こうというのかな? この辺は物騒だから、安全なところまで一緒に連れていってあげよう。この辺は物騒だからね」
確かに物騒だった。
まさにあなたが物騒の元凶です。なんて言ったら、何をされるかわかったもんではない。
嫌な汗が浮かぶ、怖い。
でも、叫んでも誰も来てはくれない。
物騒なところは人通りも無いのだ。
あるとしたら、物騒の原因を作っている人か、わたしみたいに迷い込んだ人だけだ。
「い……いや、け、結構です……」
「そんな事言わずにさぁ」
「や……や……」
ダメだ。どうしようもない。
お兄ちゃんは今にも飛びかかろうとタイミングを伺っている。
と、おじさんが何かに気がついたと言いたげに表情がハッとした。
「……【獣化病】」
そっとつぶやいた。
「渋谷で起きた【獣化病の始まり】……」
まるで呪文のように、覇気はなく。
「まさにこの近くだよねぇ……それが起きたの。感染るとか感染らないとかデマやら噂やら飛び交って、駅の近くなんて数日立入禁止だった……それにかこつけて、空き巣や誘拐も増えてるんだってねぇ」
やはり、そうなっている、のか。
それをよく知っているということは、
「だって、この辺迷い込んでる若い娘を誘拐してるのって、オレ達なんだからよぉ!」
「――ッ!?」
表情が自然になった。
違う、まるで獲物を見つけたような歓喜の顔が、あまりにもおぞましく見えて、それが自然だったのだ。
わたしの腕を掴む力が更に強くなる。
メキメキと今にも音がしそうで、そのうち折れるのではないかと思うほどに。
「優しくすんのも面倒クセェ! さあ、来い! これも仕事なんだ、悪く思うなよ」
え、仕事?
「あ、やッ!?」
おじさんはわたしを掴んだまま、来た道を戻り始める。
踏ん張るけど、そんなんじゃまったく力が足りない。
ずるずると引っ張られて、このままではどこかに連れ去られてしまう。
視界に入ったのはお兄ちゃんの姿。それと同時に。
「グゥアアアアアア!!」
四肢を使っておじさんに飛びかかった、が。
「うるせぇんだよォ!! イヌ風情がよォ」
「キュウン――!!」
おじさんはわたしを掴む腕とは逆の腕で、お兄ちゃんを殴り返してしまった。
とんでもない力で殴られたお兄ちゃんは、アスファルトの地面を何度か転がって、動かなくなってしまった。
「お兄ちゃ――」
しまった……ここで声を止めるがもう遅い。
「ほう……」
おじさんは納得したように頷いて、お兄ちゃんを殴った腕でポケットを漁る。
中から出てきたのは、黒光りをしていて、L字の先が長い物体。
テレビや漫画でしか見ないようなそれ。
「コイツ【獣化病】か……フフフ」
それの先をお兄ちゃんに向ける。
「ほら、大事なお兄ちゃんなんだろう? この銃で頭から木っ端微塵にされたくなかったらおとなしくついてこい!」
銃、引き金を引けば銃の先から弾が飛び出す武器。
そんなものまで持っているのか。
もし抵抗すれば、お兄ちゃんは赤い鮮血を吹き出して絶命してしまう。
そんな想像をしたら、全身から力が抜けそうになる。
「や、いや……やだ!!」
「お、おい、暴れるな! 本当に撃つぞ!」
もうなんでもいい、お兄ちゃんが撃たれなければどうなってもいい。
こんなことしても無駄だとわかっても――
「だ……だれ、か……誰か助けて!」
どれだけ響くかもわからない声を、大きく、天に向けて発する。
その瞬間、
――パァン!!
乾いた音が遠くから響いた。
カチャリと何か固いものがアスファルトに落ちる音。
おじさんの腕の力が弱まったのに気が付き、腕を振り払ってお兄ちゃんの元へ駆ける。
一瞬でこれだけの事が起きた。
お兄ちゃんは無事だった。
そして、時が動き出す。
わたしは座り込んでお兄ちゃんの身体を抱きかかえる。
ふさふさでふわふわしているのが今のお兄ちゃんだ。
「く、クソがッ!?」
おじさんは地面に膝をついて、銃を持っていたはずの腕を抑えていた。
手が震えていて、すぐに動きそうな雰囲気はなかった。
武器である銃は、おじさんの手が届く程度の距離に落ちていた。
「……え?」
何が起きたのだろうか。
「チッ、誰だッ!」
おじさんはわたしを連れ去ろうとした方向に叫んだ。
震えが止まらないままにその方向に視線を動かす。
わたしとお兄ちゃん、おじさんの三人しかいなかったはずのこの空間にもう一人、入り込んだ人がいたのだ。
逆光で容姿は分からないが、髪の短い男性だ。
男性もおじさんと同じような銃を手に持っていて、その銃口からは煙がまだ立ち込めていた。
それでも、まるでタイミングよく現れた勇者のように、わたしの目に映った。
「き、貴様! アイツから聞いたのはお前か、偽善者野郎!」
おじさんはあの人を知っているのだろうか?
叫んでいるが、男性は一向に返事をしない。
「こっちにだってなぁ、人質がいるんだ――」
「あ、いやッ……」
おじさんは腕を伸ばしてわたしに飛びかかろうとした、瞬間。
もう一回、乾いた音が響き、目の前が真っ赤に染まった。
ぬるりとした液体が顔にかかる。
理解するのに数瞬かかった。
おじさんは片方の腕が半分になり、逆の腕で抑えてる。
そこから赤い液体が流れて、血溜まりを作る。
おじさんの腕が炸裂したのだ。
「が、ガアアアアアア――ウワアアアアアア!!」
わたしはそれを見てしまった。
違う意味で、わたしは再び震えることになる。
「よそ見してるからだ」
男性はおじさんに言い放った。
男性は少しずつこちらに寄ってきている。
おじさんは顔を歪めたまま、男性の方に向き、
「偽善者め……こんな娘を助けるために、テメェも罪を犯してるじゃねぇか」
「……偽善でも何でもない。俺が生きるために、邪魔な存在を排除しているだけだ」
男性の目は鋭くて、冷たかった。
「クソッ、テメェさえいなければ、稼げたものを……邪魔しやって……」
「……フン、興味ないな」
男性はもう一度、銃を撃った。
次はアスファルトの地面をえぐるだけで、おじさんに当たることはなかった。
おじさんが抵抗しようもんなら、次は的確に身体を撃ち抜くだろうか。
「失せろ、死にたくなければな」
「畜生!」
「きゃッ……」
八つ当たりと言わんばかりにおじさんはわたしを突き飛ばす。
お兄ちゃんから離れ、地面に叩きつけられるけど、大した痛みじゃない。
おじさんは血の道を作りながらも、足早に去っていく。
そして、わたしは浮遊感と一緒にゆっくり目の前が真っ暗になっていく。
「助かった、のか、な……?」
「お、おいッ!」
男性が駆け寄ってくるけど、どうすることもできなかった。
「お兄ちゃんを……」
ここでわたしの意識はぷっつりと途絶えた。
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