第11話 ラストライブ
死にたいくらい自分が嫌いなんだ!
‐IN UTERO‐
嵩は夢を見た。長い夢だった。父さんと母さん、そして自分。親子三人で、どこかの海辺を歩いていた。潮風を頬に受け、とても気持ちが良い。母が作ってくれたおにぎりを、流木をベンチの代わりにして、三人で仲良く座って食べた。当たりは鮭。ハズレは梅干。嵩は、ハズレの梅干を当て、グズった。父が、笑いながら、自分の引き当てた鮭のおにぎりを交換してくれた。遠い昔の記憶なのに、鮮やかに風景が進む。嵩は、子どもでも大人でもなく、曖昧な境界線を行ったり来たりしている。真実なのか、願望なのか、よく分からない。ただ、仕合わせな気持ちが胸に溢れた。
ああ、また三人でこうして生活できるんだ。と、嵩は安心し、水平線を眺めながら、軽い眠気に酔った。カモメが群れている。きっとあそこにはたくさんの魚が集まっているのだろう。
父さんがギターを取り出した。ビートルズの「I wⅰLL」を、つま弾く。「きっときっとだよ」と口ずさむ。
ボクも一緒に歌っていいかな?そう嵩が言うと、父さんはにこっと笑みを浮かべて、頷く。いつの間にか、母さんも歌っている。
そうか、ボクは帰ってこれたんだ。長い旅の果てに、また家族は一つになれたんだ。そう思うと嵩は、自然と涙がこぼれおちた。
もう独りで不毛な夜を繰り返さなくてもいいんだ。
父さん。母さん。ボクはもう大丈夫だよ。
そう言おうとしたが、声にならない。波の音が大きくて、すべてを掻き消してしまう。せめて、ありがとうの一言だけは伝えたいのに。ああ、待って、父さん。父が、座っているはずなのに、だんだん嵩から離れて行ってしまう。母の姿はすでにない。
波が渦を巻いて、空に登って行く。海上を進む竜巻のように、海が宙に吸い寄せられる。父さん。待って。もう一度、嵩は心で叫ぶ。届かない。声が出ない。あと少しで届きそうなのに、手を伸ばすと、伸ばした分だけ遠のいていく。
ごめんなさい。ごめんなさい。嫌がらず、梅干のおにぎりも食べるから。父さん。母さん。ボクを独りにしないで!もうこれ以上,
引き千切らないで!
目覚めた嵩は、全身汗びっしょりで、まだぼうっとした頭の中で、今までいた世界が夢の中の出来事だったとやっと理解した。時計を見ると、正午を少し過ぎていた。
「だけど、昨晩の出来事は夢ではない。ボクは父と再会した」嵩は自分の思考をなんとか整理しようと、脳を無理矢理、起動させる。
刑事の戸倉が話した父のこれまでの苦悩は、一度聞いただけでは信じられなかった。今も、まだ完全には信じられない。
だが、刑事がわざわざ嘘を言うとも思えない。父は、今日もう一度警察に事情聴取を受けに行くという。もう、今頃は警察署に居るだろう。自分もその場に行きたいが、それはきっと無理だ。昨晩聞いた話を、今は真実として受け止めるしかない。嵩は、戸倉が伝えた話を、ゆっくりと自分に言い聞かせるように、覚醒してきた脳に刻みこんだ。
糸井忠光は、御厨紗江子が殺された夜、現場になったホテルに来るように、杉田莉子から連絡を受けていた。約束の時間、そのホテルに向かうと、そこには同じく、杉田莉子からここに来るようにと呼ばれていた御厨紗江子と再会した。紗江子の顔は、なんとなくだが憶えていた。紗江子の方は、忠光をよく知っていた。かつて、ファンだったバンド〈アマテラス〉のギタリストだ。知っていて当然だった。紗江子も、忠光も同様に驚いた。部屋は、お互いに杉田莉子から指定されていた。理由がわからないまま、二人はその部屋に入った。
紗江子は、ある物を、現れた人物に渡して欲しいと、杉田莉子から言われていた。その命令を守り、忠光に、それを渡した。
渡された忠光は、そのままホテルをあとにした。
その後、御厨紗江子は、他殺体となって、同室で発見された。忠光が、紗江子の死を知ったのは翌日のニュースだった。
忠光は、杉田莉子の母親である、杉田良子と不倫の仲になって、数年前、家族を捨て失踪していた。その後、すぐに良子とは別れたが、罪の意識から、家に戻ることはなかった。
良子も同様に、杉田家から失踪し、娘の莉子とも連絡はとってなかった。その、娘の莉子から、突然、忠光の携帯にメールが入ったのだ。それが、今回の御厨紗江子との再会を果たすことになる内容のメールだった。昨晩の戸倉の話では、そのあたりの詳しい内容はぼかされていたが、父の忠光が、杉田莉子が、これまでのすべての事件を陰で操っていたのだと考えていることは、勘の鋭い嵩には、すぐに解った。紗江子殺しも、莉子の犯行だと忠光は考えている。嵩も、莉子の言動には不信感を抱き続けていた。
その後、莉子と忠光は、行動を共にすることはなかった。しかし、自分が誘拐されたとメッセージを作って、警察に伝えろと、数日後再び莉子からメールが届いた。嵩をオーディションに出場させろと指示してきたのも杉田莉子だった。忠光は理由が解からないまま、言われる通りに、メッセージをサンプラーで作り、警察に伝えた。ただし、その中に暗号を隠したことは、莉子には秘密にしていた。息子の嵩なら、きっと暗号に気づいてくれるはずだと、僅かな可能性に賭けたのだ。
忠光は、僅かな可能性に賭けてはいたが、警察が、嵩をオーディションに本当に参加させるとは思っていなかった。そして、オーディション当日に、現場で爆弾騒ぎがあったことなど、もちろん知るよしもなかった。
いくら待っても、ニュースで誘拐事件が取り上げられることもなく、自分が指名手配もされない。自分が、自首すれば、事件は解決する。疲れ果てた忠光は、正常な思考ではなかった。このまま隠れていても、家族に迷惑をかけるばかりだと考えた忠光は、ついに、自分が犯人だと自首してきた。
それが、昨晩、戸倉から聞いたすべてだった。
嵩は納得してなかった。戸倉の話があまりにも穴だらけだからだ。
父が自首してなにが解決するというのだ。警察にだってすぐに嘘だとばれるだろうし、なにより、父が犯人になってしまったら、これまで以上に家族に迷惑がかかってしまう。父の行動は矛盾だらけだった。嵩は考えた。父の行動で、本当に庇おうとしているのは、糸井家ではない。杉田莉子を庇おうとしているんじゃないかと、嵩は思った。否、戸倉もそう考えているに違いない。
昨日の焼鳥屋では、父との確執を取り除こうと戸倉は必死だったが、事件の核心は、そこじゃないと、嵩はとっくに見破っていた。
昨日は、思考が混乱して、ただ黙って戸倉の話を聞いていたが、冷静になるほど、父ではなく、杉田莉子の方に、気持ちが移っていく。
莉子はいったい何者なんだ?なにが目的で、自分に接見してきたり、狂言誘拐を企てたりしたんだ?警察も、杉田莉子の確保に動いているに違いないが、嵩も、莉子に繋がる記憶が脳のどこかに残っているんじゃないかと、昔を思い出そうと努力した。
だが、いくら考えても、芸能スクール時代の莉子の姿を思い出せなかった。居ても経ってもいられなくなって、嵩は家を飛び出した。
なんの充てもなかったが、あそこに行けば、もしかしたらなにか分かるんじゃないかと、嵩はある場所を思い出した。
莉子が「ここの常連だよ」と言っていた場所。ライブハウス「弁天」に、苦手な電車に乗って嵩は向かったのだった。
2
糸井忠光は、今日も取り調べ室にいた。戸倉に紹介されたビジネスホテルでは、朝まで一睡もできなかった。気が張り詰めているせいか、まったく眠気はない。ただ、全身に疲労だけは感じていた。忠光は、朝一番にホテルをチェックアウトし、その足ですぐに警視庁に向かった。入口では、すでに戸倉が待っていた。
逮捕されようと決め込んで、覚悟の自首であったが、情けない展開になってしまったと、忠光は自分の不甲斐なさに、恥ずかしさを越えて、怒りすら覚えた。自分への怒りだった。今のところ、自分一人がバタバタ動いて、事件をひっかきまわしているだけで、誰も助けてはいない。それどころか、息子の嵩には、多大な、迷惑じゃ済まされないほどの苦悩を背負わせてしまった。父親失格だと、本当に今更ながら痛感していた。
「あの、事件について知っていることは昨日ぜんぶ話しましたが…」
忠光のその後の供述は、嘘ではなかった。自分が犯人だと自白したのは確かに嘘の自白であったが、刑事にあっさり否定された。その後語ったこれまでの経緯は、すべて正直に話したつもりだった。これ以上なにを話せばいいのか。忠光は、取り調べ室に漂う、独特の緊張感に気圧されて、唇が乾ききっている。水を一杯もらいたいが、刑事の、すべてを疑っているような瞳が怖くて、その一言も言えないでいた。昨日の夜、近くの焼鳥屋で見せた、屈託のない笑顔とは、まったく真逆だ。でも、これが本来の刑事の目なのだと、忠光は改めて思い知らされた気持ちだった。
刑事の名はたしか戸倉だったなと、忠光は昨日のことを振り返る。焼鳥屋では、嵩とずいぶん深い知り合いのように見えた。この刑事と嵩の間にどんな出来事があったのか、逆に、忠光が知りたかった。
「嵩は、事件に協力したと言っていましたが、あの子が誘拐以外に、直接関係のあった事件はなかったんじゃ…」
乾いた口で、上手く言葉が出てこない。緊張のせいもあった。だが、親として知っておかなくてはいけないと、忠光はなんとか言葉を絞りだした。自分に親の資格があるのだろうか?という不安も、胸の真ん中に居座り続けているが、それでも嵩の事は知っておきたかった。
「捜査内容をここであなたに伝えるわけにはいきません」
戸倉は、冷静に、当たり前の返答をした。
「解っています。でも、嵩は、昔から、私が言うのも変でしょうが、すごく内向的な部分があって、自分からすすんで、誰かに協力できるような子ではなかったと思います。いや…。ここ数年でどう成長したのか、私は知らない…。やはり父親失格ですね…。昨日だって、あの子は、私に殺意を持って向かってきた…」
「あなたは、彼の気持ちをなにも解っていない!」
冷静だった戸倉が、少しだけ感情を表に出した。
「嵩くんは、私の知っているかぎり、ずっと孤独だったようです。あなたが蒸発してから、学校にも行かず、部屋に引き籠るようになったそうです。せっかくの才能も封印し、一人でもがき苦しんでいた…。なぜだか解りますか?」
「それは…。やはり私があんなことになってしまったから…」
「違います!あなたが、彼の才能を一番認めていたからです。あなたが、嵩くんの才能を一番理解していた。誰に褒められるよりも、あなたから褒められることが、彼にとっては自分自身の存在理由の証明だったのです!そのあなたを失った瞬間から、彼は、自分の価値を失ってしまったんだ」
「そんな…。嵩の才能は、すでにあの当時、誰もが認めていました。実際に、映画の賞ももらったし、仕事だって順調だった…」
「嵩くんは、歪な成長をしたのでしょう。彼の才能に、彼自信の心がついていけなかった。あなたが考えている嵩くんとは違い、嵩くんはまだ未完成で、子どもだったんです。知らない大人から褒められたり、必要以上にちやほやされることに、不安を抱いていたはずです。私も人の子の親ですから分かります。嵩くんは、あなたの言葉だけを、道しるべに、平気で嘘がまかり通る芸能界を、手さぐりで歩いていたのだと思います。あなたがいなくなり、彼はなにも見えなくなった。あなたを、ただ恨んでいたわけでありません。それなら、こんなに彼が捜査に協力などしなかった。ずっと、あなたのことが気になっていたのでしょう。もちろん怒りもあったはずです。でも、本気であなたを恨んだり、まして、殺そうなどとは思っていなかった。彼は、これまで溜めこんだ想いを、ただ爆発させただけです。本当に殺そうとしたのなら、あんな石ころひとつもって、突っ込んできたりなんかしない…。あなたがどう自分と向き合ってくれるのか、彼も不安だったのです。だから、私はあのあと、あなたたちを誘い、本当のことを嵩くんに伝えたのです。あれで、長年の蟠りが解消できたかは疑問ですが、少なくとも、誤解は解けたんじゃないかと思います。あなたはなにも分かっていない!」
「…すいません。私は本当にダメな父親ですね」
「そんなことはないと思いますよ」
「え?」
「だって、あなたは自分の人生を捨ててまで、彼を守ったじゃないですか。ただやり方が不器用だっただけです。結果がどうあれ、それが過ちでなければ、必ずいつか、雨はあがるはずです。たくさんの犯罪者を相手にしてきた私が言うのだから間違いないですよ。おっと、過ちと言えば、昨日私があなたたちを誘ったことは、完全に職務違反ですな。まぁこれだけ長く刑事をしていると、処分のひとつやふたつ恐れていたら事件など解決できないと痛切に感じますな。まぁそのせいで、出世の道からは完全に遠のいてしまいましたがね」
戸倉はそう言って、昨晩見せた、柔らかい笑顔を覗かせた。
だが、すぐに元の刑事の顔に戻り、もう一人の、救済しなくてはいけない子の話に移った。
むしろ、こっちの方が、急がねばならなかった。彼女は、すでに過ちを犯しているかもしれない。過ちを犯したのであれば、彼女こそ救済が必要だった。大人の女性ではない。まだ幼さの残る未成年だ。忠光が守ろうとしたもう一人の子。戸倉はすでに、杉田莉子の過去に辿り着いていた。
二年前の事件よりもずっと過去の話。本当は、この過去の真相を確かめるために、忠光を呼んだのだ。
「ちょっとだけ休憩を挟みます。喉も乾いておいでのようですし」
戸倉は言って、野宮に水を持ってくるように指示した。昔の刑事ドラマのようなカツ丼というわけにはいかないが、水くらいなら許されていた。
戸倉は一度席をはずし、部屋の外で、どう話を切り出そうか思案した。やはりまわりくどい言い方は止そう。時間がない。結局、良案は思い浮かばず、いつもの自分流の、ストレートど真ん中の方法で、忠光に向かうことに決めた。
複雑な事件ほど、ひとつひとつを確実に潰していくしか解決の方法はない。一度にぜんぶと思うと、思わぬ落とし穴に落ちてしまう。これも、長年刑事をやってきた戸倉の、経験から導き出された捜査理論だった。
「急がなくてはいけない時ほど、遠くから攻めろ」そう、自分の心に確認し、タバコを一本吸ったあと、戸倉は再び取り調べ室に戻った。
「やぁ、君はこないだの名探偵くんじゃん!」
弁天に入るなり、店長の田口が嵩の顔を見て駆け寄ってきた。
「まさか、うちの人間があんな事件を起こすなんてね。困ったもんだよ。まぁ今日はゆっくりしていってくれよ」
田口の口調は、自分のところの従業員が殺人犯だったというのに、意外なほど軽かった。もううちとは関係ない話だよといった態度だ。
「あ、あの…」
「なんだい?」
「この前、一緒にライブをした子、杉田莉子についてなんですが、その後ここには来てないですか?」
「ああ、莉子ちゃんね。そういや、昨日もまた刑事が来て、莉子ちゃんが来てないかって、同じ質問を訊かれたけど…」
「刑事?この間の事件の時のですか?」
「ああ、あの時の二人の刑事だよ」
「それで、杉田莉子は?」
「うん、あの夜以来、うちには一度も来てないね」
「そうですか…」
嵩も、田口の答えはある程度予想していた。刑事が来たことも、誘拐事件が狂言だと警察が結論付けているのなら、ここに捜査に来るのは必然だった。嵩は、莉子について知らないことだらけだ。今日は、彼女の過去をなるべく知るために、発作を抑えるための安定剤を多めに飲んで、わざわざ「弁天」に来たのだ。
「杉田莉子は、ここの常連だったのは本当ですか?」
「うん。常連といっても、あるバンドの追っかけをしていて、そのバンドがライブをする時だけ来てたんだ。まだ売れる前からね」
「そのバンドって?」
「あれだよ」
店長はそう言って、壁に貼ってあるポスターを指差した。
嵩が目で追うと、その先にあったのは〈スサノオ〉のメジャーデビューアルバムを告知したポスターだった。
「スサノオ…」
「ああ。そういや知ってる?あのバンドのベースが爆弾騒ぎ起こして捕まったんだって。しかも、自分たちのバンドの自伝映画のオーディション会場で。せっかく人気あるのになにを考えてんだか」
嵩は複雑な心境だ。自分がその現場のど真ん中に居たことは臥せておこうと思った。
「スサノオは曰くだらけのバンドだね。正直呪われてるっていうか」
「あの、じゃあなんでまだポスター貼ってるんですか?」
嵩はなぜだか分からないが、田口の言い方が勘に障り、少しだけキツイ口調で返した。
「まぁ、そういうバンドほどロックの世界じゃ伝説になるからね。このポスターもほとんど出回ってない物だから、きっと今に希少価値がつくと思うよ」
「店長さんは、二年前の事件もよく知ってるんですか?」
嵩は話題を変えた。
「二年前ねぇ…。あの時は大変だったよ。消防やら警察やら来てさ、なんか防火法に引っ掛かるかもしれないとか言われて、店始って以来の閉店の危機だったよ」
「あの、それは、スサノオのギタリストが事故死した話ですか?」
「え?そうだけど、その話じゃないの?」
「いえ、その話も詳しく訊きたいですが、同じ日に起こったもう一つの殺人事件の話を…」
そう嵩が言いかけた途端、店長の田口は急に不機嫌な表情を露わにした。
「あれは、うちは関係ないよ。たまたま被害者が最後にここの店に居たってだけで、この話はさんざん警察にも訊かれたから、もううんざりなんだよ。だいたい、君は警察でもないでしょ?まさか、まだ探偵気分でいるわけ?」
「いや、そうじゃないですが、殺害された人って、杉田莉子の友達だったんでしょ?」
「そのへんのことは、僕はよく知らないよ。同じ学校の子ってのはあとになって聞いたけど」
「でも、その日、杉田莉子と一緒にスサノオのライブを見に来たんじゃないのですか?」
「どうだったかなぁ?事件が起こった時も、莉子ちゃんはこのホールにいて、その子は外にいたって警察から聞かされたけどな」
「杉田莉子はずっとホールに居たんですね?」
「おいおい、完全に警察と同じ質問だな。警察にも何度も言ったけど、確かに莉子ちゃんはずっとホールにいたよ。最前列で、スサノオのライブを見ていたからね。あの子、けっこうスタイルもいいし、顔も可愛いから、人目を引くじゃない?だからよく憶えてるよ。むしろ、被害者になった女の子の顔はぜんぜん憶えてないんだ。事件が発覚して、この店に刑事が来たのもだいぶあとになってからだったし、それよりも、スサノオのギタリストのGENがあんな事になって、そっちの方が大変だったからね。GENが死んだ日からもうすぐでちょうど二年になるのか。そういや追悼ライブもなかったよなぁ。普通はバンドの誰かが死んだら追悼ライブやるんだけどね。あのあとすぐに〈スサノオ〉は売れちゃったからそんな暇もなかったのかな。まさかうちみたいな小さいライブハウスでレコ発ライブしてくれるとは思ってなかったよ。まだ責任感じてるよ。今もよく夢にGENが出てくるしね。まいっちゃうよね」
「そのギタリストの命日ってもうすぐなんですか?」
「ああ、二週間後の日曜日だね。その日でちょうど二年。てっきり君もGENのファンで命日くらい知ってるもんだと思ってたよ。君のギターよく似てるからね」
「似てるって?」
「ああ、GENの演奏にだよ。GENのギターの音によく似てると思うよ。それで莉子ちゃんにスカウトされたのかと思ってた」
嵩は、以前もスサノオのライブ動画を見ていて、GENのギターがどことなく自分に似ていると自身で感じていた。
‐やはり、自分のギターと通じるものがあるのだろうか?共通点はなんなんだろう?‐
嵩が沈黙していると、店長の田口はお構いなしに続けた。
「そういやさ。例の〈スサノオ〉のことなんだけど、ベースが爆弾さわぎで捕まった話、後日談があって、あの場にいた誰かが隠し撮りしてて、動画サイトにアップしてたらしいね。すぐに削除されたようだけど、その時、オーディションを受けてた誰かの演奏も偶然映ってて…。いや逆か?もともと、その誰かの演奏があまりにすごかったから、ケータイで隠し撮りして、それで偶然、爆発騒ぎを録画できたのか。まぁどっちでもいいや。で、その動画が話題になってるみたいだね。爆弾のことじゃなくて、オーディションを受けてたやつの演奏の方がね。ボクはまだ聴いてないけど、ネットで騒がれるってよっぽどだと思うよ。噂じゃ、それもプロダクションが最初から仕組んだ出来レースって話もあるらしいけど、どんなやつなのか聴いてみたいね。君も、先日のライブの時、すごいギター弾いてたじゃない?こういうのはブームだからさ。盛り上がってるうちに、君もサイトにアップしてみたら?」
田口があまりに本気で話すので、嵩はつい笑ってしまった。この人は、その本人を目の前にして、なんにも気づいてないのかと思うと可笑しくて仕方がなかった。
「なに笑ってるの?やっぱりその話ガゼネタ?ボクあんまりネットとか詳しくないからさ、よく若い連中にバカにされるんだよ」
「いや、そういうわけじゃなくて…」
なんで、この程度のことで、こんなに可笑しいんだろ?嵩は笑いを必死に堪える。思えば、ここのところずっと緊張状態が続いていた。それが昨夜、父と数年ぶりに再会し、溜まっていた想いをぜんぶぶちまけ、その後、父のこれまでの苦悩を、刑事の戸倉のおかげで知ることができた。まだ、父とどう向き合えばいいのかはっきりした答えは出ないが、嵩の中で、大きな錘がひとつ消えたのは事実だった。焼鳥屋で、ほとんど父との会話もなかった。でも、昨日を境に、嵩の深い闇に一筋ではあるが、光が射した。
可笑しくて笑うという、人として当たり前の感情が、知らぬ間に復活していたのだ。そのくらい、この数年間の闇は深かった。そして、父の存在が、どれだけ嵩の中で大きかったか、父と再会して初めて理解できた気がした。
嵩もまた勘付いていた。父と杉田莉子の間には、なにか特別な感情が渦巻いている。父が嘘の自白をしたのは、嵩を守るためではなく、あの杉田莉子を守るための行動であったと。
莉子にはぜったいにもう一度逢わなくてはいけない。そんな強い衝動が、今の嵩を突き動かしていた。
「あの、今言った動画って、もう完全に削除されたんでしょうか?」
嵩は田口に訊いた。
「さぁ、詳しくは知らないけど、ネットの世界で完全になくなることはないんじゃない?爆発が起こった場面なんかは、警察がもう削除依頼をサイト運営にしてるだろうけど、オーディションの様子なんかは事件と関係ないし、もしかしたらどこかに添付されて残ってるんじゃないかな?やっぱり君も興味あるでしょ?」
「はい、そんなにすごいって評判のギターなら聴いてみたいです」
嵩はなにくわぬ顔で答えた。
「すいません。ありがとうございました。話はだいたい分かりました。それでなんですが…。かなり無理なお願いをしたいのですが」
「え、もう話はいいの?まだ事件のこととか訊きたいことがあるんじゃないの?」
嵩は、これ以上、田口に話を訊いても、真実は見えてこないと察したので、次の行動に出ることにした。
莉子が出てこないなら、こっちが炙りだすしかない。
嵩は「弁天」オーナーであり、ブッキングマネージャーも兼任している田口に、ある話を持ち掛けた。一瞬怪訝な表情を浮かべた田口だったが、嵩が詳しく事情を説明すると「その日ならたまたま店も休みだし、供養の意味もこめてOKにしちゃうか」と、嵩の話を了承してくれた。
危険な賭けかもしれない。だけど、ここまで来たら、もう手段を選んでいる時間はないと、嵩は考えていた。ある方法を閃いたのだ。
嵩は田口と約束すると、早々に「弁天」から出て自宅へと急いだ。
3
「戸倉さん!大変なことになってますよ」
出勤するなり、野宮が戸倉のデスクに駆け寄った。
「朝から騒々しいな。なんかでかいニュースでもあったのか?今朝のテレビじゃなんにもやってなかったぞ」
「テレビのニュースじゃないんです。ネットです。ネット」
「ネット?」
「そうです。インターネット」
戸倉は、野宮からインターネットの話がでるだけで、虫唾がはしった。つい先日も、爆弾騒ぎの動画を勝手に動画サイトにアップしたやつがいて、削除させるのに一苦労だったのだ。と言っても、パソコンに疎い戸倉は、右往左往するふりをしながら、横で見ていただけだったのだが。
「なんだ。また新しい動画がアップされたのか?」
「そうなんですけど、それが、大変なんですよ!」
「そりゃ、捜査内容が漏れるのは大変だろ。またすぐに削除させるように管理者に要請するんだろ?」
「いや、それが、事件とは直接関係ないっていうか、いや、関係ないこともないんですが…」
野宮の話がちぐはぐで、戸倉はイライラしてきた。
「落ちつけ!野宮。なにがあったのか、俺に分かり易く説明してみろ」
「すいません。ちょっとみんなも集まってください!」
野宮がそう言って、まわりの捜査班の刑事も、野宮のデスクに集まった。
「これを見てください」
野宮は、自分のノートパソコンを開き、ネットに繋いだ。動画投稿サイトの〈わくわく動画〉のページを開く。
検索ワードに「オーディション」「スサノオ」「神ギター」と打ち込んだ。すると、ある動画のページに行きついた。
野宮は再生ボタンをクリックした。
画面には「この動画のギタリストは、先日のスサノオ映画化オーディションに参加した、あのギタリストなのです!」とテロップが映しだされ、下半身裸のある男性が、前髪で顔を隠し、ギターを唐突にプレーしだす映像が流れ出した。オーディションでのギター演奏の模様は、すでにネット上で話題になっていた。
「このギタリスト神すぎワロタ」
「次の伝説はコイツ」
「出来レースにしても、こいつのギターは神」
「おれギター辞めようかなとオモタ瞬間」
などど、サムネイルにリンクが貼られ、辿っていくと、オーディション動画に行きつく。それを、警視庁は躍起になって削除していったが、爆発の場面こそ、完全に削除されてはいたが、嵩が演奏したギターの場面だけは、コピーされ、ネット上に拡散続けたのだ。
もちろん、ギターを弾いているのが、糸井嵩だとは誰も判らなかった。誘拐事件が絡んでいたため、警察も、糸井嵩の本名は、あえて隠して、オーディションに参加させていたからだ。
しかし、新たにアップされた動画は、戸倉たちを驚かせた。
「おい、おい、おい、おい、おい」
「まずいでしょう?」
「まずいってもんじゃねぇよ!」
「あいつなに考えてんだよ!」
動画に映っていたのは、糸井嵩本人だった。前髪で顔はよく見えないが、確かに嵩本人だった。動画が撮影された部屋の様子も、戸倉は憶えていた。嵩は自宅の部屋にウェブカメラを設置し、その前で自らギターを演奏していたのだ。しかも、あのオーディションでの演奏は、自分が弾いたもので、爆発事件がなければ、オーディションに合格していた。とはっきり、プロフィール欄に書き記していた。
動画は、視聴者が生でコメントをアップできるようになっており、左から右へ、無数のコメントが流れて行った。
‐これマジ演奏‐録音じゃないの?‐上手すぎワロスw‐
‐ネ申降臨!‐ネ申‐ギター十年やってるけど、こりゃナイわ‐
‐マジ凹む‐早すぎてて手が残像にみえるw‐録音じゃないのは聴けばわかるw‐爆弾事件もヤラセなの?‐いや、あれは警察動いてたからマジ‐厨房もここまできたか‐いや、これ中二ちゃうだろ‐すげぇなこれ‐アクセス100000突破!‐まだ伸びそう‐弾幕はれよー!救世主はいたな‐こいつがスサノオのギタリストに鳴るのか‐アリだな‐オレの方がうまいわ‐じゃあ晒セヨ‐なんかカートコバーンに似てるな‐ゆとりは知らねぇだろw‐フジロックでお披露目か?‐そりゃねぇわ‐スサノオ契約切ったらしい‐マジ?‐でもフジロックはインディーズでもいけるだろ?‐アクセス500000突破!‐早くネ?なんでだろ、これ聴いてたら涙腺崩壊したw‐わかる!‐なんか泣けるよなこいつのギター‐ヤラセだろうが、本物には違いない‐糸井嵩って晒してる!‐糸井嵩って、デルタギヤの子役じゃね?‐誰それ?‐おれゆとりだけど憶えてるわ。親と映画見にいった‐あの子役?‐ウソ!‐マジで‐やっぱりやらせ?‐やらせでも凄くね?‐これマジに弾いてるんだよね‐ギタリスト歴20年のオレが言うんだから間違いない‐これマジに弾いてる‐しかも、このテレキャス、五万円くらいのやつ‐これでこの音出せるやつそうそういない‐ギタ神だな‐←ワロタ‐ギタ太郎だな‐←くだらねぇ!更新三時間で、アクセス800000突破!‐完全に来たな‐糸井嵩って言われるまで忘れてたよ‐天才子役が奇跡の復活ってなんかすげぇ!レジェンドキターーー!‐これ途中から弾いてるの〈スサノオ〉の曲だよね?こんな曲あった?←これインディーズ時代のやつだよ
「負け犬エクスプロージョン」だろ?名曲!
曲が再生されるたびに、コメントが雪崩式に増えてゆく。
戸倉は、そのコメントに書かれていることの半分も意味が分からないが、なにかすごい事態が起きているのはなんとなくわかった。
「コメントがうっとうしいなぁ。これ消せよ」
他の刑事が言って、野宮はコメント停止ボタンをクリックした。映像が、嵩がギターを弾いている場面だけになった。
「ちょっとこのパソコンの小さいスピーカーじゃよくわかりませんね」
「バカ、俺にはデカイスピーカーでもロックの良さはわからねぇよ。それよりも、これはどういうことだ?」
事態をよく飲み込めない戸倉は、後輩の野宮に説明を促した。
「俺もよくわからないんですけど、昨日深夜、なんとなくネットを見てたら『爆弾事件の時のギタリストが判明!』ってネット掲示板に上がってて、まさかと思ってリンクを辿ったら、この動画がアップされてたんです。一目で嵩くんだと分かりました。この映ってる部屋も憶えてましたし。で、時間を追うごとに騒ぎが大きくなって、たった半日足らずでこの有様です」
「これ、捜査情報の漏えいには引っ掛からないのか?」
「なにぶん個人的な動画ですし、嵩くん自身が事件に関係あるとは発表されてませんし、今のところ問題はないかと…」
「でも、こんだけ騒ぎだしたら、とうぜん〈スサノオ〉の事件にも関わってくるだろ?」
「そうかもしれませんね。動画サイトに削除依頼出しますか?」
「しかし、すぐに削除したらそれこそ怪しまれるんじゃないですかね?」別の若い刑事が言った。
「とにかく、ちょっと俺、糸井嵩に会ってくるわ」
「え!戸倉さん。午前の捜査会議どうするんですか?」
「なんか適当に言っといてくれ。どうせこの事件が終わったら俺は処分されるんだし、あとは任せるぞ」
そう言って、戸倉は部屋を跳び出した。
「はぁー。あの人は根っからの刑事なんだよなぁ…」
野宮は呆れた表情だったが、内心では、そんな戸倉を本気で尊敬していた。能力だけなら、とっくに部長に昇進していてもおかしくないのに、警視庁の刑事とはいえ、戸倉はそれ以上の出世など考えてもいないのだ。いつも事件を解決させることだけに命をかけている戸倉に、いつか自分も近づきたいと野宮は常に思っていた。
「いいのかよ。戸倉さんこのままじゃ所轄に飛ばされるぜ」
同僚の、野宮と同期の刑事が心配そうに言う。
「大丈夫だよ。ああいう刑事もここには必要なのさ。本部長も、いつも文句いってるけど、本当は戸倉さんが大好きなんだぜ」
「まぁ、戸倉さんを悪く言う人はいないよなぁ。ぜんぜん偉ぶらないしな」
「ああ…。さぁ、俺たちもまだ仕事残ってるだろ。捜査会議までに、資料纏めないと!」
野宮が叫ぶと、デスクに集まっていた刑事たちは一斉に、仕事に戻った。
「ありゃいったいどういうことなの?」
出された麦茶に手もつけないまま、戸倉は嵩に言った。戸倉は本庁を出た足で、そのまま嵩の自宅に駆け付けていた。
いつものように、嵩は、ボサボサの頭にボロボロのスウェット上下で、戸倉を自宅に招き入れた。母はちょうどパートに出かけていて、戸倉もすんなり嵩の自宅に入れた。
「自分でもまさかあそこまで上手くいくとは思いませんでした。ネットって怖いですね」
嵩はまるで他人事のようだ。
「あんだけ、人前に出るのを怖がってた君が、どうして急にあんな目立つようなことをしたんだ?」
「ボクもできるなら自分をピエロのようにさらけ出すなんてしたくないですよ。この方法が良いのかどうか分かりませんが、今はこれしか思いつかなかったんです…」
そう嵩が言って、戸倉はピンときた。
「莉子か…。杉田莉子の行方だな?」
「さすがに刑事さんにはすぐ気づかれてしまいますね」
「杉田莉子は、警察がちゃんと捜索している。必ず見つけだすよ」
「そう言いながら、もう一ヵ月も行方不明のままじゃないですか」
嵩に言われ、戸倉はなにも言い返せなかった。
嵩の言う通りだった。防犯カメラに複数、莉子の姿を確認してはいたが、それ以来、莉子の行方は分からないままだった。警察は、未成年であり、まだ事件の容疑者かどうかもはっきりしない莉子を全国指名手配することもできずにいた。刑事が地道に街を歩き、莉子が寄りそうな場所を一軒、一軒、虱潰しに探すしか方法がなかった。二の足を踏んでいるのは警視庁も同じだった。
「それで、あの動画を作ったのか?」
「そうです」
「で、なんで動画が騒がれたら莉子が出てくると考えたんだ?おじさんはネットの世界とかよくわからん。若いもんの心理もな」
「別にネットがどうとか、それは関係ありません。もちろん、動画の視聴数が伸びて、騒がれないと意味はありませんが、ボクも父さんが残したメッセージと同じように、杉田莉子に宛てて、メッセージを発信したんです」
「メッセージ?あの暗号のようにか?しかし、あの動画を見るかぎり、ただギターを演奏しているだけにしか見えなかったが。まぁ、莉子本人が動画を見れば、なんらかのリアクションをする可能性も充分に考えられるが、かえって動揺させるだけで、逆効果にはならんか?」
「ええ、動画を見れば動揺はするでしょうね」
「するでしょうねって、君は捜査を妨害しようとしてるのか?」
「そんなつもりはまったくないですよ。刑事さん、父が神社に隠したCD‐Rありましたよね?」
「ああ、あのCD‐Rは証拠品として保管してあるが、あの日はあの後、君のお父さんが自首してきたり、バタバタしてて、ついCD‐Rの内容を確認するのを忘れてしまったんだ。後日、中身は確認したが…。これは捜査情報なので、すまんが教えられん」
「というか、あのCD‐Rの内容を刑事さんは理解できました?」
「どういう意味だ?確かに、俺ではよく解らなくて、鑑識の若いやつにいろいろ説明を受けたが、それでも俺にはさっぱりだった。なぜそれを君が知っているんだ」
「CD‐Rを発見した時、ボクも実物を見ました。CD‐Rには『嵩』とボクの名前が書かれてあった。でもそれだけじゃなかった。盤面の下に、小さく、BPM142→140→132と書いてありました」
「ああ、確かにそう書いてあった。あれは、曲のテンポのことだと鑑識の子に教えてもらったが」
「はい、ボクもそれはすぐに気づきました。ただ、あのCD‐Rには再生できる曲は収録されていなかったんじゃないですか?ボクが見た時、データが焼き込んである面が、少ししか埋まってなかった」
「そうだ。なんでも、演奏データ…。ほら、あのライブハウスで、君が言ってた…」
「MIDIですね」
「そう!MIDI。それのデータしか入ってないから、曲を再生させるには、パソコンのソフトがいるって、鑑識のやつが言ってたな」
「曲は再生させられたんですね?」
「それが…。再生するためのソフトはすぐに取り寄せたんだが、パスワードが必要とかで、まだ解析中なんだ。もちろん、君のお父さんにも聴取したが、あれは杉田莉子が作成したCD‐Rで、パスワードは解らないと言うんだ。莉子はあのCD‐Rの入った鞄を置いたまま姿を消したのだと、君のお父さんはそう証言している。CD‐Rにはなぜか君の名前である『嵩』の文字が書いてあった。だから、莉子と接見した君なら、もしかしたらパスワードを知っているかもしれないと、神社に隠したらしい。クソ、また捜査情報を漏らしたって上から怒られてしまうな。どうも君の誘導尋問は、プロの俺でも流されてしまう」
「心外です。誘導尋問なんてしてるつもりはないです。刑事さんが機械に疎すぎるだけです」
「うちの娘にもよく言われるよ。メールすらまともに打てないのかってな。それで、君はなにか知っているようだが。あのCD‐Rのパスワードを、お父さんの言ったように、杉田莉子から訊いたのか?」
「まさか。ボクが知るわけないじゃないですか。てっきりCD‐Rは父が作ったものだと思ってましたから、そのわりにその話がぜんぜん出てこなかったからずっと気になってたんです。本当はCD‐Rの中身がなんだったのか刑事さんに会って訊こうと思ってたくらいですし。でも、どうせ捜査情報は教えられないって言われるだろうと思って、自分なりに考えたんです。そしたら、意外とあっさり辿りつきました」
「辿りついたって、CD‐Rの内容にか?」
「はい、そうです。収録してある曲がわかりました」
「また俺には難しい話になるんだろ?」
「それは、どうかわかりませんが、とにかくちょっと見てください」
嵩はそう言って、自分の部屋に戸倉を入れた。本当は、自室には他人を入れたくはなかったが、パソコンがデスクトップ型で、他のMIDI機器も繋いであり、複数のケーブルが机の裏でごちゃごちゃになっていたのでしょうがなかった。
「すごい部屋だな。おじさんにはSFの世界だよ」
嵩は戸倉の言葉を無視して、パソコンと、次いでDAWソフトを起動させた。モニターには様々な波型や、打ち込みデータが表示された。戸倉は、まったく理解できないまま、画面を注視した。
「なるべく刑事さんにも解るように、細かい事ははぶいて、簡単に説明しますね」
「ああ、よろしく頼む」
嵩は、マウスを手際よく操作しウインドウを開いていく。
「このDAWソフトに、CD‐Rに入ってたと思われる曲がすでに取り込んであります。このソフトはいろいろ優秀で、自動に曲のテンポを割り出してくれる機能が搭載されています。それで、莉子に関係のありそうな曲を片っ端から取り込んでいきました」
「自動にテンポを割り出すって、そりゃすごいな…。ああ、そうか!あのCD‐Rに書いてあったテンポに合った曲を探しあてたのか!」
「そうです。今回はすぐ理解してもらって良かったです」
「そのソフトがどういう仕組みなんだかはさっぱりだがな。で、その曲はなんだったんだ?」
「これです」
嵩が、映し出された曲の波型のすぐ下にある再生ボタンをマウスでクリックした。
「この曲はもしかして…」
「はい〈スサノオ〉の曲です。タイトルは『負け犬エクスプロージョン』インディーズ時代に発売されたアルバムに収録してあった曲です。CDがもう売ってなくて、動画サイトからダウンロードしました」
「おいおい、違法ダウンロードは駄目だろ」
「それは音楽著作権の問題でしょ?インディーズ作品は著作権登録されてないはずだから、バンドの本人達が訴えないかぎり大丈夫ですよ」
「そういや、そういうややこしい話をサイバー犯罪科のやつらも嘆いてたな。どこまでが違法か判断できんってな。俺にはまったく関係のない話だが。娘が知らない間に犯罪者になってたらと思うと心配になるよ」
「ちょっと黙っててもらえますか?」
「ああ、すまん。つい脱線してしまって」
画面上の波型が左から右に移動していく。曲が進むにつれて、BPMも変化していく。
「ここの数字、これがこの曲のテンポです」
「ああ、ホントだ。確かに、142から140に変わった。で、132になるのか。あれ?だけど、その先がどんどん早くなっていくぞ。もうテンポが滅茶苦茶だ」
戸倉の言う通り、初めは、BPM142だったテンポが140になり、132になった。しかし、曲の後半は、特にギターソロに入ってからはBPMが目まぐるしく変化し、曲のラストではBPM160まで速度があがって終わった。
「これじゃあ書いてあったテンポに合わないじゃないか」
「はい。でも、アルバムに収録してある曲は、BPM142から140、そして130で終わっています。他の曲もすべてテンポを割り出しましたが、このBPMの曲は、これ一曲だけでした」
「じゃあ『負け犬エクスプロージョン』で間違いはないわけだな?」
「142なんてBPMはそうないと思うので間違いないと思います」
「ではどうして、この曲はテンポが違うんだ?」
「これはライブの演奏を録音したものです。これも動画サイトにアップしてありました。おそらくファンがライブを録音してアップしたんでしょう。BPMが最初だけ合っているのは、たぶんドラマ―が、クリック音、メトロノームみたいなものですが、それを聴きながら演奏しているためでしょう。それがだんだん盛り上がっていくうちにテンポがずれてきて、あとはギタリストのGENが演奏を引っ張る形になってしまったんだと思います」
「ライブの演奏ってもしかして!」
「はい、この曲は〈スサノオ〉のラストライブ、否、ギターのGENが亡くなった日のライブを録音したものです。そんなものまでアップされてるなんてボクも驚きましたが。たぶん死ぬ直前の演奏だと思います。スサノオで検索してまっ先にこの動画が出てきたので、やっぱり伝説のライブだったんでしょう。ただこの動画ファイルには映像はなく、曲だけがアップされてました」
「ネットの世界は凄いなぁ…。なんでもあるんだな」
「刑事さんは二年前の事件の時調べなかったんですか?」
「いや、だからそういうのは若いやつに任せてたからな」
嵩は、溜め息をついた。本当にこの人は警視庁のエリート刑事なのだろうかと、今更ながら疑いたくなる。
「それで、さっき君は莉子へのメッセージを動画に入れたと言っていたが、このライブの曲とどう関係あるんだい?」
「ボクは、このGENのラストライブの曲を、BPMを割り出して、完璧にコピーしたんです。その動画をアップしました」
「完璧にって!?この無茶苦茶なギターをかい?」
「刑事さんには無茶苦茶に聴こえるかもしれないですが、このギターソロは、ちょっと凄いですよ。並の才能じゃない」
「俺にはやっぱり理解できんがなぁ…。君が言うんだから凄いんだろう。でも、その凄いって言うギター演奏を完璧にコピーする君も凄いんじゃないのか?」
「技術だけは、スパルタでぜんぶ父に叩き込まれただけです。ボクの音には魂がない…」
「こいつの音には魂があるのかい?」
「少なくとも、本物であることは断言できます」
「君のギターだって、偽物だったらこんなにネットで騒がれたりはしないんじゃないか。俺にはどちらも哀しい音に聴こえたがな。いや、おじさんの感想はあてにならんから、気にしないでくれ」
「哀しい音ですか…」
「なんとなくだよ。ほんとになんとなく」
戸倉が「哀しい音」と言って、嵩は、GENのギターが孤独を背負ってる音だと以前感じた事を思い出した。自分の音も同じく孤独の音なのだろうか?自分自身では分からない。今朝、動画サイトで見たコメントの中に「なぜだか泣ける」とあった。これはそういうことなのかな?と嵩は思い、その瞬間、胸がチクっと波打った気がした。
戸倉にはまだ疑問が残っていた。
「二年前の、スサノオのライブを再現した動画をアップしたと君は言ったが、その動画を杉田莉子が見たとして、仮にGENのギターをコピーしたのだと気づいたとしても、どこに姿を現すっていうんだ?」
「この事件は、きっとボクが思ってる以上に複雑な感情が入り混じっておこった悲劇だと思います。杉田莉子の気持ちを考えれば、必ず姿を現すはずです。もう準備はしてあります」
「準備?」
「はい。一週間後の日曜日。GENの命日です。その日に、一夜かぎりのGENの追悼ライブを弁天で開催します。弁天のオーナーにはすでに了承を得てます。〈スサノオ〉のメンバーにも、ファンの集いを行いたいと、ソーシャルネットワークサイトで昨日メッセージを送りました。メッセージに、あの動画のリンク先を貼ったら、すぐに返信がありました。ある一人の少女を救うためのライブだと言ったら、快く引き受けてくれました。残ったメンバーの方も来てくれるそうです。一応、杉田莉子のケータイにもメールしておきました。読んでくれるかどうかわかりませんけど…」
「おいおいおいおい。そんな大事な話、先に言ってくれよ」
「すいません。GENの命日が一週間後だって知ったのがつい先日だったもので、急ぎました」
「そうか…君なりに覚悟したわけだな。了解した。その日はこちらも捜査員を派遣しよう。もちろん俺も待機する。顔を知られているからな、スタッフにでも変装しておこう」
「助かります。正直、自分でもやりすぎたかなぁと、ほら、今も震えが止まらない…」
嵩は、必死に笑い顔を繕ったが、引き攣ってしまい上手く笑えない。本当に、全身がガタガタと震えている。
戸倉がギュッと嵩の両肩を掴んで、まっすぐ嵩の目を見て「大丈夫だ。今度こそ君を守る。同じく杉田莉子もだ」と言ってくれた。
戸倉の力強い声を聞いて、嵩は少しだけ勇気が湧いた気がした。
もう日数はない、運命のXデーは一週間後にやってくる。
莉子が姿を現すのか、完全な賭けではあったが、今は信じるしかなかった。救済が必要なのは、自分だけではないと、嵩は自分と同じ歳の、杉田莉子の抱えている闇を、自分の過去に重ね合わせた。
4
GENの命日にあたる日曜日。奇しくも、その日は朝から二年前と同じ、どしゃ降りの雨だった。
台風13号が関東に接近しつつあると、ニュースで伝えていた。
季節はもう真夏を折り返して、残暑のころに差し掛かっていた。雨のせいで気温は上がらず、半袖では少し肌寒く感じた。台風が接近しようと、都会は変わらず動き続けている。
雨脚が激しいが、レインコートをわざわざ身につけている人は、郵便配達員や新聞屋など僅かな人だけで、ほとんどの人間が、足元をグズグズに濡らしながらも、傘ひとつで、往来を早足で過ぎて行く。ライブハウス「弁天」は、そんな大通りから一本筋を入った雑居ビル群の一角にあって、大通りとは違い、流石に今日は人の数も少ない。だからなのか、黒塗りの覆面パトカーは、余計に目立ってしまう。待機している刑事も、私服で変装しているが、少し勘のいい人なら、すぐに気づいてしまうだろう。
無線のイヤホンが、明らかに一般人ではないと証明している。
刑事たちは一度、待機場所として借りた空きテナントに集まって、作戦をたて直した。「弁天」の入り口は、通常の客用入り口と、機材運搬などをする非常口の二カ所しかない。そこに最低限の人数の捜査員を置き、あとは、店内で待機することになった。
嵩は通常のリハーサルの入り時間と同じ、午後三時に弁天に着いた。戸倉から、捜査に支障のない程度にと念を押された上で、二年前、莉子の身になにがあったのかを聞いた。弁天でのGENの死亡事故と、少女が殺されたことは、なんとなく知ってはいたが、莉子が、事件に深く関わっていた事実を戸倉から聞かされ初めて知った。
カフェで再会した時も、そのあとの弁天でのライブの時も、まったく変わった様子はなかった。むしろ、自分とは正反対の明るさに、たじろいでしまったくらいだ。あれはすべて演技だったのか?そう考えると、莉子の女優ぶりも本物だと思わざるを得ない。嵩は、得体の知れない恐怖感に包まれていた。あの明るさの裏に、深い闇が隠されていると思うと、人間の怖さを感じるのと同時に、憐憫の情も沸いてくる。自分と同じ歳の少女は、今なにを考えて、どこに潜んでいるのだろう。嵩の計画が、成功する確証はない。本当にここに現れるのだろうか?と、自分で立てた計画であるのに、当日が来た途端、嵩はひどい心細さに襲われていた。
不安に連動するように、雨あしはどんどん激しさを増していく。最寄りの駅から弁天まで、歩いて十分足らずだったが、嵩のスニーカーは、すっかり水を吸って重たくなった。
肝心のギターは、天気予報を見て、前日にすでに搬入していたので濡れずに済んだ。あの日、莉子から渡されたビンテージレスポール。
実は、あのギターは、父である糸井忠光の持ち物だった。
嵩は、忠光と再会した夜、その事を忠光本人から聞いていた。
だから、動画サイトに自分の演奏をアップした際に、あえて、レスポールは使わなかった。これも、莉子へのメッセージの一つだった。莉子を動揺させるためにワザとレスポールではなく、黒のテレキャスターを使ったのだ。
忠光のレスポールは、かつて在籍していたバンド〈アマテラス〉を脱退した時に、最後のライブのあと、一人のファンに贈ったギターだった。
そのファンの名前は御厨紗江子。当時、忠光は紗江子の名前も知らなかったが、いつも最前列で応援してくれていた紗江子に、最後のライブの日に無言で渡したのだ。
紗江子は、そのギターの価値を、知らなかったが、もし贈られたのが百円ほどのギターピックであったとしても、嬉しさは変わらなかっただろう。そのギターを、杉田莉子の指示通り、あの夜、紗江子は忠光に渡した。忠光は理由も解らないまま、ギターを持ってすぐにホテルを後にした。その翌日、莉子と会い、莉子にギターを渡した。それが、何故か今は、嵩の手元にある。
莉子は、どうしてこのギターの存在を知っていたのか?杉田莉子に訊きたいことは山ほどある。それも、今日、彼女が現れなければすべて無駄に終わる。
嵩は、弁天に入ると、濡れた足元もそのままに、すぐにライブの準備にとり掛かった。約束通り、〈スサノオ〉のシオンとユキトは「弁天」に来てくれた。お互いがお互いの動画を見ていたせいか、それとも、もともと巡り逢う運命にあったのか、リハーサルでの、三人の演奏は、初めてのセッションとは思えないほど、見事なグルーヴを奏でた。ベース抜きでも、完全に〈スサノオ〉の音になっていた。それも、かつての〈スサノオ〉の音に。
嵩のギターは、GENのギターでもあった。もちろん、レスポールとフェンダージャガーとでは、音色がまったく違う。それなのに、嵩が奏でる音は、GENの魂が乗り移ったように、疾走し、弁天のホールを〈スサノオ〉の音色に染めていった。
現メンバーであるシオンとユキトが一番驚いていた。だが、嵩自身も、ここまで音が共鳴し合うとは思っていなかった。自然と、体温が上がってくるのがわかった。その場にいた他のスタッフ達も、仕事の手が止まってしまうくらい、彼らの音に引き込まれていった。今まで数々のバンドを見てきたが、リハーサルで、ここまで音が爆裂する瞬間に出会えたのは初めてかもしれないと、店長の田口は一人興奮していた。否、この興奮は、その場にいるスタッフも同じく感じていた。
「OK。OK。もういいでしょ?」
シオンが、リハーサルで燃え尽きてしまうかもと心配になり、自ら曲を打ち切った。実際、リハーサルの方が調子よくて、本番は駄目だったという経験が、これまでに何度かあったからだ。
嵩は、演奏の間だけは現実を忘れることができたので、もう少しリハーサルのセッションを続けたかった。もし今夜が、純粋に、GENの追悼ライブであったら、どれだけ仕合わせだったろうかと、嵩は、わずかなセッションでも、至福を感じてしまった自分を呪いたくなった。楽しむために来たわけではない。そう頭では理解していても、動き出した体に嘘はつけない。
嵩は、ほんの少しだけ、ライブの最後まで莉子が現れなければいいのにと思った。それが、正直な自分の気持ちだった。
しかし、今日ですべてを終わりにしたい、そう思う気持ちもまた、嵩の本心だった。ジレンマに心が揺らいでいた。
本当に〈スサノオ〉のメンバーが一緒に演奏してくれるなんて、嵩はまだ信じられなかった。メジャーレーベルに所属したままなら無理だっただろう。楽屋で、ヴォーカルのシオンは冗談まじりに、「俺ら今、無職だから。君も同じなんだろ?同志だな」と笑って言った。嵩の緊張をときほぐしてやろうと、シオンなりの気遣いだった。ただ、嵩の緊張は、ライブ前だからという理由ではない。ホールにはすでに刑事が変装して待機していた。刑事が来ていることは、シオンとユキトには内緒にしていた。その事への罪悪感もあり、楽屋で嵩は、全身を硬くしている。せっかくのシオンの気遣いに、嵩は逆に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
せめて、追悼ライブだけは、本気で演奏しようと心に決めた。
雨は降り続いていたが、一夜限りの追悼ライブに、想像以上のお客さんが来てくれた。告知は一週間前にネットで流しただけだったが、例の動画が影響したのか、勝手に、ファン達は〈スサノオ〉の新メンバーが決定したのだと思い込み、皆期待に胸を膨らませていた。しかも、新メンバーのギタリストは、天才子役と言われたあの糸井嵩だ。期待するなというほうが難しかった。
開場時間には、ホールはファンでほぼ満員になった。その中に、糸井忠光の姿もあった。忠光は、何度か取り知らべを受けたあと、容疑者から完全にはずされ、晴れて自由の身になっていた。
ただし、行くあてのない忠光は、この日まで、都内の二十四時間営業のインターネットカフェで寝泊まりしていた。今日はどうしても来て欲しいと、戸倉を通じて、嵩の伝言を聞いていた。忠光は迷うことなく、弁天に行くことを決めた。本来なら、成長した息子の晴れ姿を見るために駆け付けたかった。しかし、忠光も、莉子と会うのが目的だった。
嵩には悪いと思いながらも、もう一人の、実の娘の呪縛を解いてやりたかった。
今から、十八年前、忠光は、たった一夜の過ちで、不幸な子をこの世に誕生させてしまった。相手の女は、認知しなくていいと、金で解決をせまった。ちょうどそのころ、すでに同棲関係にあった、のちに妻になった信子のお腹には、新しい命が宿っていた。それが嵩だった。忠光は、百万円を借金し、そのまま女に渡した。
まだ、忠光も若かった。駆け出しの売れないバンドマンにはよくある話だった。忠光も、事の重大さを、その時、本気で感じていたのかというと、自信はなかった。ロックバンドをしている男なら、そのくらいの浮いた話はあって当然だと、バンド仲間からもよく聞いていたからだ。
重大さを思い知ったのは、それから十年後、嵩が子役として有名になりだしたころだった。忠光はとっくに音楽の世界から足を洗っていた。
ある日、突然女が「莉子をタレントとしてどうにかできないか?」と接見してきた。忠光は、ずっと心にしこりを持ちながらも、なるべく忘れようとしていた。もう解決した話だと、一度は突っぱねた。しかし、女は引き下がらず、それならすべてを暴露すると言い出した。女は、嵩と同じ芸能スクールに莉子を入学させた。
「それは困る。嵩のイメージにも響く」忠光は言った。
女は鼻で笑った。
「イメージ?家族のことはどうでもいいの?たんに息子のタレントとしてのイメージを一番大切にしたいっていうの?」
「いや、そういうわけじゃないが、嵩は一番大事な時期なんだ」
「じゃあこの子は大事じゃないっていうの?」
女の傍らには、まだ幼い莉子が、意味が分かっているのかいないのかはっきりしない、焦点の合わない表情で、忠光をぼんやりと見上げていた。女は、莉子にどう説明しているのだろうか?
忠光は、足元から、真っ黒な影が自分を飲み込んでくるような気持ちだった。ぜんぶ時分が悪いのだ。それは理解できる。だが、女の要求を簡単に承諾できるほど、忠光は芸能界への確実なパイプを持っているわけではなかった。これまでも、嵩の実力で、オーディション合格を勝ちとってきたのだ。
「とにかく少しだけ待ってくれ」
そう答えるのが、その時はやっとだった。忠光は悩んだ挙句、ふと、昔自分のファンだった女が、今は大手のレコード会社で、かなり上の役職についている話を、風の噂で聞いていたことを思い出した。
忠光は、藁をも掴む気持ちで、その女に相談を持ちかけた。女はまさかこういう形で〈アマテラス〉元ギタリストの糸井忠光と再会するとは、夢にも思わなかった。御厨紗江子だった。
本来なら、幻滅してもいいくらいの再会であったが、そのころ、紗江子はすでに違う男に魅了されていた。その男にしかもう興味はなかった。
〈スサノオ〉のGENだ。
紗江子は、すっかり落ちぶれてしまったかつてのカリスマギタリストの姿に、幻滅どころか、哀れみの気持ちしかなかった。忠光にもらったレスポールも、押入れの奥にしまったままだった。
男なんてしょせんこんなもんかと、紗江子は思った。でもGENは違う。彼はギターの神様に選ばれた男だ。GENは、間違っても今、目の前で情けない姿を晒している糸井忠光のようにはならない。私が、GENをそうはさせない。紗江子は、忠光の事などどうでも良かった。無視しても良かったが、忠光の息子が最近有名になってきていることも知っていた。将来、もしかしたら一緒に仕事をする機会もあるかもしれない。そう考え、嵩を、莉子と同じオーディションに出場させるという条件付きなら、知り合いのプロデューサーに話を聞いてあげてもいいと、忠光に言った。紗江子も、そのころすでに芸能の世界にどっぷりと浸かってしまっていたのだ。
忠光はその条件を飲むしかなかった。
莉子の母には「嵩もオーディションに出るが、これは出来レースだと怪しまれないためだから」と、言い訳して、なんとか納得させた。
莉子は、そのオーディションに合格するはずだった。果たして、オーディションに合格したのは、嵩のみだった。
「話が違う」と莉子の母は激怒した。
すぐに、忠光は紗江子のところに走ったが「実力の世界だから、結果は仕方がない」と正論で諭された。忠光はなにも言い返せなかった。
嵩が受かった役こそが「魔界少年デルタギヤ」の主人公だった。その後、莉子は、台詞もない、エキストラと変わらない端役を、なんとか与えてもらうことができたが、莉子の母はとうてい許してはくれなかった。
「ぜんぶ、週刊誌に暴露する。いや、それよりもあなたの奥さんに直接、慰謝料を請求する。あんたの人生無茶苦茶にしてやる」
忠光は追いつめられた。
「どうしたら許してくれるんだ。芸能界はコネだけでなんとかなるほど甘くはないんだ。金ならなんとかするから、それでどうにか話を終わらせてくれないか?」
「じゃあ、分かったわ。私の言うことを聞いてちょうだい」
「やはり金か…」
しかし、莉子の母の要求は、そんな生易しい物ではなかった。忠光の人生が、本当に無茶苦茶になる要求だった。
「お金なんかいらない。私はあなたが好きだった。あなたのギターも好きだった。最初はただのファンの一人だった。だけど、いつしか一人の男として愛するようになったわ。正直、莉子が芸能界で通用しない事なんて、私から見ても分かっていたわ。ただ、莉子にはこの先、一人で生きていく術を与えてあげなければいけない。それが母親の努めでしょ?今の父親は、莉子を溺愛しているけど、あの溺愛は親としての愛情じゃないの。私はお金のために結婚しただけ、莉子を飢えさせるわけにはいかないから。でも、莉子の父親になった男は、最悪の人間だった。セックスを拒んだ私の代わりに、歪な愛情を、莉子に向けるようになったのよ。莉子はまだたった十歳よ。可哀想な子…。あなたの責任じゃないから心配しないで、莉子が宿った時に、認知しなくていいって言ったのは私のほうだし、もし認知していたとしても、あなたには、もうあの天才児の嵩くんがいたんだから。どっちにしても不幸な子が誕生した事実は変わらないわ。あなたを恨んでいるわけじゃないの。むしろ、莉子ができたおかげで、あなたとの縁が一生切れなくなって、嬉しいくらいよ。あなたがバンドを辞めたって話を知った時も、私は密かに泣いたのよ。でも、安心した。あなたには次の夢があったのね。嵩くんっていう天才を手に入れて、今はさぞ楽しいでしょうね…。だから、そんな顔しないで。恨んでないって言ってるでしょ。嵩くんはたまたま天才で、莉子は凡人だっただけの話だから。だけど、この間見せた時、莉子の可愛さも分かったでしょ?莉子だって、それなりに学校じゃ目立っている方なのよ。正直に言えば、嵩くんに対して嫉妬心がまったくないわけではないわ。この間のオーディションも、嵩くんは見事主役に合格。莉子は、台詞なしの端役。それだって、コネを使ってやっと端役につけたんでしょ?どうして莉子はあなたの血を受け継がなかったのかしらね。私のような凡人の血を受け継いでしまって、本当に可哀想。その上、新しい父親には、あんなひどいことをされて…」
「莉子は今の父親から性的虐待を受けているのか?」
「うるさい!あなたは黙ってて!これは私の家庭の問題。あなたには関係ない話よ。まさか、今更父親面するわけじゃないでしょ?もし、そんな偽善の優しさを見せるって言うなら、私はあなたを恨むわ。だから、莉子のことは気にしないで。莉子なら大丈夫。あの子は、そういう部分だけなら天才女優よ。ふふふ。あの子はこれから一人で生きていくと思うわ。夫も、その一点を覗けば良い父親よ。ちゃんと稼ぎもあるし、虐待って言っても、暴力は振るわないから。私が、今の夫と一緒に居たくないだけ。私が一緒に居たいのは、やっぱりあなたしかいないみたい」
「どういう意味だ?」
「意味?そのままのことよ。莉子のことはもういい。あなたは私と一緒に駆け落ちして。そしたら、莉子のことは黙っていてあげる」
「そんなことができるか!駆け落ちなんて、どっちにしてもうちの家族は壊れてしまう」
「じゃあ、莉子の話をする?そっちにしても結果は同じじゃない。まだ知らない女と恋に落ちて、駆け落ちしたって話の方が、少しはマシだと思わない?嵩くんだって、それだったら芸能活動続けられるでしょ?父親がマネージャーである必要はないのだから」
「しかし…」
「あなたに選択の余地はないわ。私についてくるか、莉子の話を暴露するか、二つに一つ」
「う、う、う…」もう忠光に言葉は無かった。出てくるのは、恐怖から来る唸り声だけだった。
忠光は、この女は狂っていると思った。それでも、女の要求を飲んでしまったのは、これまでの贖罪の意味もあったからだった。
だが、その選択が大きな間違いであったと、嵩と再会して改めて後悔した。結局、自分は臆病なだけだったのだ。莉子を宿した時も、莉子の母と無理矢理駆け落ちさせられた時も、怖くて流されていただけだった。自分のだらしなさのせいで、嵩や妻の信子、そして莉子に、どれだけの苦痛と孤独を与えてしまったことか。忠光は、なにがなんでも、弁天に行かなくてはいけないと思った。
息子が逃げなかったように、自分も、もう逃げる人生を終わりにしよう。そう忠光は、覚悟を持って、莉子がライブハウスに姿を現してくれることを祈るばかりだった。
すべての真相は、嵩と再会した夜、焼鳥屋で嵩に伝えていた。刑事の戸倉にも、取り調べでぜんぶ話した。嵩や信子が許してくれるとは思えない。それはしょうがない。でも、もう背を向けるのは止そうと、忠光は決意した。
〈スサノオ〉の元ギタリストGENの二年越しの追悼ライブは、予定通り、午後19時に開演した。集まったファンは、追悼ライブだとは思っていない。新生〈スサノオ〉の復活ライブだと捉えていた。
ヴォーカルのシオンが舞台に登場すると、ホールから一斉に歓声があがった。ベーシストのリクが逮捕されたことは、ここにいるファン達は、皆、承知の上だった。それなのに〈スサノオ〉のファンを辞めずに、今夜この場に集まった客達は〈スサノオ〉がぜったいに終わりはしないと信じている者たちばかりだった。
スタッフに変装して、照明係の裏に隠れていた戸倉は、ファン心理をどうしても理解できなかった。
すでに教祖を失っているバンドであっても、名前が残れば伝説は勝手に尾ひれがついて増殖する。
戸倉は、あれほどの事件を起こしたにも関わらず、いまだに信者を増やし続けている某宗教団体を思い出した。
少し遅れて、嵩が、ピカピカに磨かれた父のレスポールを背中にして、少し俯き加減に現れた。
今夜の客は、嵩の生演奏にも注目していた。なるべく客席を見ないようにしていた嵩も、客の強い視線を感じていた。
頭の中は、ライブと莉子の顔が、交互に出ては消え、冷静な気持ちでいるのは難しかった。
緊張という精神状態とはまた違う、着地しない苛立ちに似た気持ち。言葉では表現できないギリギリの想いが、嵩の筋肉を硬直させる。アンプにシールドケーブルを繋ぎ、チューニングを確かめるために、何個かの音を出す。それだけで、今夜のオーディエンスは、大袈裟に反応し、奇声を発する者もいた。
〈スサノオ〉のファンどころか、今、目の前にいる人たちが、敵か味方かさえもわからなくなってくる。嵩は長く深呼吸した。
戸倉の無線には、まだ莉子らしき人物が入店したという伝達は来ていない。しかし、そのままライブはスタートしてしまった。
糸井忠光は、ホールの最後列から〈スサノオ〉のライブアクトを傍観していた。最後列と言っても、狭いホールなので、客席の一番後ろから舞台まで、十メートルもなかった。
忠光もまた、ライブを見ながらも、莉子の姿がないかと、客席に注意を払っていた。照明が舞台を照らしていたが、客席はその逆で、真っ暗だった。照明の光が反射して、客の顔がよく見えない。それでも、このくらいのホールであれば、注視していれば、ぜったいに莉子を発見できる。実の父親なら尚更だった。
だが、ホールに莉子の姿を発見できない。忠光は焦りのせいか〈スサノオ〉の演奏が耳に入ってこない。嵩のギターも、まだ忠光には届いていなかった。
その場に隠れている他の捜査員たちも、焦りの色は隠せない。やはり、自分が捕まるかもしれないとわかっている場所に、莉子は来ないのだろうか?皆がそう感じ始めていた時、戸倉の無線に、入口に張り込んでいた野宮から入電がきた。
「莉子が来ました!入り口で確保しましょうか?応答願います」
野宮は、莉子に気づかれないよう囁く声で伝えた。
「少し待て!莉子はそのまま入店させろ。野宮はそのまま入り口で待機。非常口の捜査班も、その場から離れず、非常口を固めろ」
捜査班長の戸倉が、全捜査員に通達した。
莉子は、真っ黒の丈の短いワンピースに、黒のニーハイ。黒のロングブーツという、全身黒尽くめの恰好だった。唇には真っ赤なルージュがひかれていた。野宮は、以前会った時と、まったく印象の違う莉子の姿に、一瞬見逃しかけた。だが、確かに莉子本人だった。
莉子は、鉄の扉を開け、弁天の受付で、当日券の料金を通常通り支払い、ホールへの防音扉を開けた。
嵩のギターの音が、莉子が扉をあけた刹那、野宮のもとまで届いた。野宮は、なぜすぐに莉子を確保しないのかと疑問に思っていたが、ほんの僅かだけ漏れた嵩のギターの音を聴いたら、戸倉の気持ちも解かるような気がした。
実は、莉子の逮捕状はすでにおりていた。莉子を確保しようと思えば、いつでもできるのだ。それでも、今夜のライブを彼女に聴かせないと、この事件は決着しない。これは、今朝の捜査会議の時、戸倉が全捜査員に告げた言葉だった。刑事は、ただ犯人を検挙すればいいだけの仕事ではない。人の再生まで考えなければ、人を憎むだけの鬼に成り下がってしまう。これが、戸倉が長年思い続けていたまさに刑事魂だった。他の刑事も、この考えに賛同した。捜査部長は、今日の作戦の班長に戸倉を任命した。
相手は未成年の少女だ。犯した罪は決して軽いものではないが、ただ逮捕して送検するだけでは、少女の救済も贖罪も成し得ないだろうと、戸倉は考えていた。
野宮は先輩刑事の言葉を思い出し、気合いを入れ直した。少女が再び弁天から出てきた時、少女が人間の心を取り戻していて欲しいと、野宮は願った。
奇しくも、新生〈スサノオ〉のライブとなってしまった今夜の演奏は、嵩のギターによって、新たな伝説が生まれようとしていた。
動画サイトでの嵩のギターも、神がかっていると瞬く間に評判になってしまったが、生で聴く嵩のギターは、それを軽く凌駕してしまった。これまでの〈スサノオ〉のライブは、観客が、揉みくちゃになって、いわゆるモッシュダイブを敢行する客が現れる流れが、一連のライブスタイルになっていたが、今夜は少し違っていた。
皆、嵩のギターに聴き入って、体が動かなかった。曲目が、追悼ライブということもあり、静かなバラード曲からスタートしたせいもあったが、テンポの速いパンクナンバーになっても、リズムを刻む客はいたが、演奏そっちのけで暴れ回るような客はいなかった。それくらい、嵩のギターを心に刻みたいと、皆思っていた。
シオンは、ベースがいない代わりに、リズムを刻むカッティングを意識してギターを弾いた。ドラムのユキトは、プロによくいるような、完璧なテンポをキープするタイプのドラマ―ではなく、その場のグルーヴによって、変幻自在に跳ね方を変化させるドラミングが特徴だった。だから、一度リハで合わせただけの演奏であっても、たとえベースが不在であっても、新たなグルーヴを生みだし、音のひとつひとつを、上へ上へと跳ねさせていく演奏を可能にしていた。
莉子と演ったライブの時は、バックの演奏が、シーケンサーによって打ち込まれたものだったので、いくら嵩のギターが、曲をブラッシュアップさせたと言っても、枠をはみ出すほどでは無かった。
今、ついに鎖から解き放たれた嵩のギターは、パンクだけでなく、あらゆるジャンルの音楽からはみ出した、唯一無二な音を発振させ、小さなホールを、世界の中心に変化させた。
ライブで体感できた限られた客たちは、この時間が永遠に続けばどんなにいいだろうと、同じ気持ちでいた。
プレイヤーとオーディエンスの一体感は、時に奇跡を可能にさせる。二年前の、GENの人生最期のライブを思い出して、自然と涙を流す客もいた。二年前、スサノオは伝説になった。そして、二年後、伝説は繰り返される。
音のリインカーネーションは、今夜ここに実現した。
嵩は、この時、莉子のことなど完全に忘れてしまっていた。〈スサノオ〉の曲は、動画サイトで見ながら、耳コピして、たった一週間の練習しか出来なかったので、何度もミスはあった。だが、客の誰一人も、嵩の演奏ミスに気づいていなかった。細かいミスなど問題ではないと言ったほうが正しいのかもしれない。音の黄泉がえりを、現実に体感してしまえば、細かいミスなどどうでも良かった。
舞台には、死んだはずのGENがいた。少なくとも、莉子にはGENの姿がはっきりと見えていた。濃い目の化粧が、涙でグズグズになる。黒い涙が、頬を伝っていく。
忠光も、莉子を探していたはずだったが、いつの間にか、舞台で暴れ回る嵩のプレイに魅了されていた。自分もかつては、あの舞台に立っていたのだ。嵩が羨ましかった。息子を誇らしいとも思った。バンドは良いもんだと素直に感じた。もう戻らない自分の人生を振り返り、哀しくもなった。様々な感情が、忠光の心に去来して、鼓動が激しくなった。必死にバイトして、それでもぜんぜん足りなくて、借金までして買ったビンテージレスポールを、自分は簡単に、名も知らないファンに譲ってしまった。あの時はもう音楽に未練はなかった。そのはずだった忠光の気持ちが、嵩の演奏を聴いていると、グラグラと揺らいでしまう。もう一度あのころからやり直したい。それが正直な忠光の心情だった。
忠光もまた、自然と涙があふれて止まらなくなった。
「ありがとう!天国のGENもきっと喜んでると思います!今夜は、こんな雨の日にたくさんのお客さんが来てくれて嬉しいです」
曲間のMCでシオンがお礼を言った。そのあと、シオンはメンバー紹介をした。
「ドラムのユキト。ヴォーカル、シオン。そして、今夜のライブを主催してくれた、新しい〈スサノオ〉のギタリスト、糸井嵩!」
新しいギタリストだと紹介されて、嵩は驚いた。本人はそんなつもりでは無かった。と、そう思った時、嵩はやっと我に返った。
‐そうだ。莉子は!莉子は来ているのか?‐
嵩は客席を見回した。以前会った時と、印象は違うが、涙を流す莉子の姿を、客席の中心に発見した。嵩の心臓が大きく波打った。
‐莉子は来てくれた!‐
そう思う間もなく、シオンが「それではラストの曲です」と、ラストソングをコールした。すぐにドラムのユキトがスティックで、カウントを刻んだ。
演奏は始まった。だが、嵩はギターを弾き出すことができなかった。すぐに、シオンとユキトが嵩の異変に気づき、演奏はイントロで中断された。突如、静寂がホールを包んだ。
何人かの客は、この光景に憶えがあった。二年前の、突然GENが倒れた瞬間に似ていたのだ。
何人かの客の中には、杉田莉子も含まれていた。
他の客よりも、莉子はこの光景を鮮明に憶えていた。誰よりも、心に刻みこんでいた。
莉子の脳裏に、二年前がフラッシュバックした。
「あ、あ、あ、厭、厭、厭、厭、厭…。嫌だよぅ…。逝っちゃ嫌だ。一人にしないでよ…。もう独りは厭だよ。あ、あ、あー!」
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
莉子の言葉は、すぐに獣の咆哮に変わった。莉子の側にいた客が、驚いて莉子から離れた。そこだけぽっかりと空間が空いた。
「よし、確保だ!」
照明の裏に隠れていた戸倉が無線でGOサインを告げた。
PAブースや、客に紛れていた私服捜査員が一斉に、莉子のもとに駆け寄った。
だが、その捜査員たちに突進する人影があった。
「父さん!」
嵩が叫んだ。
捜査員に糸井忠光がタックルしたのだ。
「逃げろ!早く!莉子!逃げろ!」
忠光はすぐに、刑事に取り押さえられた。
〈スサノオ〉のシオンとユキトは、なにが起こっているのかわからず呆然と立ち尽くしている。この光景も二年前とそっくりだった。
莉子は、フラフラと舞台に歩み寄った。嵩の前まで来ると、莉子は、ワンピースのポケットから何かを取り出した。
「へへ…へ…」
莉子は、歪んだ笑みを浮かべた。嵩に倒れ込むように、莉子の身体が交叉した。
「え?」
嵩は、自分の腹を見た。鈍い痛みが、じょじょに上がってくるのが分かった。ホールはすぐに照明から客電へと切り替えられた。
嵩は、足の力が抜けて、その場にうずくまった。
左腹部に、カッターナイフが突き刺さっていた。鮮血が、Tシャツから沁み出してきて、ポトポトと床に落ちた。
「なにしてる!早く確保!」
戸倉はもう無線ではなく、直接ホールに声を響かせた。
「へへ…。これで、あの人と同じね。私も、一生心の中に…飼える。繁殖できる…。育てるの。大事に、大事に育てるの…」
莉子はもう正常な心では無かった。救済どころか、最悪な形で、追悼ライブは突然に終幕した。
「私は、私は、なんてことを…」忠光が力なく立ち上がった。
忠光も、目の前の光景が信じられず、気を失いそうになった。だが、息子の嵩を案じる気持ちで、なんとか意識を保たせることができた。と、同時に、なにも守れなかった自分を殺してしまいたくなった。
嵩はすぐに覆面パトカーで病院に搬送された。
莉子はそのまま逮捕され、糸井忠光も、公務執行妨害の現行犯で連行された。
舞台の床に転がったままのレスポールが、ギターアンプとフィードバックを起こして、いつまでも「ギーン」と、耳障りな音を鳴らせ続けていた。
客の誰もが、どうしていいのか分からず、長い間、共鳴し続けるギターの不協和音の中で、動けずにいた。
伝説になるはずだった新生〈スサノオ〉のライブは暗転した。
やがて、刑事が誘導し、その場には関係者だけが残された。
二年前から続いていた悪夢は、死神に休息を与えなかった。
GENは、やはり天国ではなく、地獄の底から、朽ち果てかけた腕を伸ばしていたのだ。不運にも、御厨紗江子は、地獄ではなく、天国へ召されたのだった。GENは、地獄で孤独に喘いでいた。
死神よ。ここへ、誰か連れてきてくれ。
それが無理なら、もう一度、俺を母の子宮に戻して欲しい。もし、生まれ変われたとしたら、今度は人間の心を捨てたりしないから。
パトカーの中で、莉子は、GENの声が聞こえたような気がした。
横にいた戸倉にも気づかれないほどの小さい声で、莉子が呟いた。
「大丈夫。今度は私がいるから…へへへ…」
莉子は笑っていた。
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