第12話 ネバ―マインド
ながい間君を愛していた
知ってるだろ?今でも愛してるんだ
孤独な時間に耐えて
君が願うならばいつまでも
君の顔を知らなくても
名前を知らなくても 大丈夫だよ
ずっと君を好きでいるよ 君が好きだ ずっとずっと
僕の愛をぜんぶあげるよ
一緒の時も 離れていても
そして君を見つけた時
君の歌があたりに響いて
僕に聞こえるように歌って欲しいんだ
いつでも側にいられるようにしてて欲しい
君のすべてに夢中さ
約束するよ きっとだ きっと、きっとだよ
*The Beatles 「I will 」より
‐NEVER MIND ‐
林檎の皮を剥いていた信子の手が止まった。病室の戸をノックして、入ってきた男が、信子にとって許されざる来客であったからだ。 無意識に、ぺティナイフを握る手に力が入った。よく、冷静にいられたと、信子は自分の理性がまだ残っていたことに驚いた。顔を見るなり、男の首元にナイフの切っ先を突きつけてもおかしくないくらい、訪れた男に対しては不信感しかなかった。
理性を保たせられたのは、息子が、意外にも笑顔で、その男を招き入れたからだった。だが、これ以上ここにいたら、心を止めて擱けないかもしれない。信子は自ら、その場所から退席した。
男は無言で、頭を深く下げたが、信子は見ずに、病室を出た。剥きかけの林檎と、横に置かれたままのナイフを、男は静かに手に取り、パイプ椅子に腰を下ろし、皮剥きの続きを始めた。
太い指からは想像できないほど、林檎の皮はスルスルと、一度も千切れずに、最後まで剥かれた。
「これだけは、けっこう得意でね。料理の方はからっきしなんだが」
男は、僅かに笑みを浮かべて、剥いた林檎を器用に手に持ったまま、何片かに切り分けて、ティッシュを何枚か重ねた上に置いた。
自分も一切れ貰ってもいいかな?と、少年に断りを入れ、少年が軽く頷くと、もう一度笑みを浮かべ、林檎のカケラを一つ口に入れた。
「昨日からなにも食べてなかったんだ。ありがとう。おいしいよ」
男は言って、短く息をついた。
しばらく無言の静寂が、病室を包む。最新式のエアコンなのだろう、空調の音もほとんど無い。
沈黙に耐えかねたのか、男の方が口を開いた。
「もう謝ったくらいじゃ許されないな。流石に今回の失態はどうにも言い訳のしようがない。ついに捜査班を外されたよ。まぁしょうがないかな。君が、幸い軽い怪我で済んで本当に良かった。いや、良かったなんて間違っても言っちゃいけないな。二度も君を危険な目に遭わせてしまったからね。刑事失格だ。まだはっきりとは処分はくだってないが、おそらく田舎の駐在所にでも飛ばされるだろうな。それもいいかもしれない。自分にも君くらいの歳の娘がいてね。芸能界に憧れているんだよ。でも、今回の事件に関わって、娘をそんな世界には入れたくないと強く思ったよ。いきなり田舎暮らしなんて、娘には恨まれるだろうけどね。この事件に最後まで関われないのは悔いが残るが、あとは後輩の野宮がしっかりと引き継いでくれるだろう。あいつは良い刑事だからな。安心して任せわれる。おっと、これは君に関係のない話だったね。ところで嵩くん傷の具合はどうだ?」
「大丈夫です。カッターの刃があと少し斜めに入ってたら危なかったらしいですが、内臓にも達してなかったみたいで、明後日には退院できるそうです」
「そうか、それは良かった。お母さんにはもうぜったいに許してもらえないだろうがね」
「母はもともと人嫌いですし、気にしないでください」
嵩はそう言うと、戸倉が剥いた林檎に手を伸ばし、一口だけ齧って、残りはティッシュの上に戻した。傷は浅く、数針縫っただけで命に別状はなかったが、ショックのせいか、ここ数日は食欲がなかった。戸倉を病室に呼んだのは嵩だった。以前もらった名刺の番号に、自分で電話したのだ。
父のことも気にはなっていたが、やはり莉子がどうなったのか、一番に知りたかった。
「杉田莉子だったね…莉子はすべての犯行を認めたよ」
戸倉の言葉に、嵩の表情が少し強張った。
「それは、誘拐事件が狂言だったって話じゃなく、御厨紗江子の殺人を認めたということですか?」
「ああ。捜査情報は秘密厳守だったから、君には話していなかったが、紗江子が殺された夜に、ホテルに入って行く莉子らしき姿が、ホテルの防犯カメラに映っていたんだ。男と二人でね。カメラの角度で、男の顔までは映ってなかったが、莉子の供述によると、そのあたりで誘った、見ず知らずの男らしい。怪しまれないために、そのへんにいた男に援助交際を持ち掛けて、そのままホテルに入ったそうだ。そして、別の部屋に入り、男の飲んでいたビールに睡眠薬を入れて眠らせ、莉子だけが部屋を出た。その足で、あらかじめ部屋を指定させて呼んでおいた御厨紗江子の所へ行き、持っていたサバイバルナイフで紗江子を刺殺した。それが、杉田莉子の供述だ。莉子が誘ったという男の身元はまだ不明だが、その夜、部屋を借りた記録は、莉子の供述通り残っていた。莉子の誘ったという男の身元は捜査中だが、おそらく身元判明は難しいだろうな。未成年との援助交際だ。いくら睡眠薬で眠らされたとしても、自ら名乗り出てはこんだろう。他の防犯カメラにも、男の顔ははっきりと映ってなかった。事件への関与は考えにくいし、捜査もいずれ打ち切られるだろう。それよりも、莉子の供述の通り、凶器に使われたサバイバルナイフが、ホテル近くの側溝から発見された。指紋は検出されなかったが、血液反応が出た。鑑識の調べで、御厨紗江子の血液だと特定されたよ。これが、動かぬ証拠になった。紗江子を殺した動機は依然不明なままだが、紗江子を殺したのは莉子で間違いないだろう。実を言うと、あの追悼ライブの時、すでに杉田莉子には、狂言誘拐を行った威力業務妨害の容疑で逮捕状が出ていたんだ。ライブハウスに姿を現した時点で、逮捕もできた。しかし、俺の判断で、即時確保はしなかった。彼女に、君の演奏を見てもらいたかったからだ。それがあんな事になってしまって、杉田莉子の罪をさらに重ねさせる結果になってしまった。ぜんぶ俺の責任だ…」
戸倉は、刑事になってから初めて、人前で涙を見せた。咽び泣きこそしなかったが、両方の瞳には確かに涙が溢れ、目を赤くさせていた。戸倉の言葉には、悔しさが滲みだしていた。
「莉子はあの時泣いていました」嵩が言った。
「え?」
項垂れて鼻を啜っていた戸倉が顔をあげた。
「ボクらのライブを見て莉子は泣いていました。あの涙は嘘じゃなかった。莉子は、ボクと、GENを重ねていたのかもしれません。なぜ、莉子がボクを刺したのか、ずっと病室で考えていました。莉子は、GENのファンだった。父親から性的虐待を受け、母は蒸発した。ボクなんかよりももっとずっと深い闇の中で、叫び続けていたのだと思います。唯一の心の支えがGENだった。そのGENが死んで、莉子は心を失ってしまった。莉子が紗江子に抱いた殺意は、もしかしたらそのあたりに真実が隠されているんじゃないでしょうか?」
「それはどういう意味だ?GENの死に、紗江子が関係しているとでも言いたいのかい?GENは事故死だ」
「それが…本当に事故死だったんでしょうか?」
「君はGENの死に疑問を持っているのか?」
「ボクはプロじゃないので、当時の捜査がどうだったか分からないですが、二年前の夜、たしかGENは、薬物依存と、感電によるショックで、心不全で亡くなったんですよね?」
「ああ、検死書では、感電との因果関係ははっきりとはしないと書かれてあったが、薬物依存が引き金になった心不全の可能性が高いという結論だった。だが、御厨紗江子は、GENの薬物依存には関与していない…。いや、関与していないとはいえ、当時のマネージャーだったのは紗江子だ。莉子が紗江子を逆恨みしてもおかしくはないな」
「はい。莉子は、紗江子が結果的にGENを殺したと考えていて、それで紗江子への怨みが膨れ上がり、紗江子を殺したんじゃ…。莉子がボクを刺したのは、GENを一生自分の心の中で自分の物にしたいという、歪んだファン心理が現れたのではと、ボクは考えています。莉子は、ボクをGENと錯覚したんです。そのくらい莉子の心は死神に支配されていた」
「死神に支配されていたか…。うん…。その推測は決して的外れな考えではないな。だが、じゃあなぜ、二年も経ってから、莉子は紗江子を殺したんだ?それに、君のお父さんを巻き込む必要なんてどこにもなかった」戸倉は再び刑事の顔に戻っていた。
戸倉に指摘され、嵩は自分の推測が穴だらけだったと分かり、頭を抱えた。
「そうですね…。その動機だと、うちの父を巻き込む必要はない…。そもそも莉子はどうして、紗江子をそんな手の込んだやり方で殺さなくてはならなかったんでしょうか?」
「それはこれからの取り調べで明らかになってくると思うが、捜査班を外された俺にはもうどうすることもできん。野宮に託すしかないな」
「あと…」
「ん?」
「二年前に、弁天の客で、莉子のクラスメイトだったっていう子が殺された事件も、まだ犯人は捕まってないんですよね?」
「ああ、そうだった。あの事件も、まったく未解決なままだ。君のおかげで逮捕できた成瀬も、二年前の事件の犯人ではなかった。こっちの方は、本当に謎が多すぎる」
「紗江子が、その子を殺した真犯人だとか?そのための復讐を莉子が…」
「いや、それは無い。紗江子のあの夜のアリバイは完璧だ。それに、これは言いにくい話なんだが、殺された子は、レイプされていたんだ。それも殺されたあとで。紗江子が犯人であるわけはない」
「レイプ!そうだったんですか…。やはり、ふたつの事件に繋がりはないのですね」
「本来なら、関連を疑って当たり前だが、なんの実証も得られていない。しいて言えば、莉子の心に、クラスメイトと、GENの、両方の死が、暗い影を落としたかもしれないということだけだ」
「そうですね。でも、やっぱりなにか、もっと他に、なにかが引っ掛かってしかたがないです」
「それは俺も同じだよ。二年間、片時も頭から離れたことはない」
「すいません。プロに向かって、軽々しく自分の推測を話してしまって」
「いや、いいんだ。プロだからこそ見落としていることだってある。成瀬をスピード逮捕出来たのも、君のおかげだしね」
「あの事件は、ボクがいなくても解決したはずです。たまたまあの日、弁天に居合わせただけで。ほんとにたまたまです…たまたま」
そう嵩が言った瞬間、戸倉は、なにかの欠けていたピースがひとつだけ頭の中に発現した感覚に襲われた。
「嵩くん。今、なんて言った?」
「え?いや、だからたまたま居合わせただけだって…。あっ!」
嵩も、戸倉と同じく、重要な事実に気づいた。
「あの日、莉子に案内されて、いやその前に莉子と再会して、そこで父の不倫の話を聞かされ、そのあと発作がきて、気がついたら弁天にいました。なんで今まで疑問に思わなかったんだ。莉子の話が衝撃的すぎたから、ボクは自分の発作が出たと思っていた…」
「そうだ。杉田莉子は、最初から君を弁天に誘導するために計画していたんじゃないか?例えば、君に安定剤とは違う薬を飲ませたとか」
「確かに、パニック発作にしても、記憶が飛ぶほどひどい症状はこれまでなかった。あの日は特別に酷かった。でも、弁天に来てから症状は治ったんです。いつも飲んでいる安定剤は、あんなに極端には効いてこないし、それに一度効きだすと、もっと効果は持続します」
「もしかしたら、なにか速攻性のある薬物を盛られたかもしれんな」
「それが本当だとしたら、莉子はなんのためにボクにそんなことをしたんだろう」
「そこまではわからん。これは違反行為になるが、野宮にそこも含めて取り調べるよう連絡してみるか」
嵩は、莉子の背後に、本当に死神が暗躍しているような映像が浮かび、背筋に悪寒がはしった。莉子に刺された傷痕が、キリキリと鈍く痛みだしてきた。
これまでのすべてが、莉子が創り出したシナリオ通りに進んでいたとしたら…。嵩は、頭がクラクラしてきた。
事件は、ぜんぶ一本の糸で繋がっている。確証はなくても、嵩の心がそう叫んでいた。戸倉も同じ気持ちだった。
2
野宮は、警視庁のすぐ近くにある、いつもの行きつけの喫茶店にいた。遅い昼食だった。野宮は自分の腕時計に目をやり、もうすぐ先輩の戸倉が来る時間だと確認した。
戸倉は五分ほど遅れて店に着いた。
「すまん、忙しいのに余分な仕事させてしまって」
野宮のいる席に行くなり戸倉が言った。
「余分だなんて、ぜんぜん俺は大丈夫ですよ。それより戸倉さんが外されて捜査班はガタガタですよ。やっぱり戸倉さんが居てくれなくちゃ駄目です」
「それはしょうがないだろ。もう決まったことだし、それに誰かが責任は取らないとな」
「それなら捜査部長が責任をとるべきですよ。これじゃトカゲの尻尾切りです」
「いや、あの日の捜査はもともと俺が部長に無理を言って行った事だ。責任を取るのはやはり俺でいいんだ」
「戸倉さんがそう言うならしかたないですが、俺は戸倉さんと一緒に事件を解決したかった…」
「すまんな…。でも、こうやって結局、諦めきれずにおまえに仕事を頼んでるのだから、俺も懲りてないがな」
「戸倉さんの頼みならなんでも聞きますよ。ただ申し訳ないですが、莉子の件は、まだ取り調べが進んでないので、もう少し待ってもらえますか?心神耗弱状態だからと、弁護士が入院措置をとるように言ってきたせいで、莉子は今、一時入院してるんです」
「そうか…。それはどうにもならんな。また退院したら教えてくれ」
「了解しました。あとは、戸倉さんの言われた通り、所轄署に行って、保管してあったGENの二年前の死体検案書を調べ直しました。こっちの方は収穫がありましたよ。戸倉さんの推理が真実味を帯びてきました」
「詳しく訊かせてくれるか」
「もちろんです。検死報告のコピーは取れなかったんですが、ちゃんとメモしてきました」
戸倉は向かいの椅子に座り、アイスコーヒーを注文した。野宮はいつものパフェは注文せず、今日はクリームソーダをテーブルに置いていた。戸倉が来るまでにすでにほとんどを飲みほしていて、アイスクリームで濁った緑色のソーダ水の残りが、グラスの底の氷を溶かして、時々カラカラと音をたてた。
「で、GENの死体検案書についてだが…」
「はい、二年前は、死因についての特定ははっきりしなかったものの、採血の結果、多量の薬物反応が出たため、行政解剖に回されました。ただ、死因に犯罪性がなく、薬物摂取による心不全と結論づけられたので、司法解剖までは行われませんでした。死体検案書も、同等の結論です」
「そこまでは不審な点はなかったな。二年前も、事件性はないと判断された」
「はい、でも、戸倉さんに言われた通り、GENが摂取していた薬物の成分を調べ直して、ひとつ、これまでに出てこなかった事実が分かりました」
「なにか、不審な成分が検出されていたのか?」
「GENの血液中からでた薬物の成分は、テトラヒドロカンナビノール、これは大麻の成分です。次に炭酸リチウムの成分が検出されています。これは、双極性障害の治療薬、いわゆる躁鬱病の治療に用いられる薬です。GENの心療内科への通院歴は、二年前の検視書にも報告されています。あとはアルコールが検出されました。抗躁薬とアルコールの組み合わせが、心不全を引き起こした要因のひとつと考えられました。しかし、その他の成分でメスカリンが検出されています」
「メスカリン?」
「GENの遺体から検出された麻薬成分である大麻には、ほとんどのドラッグに含まれているアルカロイド成分が含まれていません。このメスカリンはアルカロイド成分のひとつです」
「それは、大麻以外にドラッグをしていたということか?」
「メスカリンは、ペヨーテというサボテンの一種に含まれている成分です。摂取するとLSDに似た症状が出るそうです。このペヨーテという植物は、一般の園芸店でも販売されています。植物の栽培自体は違法ではありません」
「栽培は違法ではないが、乾燥させてペヨーテボタンに加工したら立派なドラッグだな」
「ペヨーテは御存じでしたか」
「おいおい、俺も刑事だぞ。最近は脱法ハーブやら、シャブや大麻以外にも怪しい似非ドラッグが蔓延しているからな、ペヨーテの名前くらいは知っている」
「すいません」
「俺がダメなのは機械だけだ。まぁいい、続けてくれ」
「そのペヨーテなんですが、確かにLSDに似た症状を引き起こすらしいのですが、摂取するとひどい吐き気に襲われて、よほど我慢しないと、トリップするところまでいかないらしいです。それと、急激に大量摂取した場合、心臓麻痺を引き起こす危険性もあると監察医から聞いています」
「GENはそんな危なっかしいもんを、大麻がありながら一緒にやってたというのか?」
「GENから検出された大麻成分は僅かでした。おそらく当時、GENは薬切れを起こしていたんじゃないでしょうか?それで、大麻の代わりに、ペヨーテを摂取した」
「だが、そいつに即効性はないんだろ?ライブの直前に、吐き気を我慢してまで自分から摂取するか?」
「これは、俺の推理なんですが、二年前、御厨紗江子は事情聴取で、あのGENが死んだ日、どうしても弁天でライブがしたいとGENから言われ、本来ならもっと大きな会場でライブをするはずが、急遽、弁天に場所を変更したと供述しています」
「ああ、その話は俺も憶えている。あの時は事件と関係のない話だと俺たちは気にしてなかったが、紗江子はやたらその事が気になると繰り返し言っていたからな」
「蟹江百合の殺人事件があくまで捜査の中心でしたから、あの時はGENの捜査は、事故と確定されてからはもう行われなかった。しかし、今思うと、あの日、GENは、あのライブハウスで、ヤクの受け渡しをする約束をしていたのでは?」
「それは、なにか根拠があるのか?」
「実は、戸倉さんが捜査班を外されてから判明した事があるのですが…」
「なんだ?」
「羽鳥愛子を殺害した容疑で逮捕された、弁天の音響係の成瀬ですが、過去に、大麻取締法違反での前科があったことが分かりました。まだ学生時代に薬の運び屋をやって検挙されています。初犯であったことと、所持していた大麻が微量であったこと、加えて主犯格である暴力団組員が逮捕されたことによって、その時は起訴猶予処分で済んでいます。さすがに大学は退学になったそうですが。本人も罪の意識はほとんどなかった。どうやらその後も、運び屋のバイトを続けていたようです。あの辺りの情報屋に成瀬の写真を見せたら、見覚えがあると言っていました。これはもう少し本人を叩いたら自白すると思います」
「成瀬がヤクの運び屋だったのか…。それで二年前のあの夜、GENはヤクを受け取るために、ライブの会場を弁天にしたっていうのか」
「はい。もしそうなら、誰からも怪しまれずにヤクを受け取れます。〈スサノオ〉は、わりと売れるようになってからも、あのライブハウスに出演していたようですし、それがヤクの受け取りのためだとしたら辻褄も合います」
戸倉は、タバコに火を点け一息吸うと、眉間にシワを寄せ険しい表情になった。
「しかしなぁ…。いくらドラッグのためとはいえ、紗江子が言っていたように、相当大切なライブだったんだろう?受け取りのためだけに、わざわざライブ会場を変更してまで弁天でやる必要があるか?受け渡しだけならどうとでもなりそうなもんだが」
「そのくらい禁断症状が出ていたんでは?」
「んー。考えにくいな。覚醒剤ならともかく、大麻での禁断症状がそこまで顕著に出るくらいまで依存していたら、そもそもまわりも気づくだろうし、ライブなんてできるか?」
「ロックにドラッグは付き物じゃないですか」
「昔からよく言う、セックス、ドラッグ、ロックンロールか?だがな、御厨紗江子は、あのバンドをメジャーデビューさせようと精力的に動いていたんだぞ。いくらロックバンドとはいえ、ガチガチの麻薬中毒者をそのままにしとかないだろ。確かに、検死でも出たように、GENはドラッグをしていただろうが、GENがそれだけの理由で、あの日、あの弁天を選んだとは思えん。それにさっきおまえが言った、ペヨーテの事も気になるな。仮にその日、成瀬から大麻を受け取ったとしたら、ペヨーテなんて摂取する必要はなくなる」
「ではなぜペヨーテの成分が検出されたんでしょうか?」
「ペヨーテでキメようと思えば、とてもライブどころではなくなるのだろう?急激な摂取は心臓麻痺の可能性もあると言ったな。ということは、誰か第三者に、毒物として飲まされたか…」
「毒物として?」
「ペヨーテは加工しなくてもそのまま摂取した場合でも、メスカリンは摂取できる。ペヨーテの実を絞って、その汁をなにかに混ぜて飲ませたとしたら。たとえ嘔吐したとしても、メスカリンの成分は残る。GENがすでにその時大麻でキメていたとしたら、ペヨーテを吐きださなかったかもしれない。もしその場合、GENは、抗躁薬と大麻、そしてアルコールを同時に摂取していたことになるGENの死亡リスクは相当高まっていたはずだ」
「でも…」
「ああ、分かっている。もしそうだとしても、殺意を立証するのは難しいだろうな。あくまで死亡リスクが高まったというだけの話だ。確実な毒物でもないかぎりは殺人としての立証はできない。だいたい、毒物が検出されていたら事故死で済んでないしな…」
「それに、誰がGENにペヨーテを飲ませたというんですか?GENを殺す動機がない。GENの人気を妬んだ誰かがやったとでも言うんですか?」
「そうだな…。その点は俺もまったくわからん。すまんが今の話は一度忘れてくれ。あくまで俺の推測でしかない。感電事故は、もう疑う余地はないのだな?」
「あの夜の感電事故も、死因を引き起こす要因の一つでしかないようです。これも検案書に記載されていた内容によると、漏電による、体内への通電は起こっていたようですが、GENの身体に感電による電紋はなし。ギターがショートした時に発した火花で、手に火傷を負ってはいますが、致命傷になるほどのものではありません。ファンの間では、ライブ中に感電死したという話が通説になっていますが、やはり検案書では、感電のショックは、一要因にしか過ぎず、複合的な要因が重なって心不全を起こしたという結論です」
「そうか…」
戸倉は、氷が解けてすっかり薄くなったアイスコーヒーを、グラスのまま一気に飲み干した。
「戸倉さん、そもそもなぜそこまでGENの死因に疑問を持っているのですか?なんども死体検案書を確かめ直せと言ったり。やはり、二年前の蟹江百合殺害事件との接点をまだ疑っているのですか?」
野宮が訊く。
戸倉は、腕を組んで目をつむり、無言で考えを巡らせた。
「野宮、検案書の写し、そっくりそのままだろうな?」
「はい、そのままをメモしてきました」
「ちょっと見せてくれないか」
野宮は、自分が写したGENの死体検案書の写しを戸倉に渡した。戸倉は食い入るようにメモを凝視していく。
「 氏名 篠田源三 男子 年齢二十三歳
救急隊到着時にはすでに心肺停止状態 その後P病院に搬送
搬送先のP病院にて死亡確認
死亡確認 ○月×日 午後八時○○分 感電死の疑いあり
S署にて 検視依頼。S署内、霊安室にて検視
硬直全身なし 死斑背面 チアノーゼあり
右手の平に、火傷による皮膚離脱あり(感電時に負ったか)
心臓血採取 後頭窩穿刺クラール
室温二十五度 直腸内温度三十三度
失禁脱糞少々 精液漏出僅か
血中アルコール成分検出 炭酸リチウム成分検出(抗躁薬か)
血液中から薬物陽性反応あり 大麻成分 その他 メスカリン
司法解剖にまわす可能性あり 」
戸倉は新たに火を点けたタバコを吸いながら、野宮のメモを何度も見直した。
「なにか気になることがありましたか?」
沈黙に耐えかねもう一度野宮が訊いた。
「メスカリンの検出はやはり気になるが、それよりも、GENは結局、司法解剖にはまわされなかったんだよな?」
「はい、行政解剖はされましたが、事件性がないと判断され、司法解剖はされていません」
「もし、蟹江百合の発見がもっと早くて、弁天との関わりもすぐに分かっていたら、きっと司法解剖にまわされていただろうな」
「ええ、今から考えると警察に落ち度があったことは否めませんね。蟹江百合が弁天に最後に立ち寄っていた事実が判明したころには、GENの遺体はすでに火葬されたあとでした」
「骨の受け取り手は、御厨紗江子だったらしいな」
「はい、GENには身寄りがなかった。天涯孤独の身でした」
「そう思うと哀れな男でもあったんだな。ところでだが…」
フィルターだけになったタバコを灰皿に押しつけ、戸倉が意味ありげに低い声で溜めて言った。戸倉はなにかに気づいた様子だ。
「なんですか?」
「死亡時の、失禁脱糞少々、精液漏出僅か、とあるな」
「そこがなにか?遺体には珍しくない状態だと思いますが」
「俺たちが、関係者の中で、今まで唯一調べてなかった人物だ」
「は?」
「俺としたことが、ここを見落としていたとは…」
「え、えーと、あの…もしかして戸倉さん!」
「野宮も気づいたか?」
「蟹江百合を絞殺し、屍姦したのが、GENだと言いたいのですか?」
野宮は、口の中が急激に乾いてきた。グラスの水を一気に飲む。
「蟹江百合は、ライブ中にヤクの受け渡し現場を偶然目撃し、口封じのために殺されたとは考えられんか」
「それなら、運び屋をしていたと思われる成瀬も共犯の可能性がありますね」
「ああ、成瀬からとった唾液と精液のDNAが一致しなかったから、二年前の事件とは無関係だと考えていたが、二年前の蟹江百合の体内に残された精液が、成瀬ではなく、GENの物だったとしたら、成瀬が犯行に加わっていた可能性も出てくる」
「分かりました。もう一度、成瀬を叩いてみます。ヤクの運び屋の件が割れたら、そこも厳しく追及できます!」
「俺が居なくてすまん。野宮、あとは任せたぞ」
「もちろんです!成瀬はすでに強姦殺人容疑で、検察に送られています。すぐに大麻取締法違反の逮捕状をとって、再逮捕します」
「頼んだぞ!」
「はい」
野宮の瞳に、戸倉の刑事魂の炎が乗り移った。野宮は、すぐに店を出て、警視庁に舞い戻った。
しかし、戸倉自身は、自分の推理に酔いしれることはなかった。二年前の事件に決着をつけたいという思いに変わりはなかったが、真相が、もし自分の推理の通りだとしたら、莉子に救いはあるのだろうか?莉子はGENのファンだった。そのGENが、自分のクラスメイトを殺した犯人だと知ったら、莉子の心はどこまでも終わりのない闇に、完全に包まれてしまうだろう。そう考えると複雑な心境だった。
莉子もまた、天涯孤独と同じようなものだ。唯一、莉子を庇ってくれた糸井忠光は、そのせいで、公務執行妨害で逮捕されてしまった。莉子の境遇を考えると、戸倉は、刑事の正義とはなにか?と、自分の仕事に対しての理念が崩れ落ちそうな、暗い気持ちに支配されそうになった。
‐それは違う。事件の解決こそが、次に進むための唯一の希望に成りうるのだ。その先にしか人間の再生はありえない‐
戸倉は、冷静になって、自分自身の心に言い聞かせた。
GENの体内から検出されたメスカリンがどうしても頭から離れない。まだ、事件は複雑に絡み合ったままだと、捜査班から外され燻っていた戸倉の刑事の勘が、再び甦ってきた。
捜査班をはずされたおかげで、処分さえ気にしなければ自由に捜査はできる。もちろん職務規定違反ではあるが、もうここまできたら、これが自分の刑事人生の最期になってもいいと、戸倉は覚悟した。自分の魂は野宮が引き継いでくれるだろう。辞表覚悟の行動だった。
今すぐ必要なのは、GENのDNA。ペヨーテの出所。この二つをなんとか自分の手で探し出す。
戸倉もようやく重い腰を上げ、会計を済ませると、さっそく単独で捜査に乗り出したのだった。
3
莉子は狂言誘拐と、嵩を刺した殺人未遂容疑で逮捕されていたが、御厨紗江子を殺した容疑についてはまだ立件を見送られていた。心神耗弱状態という理由で今は入院中だった。退院後、正式に検察に送られ、立件される手はずになっていた。
ただ、莉子本人は、紗江子を殺害した凶器の場所は自供したが、殺害についてははっきりしない供述を繰り返していた。これが、心神耗弱状態だと判断され、弁護士の要請により、一時的に入院処置を受けることになったのだ。
野宮は、病室の前にいた弁護士に一度制止させられたが、五分だけでいいのでと丁寧に頼み込んで、なんとか莉子への接見を許された。未成年の起こした事件の場合、警察も手荒な取り調べはできない。入院中ということもあり、なおさらデリケートに接さなくてはならなかった。そういう点では、戸倉よりも、物腰の優しい野宮は、適任だと言えた。
「杉田莉子さん。僕の顔は憶えているね。警視庁の野宮です。少しだけ話を訊かせてもらいたくて来ました。長い取り調べで疲れているだろうし、なるべく早く終わらすので、どうか協力してくれませんか」
野宮は一切高圧的な態度は取らず、普段よりも静かなトーンで、ベッドで横になっている莉子に話かけた。
莉子は、無言で天井を見つめたままだ。
野宮は、はじめこそ莉子の心に寄り添うように、優しい声で語り始めたが、その後の質問は、核心だけを抜き出した、刺すような言葉だった。側にいた弁護士も、声のトーンと質問の内容のギャップに、一瞬意味を理解できなかった。
「莉子さん。君はお父さん、と言っても実のお父さんではない今のお父さんに、性的虐待を受けていたね?お父さんから事情を訊いたらすぐに白状してくれたよ。家のパソコンから、証拠になる写真データが発見されたからね」
無表情で天井を見つめていた莉子の眉が、ぴくりと動いたのを野宮は見逃さなかった。
「ちょっと、刑事さん!今彼女は入院中です。それにその質問は、人権侵害に当たります!」
やっと質問の意味を理解した弁護士があわてて止めに入った。だが、野宮はあくまでやさしい口調のまま、わざと莉子の心を掻き乱す内容の言葉を続けた。
「君のお母さんが駆け落ちした相手は、君の実の父親だった。残された二番目の父親は、その性のはけ口に君を嬲り者にした。君にとって、心の拠り所は〈スサノオ〉のギタリストGENだけだった。GENの命令なら君はなんでも聞いた。例えば、女子高生を生け贄に差し出すことも、君は躊躇せず行った。ドラッグの受け渡しも、成瀬を仲介人にして、君がGENとやり取りしていた。成瀬にはすでに薬での前科があった。未成年の君ならもし捕まったとしても、たいした罪にはならないだろう。君はGENに言われるままに、ただの操り人形となって、二年前の事件の裏で動いていた。違うかい?」
やさしい口調だった野宮だが、その言葉尻には、犯人を追い詰める一流の刑事の気迫が感じられた。そのせいか、側にいた弁護士も気圧されて、なにも言えなくなった。
横になっていた莉子が、突然上半身を起こし、ガチガチと奥歯を鳴らしながら野宮を睨みつけた。充血した瞳の奥には、はっきりと憤怒の感情が現れていた。
「なにか言いたいことがあるのかい?」
野宮はまだ落ち着いた声で、莉子の心を揺さぶる。
ついに耐えきれず、莉子が心のままに叫んだ。
「ち、違う!GEN様は、百合を犯してなんかいない!百合を殺したのは成瀬だ!成瀬はわたしの顔を知らない。成瀬はドラッグをGEN様に渡す見返りに、女子高生を要求したんだ!本当はわたしがその生け贄になるはずだった。GEN様のためなら私はなんでもする。なんでも出来る!それを運悪く百合が、GEN様と成瀬が薬の受け渡しをしている現場に居合わせて、それで咄嗟に成瀬が百合を殺して…。あのビチクソ野郎が!クソ変態野郎が!百合を犯したんだ!GEN様はなにもしていない!だから、成瀬を逮捕させるために、新しい生け贄を用意してやった。お嬢様高校のヤバイくらいトビきりの生け贄を!成瀬はまんまと、エサに飛びついて、その死神の正体を現したんだ!」
傍らにいた弁護士は、莉子がなにを叫んでいるのか理解できず、唖然としたまま立ち尽くしている。
しかし、野宮は莉子の言葉を一言一句聞きもらさず脳に刻み込む。同時に、野宮が病室に入った時からすでにRECボタンが押されていた胸ポケットのICレコーダーが、莉子の発言をすべて記録していた。莉子は冷静さを完全に失い、止まらなくなった。
「リクもそうだ!わたしのGEN様を、卑しくも汚しやがった。GEN様はリクなんかの老いぼれに体を許すわけがない。だから、罰を与えてやった。あいつはバカだ。オーディションが出来レースで、GEN様の役を無名の引き籠り野郎がやることになると教えてやったら、自分から出来そこない爆弾を造って、逆に自爆しやがった。もう、ホンットにバカッ。笑っちゃうわ。まさか爆弾なんか造るなんて、どこまで空っぽの頭なんだか。GEN様に心底陶酔してたのは褒めてあげるけど、やっぱりただのバカ。あんなに思った通りに動くなんて、びっくりしちゃった。あはははは」
「リクを操っていたのも君か」
「みんな簡単にわたしの手の中で踊らされるのよ。嵩だってそう!天才天才って持て囃されて、良い気になってるから気を病むのよ。自分のパパがちょっと私のママに脅されて、ついて行ったってだけで引き籠りになって。わたしなんて、誰からも見向きもされずに、あの薄汚いクソオヤジに好きなように犯されて、ママだって、わたしを捨てて逃げた。わたしはママに生け贄にされたのよ。それでも必死に耐えてた。いつかみんなに復讐してやるために。嵩のことも、ずっと気に入らなかった。あいつはリクの爆弾で死ねば良かったのよ。リクが出来そこない爆弾しか造れないから、わたしが直接手を下すしかなかった。サバイバルナイフをそのまま持っておけば良かった。そしたら確実に嵩も殺せたのに。わたしの苦しさにくらべたら、あいつなんてクソみたいなもんじゃない?なにがデルタギヤよ!なにが名探偵よ!調子に乗って、よくもGEN様の追悼ライブなんてしやがって!許せない!ぜったいに許せない!成瀬を逮捕できたのだって、わたしがうまく誘導しただけなのに!あいつもわたしの手の中で踊らされてたことに気づかないただのバカ!」
「いいかげんにしないか!」
今まで静観していた野宮が初めて声を荒げた。
莉子はまだ激しく息を搗いている。
「刑事さん!もう止めてもらえますか!」
呆然としていた弁護士が我に返って、やっと声をかけた。
「すいません。訊きたいことはだいたい莉子さんが言ってくれました。ありがとう。やっと心を開いてくれたね。確かに君は、これまで裏で皆を操っていたのかもしれない。だがね。すべてが君の思った通りになったわけじゃない。嵩くんは、君が思っているような弱い人間じゃなかった。ただ迷いがあっただけだ。迷いのなくなった嵩くんは、君の計画通りには動かなかった。否、動かなかったというより、動いたと言ったほうが正しいか。君は、成瀬の一件でも、狂言誘拐の一件でも、嵩くんの心を折ることはできなかった。それでも、あれだけの事が重なったら、もう嵩くんは壊れてしまうだろうと考えていたのだろう?だが、嵩くんは壊れなかった。最後の最後まで、嵩くんは、まっすぐに事件に立ち向かったんだ。逃げなかったんだ。そして、君をついに炙り出した」
「わたしは、炙り出されたんじゃない!自分で決着をつけようとしただけよ!」
「でも、君は心を動かされた。あまつさえ嵩くんの弾くギターに、GENの姿を見たのだろう?本当は嵩くんを殺すつもりなどなかった。GENを自分の物にしたいために、GENの姿に重ねた嵩くんを無意識に刺してしまった。明確な殺意があれば、あの程度のケガでは済まなかっただろう。弁護士さんの言う通り、あの時君は、心神耗弱状態だったんだ」
「ち、違う!私はあんなやつのギターをGEN様のギターと重ねたりしない!あいつを殺したかっただけ。本当よ。信じて。わたしは、わたしは…」
「君はあの追悼ライブの時泣いていたね。あの涙は、嘘の涙じゃなかったはずだ。嵩くんのギターは本物だった。成瀬が事件を起こした夜のライブの時、すでに君は嵩くんのギターに心を奪われていたんじゃないか?嵩くんをこれ以上事件に巻き込みたくはなかった。そうじゃないのか?皆を操っていたのは本当は君じゃなく…」
「もう止めて!みんなわたしがやったのよ。GEN様のためにみんなわたしが仕組んだの!御厨紗江子を殺したのもわたし…」
莉子は、目を真っ赤にして反論した。
「ごめんよ。君が入院している間に、捜査は進んでいたんだよ。ホテルの防犯カメラに映った君と一緒にいたもう一人の人物の正体も。御厨紗江子が殺された動機も。そして、GENが死ぬ直接の原因になったペヨーテの出所もね。君はGENを汚れた人間にしたくなかっただけだ。そのために君は言う事を聞くしかなかった。その人物のね」
「う、う、ううう」
野宮の言葉を最後まで待たず、莉子は泣きだした。
もう莉子は言葉を発せない状態だった。これまで頑なに守ってきた心の核が、砂の塔が波に浚われるように、中心から崩れ落ちてしまった。泣きじゃくる莉子の顔は、元の幼い少女の顔に戻っていた。
「よく今まで、ひとりですべての十字架を背負ってきたね。救済されるべきなのは、誰でもない君だったんだよ」
野宮の最後の声は、偽りの優しさでなく、本気で少女の心を憂慮した言葉だった。野宮は、刑事の仕事を完遂した。ただ罪を暴くだけではない、咎人の鎖を解放つ仕事こそが刑事の本分だと、いつも戸倉から口酸っぱく言われ続けられたそれを、この若い刑事は、見事やり遂げたのだ。
野宮はそのまま病室から出ると、すぐに携帯で、戸倉に報告を入れた。チェックメイトは、尊敬する先輩の戸倉に譲りたかった。
仮に戸倉が処分を受けるとしても、二年前から続いた事件は、戸倉が解決しなければ意味がないと、野宮は自分が処分されることも辞さず、戸倉にあとを託した。自分が莉子を託されたように、事件の結末はあの二人が閉めなくては終わらないだろう。
野宮の頭の中に映ったあの二人とは、もちろん、戸倉と、この夏を全力で駆け抜けた少年、糸井嵩だった。
4
「ボクが同行しても良かったんですか?」
助手席の嵩が言う。
「これはすでに勝手な単独捜査だからね。俺は捜査班から外されているし、本当なら、今は謹慎処分中の身だ。ただ、捜査班はすでに杉田莉子を、御厨紗江子殺害の容疑者として立件する方針のようだ。野宮が捜査部長に掛け合ってくれたらしいが、結局、杉田莉子を逮捕する方向で話が進んでしまった。証拠がまだ不十分という理由らしい」
「でも、真犯人はもう間違いないでしょう?」
「ああ、犯人は莉子じゃない。だからこうして、直接その人のところに向かってるんだ。本人が出頭すれば、さすがに本部も方針を変えるだろうからね」
「自ら出頭するでしょうか?」
「それはなんとも…。だが、少しでも人の心が残っているなら、きっと杉田莉子をそのままにしとけないと、今は信じたい」
嵩を乗せた車は、群馬県の谷川温泉を目指して高速を走っていた。
旅館に住み込みで働いているという情報を戸倉が掴んだのは、まだ昨日のことだった。
なぜ俺はこの子を一緒に連れて行こうとしたのだろう。戸倉は、自分の行動を理解できないでいた。嵩はきっと、もう断ったりはしないだろう。むしろ、嵩の方から連れて言って欲しいと切り出したかもしれない。しかし、少年を捜査に参加させていいのか?これまでだって、なんど彼を危険な目に遭わせたか。今日だって、嵩の母親には内緒で連れてきたのだ。自分はいったいなにがしたいのか。戸倉は、まだジレンマの中にいた。
事件を解決するのは警察の仕事であって、この少年がすることではない。頭では分かっていたが、少年を、事件の終着駅に辿りつかせてやりたかった。ただそれだけの理由が、とてつもなく重要な気がしたのだ。
後輩の野宮は、上手く莉子を闇から光のある場所へ導いてくれただろう。今度は自分が、嵩を闇から連れ出さなくてはならない。これは、言葉では言い表せない戸倉に沁みついた刑事の正義感だった。
嵩は、自分に付いてきてくれた。
犯人はもう分かっている。やっと二年間の謎が解けたのだ。
嵩がいなければ、事件は迷宮入りしていたかもしれない。嵩のギターが莉子の心を動かしてくれたおかげで、真犯人に綻びが生じたのだ。莉子があのまま姿を現わさなければ、真犯人には届かなかった。莉子もまた操り人形だった。犯人を許すことはできない。だが、人の姿をした悪魔は、例えば、すでに魂を失った者を嬲った、成瀬のような者を指す。成瀬の所業には一片の情も感じたくはないと戸倉は思っていたが、この事件の真犯人は、まだ一筋ではあるが、人の情を残しているはずだと、祈りにも似た感情が、戸倉の心に渦巻いていた。絶望の中にこそ、福音は射すと信じたかった。
それを確かめるためにも、戸倉はあえて、逮捕状も取らず、上司にも相談せずに一般人の少年を連れて、その人間のもとに車を走らせていた。
刑事の行動ではないと、自分でも解かっていた。
ここまで自分を突き動かしたのは、やはり糸井嵩という、ついこの間までは、ただの引き籠りの腐った目をしていた少年の、奇跡的な成長を目の当たりにしたからだった。
車の中で、二人はこんな会話をした。
「嵩くん。ギフテッドって知ってるか?」
「ギフテッド?なんですか?」
「まぁいわゆる天才児のことを指す言葉だが、IQが高いっていう括りだけじゃなく、あらゆる分野で、優れた才能を発揮する子のことを、天からの贈り物という意味で、ギフテッドと言うんだ。刑事をしているとね、そういう心理学の分野も詳しくなってね。ギフテッドって呼ばれる子たちは、時として人から理解されなかったり、学習障害と誤解されたりして、決して幸せな人生を送れるわけではないんだ。いろいろな要因が重なって、鬱になったり、ひどい孤独感に襲われたりする場合もあるらしい」
「なんの話なんですか?」
「いやさぁ、君を見てるとね、まさにギフテッドじゃないかと感じてね。君の、時折見せる集中力や、心の弱さも含めて、ギフテッドの定義に見事に当てはまってると思ったんだ」
「ボクがですか?ボクはそんな天才じゃないですよ。昔は、大人たちがただ面白がって天才子役だの言ってただけで、本当に天才ならこんなに苦労してないです」
「そうかい?俺から見れば、君は人を惹きつける魅力に溢れていると思うんだが。それが、ギフテッドだからこそ、苦悩を抱え込んでしまうんじゃないかな」
「それは境遇のせいですよ。ボクだって、普通の家庭で育っていれば、苦しむこともなく、普通の人間になってますよ」
「俺はそうは思わないな。君のお父さんも、君の才能が本物だと感じたから、君を芸能界に入れさせたのだろう?」
「父は、ただ芸能界に復讐がしたかっただけだって言っていました」
「本当にそれだけの理由で、我が子に自分の全てを捧げたりはしないよ。それに、君は自分の力だけでその才能を開花させたじゃないか。世の中には、選ばれたが故に苦しむ人もいるんだよ」
「じゃあそんな才能いらないですよ」
「その才能を、喉から手が出るほど欲しいって人もいるんだ。杉田莉子のようにね。杉田莉子は、君の才能に嫉妬していたんだと思うよ。でもね。きっとそれだけじゃないと思うんだ」
「それだけじゃないって?」
「杉田莉子は君のライブを見て涙した。あの涙は嘘の涙じゃないと君も言ってたね。莉子はいつしか、君の才能を認めていたんだよ。決してただGENと重ねただけじゃない。君しか弾けない唯一無二のギターを聴いて、心から感動してしまった。そんな自分が許せなかったんじゃないかな」
「感動したのに許せないってどういうことですか?」
「莉子は、GENにすべてを捧げようとしていた。GENが絶対的な存在だった。心のどこかでは、GENの犯した罪を知っていながらも、GENを悪魔にはしたくなかった。なのに、あの瞬間、君の存在が、GENを越えてしまった。そう思ってしまった自分の心を莉子は許せなかったんだと俺は考えている」
「言っている意味がよくわかりません。結局それはただの嫉妬なんじゃないですか?」
「嫉妬とは少し違うな。信じていた物が崩れた時、人はどんなに強固に心を保とうとしても無理なんだ。そういうことかな」
「莉子は、ボクの演奏で、今まで保っていた絶対的な象徴を失ったってことですか?」
「そう言えるかもしれない」
「じゃあやっぱりボクの才能は人を幸せにはできない…」
「そうじゃない。君の才能のおかげで、莉子は鎖から解き放たれたんだよ。初めて自分の罪に気づいたんだ」
「やっぱり納得できません」
「まぁ、君はまだ若い。いつか解かる時が来ると思うよ」
「そうでしょうか?」
「ああ、俺は信じているよ。君は人を惹きつける人間だ。それは自信を持って言える」
「惹きつける人間…」
嵩はそれ以上なにも言わず、まっすぐに前を見る。
嵩の父、糸井忠光は、あの夜、嵩ではなく莉子を救おうとした。それは嵩よりも莉子の方が大事だったのではなく、嵩はすでに救われていたからだと戸倉は考えていた。忠光は、莉子こそが最大の被害者であると気づいていた。嵩はもう大丈夫だと忠光は嵩の演奏を聴いて、そう確信したはずだ。親子の溝は、いつか時間が解決してくれるだろう。どんなに時間がかかっても、二人の意志で、二人が歩み寄って、初めて溝が埋まると思いたかった。
戸倉は、言いたかった事を今やっと言えた気がした。
車は、上毛高原を過ぎ、谷川温泉郷へと登っていった。
「こちらに、この写真の人がいますか?」
戸倉は、その旅館に入るなり、受付にいた支配人に写真を見せた。ここに来る前に、すでに電話連絡をしていたのだ。
「はい。確かにここで先月から働いています。この写真の人に間違いありません」
支配人が写真を見て言った。
「今、この人はどこにいますか?」
「うちの料理で使う野菜を採りに近くの畑に行っています。うちは自家栽培の野菜を料理に使ってますんで」
「もちろん私たちのことは伝えていませんね?」
「ええ。大丈夫です。ああ、畑までの簡単な地図を描いておきましたんで、この道順を行ってください。五分ほどで着くはずです」
「ありがとうございます。助かります」
戸倉は支配人から地図を受け取ると、すぐにまた車に乗って、その畑に向かった。支配人の言った通り、五分ちょっとで、地図に描かれた畑へと到着した。
畑には、茄子やトマトが太陽をうけ、おいしそうに輝いていた。なだらかな坂を戸倉と嵩は上がっていった。
青々と茂ったその先に、女はいた。
人の気配に気づき、女はっとした様子で立ち上がった。目は一重で、鼻も高くもなく低くもない、すっきりとした顔立ちであるが、特徴もなく地味な印象を与える。しかし、背はすらりと高く、女は戸倉とそれほど変わらない長身だった。
「杉田良子さんですね。少しだけお話を訊かせてもらえますか」
戸倉が女を前にして言った。額には、汗が光っている。
「私になにか用でしょうか?」
杉田良子は、あくまで落ち着きはらっている。
「私は警視庁の戸倉と言います。あなたの娘の杉田莉子さんが逮捕されたことはご存知ですね」
「いえ、初めて聞きました。娘とはもう疎遠になってますから」
「では、糸井忠光のことは?」
「そんな男もいましたね…。もう昔の話です」
「事件のことはなにも知らないと言うのですね?」
「だからなんの話でしょう?心当たりもありません」
「杉田良子さん!あなたが御厨紗江子を殺した犯人だと、すでに分かってるんです」
戸倉のすぐ後ろから、嵩が前に出て言った。
嵩はペヨーテのことも戸倉から聞かされていた。
杉田良子は、まさか糸井嵩が来ているとは思っていなかったのか、急に動揺した表情になった。
「この子を知っているんですか?」
戸倉が訊く。
「い、いえ、その子は誰ですか?会ったこともないですし。知りません」
「いいかげんにしてください。莉子はあなたを庇って、自分が犯人だと言っているんです。あなたさえ出頭してくれれば莉子は、軽い罪で済むんですよ」
戸倉の代わりに嵩が強い口調で言う。
「だから私はなにも知らないって言っているでしょう!」
冷静を装っていた杉田良子が声を荒げた。明らかに焦っているようだ。
戸倉が、嵩を手で制して、次を続けた。
「ホテルでの防犯カメラの映像。杉田莉子と一緒に映っていた人物は、ずっと男だと思われていた。恰好も完全に男の恰好でした。でも顔がはっきり映っていなかった。あれはあなたが、男の恰好を装っていたんです。あなたはホテルに莉子と一緒に入店し、御厨紗江子を殺害した。莉子だけが防犯カメラに映るようにしたのも、計画通りだった。莉子が犯人であるかのように事を進めれば、必ず、糸井忠光が、莉子を庇って犯人だと名乗りでるだろう。あなたはそこまで計算して、忠光をあの夜ホテルに呼んだ」
「だからなんの話ですか?仮に私がその誰かを殺したという証拠はあるんですか?」
「今のところ証拠は防犯カメラに映った姿しかありません」
「それも顔もわからない。それってなんの証拠にもならないじゃないですか?それに動機はなんですか」
「動機は分かっています」
戸倉の言葉に、杉田良子の眉がぴくりと引き攣った。
「あなたの娘の杉田莉子は御厨紗江子から脅されていたんだ。二年前のライブの夜、ペヨーテのエキスが入った、おそらく酒かジュースを莉子はGENに飲ませた。GENは薬切れを起こして、なんでもいいからトリップ出来る物を欲していた。ペヨーテは、あなたが二年前に働いていた花屋で普通に売られていた。ペヨーテは観賞用ならなんの違法性もない植物ですからね。あなたはその植物は麻薬の代わりにもなると莉子に教えていた。だからGENの信者である莉子は、GENに気にいられようとして、ペヨーテをまぜたドリンクをGENに飲ませた。それが直接の死因になったかどうかは、はっきり言ってわかりません。複合的な要因による心不全というGENの死因に変わりはないでしょう。でも、御厨紗江子はGENの死因に疑問を抱いていた。所轄署に、御厨紗江子が死体検案書を閲覧した記録が残っていました。紗江子は、GENがどんな薬物をやっていたのか知っていた。マネージャーであり、元の恋人であったなら知っていて当然だ。警察は、二年前、GENの死亡事故よりも、蟹江百合殺害事件の方が、重要案件だったため、GENの薬物使用に対する捜査はあまり深く行わなかった。これは私たちの落ち度です。GENと紗江子の関係をもっとちゃんと捜査していたら、紗江子の憎悪を見ぬけていたかもしれない。紗江子は、死体検案書の中に、聞き慣れないメスカリンという成分が検出されていたことに気づきました。そして、調べて行くうちに、ペヨーテという植物に辿りつきました。紗江子には心あたりがあった。ファンの女の子が、ライブ前にGENになにか飲み物を渡していたのを目撃していた。紗江子はその子の顔をよく知っていた。数年前、忠光が、ある女の子をオーディションに受からせて欲しいと頼みに来た時に居た女の子だった。一年ほど前、紗江子が某芸能スクールに、人を探しに来たのを、スクールの関係者が憶えていました。紗江子は杉田莉子を探していた。GENが死んだ直接の原因は莉子が飲ませたペヨーテだったと、紗江子は思い込んでしまったのでしょう。紗江子が探偵に人探しを依頼していたこともこちらの調べで判明しています。紗江子はついに、杉田莉子の居場所を突き止めた。紗江子は莉子に真実を聞きだすために、連絡をとってきた。莉子はその時、父親からの性的虐待に耐えかねてすでに家を出ていた。これは莉子の義理の父親からすでに証言がとれています。莉子はもともと実家にはおらず、ずっとあなたのもとに身を寄せていた。糸井忠光からも、証言を得ています。忠光はちょうどそのころ、あなたから突然家を追い出された。同級生を突然亡くし、落ち込んでいた莉子を忠光は心配していたそうです。だのに、なぜか突然家を出てくれと言われ、忠光は途方に暮れていた。あなたは忠光を事件に巻き込みたくなかったのでしょう?ただ、結果的に、忠光は実の娘を守るために、後に自らが犯人だと言って出頭しました。
あなたも、莉子を守るために、逆に紗江子を脅すことを考えた。あなたはGENが莉子を誑かしていたことを知っていた。だから、本当は危険であるペヨーテを、ドラッグにも使えると莉子に教え、GENに飲ませるように仕向けたんだ。ペヨーテは摂取するとひどい吐き気をもよおすことも知っていた。あなたも殺すつもりはなかったのでしょう。GENを痛い目に遭わせたかっただけ。それが、様々な要因が重なってGENは死んでしまった。あなたは、あの夜、莉子の同級生である蟹江百合が殺されて、その後犯人がまだ捕まっていないことをずっと不思議に思っていた。あなたは、ピンときたはずだ。蟹江百合を殺したのは、実はGENじゃないかと。それならすべての辻褄が合う。あなたは莉子から、GENが、成瀬からドラッグを受け取る条件に、莉子が成瀬の生け贄になるはずだったという話を聞いた。
GENがなんらかのトラブルで蟹江百合を殺害したという推測に、信憑性が出てきた。いや、たとえ蟹江百合を殺していなくても、この話は、充分脅しに使えるとあなたは考えた。GENはすでにライブ中の感電死という衝撃的な死をもって、音楽界では伝説のギタリストになりつつあった。この噂も、紗江子がGENを死したカリスマにするために、自ら流していた。ネットの書き込み履歴を調べた結果、所属事務所のパソコンから書き込まれたコメントが多数あったことがわかっています。紗江子はきっとGENの死を無駄にしたくなかった。バンド<スサノオ>の存続を決めたのも、事務所を正式に立ちあげたのも、すべてGENを伝説にするためだった。あなたはそこにつけこもうと考えた。GENが、ドラッグのために女の子を生け贄にしようとした話を、もしネット上で流せば、GENの伝説は失墜してしまう。しかも、殺人事件の犯人だったとしたら尚更だ。あなたはそのネタを逆に紗江子に突きつけた。ペヨーテがGENの死因だという話よりも、GENが殺人事件の犯人だという話の方が、可能性は上ですからね。警察に告発しても、GENのほうが圧倒的に分が悪い。紗江子はあなたに呼び出され、あの夜ホテルに行った。だが、紗江子がホテルに行った時間は、あなたが指定した時間よりもずっと早かった。莉子が、忠光と紗江子を最初に指定した時間よりも早い時間にホテルに来るように連絡し直したからだ。莉子はあなたの計画が怖かった。莉子もGENの熱狂的なファンだったから、GENの伝説が失墜することをなんとしても避けたかった。莉子は、怪しまれないために、紗江子が持っていた忠光のギターを忠光に返すようにと、紗江子に指示した。同時に忠光にも、ギタ―を受け取ったらホテルを出るようにと連絡していた。莉子は忠光のギターのことをあなたから聞いていたそうですね。『なぜ私じゃなく、見ず知らずのファンにギターを譲ったんだ』と。莉子は、あなたが紗江子と接触する前に、忠光に止めて欲しかったんです。莉子には相談する相手が忠光しかいなかった。しかし、その計画は直前になって、あなたにばれてしまった。あなたは、忠光がギターを持ってホテルを出るのを確認して、すぐに紗江子の部屋に行った。莉子も一緒に連れて行ったのは、莉子が忠光に助けを求めないようにするため。すべて、今入院している莉子が自供してくれました。あなたは、GENの殺人と、ペヨーテのことを交換条件にした。でも、紗江子はGENが殺人を犯すわけはないと食い下がった。あなたにとって、一番の誤算だった。紗江子に、GENが殺人を犯した話をすれば、紗江子が黙ると思っていた。なのに紗江子は、GENが殺人などするはずがないと信じていた。そして、ペヨーテでGENを殺したのは莉子だと詰め寄ってきた。紗江子の手にはサバイバルナイフが握られていた。見つかった凶器の入手経路がどうしてもわからなかったんですが、都内の防犯専門店を虱潰しに調べた結果、意外な事実が分かった。あるショップの防犯カメラに、御厨紗江子がナイフを購入している映像が録画されていました。もともと、殺人を考えていたのは紗江子の方だった。これは、捜査機密だったから、嵩くんにも言ってなかったことだが、実は、あの夜、ホテルのベッドに、御厨紗江子とは別人の血痕が残されていました。その血痕は、莉子のものでも忠光のものでもなかった。これが、捜査班が最後まで二人を容疑者から外していた一番の理由でした。
紗江子殺しの犯人は別にもう1人いると。あなたは、紗江子から莉子を守ろうとして、何処かに傷を負った。探せばまだ傷跡が残っているはずだ。これも莉子自身が話してくれました。揉み合っているうちに、ナイフはあなたではなく、紗江子の胸に突き刺さった。殺傷能力の高いナイフです。ほぼ即死に近い状態だった。これが、あの夜の真実です。良子さん。娘さんは今苦しんでいます。私たちと一緒に出頭してもらえないでしょうか?血液を調べれば、あの夜あなたがホテルに居たことははっきりします。これが動かぬ証拠となります」
「莉子は自分が犯人だって言っているのでしょう?だったらもうそれでいいじゃない!」
良子は、人差し指の爪をギリギリと噛みながら、苛立ちを隠せない。
「いいかげんにしろよ。あんた莉子の母さんなんだろ?莉子は、ボクなんかよりもずっと孤独で、誰からも相手にされず、唯一の心の支えだったGENを、知らなかったとはいえ、自ら殺してしまったかもしれないという思いで、莉心が潰されそうになっていたんだ。そしてGENにも裏切られた。その上あんたにまで捨てられたら、もう莉子には味方がいないだろ。あんたあの日、莉子を守ったんだろ?紗江子から莉子を守って、それでケガをして、莉子を守るために紗江子を殺してしまったんだろ?」
嵩が堪え切れなくなって叫んだ。
「私は幸せになりたかっただけよ。君のお父さんを奪ったのも、莉子を芸能界で成功させたかったのも、ぜんぶ自分の幸せのため。莉子なんか、邪魔でしかなかったわ」
「じゃあなんで、紗江子が死んだあとすぐに莉子を警察に行かせなかったんだよ。成瀬の事件も、狂言誘拐も、すべては莉子を事件から遠ざけるために、事件を複雑にさせるために、あんたが仕組んだことだろ。あんたは莉子を守っていたんだ」
「事件を撹乱させたのは、君が忌々しかっただけ!事あるごとに、忠光は、君の才能をこのままにしておくのは惜しい。父親として、才能を開花させてやらなければいけないと、私に懇願した。だから、君に試練を与えてやっただけよ。莉子をあなたに近づかせたのも、オーディションに出場させるために、狂言誘拐を企てたのも、君が苦しむ姿を見たかっただけ。それなのに、君は悉く試練を乗り越えていった。正直、悔しかった。結果、君の才能を認めざるを得ないところまで来てしまった。莉子と君となにが違うというの?莉子だって、同じくらい、いいえ、君なんかよりももっと努力していたはずよ。莉子は…莉子だって、仕合わせになる権利はあるはずなのに」
「それが、あんたの本音なんだろ?やっぱりあんたは、実の娘を護って、娘の仕合わせを願っていたんだ。ボクはどうだっていい。莉子を助けてやってくれよ。そうじゃないと、本当に莉子は、闇に堕ちてしまう!」
「もうやめて!私はこのまま死ぬの!罪なんか償えない。死ぬしかないのよ!莉子はちゃんと助けるから。全部のことを告白した遺書はもう書いて残してあるわ。私をこのままにしておいて!お願い!お願いします…お願い…う、ううぅ…」
良子の、慟哭に混じった叫び声が、晩夏の夕闇せまる畑に響いた。そのあとすぐ、ひぐらしの鳴き声が、遠くから聴こえてきた。カナカナカナと哀しい鳴き声だった。
杉田良子の心は、とっくに折れていた。戸倉と嵩がここに来るまでにすでにもう良子の心は決まっていた。
良子が言った通り、良子が住み込みで働いていた旅館の部屋から、莉子に宛てた遺書と全てを告白した手紙が、良子が連行されてすぐに発見された。
手紙には、良子の娘への想いが綴られていた。
‐莉子、こんなママでごめんなさい。私は愛した男を不幸にさせてばかり、そして娘であるあなたも幸せにはさせてあげられない。せめて、あなたを誑かした男を殺そうと思ったけど、結果的に、あなたをもっと苦しめさせることになった。本当にごめんなさい。私は駄目な母親です。母親失格です。ぜんぶ私が悪いの。あなたはなにも悪くない。私は臆病だから、最後の最後で逃げてしまった。でも安心してください。私はすべてを白状して、命でもって償います。この手紙が発見されれば、あなたは殺人者にならなくて済みます。あなたには、忠光がいます。あの人は、あなたのことをちゃんと愛してくれているわ。私が居なくなっても、あなたは一人ぼっちではないからね。私も莉子を愛しているからね‐
そのあとに、良子の犯行の一部始終が書かれていた。ほとんど、戸倉が推理した通りの犯行内容だった。これまでのことも忠光を使うことによって、事件を複雑にさせていた。莉子が嵩と再会した日、嵩が吐き気をもよおし、意識が朦朧となったのも、ペヨーテによるものだった。
結局、GENの死亡原因は、ペヨーテによるものだと断定は出来ず、立件は見送られた。
そして、GENの使っていたフェンダージャガーに付着していた指の皮膚片と、蟹江百合の体内から検出された精液とのDNAが一致した。ただし、取り調べの中で、蟹江百合を直接絞殺したのは自分だと、成瀬が自供した。成瀬は、もともと医大生だった。医療の知識があった。薬の取引き現場を目撃された成瀬は咄嗟に、蟹江百合を絞殺した。すぐに蟹江百合の死体を非常口に隠した。そのあと、殺人現場に立ち会ってパニック状態になったGENに、必要以上の薬と酒を飲ませ、完全にトリップした状態にさせ、手淫で精液を漏出させた。その精液を、すでにこと切れた蟹江百合の膣内に注入させたのだ。GENの犯行に見せかけるための行動だったが、その後、GENが死んでしまったので、悪魔の所業も闇に葬られた。その時、成瀬は屍姦に目覚めたのだと、ケタケタ笑いながら、成瀬は取調室で嬉々として答えた。成瀬は、蟹江百合殺人の容疑でも再逮捕された。成瀬こそが、死神の正体だった。
以前、戸倉が感じた刑事の勘は間違ってはいなかったのだ。
GENは、ようやく、地獄の底で、安らかに眠る許しを得ただろう。天国にはいけないかもしれないが、もう腐った手を天に仰がなくてもいい。
GENが非道な殺人者ではなかったと、杉田莉子の耳にも伝えられた。同時に、母が自首したことも。
莉子は、嵩を刺した傷害容疑で立件されたが、執行猶予つきの保護観察処分となった。ただ、心に負った傷を癒すのには、もうしばらく時間が必要だろう。莉子は、父のもとには戻らず、施設に入ることになった。
「杉田良子はぜんぶ自供しました。ホテルのベッドに残った紗江子以外の血液も良子の血液と一致しました。大筋で、戸倉さんの推理は当たっていました。やっぱり戸倉さんがいなけりゃ駄目ですね」
野宮が言う。
「バカ、ぜったいにおまえは俺の真似はするなよ。出世したけりゃな。まだ子どもだって小さいんだし、田舎の駐在所へ飛ばされるのは嫌だろ」
そう言う戸倉は、事件が解決したおかげで、謹慎処分だけで済んだ。
「毎日荒んだ事件ばかりですし、田舎でのんびり村の平和を守るっていうのもいいかもしれませんね」
「若い刑事がなに甘い事言ってんだよ。おまえはまだこれからだ」
「すいません」
いつもの、先輩後輩のやり取りが戻った。
糸井忠光は不起訴処分で釈放された。忠光は釈放されてすぐ、莉子のいる施設に向かった。
事件は、2012年の夏の終わりと共に、終結した。
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