第10話 親子

なにができるってんだ 謝ればいいのか

なにを言えばいいんだ みんなゲイだ!って言うか

なにが書けるってんだ 俺に権利なんか存在しない

なにができるってんだ 「生まれて、すいません」って言えばいいのか


太陽の中で 一つになって

太陽の中で 俺は結婚して 墓に入る


俺がおまえなら良かった なんでも楽しそうだな

俺のヘロイン塩の巣を探し当て

ぜんぶ俺が悪くて 俺がぜんぶの罪を被る

恥辱の泡にまみれて 凍傷に火傷 やつらの遺灰がノドにつまる


みんなみんなみんな すべてすべてすべて

みんなはだれでもない だれもがみんなではない

みんなすべてぜんぶなにものでもない

‐All Apologies‐


 蝉の声が、四方八方から響いていた。時々、無色透明な体液をまき散らしながら飛び立つ蝉は、「ジジジ」と控えめな声しか発さない。いったいどこからこの音の波は増幅し、夏の蒸し暑さと混ざり合って、辺り一帯を不快の空間に変えているのだろう?都会は自然が少ないぶん、小さな公園の木々に蝉達は犇めき合う。樹の根元には無数の、幼虫が土から這い出した穴が残されている。羽化したあとに残された抜け殻も、誰かがわざわざ収集したかと思うほど、かたまって、そこらにカラカラになって転がっていた。だのに、この不快な音の主の姿は、木々を見上げてもなかなか発見できない。

嵩は昔から蝉の鳴き声が大嫌いだった。蝉の鳴き声が「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」と聞えてしょうがなかった。長い土の中の生活から抜け出し、やっと空を飛べる日が来たと思ったら、たった数日で死んでしまう、そんな己の生涯を恨んで、蝉は世の中を呪いながら慟哭しているようだと嵩は感じていた。

本当なら、クーラーの効いたリビングで、二人の刑事と向き合いたかった。だが、あのオーディションの一件以来、母は、頑なに警察を拒否していたので、今は、アパートのすぐ近くにある、遊具がシーソーひとつと、ペンキの剥げた象らしきキャラクターの置物しかない、粗末な公園で、二人の刑事と錆びたベンチを挟んで座っていた。安いアパートに隣接するようにある公園は、都会のオアシスにはならず、どこか荒んだ雰囲気を漂わせていた。心なしか空もくすんで見える。蝉の発狂だけが、夏を強烈に脳内にぶつけてくる。

野宮が近くの自動販売機で、冷たいコーヒーふたつと、嵩には、見たこともない無名のメーカーのコーラを買ってきた。おそらく一番安いやつだろう。飲むと、化学的な不自然な甘さが口に広がった。

「このあたりは喫茶店とかゆっくり話せるところはないの?」

 額に汗をたっぷりかいた戸倉が、ネクタイを緩めながら訊いた。

「ええ、少し行ったところにラーメン屋が一軒ありますが、たぶん今は休憩時間だと思います」

 時間は午後二時を回ったころだ。正午を越えたといっても、纏わりつく夏の暑さはまったく変化がない。

「ここは駅通りからもずいぶん離れてますからね」

 コーヒーを一口飲み、生き返った気分の野宮が続ける。

「すいません。どうしても安い物件は駅から遠くなってしまうので」

 嵩は、別に謝らなくてもいい自分の家庭事情を、二人にワザと厭味に聞こえるように返した。変な空気が流れて、しばらく無言の時間が続いた。それを無理矢理打ち消すように、戸倉が「あーっ!」と親父特有の無意味な感嘆符を叫び、ハンカチで大袈裟に滴り落ちる汗を拭いて、本題に入った。

「今日は君に重要な報告があって来た。君も、私たちになにか協力してほしい事があると言ったね。こちらの話は長くなりそうだから、まず君の話を聞かせてほしい。こちらができる範囲の協力ならさせてもらおう。この間の償いもしなくてはならんしな。君を危険にさらして本当に申し訳なかった。すまん」

 そう言って、戸倉は深く頭を下げた。

「あの日のことはもういいんです。こうしてたいしたケガもなかったし、正直、オーディション自体は楽しかったんです。自分でも信じられないけど、久しぶりに生きている実感がしたし」

「そうか…。良かった…」

 戸倉は、嵩がまた心を閉ざしてしまったのではないかと、ここに来るまで本気で悩んでいた。もし症状が悪化したのなら、それは自分のせいだ。嵩の言葉で戸倉は救われた気持ちになった。

「協力して欲しいというのは、誘拐犯からかかってきたあのサンプラーで作られたメッセージをもう一度聴かせて欲しいんです。警察に録音された物があるでしょう?」

「ああ、数少ない証拠のひとつだからな、確かに録音されたテープは残っているが…。なにか不審な点でもあったのか?」

「ひとつだけ確かめたい事があって、それにはあのメッセージをもう一度聴かなくては確かめようがないんです」

「うん、それくらいのことなら大丈夫だろう。マスターテープでなくても、コピーでもいいのかな?」

「はい、聴くことができたらコピーで構いません。出来るなら、二度あったメッセージを、ふたつとも欲しいんですが」

「分かった、君が言うのならきっとなにか重要な発見なんだろう。すぐに手配させるようにする」

 戸倉がそう言うと、野宮はすでに本庁に電話を掛け、犯人からの要求を録音したテープのコピーを至急手配させるように話をつけていた。

「嵩くん、OKだ。すぐにコピーをとって、こちらに届けさせるように言ったから、一時間もすれば来ると思う」野宮が白い歯を見せてニカッと笑顔で言った。

 思っていたよりもすんなり話を受け入れてくれて、嵩は安心した。


一時間後、三人は所轄警察署の会議室の一室を借りて、そこで本庁から届けられた犯人からのメッセージが録音されたコピーCDRをパソコンで聴いていた。

 本来なら本庁まで向かうのが通常の捜査手順であるが、まだ未成年であり、しかも事件の重要参考人の息子を、簡単に捜査に参加させるわけにはいかない。

 それでなくても、つい先日、一般人である嵩を危険な目に遭わせてしまったのだ。ベテラン刑事の戸倉も、責任をとって捜査班から外されるところだった。それを、部下の野宮が、なんとか捜査部長を説得し、始末書で済んだのだった。

 嵩が、なにかを確実に掴んだことは、嵩の言葉と目を見れば、戸倉も野宮も、それがどれだけ本気なのかはすぐに分かった。ほんの数週間前、初めて嵩の自宅のドアを叩いた日、あの時の少年の目は完全に死んでいた。怯える目で、社会性をなんとか取り繕っている姿が、痛々しくも思えた。だが、今の少年の目は、最初に接見した時の目とはまったく違っていた。瞳の奥に深い孤独と哀しみを感じるが、すべてを諦めた目では決してない。前に進むための「覚悟」が、嵩の瞳に宿っていた。かつて天才子役と言われた所以(ゆえん)も、なんとなくだが、理解できる気がした。彼には人を惹き付ける魅力がある。そう戸倉は思っていた。同じく部下の野宮も嵩の持つ不思議な力に魅了されつつあった。あのオーディションの日に聴いた嵩のギターと演技は、素人の野宮でも、一瞬警護を忘れそうになったくらい惹き込まれたのは、紛れもない事実だった。


 嵩は二人の刑事が自分をどう思っているのかなどまったく知るよしもなく、今は自分が掴んだある答えを確かめるために、パソコンのスピーカーから流れる犯人のメッセージに集中していた。

 ボールペンとメモ帳を借りて、メッセージの再生と一時停止を繰り返しながら、なにかの文字を書き記していった。

 二人の刑事も嵩の手の動きを食い入るように見つめた。


「そんな…。まさかメッセージに暗号が隠されてるなんて言うんじゃないだろうね?」

 野宮がうすら笑いを浮かべながら言った。

「いや、そのまさかが案外当たってるのかもしれんな…」

 戸倉は嵩の書き記していくメモを見ながら、至って真剣な眼差しのままだ。

 十五分ほどで書き出し作業は終わった。


 嵩の書き出したメモには〈 ヲ サ レ ハ ンニン ハナイ ハ ラ コ デ ハ シ シ ドウ フ ロ CDR シタ コ エ ナイ ニ 〉と書かれてあった。

「ヲ…サレハンニン?まったく意味が通じない文面ですね」

「ちょっと黙ってろ!」

「すいません…」

 戸倉に一喝されて、野宮は少し後ろに下がった。

「嵩くん。これはどうやら君だけにしか解からない暗号のようだね」

 戸倉が言うと、嵩は立ち上がり、自分のズボンのポケットから、かなり古そうなカセットテープを出して戸倉に見せた。

「これは?」戸倉が訊く。

「このカセットテープは、父が昔いたバンドのライブの音源が録音された物です。まだデビューする前に録音されたテープだと、母から聞かされていました。このテープに収録されている音源が犯人のメッセージに使われた言葉の中に存在している事に気づいたんです。父は、このバンドがメジャーデビューする前に、バンドを脱退しました。このテープはのちにダビングされた物ですが、うちの父はきっとマスターテープを持っているはずです」

「そうか…。警察でもメッセージに使われたと思われる音源を調べていたんだが、大半が一般には出回っていない音源ばかりだったから、なかなか元を特定できなかった。これでこのメッセージを作ったのが糸井忠光だと特定されたな」

「ちょっと待ってください。もう一つだけ確かめたいことがあります」

「やはりなにかその言葉は暗号になっているのかい?」

「いや、暗号っていうほど複雑な物ではないと思うのですが、ここでこのテープを聴くことってできますか?」

「カセットテープか。今時ラジカセなんて置いてあるかな?」

「戸倉さん、確か交通安全教室に使われる安全くん体操を流すためのラジカセがまだあると思います」

 後ろに下がっていた野宮が言った。野宮は本庁の刑事課に配属される前は、この所轄署で勤務していた。それで今日も上には内緒で会議室を借りることができたのだ。

「安全くん体操?そんなのがあるのか?まぁいい。とにかくラジカセを調達してきてくれ」

「了解です!」

 戸倉に指示され、野宮は走って会議室を出て行き、ほどなくして、ずいぶん使い古された小さなラジカセを持って帰ってきた。

 嵩はさっそくテープをラジカセに入れ、再生ボタンを押した。

アナログ録音された物をさらにダビングしたせいで、ノイズがひどい。それでも、演奏している音は疾走感があり、不思議と古臭さはなかった。今でも充分通用する楽曲ばかりだった。ギターを弾いているのはおそらく糸井忠光だろう。二人の刑事は、先日のオーディションでの嵩のギタープレイと、この音源のギターの音を自然と重ね合わせた。素人の耳にも、やはりどこか通じるものを感じたのだ。

 嵩はそれとは関係なく、音源に集中した。さっき、CDRで停止と再生を繰り返しながら文字を書き出したのと同じ作業を、再び開始した。今度は、アナログテープでの作業であったので、さっきよりもずいぶん手古摺った。巻き戻しボタンを押してはまた再生の繰り返しで、あっと言う間に三十分以上が過ぎた。

「できました…」

 嵩はやっと完成した新しいメモを戸倉に見せた。


〈 ヲレハハンニンデハナイ サエココロシハシラナイ シーディーアール フドウシタニ 〉


「なんだこれは?」

「完全なメッセージになってる…」

 二人の刑事は一様に驚いた表情を浮かべた。

「父が残した音源はこのテープただひとつです。それを、収録されている曲の順番通りに、使われた言葉を並び変えました」

「それでこのメッセージが浮かび上がったというわけか。で、この最後の(CDRはフドウシタニ)とは?」

「これには心当たりがあります。たぶん、自分が子役時代によくオーディションに受かるための願かけに行った、昔住んでいた家の近くにあったお不動さんの祀ってある神社のことだと」

「お父さんは君にだけ解かるメッセージを送っていたのか」

「なにかが入ったCDRがその神社に隠してあるって事ですかね?」

「そうらしい。さっそくそこに向かおう」

 戸倉はそう言うと同時に、もう会議室の出口にむかって歩きだしていた。

 野宮の運転する車で、三人は神社へと急いだ。

「あの刑事さん」後部座席に座っていた嵩がふいに口を開いた。

「なんだい?」助手席の戸倉が前を向いたまま答えた。

「さっき、父からの暗号を読んだ時、いや、その前に犯行声明を父が作ったものだと分かった時もですが、なぜ父が犯人だと言わなかったんですか?普通なら俺は犯人じゃないなんて書いてあったら驚きそうなものですが」

「さすがに鋭いね。嵩くん。じつはこちらの報告と言うのは、君のお父さんは、誘拐と殺人の容疑者からは外されたと知らしたかったんだよ」

「外された?」

「ああ。なぜ、杉田莉子の誘拐事件がここまで長期化しているのに公開捜査に踏み切らないのか、それは、今回の誘拐事件は杉田莉子の狂言の可能性が高いと、警察はそう判断した」

「狂言!」

「そうだ。詳しくは教えられないが、都内某所の防犯カメラに杉田莉子が単独で映っていたんだ。一か所ではなく、数か所の防犯カメラに。もちろん誘拐後にね。それに、御厨紗江子殺人の犯人は、もともと君のお父さんではないと警察では考えている。重要参考人には違いないが」

「じゃあ、父は無実なんですね」

「それはまだ事件が解決していないからなんとも言えないが、少なくとも、なにか理由があって、君のお父さんは事件に巻き込まれているとの見解だ」

「そうですか…」

「どっちにしても、君のお父さんと、杉田莉子の確保を急がなくてはいけないことに変わりはない」

「協力できることならボクは協力します」

「そう言ってもらって嬉しいよ。君には借りがあるからね」

「ボクはただ、早く事件が終わって、疲労しきっている母を安心させたいだけです。ボク自身も…」

「そうだね。こちらもできるだけのことはするつもりだ。野宮、もっとスピードあげろ!」

戸倉が言うと、野宮はパトランプに切り替え、猛スピードで目的地へと車をはしらせた。


 2


‐これは、結局のところ自分が招いてしまった不幸だ。責任はすべて自分にある。だが、どうやって償えばいいのだろうか?嵩と妻の信子はその後どうなったのか?あいつらに迷惑をかけないために、自分は悪魔と契約した。あの時は最善の選択だと思った。否、選択肢はひとつしかなかったのだ。それなのに、結局、家族を事件に巻き込む結果になった。謝っても許してはくれんだろう、それは仕方がない。やはり俺が悪かったのだ。自分の捨てきれない夢と、あの腐った業界への復讐などを考えたばかりに、とりかえしのつかない事をしてしまった。嵩と信子だけではない。あの娘を、同じ闇に引きずり込んだのも、自分の責任だ。どうすればいい?もうすべてぶちまけて終わりにしようか?でも、その行動は、嵩と信子を一生苦しめることにならないだろうか?誰にも相談できない。俺はどうしたらトンネルを抜けられるんだ。いっそ、遺書を書いて自ら死を選ぶか?一番楽な方法かもしれんな。だが残された家族はどうなる?くそ!なんで俺は逃げているんだ!‐

糸井忠光は、まだ暗闇の中を独りもがき苦しんでいた。すでに疲れきって、冷静な判断ができなくなっていた。最後の力を振り絞って作った暗号メッセージも、嵩が気づいてくれたのか分からない。警察は、どうして自分を指名手配しないのか?そこも疑問だった。その後の莉子の行方は忠光も知らなかった。

‐今、どこでなにをしているのだろうか?あの娘は、自分が誘拐されているという状況を理解していないのか?思えば、初めてあの娘に会った時から、あの娘がなにを考えて行動しているのか想像もつかない…‐

忠光は、莉子の無邪気な笑顔を思うほど、不気味に蠢く莉子の闇の深さを感じ、戦慄を覚えた。

ふと、昔、息子の嵩によく話してやったカートコバーンの、妻の事を思い出した。名をコートニーラヴと言った。カートは、コートニーを愛していたが、自殺する寸前には、コートニーとは離婚しようと考えていた。ショットガンで自らの頭を吹き飛ばして死んだカートコバーンだったが、不穏な噂も当時は流れていた。妻のコートニーが、知人と共謀して、カートを暗殺したのだという噂だった。結局その話は、噂の域を超すことはなく、カートは警察の見解通り、自殺で片づいたが、今でも、暗殺説を信じているファンがまだいるらしい。そんな話が、突然、忠光の脳裏に去来した。何故だかは、忠光本人にもよく解からない。ただ、なんとなく、あの莉子という少女が、コートニーラヴにどことなく似ているようなそんな気がしたのだ。そして同時に、不吉な気持ちも胸に膨れあがってきた。

‐嵩は本当に大丈夫なのだろうか?莉子は、嵩と接見したのだと、あとになって聞かされた。その時、全身に鳥肌がたった。俺は、子どもを守らなくてはいけない。俺がどうなってもかまわない‐

忠光は、嵩が暗号を解読した事を知らない。

忠光は、もう逃げないでおこうと思った。これで終わりにしようと。長い逃亡生活は、忠光のすべてをすでに回復不能なくらい疲弊させていた。忠光は、よろよろと立ち上がり、光の射す扉の方へと、おぼつかない足取りで、少しずつ歩いて行った。




 ‐そう…。これで良かったのよ。もうすぐそっちに行くね。どんな終わり方でもいいの。ちゃんと準備は済ませておいたから、私が育てたあの子たちも、たぶん大丈夫と思うわ。夢を叶えさせてあげられなくてごめんね…。そこが天国じゃなくて、地獄だとしても、私はずっとあなたの側にいるからね…。どんな苦しみも、あなたとなら耐えられる。さよならは言わなくて正解だった…。ああ、私は仕合わせよ…でも、ひとつだけ…この子に教えてあげなくちゃ…ああダメだ…もう言葉も出ない、か…。可哀想な子…。真実は…。私が…連れて…い、く、ね‐

 御厨紗江子の意識はそこでプツリと途絶えた。今までに味わったことのない幸福感に包まれながら、彼女は逝った。後悔は微塵もなかった。



 ‐どうしてみんな私を理解しようとしてくれないの?私はただ、嫌われたくないだけ。いくら私が努力しても、みんな私の前から居なくなってしまう。いつもそう。私は好きな人のためなら、どんな苦痛も厭わない。尽くした先に見返りなんか求めていない。側にいてくれるだけでいい。それさえ、見返りの一部だとみんなは考えているのかな?もしそうなら、もう私がこの世に存在している意味なんてどこにもないかもしれない。なんでこんなに哀しいの?みんな居なくなっちゃう。もう独りになるのは厭だ。例えば、私が好きな人を殺したとしたら、その人は一生私の心の中で、生き続けてくれるのかな?でも、好きだった人は、もうこの世にはいない。殺したくても、それすら叶わない。共有できる思い出なんて、ほんの少ししか持っていないのに…。決して良い思い出じゃない。吐き気がするほどの悪意に満ちた思い出。彼は最期まで、私を好きじゃなかった。私は、ただの便利屋の一人だった。彼の巣にエサを持ち帰るだけの、働きアリだった。それがどれだけ、醜悪で最低な行為だったか、私はずっと後になってからやっと理解できた。なにも見えていなかった。今だって、なにも見えていないことに変わりはない。どんなに謝りたくても、もうその娘はいない。だから、私は、一生許されない人間として、生きていくしかない。こんな重すぎる思い出さえも、彼との大切な思い出のひとつなのだから、本当に自分自身が、死にたいくらい嫌になる。死にたいんじゃない、殺してやりたい。自分で自分を殺したい。まったく同じ方法で、絶望の結晶を舐めるように、血の涙を流して、早く死んでしまいたいと思うくらいの、ゆっくりと心臓に沈み込んでいく鮮明な痛みを感じながら、失神も許されず、何度も何度も自分を殺してやりたい。死ぬのは怖くない。縊死は頸動脈だけを圧迫させた場合なら、それほど苦痛を感じないで死ねると、自殺サイトで読んだ。本当かどうか一度だけ試した。試したと言っても、本気で決行したのだ。ドアノブにタオルを巻いて、枕を顔の下に挟んで、頸動脈だけを圧迫させてみた。頭がだんだんクラクラしてきて、あ、あ、このまま意識を失えば、簡単に死ねてしまうなぁと思った。苦しくはなかった。痛みもなかった。あと少し、もう数分もあれば、私は一番卑怯な、私の最期を迎えることができただろう。助けて欲しくなかった。地獄に堕ちて、終わりのない苦痛の世界に身を捧げたかった。なんで、こんな時にかぎって戻ってくるの?やっと孤独に慣れたのに。これじゃあまた、寂しさに怯えながら暮らさなくちゃいけない。なにも失いたくないって、そう考えるのは人間だから当たり前だと思う。だけど、私にはすでに人間として生きる資格はない。救済されても、きっと「蜘蛛の糸」の罪人みたいに、私はグチャグチャに湿って、悪臭を放ちながらも、中心の核には、真っ赤な溶岩が煮えたぎり続けている欲望を消せないまま、完全な悪人として生きていくだけ。救済は絶対に無い。哀れんだ目で私を見ないで!釈迦の慈悲なんて、私からすれば、ステージ上で、自分はさも孤独だと甘えた感傷に浸っていたあの甘えんぼうの坊やと同じ。毒にも薬にもならない。私は、生かされた以上は、茨の道をまっすぐに進めばいい。それが唯一の、死者への弔いになるのなら。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい…‐


 嵩と二人の刑事は、暗号にあったと思われる、不動尊像の祀られた神社に着いた。練馬区のほぼ中心に位置する場所に、その神社はあった。住宅街に、ぽつんと小さく、お世辞にも立派とはいえない石鳥居をくぐると、僅か十メートルにも満たない石畳が続き、すぐその先に、狛犬に挟まれて、本殿が建っていた。境内の清掃は行き届いており、小さいながらも、近隣の住民たちから愛されている神社であると窺い知れた。

 嵩は、神社のすぐ近くにある小学校に通っていた頃、よく、仕事に行く前にこの神社にお参りした。

「芸能の神様ってわけじゃないが、お不動さんは、人にとって悪である煩悩を消しさる偉い神さまなんだよ。芸能の才能はもう充分あるから、ここで、自分の邪念を消してから仕事に行きなさい」

 神社に着いて、父から昔聞かされた言葉が甦ってきた。


‐邪念…。よく言えたもんだ。煩悩も邪念もみんなあんたが背負い込んでたじゃないか‐


「おい、嵩くん、なにぼんやりしてるんだ。ここで間違いないのか?」

 境内で立ち尽くした嵩を、戸倉が我に還す。

「ああ、すいません。ちょっと昔を思い出して」

「じゃあここで合ってるんだね?」もう一度戸倉が訊いた。

「はい、ここです。お不動さんと聞いて、ぼくが知ってる神社はここだけです」

「〈フドウシタ〉ってもしかして〈府道下〉って意味じゃないの?」

 野宮がやや意地悪げに横やりをいれた。

「バカ!府って、京都か大阪にでも行けっていうのか!」

「すいません。冗談です」

「冗談言ってる暇はないんだ!」

「いや、なんか嵩くんが思いつめてるような気がしたんで、少し空気を和らげようと思って」

 野宮がそう言って、嵩はぎくりとした。

「思いつめてなんかいませんよ」即座に嵩が返した。

 その嵩の言葉に、少しだけ動揺があると、戸倉も気づいた。だが今は嵩の心を覗いている場合ではない。事件の真相に近づきつつあることは、この少年も感じているはずだ。不安が付き纏うのは仕方がない。戸倉は、嵩の動揺をわざと受け流し、本殿の周りの捜索に移った。後輩の野宮も、戸倉の行動を察し、真面目な顔にもどって、本殿横の別の社へと走った。そして数分後。


「ありました!」


 本殿の真裏に廻っていた野宮が叫んだ。二人も野宮のいる場所に駆け付けた。野宮の手には、プラスチックケースに入れられたCD‐Rが握られていた。ディスクのレーベル面には、油性マジックで「嵩」の一文字が書かれてあった。それと…。


 3


「これからオレたちどうなっちゃうんだろうなぁ?」

 頭を金髪に染めた青年が、本革のブーツに編み込まれた鉛のリベットを、会議用の長机の支柱にガチガチとぶつけながら言った。

「そんなの分からねぇよ。新しいマネージャーも、事務所の人も、なにも言ってくれないし。紗江子さんの時もショックだったけど、まさかリクさんまでこんなことになるなんてよ。まだ信じられねぇ」

 長髪の、毛先だけブルーに染めた青年が答えた。メンソールタバコに火を点けようとして、そこが禁煙室だと思いだし、また仕舞い直した。

 金髪の青年は、バンド〈スサノオ〉のドラム担当、ユキト。

 長髪の青年は、同じく〈スサノオ〉のヴォーカル、シオンだ。

「あのリクさんが、あんな趣味があったなんてな」

「ああ、オレは事件のことよりも、そっちのほうがショックでかい」

「シオンも気づかなったのか?」

「ぜんぜん。だいたいリクさんて、オレより年上だし、普段もほとんど会わなかったからなぁ。あんまりしゃべらないし。もっとクールなイメージだった」

「やっぱりそう思う?オレも同じだ」ユキトが身を乗り出して言った。

 二人は、今後の活動計画の通達があるからと、新しい事務所から呼び出され、オフィスビルの、だだっ広い会議室に、二人だけで待たされていた。新しくマネージャーになるはずだった前の事務所の専務、小池は、リクの事件以来体調を崩し、別のマネージャーが付くことになっていた。その話も、まだ確定したわけではなく、残された二人は、宙ぶらりのまま、予定されていたライブもすべて中止になった。通達というのは、本当は解雇通達なのかもしれないと、二人とも不安に思っていた。その時だった。

 ノックもなしに、突然会議室のドアが開き、密談気味にこそこそ話をしていた二人は、跳び上がりそうになった。

 一目で高級と分かる細めのスーツに、ノーネクタイの、四十代半ばほどの男が、これも高級そうな艶やかで先の尖った革靴をツカツカと音をさせながら、二人のところまで歩いてくるなり話しだした。

「初めまして、君たちが〈スサノオ〉のメンバーか。私は、シャインレコーズの代表取締役の角野だ。よろしく」

そう言って、右手を差し出した。シオンは一瞬躊躇ったが、それが握手だと気づき、慌てて自分も右手をだした。角野は、シオンとユキトがなにも言葉を返せないのを気にする様子もなく、話を続けた。

「君らはデビューしていきなりいろいろ仕出かすねぇ。まぁこちらとしては、ブリーチなどという怪しい個人事務所に君らを任せるよりも、直接契約したかったから、今回の騒動を同情はするが、正直なところ会社としては助かったよ。ヴォーカルさえいれば、バンドはなんとかなるからね。いや、ドラム君も居てもらってかまわないよ。噂じゃ君の人気もなかなかあるって聞いているし、ルックスも悪くない。ヴォーカル君は…。そうだな、その長髪はもう少し短くした方がいいな。ギターも弾いてるらしいね。でもギタリストはこっちが専属のギタリストを付けよう。契約打ち切りになったバンドでも、まだこの業界にしがみつきたいやつはいっぱいいてね。なかなかセンスのあるギタリストがフリーで何人か所属してるんだよ。所属している以上はタダ働きさせるわけにもいかないし、腕は確かだから心配しなくていいよ。完全に職業ミュージシャンだから、君たちの曲に口出ししてくることもないしね。そのかわり、ギャラは新人の君らよりも少し高いが、そこは先輩だと思って許してあげてよ。そうそう、レコーディングの件、録音終わってるやつ、あれ悪いんだが、ぜんぶ録りなおしになったから。やっぱり事件起こしたベーシストの音源を収録させるわけにはいかないじゃない?ベースだけ挿し換えって方法もあるけど、結局、音のバランスとかの問題で、一から録音したほうが安あがりなんだよね。一回君たちの音源聴かせてもらったけど、ベースはイマイチだったし、ちょうど良かったよ。セカンドアルバムはもっと大々的に売り出すから、期待してるよ。ああ、心配することはないよ。ベーシスト一人が居なくなったくらいで君らの人気は落ちたりしないから。むしろ腕のあるプレイヤーがついて、パワーアップすると思うよ。新生〈スサノオ〉だな。ああ、もし良かったら、この際バンド名も変えて一からやり直すって手もアリかな?ヴォーカルもドラムもルックス良いからきっと問題ないよ。この世界のことならなんでも知ってる私が言うんだから間違いないよ。ん?どうした?ああ、そりゃあ緊張もするよね。いきなり社長が登場しちゃあ。新しいマネージャーがなかなか見つからなくてね。君たちくらい期待の大きいバンドに、三流マネージャーをつけるわけにはいかないからね。プロデューサーも、一流をつけるからね。まぁ楽しみにしててよ。君らの才能は高く買ってるからね。そうだ。今夜はあいさつ代わりに銀座の店に連れて行ってあげよう。一流になるにはそういう店も知っておかなくてはいけないから。移籍祝いだ。ぱあっーとやろうじゃないか!」

 一方的に話す角野の放つ業界人オーラに、気圧されそうになった二人だったが、だんだん怒りに似た感情が湧きあがってきた。

「三流マネージャーって紗江子さんのことですか?それだったら撤回してください」

「リクさんのベースはイマイチなんかじゃない…」

「おいおいどうした?怖い顔して、まぁ君たちはまだ若いから分からないだろうけど、この世界もお金がなきゃやっていけないんだ。それでも君らの意見を尊重して、自由に曲作りはやらしてあげようと言っているんだ。精神論や仲良しごっこじゃすぐに潰されてしまうよ。君らが思ってるほどこの世界は甘くないよ」

「そんなことわかってる」ユキトが絞り出すように言った。

「なんにも分かってないよ。社長に向かってその口のきき方がすでに間違っている。私がわざわざ君たちに会いに来たことの重要さを理解してないよ。まぁしょせんパンク上がりは常識知らずなんだな。この間契約したバンドの子たちはしっかりしてたよ。確か全員、国立大学卒業の、バンドなんかしなくても充分就職先のある子たちだったね。ビジネスをよく勉強してたよ。君らも若気の至りなんか早く卒業して、ビジネスとしての音楽に目覚めな…」

 角野が言い終える前に、すでにシオンの手が出ていた。角野は頬を思い切り殴られ、そのまま体勢を崩して、床に這いつくばった。

「お、おまえら、自分がなにをしたのかわかってるのか!」

 角野は血の滲む唇を押さえながら、吐き捨てるように叫んだ。

「すいません。やっぱりオレたちの居る場所はここじゃないって気がしました。紗江子さんが、ブリーチに拘ってたのがわかりました。有名になりたいって思う気持ちもありますが、オレたちの目指す道ではないようです。失礼します」

 シオンはごく丁寧にあいさつし、会議室を後にした。ユキトもそのすぐ後ろに付いて行った。契約不成立は確実だった。

 二十階建ての真新しいオフィスビルを出ると、ビルとビルの間から乾いたビル風が、背中を押した。太陽は真上に登り、時間も正午すぎだったが、真夏の蒸し暑さではなく、爽やかな風だ。なんとなく、初秋を匂わせる風だった。

 二人とも、おそらくクビだろう。それでも晴れやかな気持ちだった。

「どうする?」ユキトが言った。

「どうって?」シオンが返す。

「社長殴ってただで済むと思うか?」

「別にいいんじゃないか。どうせあの会社にいたって長続きしないよ。良いように使われて、人気がなくなったら結局ポイだろ?」

「それもそうだな。オレたちはやりたい音楽をやるだけだしな」

「そうだよ。俺のギターとユキトのドラムで、とりあえずライブはできるだろ?契約も、ファーストアルバムの盤権契約しかしてないはずだから、このまま〈スサノオ〉として、新曲でならライブもできるだろ?」

「そのへんは、紗江子さんに感謝しなくちゃだな。オレたちだけだったら、変な契約結ばされて、バンド活動すら自由にできなかったと思う」

「リクさんの出てくるのを待つか」

「そのころにはオレたちもいい親父になってるな」

「音楽に年齢は関係ないさ」

「そうだな、シオン。よし、今夜あたり久しぶりに路上ライブでもするか?」

「懐かしいな。昔はよく駅前で歌ってたもんだ」

「あのころGENや紗江子さんに逢ったんだよね」

「GENは最初から無茶苦茶なやつだったけど、ギターだけはすごかったなぁ」

「うん。ギターは本物だった」ユキトが、縮れて段々になっている雲を見上げて言った。遠い夏を思い出すように目を細める。

「青春だったなぁ…」シオンも寂しげな表情になった。

「やめよう。なんかもうすぐ死地に向かう特攻隊みたいな気分になってきたよ」ユキトはわざと、無駄にその場でジャンプして、テンションを高めようとした。

「ああ、オレたちはまだこれからだ。紗江子さんへの恩返しは、メジャーデビューだけじゃない。良い音楽はどこでだってできる」

「そうだよ。二人で再出発だね」

「よろしくな。ユキト」

「こちらこそ」

「じゃあ新生〈スサノオ〉を祝して、昼間から一杯やるか」

「いいね。いつもの下北の店でいい?」

「ああ、金もないしな」

 二人は、高層ビルの立ち並ぶオフィス街を、縫うように走りぬけて行った。おそらく歳の近いであろうスーツ姿のサラリーマンたちと何人もすれ違った。すれ違うたびに、二人は自由を肌に感じ、またそれがどれほど贅沢なものかも実感した。決して若気の至りだけではない、己の行く道を覚悟したのだ。自分たちにしか歩めない人生を二人は獲得したのだった。それが、幸福なのか不幸なのか、未来がどうなろうと、もうその道しかないと心に決めた二人は、以前、GENやリクがいたころよりも、きっと成長しただろう。御厨紗江子の育て方は間違ってはいなかった。

 金ではなかったが、大切な物が残った。紗江子の短い人生もこの時、結実したのだった。



 4


「えっ、なんだって?糸井忠光が自首して来ただと!」

 静かな境内に、戸倉の怒声が響いた。いや、怒っているわけではない。あまりに唐突な知らせだったので、驚愕したのだ。それはすぐ側にいた嵩と野宮も同じだった。

 暗号にあったお不動さんが祀られている神社で、糸井忠光が隠したと思われるCD‐Rを発見した直後の電話だった。電話は警視庁本部からで、事件の重要参考人である糸井忠光が、自ら事件の犯人だと、本庁に自首してきたという内容だった。

「嵩くん。私たちはすぐに戻らなければならない。君を家まで送る時間はない。すまないがタクシーを手配するからそれで家まで帰ってくれないか」

「待ってください!父が自首したって本当ですか?それならボクも連れていってください!」

「すまん。君の気持ちも分かるが一緒に連れていくわけにはいかない。警察も、君のお父さんが犯人だとは考えていない。取り調べは私たちに任せてくれ。必ずあとで知らせるから、警察にも事情があるんだ」

 しばらく間を置いてから、長い溜め息をついて、

「…わかりました。父を頼みます…」嵩が言った。

 嵩はそう言ったが、心の中は納得してなかった。自分は犯人ではないとメッセージを、わざわざ暗号にしてまで嵩に送った本人が、今度は自ら犯人だと出頭した。父はいったいなにを考えているんだ。嵩の不信感は爆発寸前だった。早く真相を知りたかった。

 野宮がタクシーを手配してくれた。戸倉と野宮は急ぐからと、先に車を出発させ、その五分後、タクシーが神社に到着した。

 嵩はタクシーに乗り込むなり、運転手に「警視庁まで行ってください」と告げた。


 取り調べ室には、戸倉と野宮の他に記録係が一人、入口近くの机に座っている。机を挟んで、糸井忠光が座らされていた。かなりやつれて、無精ヒゲも生えているが、忠光本人で間違いなかった。

「あなたは、自ら犯人であると自首してきたらしいですが、それは、御厨紗江子を殺したということでいいんですね?」

戸倉がゆっくりとした口調で訊いた。

「はい。私が殺しました」

「ではどうやって彼女を殺したか説明できますか?」

「刺し…、包丁で刺し殺しました」

「犯行時刻が何時ごろか憶えてますか?」

「いえ…よく思い出せません」

「それはなぜ?」

「気が動転していたもので、我に返った時はもうホテルからだいぶ離れた所にいました」

「じゃあ彼女を殺した動機はなんですか?」

「え、え、あの…」

「なんですか?」

「金です。私が彼女に金を工面してくれとせまって、断られたので、カッとなって刺し殺しました」

「カッとなって?ではその包丁は最初から用意してなかったんですか?」

「いや、あの…。たまたま持っていたんです。ちょうど包丁が切れなくなったので、ホームセンターで買ったばかりで…」

「包丁を持ったまま、ホテルに行ったのですか?」

「はい。そうです。ホテルは彼女の方から誘われました」

「一旦包丁のことはおいておきましょう。御厨紗江子とあなたの関係はどういうものですか?」

「昔、彼女は、私がやっていたバンドのファンでした。所謂追っかけというやつでして、その時知り合いました」

「バンドというのは〈アマテラス〉のことですか?」

「はい、そうです。でもメジャーデビュー前に私はそのバンドを脱退しました。その後は彼女と会うこともなくなりました。それから数年後、息子を芸能スクールに通わせるようになって、偶然、オーディション会場で彼女と再会しました」

「あなたは、そのあと突然失踪したと関係者から聞いていますが」

「そのことについては言いたくありません」

「黙秘権と捉えていいですか?」

「はい、構いません」

「こちらの調べでは、あなたはある女性と不倫し、家族をおいて駆け落ちしたと分かっているのですが」

「そこまでお調べになっているなら反論はありません」

「では、被害者の御厨紗江子とはその後どういう経緯で接見することになったんでしょうか?」

「駆け落ちした相手に、私は捨てられました。ぜんぶ私の生活力の無さが原因です。で、金に困っていた私は、なるべく私を悪く思っていない人間に、金を借りるために近づきました。しかし、皆、私には金をかしてくれなかった。そして最後に行き着いたのが紗江子さんでした。紗江子さんは、金をかす代わりに、私の体を欲しがった。私は彼女の言うままに、ホテルに行った。だが、行為のあと、彼女はやっぱり金はかせないと言いだした。それで、カッとなって…。あとは、先ほど話した通りです」

「そうですか…」

 戸倉はなにかを思案するように、机の上で両手を重ね合わせ、しばらく沈黙した。向かい合った忠光も、不安な表情のまま固まった。先に口を開いたのは戸倉の方だった。

「忠光さん。あなたは誰かを庇っているのですか?」

「え?」

 戸倉に言われ、糸井忠光の表情が蒼ざめた。額からどっと汗が噴き出す。

「警察は、御厨紗江子が殺害された時刻、すでにあなたがホテルをあとにしていた事を確認しています。あなたは実行犯ではない。それに、紗江子さんは確かに刺殺され殺害されましたが、凶器は包丁ではありません。おそらくあなたは新聞かニュースで刺殺された事実を知ったのでしょう。ですが、記者発表では、鋭利な刃物による刺殺であるとしか公表していません。紗江子さんは、包丁ではなく、もっと殺傷能力の高いナイフで殺害されたと、鑑識の報告書にあがっています。あなたは明らかに嘘の供述をしている。あなたが、嘘をついてまで自首しようとしたメリットが解かりません。もし、可能性があるとすれば、あなたは誰かを庇っている、それ以外に考えられません。杉田莉子を、もちろんご存知ですね?杉田莉子は誘拐された。だが、その誘拐も、狂言であるとこちらは考えています。先日、街の防犯カメラに、杉田莉子本人が単独で映っていました。一カ所でなく、数か所で発見されています。近くにあなたの姿は映ってなかった。あなたは、なんらかの理由で、杉田莉子に利用されていた。そうじゃないですか?」

 戸倉の言葉に、忠光は全身の震えが止まらなくなった。絞り出すように、重い口を開いた。

「ち、違います!犯人は私です。私が御厨紗江子を殺し、杉田莉子を誘拐しました。防犯カメラに映っていたのはなにかの間違いです。きっと人違いです」

「では、杉田莉子は今どこにいるのですか?」

「そ、それは答えられません。いや、もう、殺害しました。バラバラにして廃棄したので、きっともう死体は見つからないと思います」

「出鱈目を言うな!忠光、おまえがいくら嘘を言っても誰も助かりはしないんだぞ!」

 今まで静かに話を聞いていた戸倉が、初めて声を荒げた。

「どうか、私を、私を逮捕してください!お願いします」

 忠光は、顔をくしゃくしゃにして、涙を流しながら懇願した。だが、戸倉の刑事魂が、嘘の供述をそのまま通すわけがなかった。一緒に取り調べを聞いていた野宮も同じだった。

「忠光さん。あなたになにがあったのかはわかりません。しかし、嘘の供述を鵜呑みにするわけにはいかない。それにあなたは、わざわざ暗号まで使って、息子さんに、自分は犯人ではないと送ったではありませんか」

「暗号?じゃあ、嵩が、暗号を解いたのですか?」

 忠光は、鼻水を手で拭い、目を見開いて言った。

「息子さんは、あなたのことを心配しています。私たちにも協力してもらっています。あのメッセージに隠された暗号も、息子さんにしか解けないものだった。あなたは、我が息子に、なにかを託したのではないのですか?だのになぜ、今さら自分が犯人だなどと、すぐに見破られる自白をするのですか?理由を話してください」

 忠光は、頭を垂れて机に額を擦りつけた。呼吸を整えるように、深く息を吸った。

「そうですか。嵩が、すでに暗号を解いていたのですか…。もう私の供述は無駄のようですね。わかりました。私の知っている真実をすべてお話します。その前に、嵩は、元気にやっているでしょうか?」

 ゆっくりと頭をあげ、目を真っ赤にしながら忠光が訊いた。

「ええ、嵩くんは立派にやっていますよ。彼は、本当の才能を開花させつつあります」

「そうですか。それは良かった…」

 忠光の表情に幾分か安堵が浮かんだ。微かに笑みもこぼれる。

忠光は、ぜんぶを吐きだした。これまで背負いこんでいた、一人の男の背中には重すぎる過去もすべて。

 それはすべて、最愛の家族を守るための、そのためだけの決死の逃避行だった事を忠光は洗い浚い告白した。


 糸井忠光は、逃亡の恐れはないと判断され、その日のうちに帰された。警視庁を出ると、辺りはすでに暗くなっていた。翌日も、もう一度調書を取る約束をしていた。今夜泊まる場所もない。一晩くらいは公園で朝を迎えても大丈夫だろうと、力のない足取りで、とぼとぼと、公園のある方向へと歩いていった。

 その忠光の姿を見つけて、駆け寄っていく人間がいた。戸倉は警視庁の入り口で、忠光の行く先を見つめていた。戸倉は人影に気づいた。忠光は俯き加減に歩いていたので、自分に駆け寄る人間の姿に気づいていなかった。

 戸倉が急いで忠光の元に走った。

「おいっ、やめるんだ!早まっちゃあいかん!」

 戸倉は忠光に近寄る陰に飛びついた。二人は揉みくちゃになりながら、地面に転がった。忠光は、自分になにが起こったのか咄嗟に理解できず、その場に尻もちをついた。

「嵩くん!お父さんはなにもやっちゃあいない」

 戸倉が叫んだ。戸倉が息子の名を言ったので、忠光は驚いて、すぐ立ち上がり、戸倉に羽交い絞めにされた人影の元に、這うような覚束ない足で近寄った。

「嵩!」

 背はすっかり自分と同じくらいに伸び、髪もぼさぼさだったが、自分の息子の姿は、一目見ただけで分かった。嵩は、必死の形相で、戸倉に両手を掴まれていた。手にはどこかで拾ったのか、テニスボールほどの石が握られていた。

「あんたを、あんたを父さんだとは思いたくない。あんたのせいで、ボクの人生は無茶苦茶になったんだ!あんたはどれだけ母さんとボクを苦しめたら気がすむんだ!」

 嵩の今まで溜めこんでいた物が一気に噴き出した瞬間だった。

 心からの叫びだった。

「ああ、ごめん。ごめんよ。嵩。父さんが悪かったんだ。ごめんよ…」

 忠光は地面に顔を磨り合わせ、慟哭した。

 戸倉は、こうなることを心のどこかで恐れていた。確かに、嵩は初めて逢った時から、見違えるほど成長していた。彼の才能も本物だろう。だが、ここ最近見せていた、どこか、あまりにも優等生な彼の態度に、若干の違和感を覚えていた。まるで彼が、我々警察に、優等生の演技をしているのではないかと、うっすらとだが、戸倉は考えていた。それで、忠光のあとを、しばらく尾行しようと付いて来たのだった。刑事の勘は悪い方にはよく当たる。間一髪のところで、なんとか嵩の強行を阻止できて、戸倉は心底ほっとした。騒ぎに感づいて、何人かの刑事が駆け付けたが、戸倉は「ただの親子ケンカだから大丈夫。あとは俺に任せてくれ」と、他の刑事を帰した。

「ちょっとだけ飯でも行きましょう。そこで話をしよう。嵩くん、君に伝えたいこともあるから」

 嵩は、まだ怒りが収まらず、鼻息が荒い。戸倉が嵩の肩を抱いて、強引に歩きだす。

「さぁお父さんも、近くに良い店があるんです。私が奢りますんで、さぁさぁ行きましょう」

 戸倉にそう言われ、忠光も仕方なく二人のあとについて行った。数年ぶりの親子の対面は、重く複雑な空気に包まれた。

 辺りはすでに日が落ちて、暗くて分からなかったが、遠くの空に雷鳴が轟き、次第に雨粒がアスファルトの地面を打つようになった。戸倉が言った店は、本庁からすぐのところにあった。三人は、全身が濡れてしまう前に、居酒屋「カラスの巣」に到着した。

「ここは、焼鳥が絶品なんだよ。嵩くんはジュースしか飲めないが、それでもここの焼鳥は美味いと思うぞ」

 そう言いながら、戸倉は糸井親子を店に案内した。店内は、ほぼ満席で、仕事終わりのサラリーマン達で賑わっていたが、ちょうど、テーブルがひとつ空いたところで、三人は、市松模様のかっぽう着の女性従業員に席へと通された。焼鳥の良い匂いが、店内いっぱいに充満していて、とても食欲など出ない糸井親子も、少しだけ空腹感を覚えた。

「さぁさぁ座って、すいませーん。ビール大瓶二本と、コーラ一本ください。あと、おまかせで焼鳥五本ずつお願いします」

 戸倉が慣れた口調で、店員に注文した。厨房から「あいよー!」

と威勢のいい声が返ってきた。

 嵩がやっと落ち着きを取り戻したのを見計らって、戸倉が、忠光の話したこれまでの事情を説明した。もちろん違反行為ではあったが、この親子の修復を考えると方法はこれしかなかった。嵩を危険な目に遭わせてしまった戸倉なりの贖罪でもあった。

 サラリーマン達の騒ぎ声は、いつまでも続いた。嵩のいる席だけが、通夜のように静まりかえっていた。

 嵩も、忠光も、同じように、涙を流して泣いた。長年の蟠りが、一夜の食事で修復できるはずはないと戸倉も考えていたが、せめて誤解はといてやりたかった。

 結局その日は、忠光は嵩の家に帰ることはなかった。戸倉が、近くのビジネスホテルを手配した。嵩はタクシーで自宅へと帰った。

雨は、朝まで降りやまず、この夏初めて熱帯夜ではなくなった。帰宅した嵩は、雨音を聞きながら、朝方まで眠れなかった。かと言って、音楽をする気にもなれず、ベッドの上でぼんやりと、戸を打つ雨の音に耳を傾けていた。外が白んでくる頃、知らない間に眠りに落ちていた。

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