第9話 オーディション

気にしないわ 自分の歳なんて


気にしないわ 気にする心を持ってないもの


あなたの家から遠くに逃げましょう


怖いの お化けが怖いの


と彼女は言った



―Breed ―



 再び二人の刑事、戸倉と野宮は嵩の自宅に上がり込んでいた。今回は二人だけではない、何人かの捜査官と、逆探知用の機材一式が、決して広くは無い嵩の自宅のリビングに設置されていた。

 犯人からの要求は、「嵩をあるオーディションに出場させて、優勝を勝ち取ること。出来レースは許されない。己の実力で優勝すること」もちろん、嵩も警察も、そんな馬鹿馬鹿しい要求を素直に受けいれるわけはない。犯人の目星はついていた。まず、嵩の存在を知っている人物。同時に誘拐されたと思われる杉田莉子のことも知っている人物。誘拐事件の犯人は、糸井嵩の父親、糸井忠光だと推測された。犯人から、所轄の警察署に掛けられてきた電話は、ボイスチェンジャーで声が変えられていた。ただ、ボイスチェンジャーで、声の音域を変えた場合でも、パソコンの音声解析ソフトを使えば、簡単に元の声は復元できる。警察も、すぐに声の解析は実行した。だが、ボイスチェンジャーで変えられた声は、サンプラーという、音を細かく録音し、それを再構築させて楽曲を作成する機材で作られていて、様々なCDから録音された音声を、細切れにして切り張りし録音された物だと判明した。これでは音声による犯人の特定は出来なかった。

 この音声を警察から聞かされた嵩は、少しだけ思い当たる節があった。このアタック感の強い音は、安物のサンプラーで録音されたものではない。音楽機材に詳しい嵩は、一度聞いただけで、この音声を作成したサンプラーの機種を言い当てた。

「これは、AKAIのMPCシリーズ、それも初期のころの、おそらくMPC3000あたりで作られた音声じゃないでしょうか?」 

警察も、音響研究所に依頼し、この音声を録音した機材を割り出していたので、その名がずばりAKAI・MPC3000だと合致していたため、改めて嵩の能力に驚かされた。

 ただし、当の本人は、それほどたいしたことではないと思っていた。宅録を長年している人間なら、この特徴的な音色の区別くらいはついて当たり前だ。それに、この機材にはある思い出があったから。MPC3000は、父が以前愛用していたサンプラーで、家を出て行く際に、持ちだされていた。嵩もサンプラーは所有していたが、これは父が後に買ってくれた同じAKAIのMPC2000XLというサンプラーで、こっちの方が波型編集も出来、容量も多く積めるので、父の持っていったMPC3000よりも使いやすいと感じていた。音の好みは、人それぞれなのだ。

 警察がうちに来たのも、このサンプラーに心当たりがないかを訊くためであるということは、嵩もすぐに気づいた。今さら隠してもしょうがない。嵩は正直に、父が、以前、このサンプラーを所有していた事実を刑事に伝えた。嵩自身も、この誘拐事件に父が関与しているのではと考えていたからだった。

「ボクは、こんなバカげた要求のためにオーディションを受ける気なんかありませんから」

 ここのところ何度か顔を合わせるうちに、嵩も、少しは刑事と対等に意見を言い合えるまでになっていた。

「ああ、警察としても、そんな要求を簡単に受けいれるわけにはいかないと考えている。ただ、杉田莉子の行方が分かっていないのも事実だ。犯人逮捕と、杉田莉子の無事が確認されるまでは、警察としても捜査を続けなくてはならない。そこは理解してほしい」

 戸倉がまっすぐ嵩の顔を見て言った。

「ボクは、こんなこと言いたくはないですが、うちの父が誘拐に関わっていると考えています。刑事さんもそう思っているんでしょ?」

「ああ、断言はできないが、君を名ざしで指名してきたことを考えると、やはり関係者以外には考えられない。杉田莉子と君のお父さんとの接点も気になるしな」

「じゃあ杉田莉子はどうなんですか?彼女が素直に誘拐されるとは思えない。そもそもこの誘拐自体、父と杉田莉子の狂言じゃないんですか?」嵩は、この誘拐事件そのものに疑問を抱いていた。

 警察も考えは同じだった。しかし、二人の行方が分からないうちは安易に狂言だと決めつけるわけにもいかない。仮に、本当に誘拐事件だとしたら、犯人の要求を聞かなくては、莉子の命にかかわる問題だ。とにかく、次の犯人の動きを待つしかなかった。

 それで、嵩の自宅にも電話が掛ってくる可能性があったので、こうして逆探知の準備もして、刑事たちは待機しているのだった。

 同様に杉田莉子の自宅にも刑事は待機していた。

 時間だけがいたずらに過ぎていった。最初の電話から、すでに三日が過ぎようとしていた。

 犯人が、要求してきたオーディションというのは、〈スサノオ〉の母体でもあるシャインレコーズが毎年、新人発掘のために行っているアーティスト募集オーディションだった。ただし、今年はいつもの年と毛色が違っていた。今年のオーディションの合格者は、アーティストデビューと同時に映画の主演にも選ばれるのだ。

 オーディション出場者の条件は、音楽もでき、演技もできる十代の男子。嵩も、出場資格の条件をすべて満たしていた。

「まるで君のためのオーディションだな」

 野宮が少しだけからかった口調で嵩に言った。

「やめてください。ボクが受かるはずがない。それに応募するつもりもありませんから」

「杉田莉子の命が掛っていてもか?」

 戸倉はごく真剣に問う。

「そ、それは…。警察がなんとかしてください。だいたいボクが事件に巻き込まれるのは筋違いです」

「そうですよ。うちの子がなんでこんなバカげた要求をのまなくてはいけないんですか!」

 今まで黙っていた嵩の母が口を挟んだ。

「お母さん。これはあなたの夫にも関係ある事件かも知れないんです。もちろん無理は承知の上で頼んでいます。警察が必ず息子さんの身辺警護はしますのでここはどうか協力お願いします」

「私と夫とはもうとっくの昔に終わってますから…」

 そう吐き捨てて、嵩の母は自室へと入ってしまった。

 嵩は、母の「終わっている」の言葉に、胸が締め付けられたような気持ちになった。

 

 2


 犯人からの新たな電話は、杉田莉子の家に掛ってきた。電話に出たのは莉子の父親だった。莉子の母は、莉子の言葉が本当であるなら、数年前、糸井忠光と駆け落ちして、その後行方不明になっていた。実際に、莉子の母が今も行方不明のままなのは事実だった。莉子は父親が一人で、母の分まで、愛情を込めて育てたのだ。決して安くはない芸能スクールのレッスン料も、安い給料からなんとか捻出して、莉子の夢のためならと、妻がいなくなったあとも通わせていた。結局、芸能スクールの方は、莉子が高校に進学したと同時に、莉子自らが、もう辞めると言って、あっさり諦めてしまった。

 ここ数日は、眠れない夜が続き、父親の体力は限界に達しようとしていた。受話器をにぎる手にすら力が入らない。思わず受話器を落としそうになって、側らにいた捜査員の一人に肩を支えられて、ようやく電話にでた。もしもしと言っても向こうはなにも答えない。すぐに、カチャッとなにかの機械が作動したような小さな音がして、奇妙な抑揚のある、やはり声が加工された音声が聞こえてきた。

「そちらがもたついているようなので、糸井嵩のエントリーはすでにこちらで済ませておいた。オーディションの募集要項では、書類審査はオリジナル曲のデモテープを同封のこと。もちろん嵩の曲の入ったCD‐Rも同封した。この書類審査が通らなければ莉子は死ぬことになる。繰り返し言うが、出来レースは許さない。無事一次選考を通過できるよう、せいぜい皆で祈っておくように…」

 この犯人からの新たな通話も、サンプラーで音声が切り張りされ録音された物だった。通話が短すぎて逆探知にも失敗した。

 すぐさま、電話の内容は、嵩の家に待機していた刑事達にも報告された。

「まったくふざけてますね。本当にエントリーされたんでしょうか?」

 昼食をとっていない野宮は、後輩からの差し入れのあんぱんを齧りつつ、犯人からの通話が録音されたテープを聞ききながら言った。

 その場の捜査員、および嵩も、このテープを一緒に聞いている。

 嵩は、脇に大量の汗を掻いていた。額にもうっすら汗が滲んでいる。そのわりに顔色は悪い。

「また具合が悪くなったのかい?少しそこで休むといい」

 戸倉が優しい声をかける。

 嵩の心は、荒れ狂う嵐の真っただ中にいた。

―音源をもう送っただって?ボクが音源を残しているのは、たった一回だけ、それも顔も名前も隠してだ。一度だけ、安定剤を多く飲んだ夜に、気分が高揚して、溜まっていた鬱憤が爆発して、動画投稿サイトにアップしたのだ。不毛な毎日が厭で、たった一度だけ、自分をさらけ出して作った曲。初めて作ったオリジナルソング。でも、あの動画は、小さなウェブカメラで撮影されたものだったし、顔も映っていない。オリジナル曲ではあったが、曲名すら書かなかった。そして、冷静になるにつれ、羞恥心が募り、すぐに削除したはずだった。考えられるオリジナル音源は、その一曲だけだった。それとも、まったく違う曲を、ボクの曲だと偽って応募したのだろうか?―

 優しい声をかけたばかりの戸倉が、追い打ちをかけるように、顔面蒼白の嵩に質問した。そういう所が刑事を好きになれない理由の一番大きな部分だと嵩は感じた。

「犯人は君のオリジナル音源を同封したと言ったね?引き籠ってどこにも外出していない君にそんな曲があるのかね?」

「子役時代に出した歌とか?」

 あんパンを平らげた野宮が、指を舐めながら口を挟む。

「おまえは黙ってろ。子役時代のCDで応募するわけないだろ」

「ボクは子役時代に歌を出してません。父の意向で、音楽は大人になってからやれと言われていたから…」

「じゃあその応募された音源と言うのは?」

「おそらく、もしそれが本当に自分の曲であるなら、一度だけ動画投稿サイトにアップして、すぐに削除した曲だと思います」

「それは君の曲だとすぐ断定できるのかな?」

「いえ、それが…。オリジナルの曲であるのは確かですが、その動画には顔を出してませんし、曲名も書かずにアップしました」

「じゃあやはり、君の事をよく知っている人物でないと、その曲が君のものかどうかは分からないということだね」

「そうだと思います…」

 あらゆる話が、犯人は嵩の父親、糸井忠光だと指し示していた。

 警察も、他に証拠がない現状では、その方向で捜査を進めるのは必然であった。

 犯人は出来レースは許さないと要求したが、警察がそのオーディションについて捜査しないわけはない。まず、本当に、糸井嵩がエントリーされているのか、事務局に捜査員が向かった。

 果たして、嵩は、犯人の言った通り、エントリーされていた。同封されたCD‐Rも、嵩の言った動画サイトからダウンロードされた曲だった。

「このままエントリーを続けますか?事務局は、事が事なので、最悪、このオーディション自体を延期しても良いと言っていますが」

 事務局に直接向かった捜査員は野宮だった。野宮は、事件の概要を責任者に話し、オーディションの中止も視野に入れた話合いを、すでに事務局と交わしていた。

「いや、このままオーディションは開催させよう。ただし、時間を長引かせるわけにはいかない。主催者には応募締め切りを早めてもらおう」

 戸倉が、責任はすべて自分が取ると言って、オーディション開催を指示した。

「では、犯人を泳がせるんですね」

「危険な賭けかもしれんが、犯人が仮に糸井忠光だとしても、犯人が動かないことには事件に進展はない。それに、あの糸井嵩のデモCD、事務局の担当者もその出来に驚いていたらしい。俺にはロックは分からんが、無事書類選考を通過した。犯人の要求通り、これは出来レースではない」 

不安がないと言えば嘘になる、しかし戸倉はすべての責任は自分がとると覚悟し、考えうる万全の態勢で警護にあたるからと、オーディションに参加するように嵩を説得した。嵩も、戸倉の熱心な説得についに根負けして、オーディション出場を承諾した。ただ、父への一方的な憎しみは増していくばかりだった。

 こうして、オーディションは、応募者多数のためと理由をつけ、締め切りを一ヵ月切り上げて、最初の一次審査を終えた。一次審査通過者は五十六名。もちろんその中に、糸井嵩の名前もあった。

 嵩は、死にたい気持ちでいっぱいだったが、もし、オーディション会場に父親が姿を現したら、まっ先に父に駆け寄り、思い切り殴ってやろうと考えていた。父への怒りだけが、今の嵩を支えるモチベーションであった。

 予定よりも一ヵ月早く、二次審査の日はやってきた。とはいえ、莉子を誘拐したと最初の電話があった日からすでに、三週間が経過していた。もう一刻の猶予も許されない。莉子の父親も、心労から数日前に入院していた。

 二次審査は、演技と楽器演奏の実技審査だった。各々の得意とする楽器演奏または、歌唱。それと短い脚本を渡され、一時間の練習のあと、演技審査も控えていた。嵩が台本を持つのは六年ぶりだった。昔なら、一度目を通せば、だいたいの台詞が頭に入ったものだが、ブランクのせいか、それとも別の緊張のためか、一時間みっちり本に向き合って、やっとなんとか台詞を頭に叩き込ませた。

 ボクはいったいなにをやっているんだろう?自分でも解からなくなる。これは本当に現実の出来事なのだろうか?いつも見る、浅い眠りの中の白昼夢かもしれない。

 嵩は、だんだん自分がどこにいるのかあやふやになってきて、自分が誰なのかもぼやけてきた。パニック障害特有の離人症状だった。急いで、医者から処方されている抗不安薬を、少し多めに水で流し込んだ。目を瞑って、自分のまわりの音を一切遮断させた。

 渓谷で流れる清水のせせらぎを想像する。これは、セラピストに教えてもらった発作を落ち着かせるための精神療法のひとつだ。こんなことしたって、発作が治るわけがないと、嵩は内心バカにしていたが、藁をも掴む気持ちで、習った方法を繰り返し、精神を落ち着かせていった。しばらくすると、薬の効果もあり、幾分か気持ちが楽になってきた。

 ちょうどその時、嵩のエントリー番号が呼ばれた。ついに、嵩の順番がきたのだ。再び、鼓動が速くなる。

 嵩は、莉子の持っていたヴィンテージレスポールを持参していた。先日のライブのあと、莉子から「このギターは嵩くんが持っていた方が良いよ」と言われ、渡されたのだ。父が残したテレキャスターは使いたくなかった。レスポールの方が、単に音が良いからという理由だけではない。この時、嵩にとって、父の忠光は完全に敵であった。肉親を憎まなくてはならない辛さと哀しさは、嵩自身充分に身に沁みていたが、もう心が止まらないところまで来てしまっていた。誘拐がどうとか殺人がどうとか、もう事件の話は関係なかった。家族の絆を壊した張本人への個人的な怒りだった。身内だからこそ、余計に憎悪は膨らんでいくのだ。それほど、かつての親子の絆は強かった。強いと信じていた自分自身への怒りもあった。

 父にすべてを裏切られてしまったと嵩は思っていた。

 今日はその決着をつけに来たのだ。この会場のどこかにいるかもしれない父に届くように、嵩は、二次審査で、自分の持てるすべての力を出し切った。父への復讐のつもりで、嵩は審査に臨んだ。

まずは演技審査が行われた。嵩の演技に審査員は圧倒された。渡された脚本の登場人物が、嵩に憑依していたのだ。かつて天才子役と呼ばれたころよりも、嵩はむしろ格段に進化していた。

その日の嵩は神がかっていた。脚本は、愛する彼女を失った男の叫びの演技だった。嵩は本当に涙を流し、目の前に存在しない横たわった女性の姿を、見ている審査員の脳に浮かび上がらせた。嵩は、ひとつの呼吸にさえ感情を込めていた。なんの舞台セットもない場所に、鮮やかな景色が現れた。審査員も、審査をしていることを忘れるくらい、嵩の演技に心を震わされた。

会場が俄かにざわつく中で、続いて、実技審査が行われた。嵩は、落ち付いた所作で、ギターのシールドをアンプに繋いだ。もう緊張はしていなかった。演技審査の時から、嵩は完全に自分の世界に没入していた。アンプのボリュームを最大にすると、フィードバックしたギターのボディが、ギーンと、硬く地鳴りに似た音を発した。軽く、チューニングを確かめる。審査会場の空気が微かに揺れた。そして、嵩のギターは始まった。演奏は、鳴りだした最初から、常軌を逸っしていると言えるほど、音が音を越えていた。弦楽器は、倍音が豊かであるほど良い音だと評される。だが、この時の嵩のエレキは、倍音が、もはやただの倍音ではなく、音の津波であった。審査会場は、音響専門のホールではない。普通なら、ここまで音が波になって、会場全体に響き、共鳴することはない。レスポールが繋がれているギターアンプも、どこにでもあるごく普通のフェンダーの中型アンプだ。エフェクターも、よくギタリストに使われているBOSSのコンパクトエフェクターシリーズの、SD‐1(OverDrive)と、DD‐3(Digital Delay)のみだった。まったく特別な機材は繋いでいない、しいて言うなら、エレキギターがヴィンテージレスポールであったことくらいか。しかし、そのヴィンテージギターだって、弾く人間が下手ならこのように呼応はしない。

陳腐な表現をあえて用いるなら、それは魂の宿った演奏だった。審査員の一人は、審査会場が、倍音で歪んでいるような錯覚を覚えた。また別の審査員は無意識に、拳を強く握りしめていた。演奏が終わってもしばらくは誰も動けなかった。そのくらい審査員ひとりひとりの鼓膜に、嵩のギターの音が張り付いていた。

 嵩は、狭く暗い自室で、ただ燻っていたわけではなかった。爆発させたい感情を、この日までずっと、絶対の孤独の中で、心が鋼鉄になるまで鍛えていたのだ。嵩はまったく終わってなどいなかった。本当の才能は、誰からも水を与えられなくても、決して枯れはしないことを、嵩はこの場で証明してみせた。ギフテッド。タレンテッド。天才。孤高。言い方はいくらでもあるだろう。

 だが、才能は発揮する場があって初めて才能と言えるのだ。

身辺警護をしていた他の捜査官ですら、嵩の変身と言っていいくらいの変わりように、一瞬警護を忘れるくらい驚かされていた。

 唯一、犯罪のスペシャリストである戸倉は、嵩の才能に心奪われることなく、自分の任務を冷静に遂行していた。

 怪しい人物は紛れていないか、周辺を見回す。ここで焦ってもしょうがない。なにも起こらなければ、それはそれで、次の犯人の出方を待てばいいのだ。拳銃所持の許可も下りていた。

 事件解決のためとはいえ、未成年の嵩を、捜査のために使っている。責任はすべて自分がとるとは言ったが、もし嵩の身になにかあれば、自分が辞表を出したところで終わる話ではない。杉田莉子を保護することが最終目的ではあるが、嵩の身を守るのも、それと同じくらい重要な任務だった。

 無線から、他の刑事が、怪しい男を確保したと連絡が入った。戸倉は急いで現場に急行しようとした、その瞬間だった。

 ドンッ!と、短い爆発音がして、建物が一瞬揺れた。戸倉は思わずその場に伏せた。音はごく近い場所からした。見ると、嵩の居たすぐ横から、白い煙が立ち上っていた。嵩はその場にうずくまっている。

なにが起きたのか、理解するのにしばらく時間がかかった。だが、犯罪のプロである戸倉は、頭が廻るよりも先に体が動いていた。すぐにうずくまっている嵩の元に走り寄る。

「おい!大丈夫か!」

 戸倉が叫んだ。会場は、パニック状態に陥った。

「すぐ応援を頼む!爆発物処理班!救急車もだ!」

 戸倉は無線で、他の場所に待機している捜査員を呼んだ。

「おい!嵩くん!嵩くん!ああっ、よかった…」

 戸倉に抱きかかえられた嵩は、自分になにが起こったのかわからず、うすら笑いを浮かべている。嵩はまだ、ギターを弾ききった余韻に浸っているのだ。

「ボクだって…。けっこうやれるもんでしょ…」

「ああ、お前のギターは最高だったよ。ケガはないか?」

「ケガ?なにかあったんですか?」

 完全に自分の世界に入っていた嵩は、自分のすぐ近くで爆発があったことに気づいていなかった。

「おまえ、たいしたやつだよ」

 戸倉がそう言うと、嵩は緊張の糸が切れたのか、静かに目を瞑った。さっき飲んだ抗不安薬のせいで、急激に睡魔が射しこんできたのだ。戸倉は嵩が死んだのかと焦ったが、すぅすぅと寝息を立て始めたのに気づき、心底ほっとした。嵩の寝顔には、まだ幼さが残っていた。

 戸倉はすぐにプロの目に戻り、会場を即時封鎖させ、嵩を待機していた警察官に任せて、怪しい男を確保したと連絡の入った場所に走りだした。

 

 3


 幸い、嵩は軽いカスリ傷程度で済んだ。病院で精密検査もしたが、どこも異常はなかったので、その日のうちに帰された。オーディションは即中止が発表された。

 爆発したのは、嵩がギターを繋いでいたフェンダーのギターアンプだった。アンプはオーディション当日に主催者側が用意していた。機材搬入時に犯人がすり替えていたのだ。アンプは電圧が過度にかかると爆発する仕組みになっていて、簡単な電気工学を学んだ者なら、二、三日もあれば作れる単純な仕組みの発火装置だった。警察の調べで、アンプ爆弾自体の殺傷能力はごく低いと判明した。爆破装置に使われた火薬も、普通に市販されている花火から取られたものだった。

 確保された人物は、誰もが意外に思う人間だった。

 バンド〈スサノオ〉のベーシスト、リク。本名、田中陸。三十歳。

リクは、電気工科大学を卒業していて、機械には詳しかった。厳しい取り調べで、アンプ爆弾は自分が仕組んだと自供した。だが、莉子誘拐については一貫して容疑を否認した。杉田莉子誘拐事件は未解決には至ってはおらず、捜査本部がおかれたままだ。

 警察は犯行動悸についても陸に厳しく問いつめた。


「しかし、驚きましたよ。あんな手の込んだ犯行のわりに、動悸が俺には理解できないです」

 取り調べをした野宮は、いつもの喫茶店で、戸倉と共に、次の捜査会議までの間、しばらく休憩をとっていた。野宮の前には、見ただけで甘そうな、生クリームたっぷりの小倉抹茶パフェが置かれている。戸倉はブラックコーヒーしか頼まない。いつも睡眠時間が取れないので、眠気醒ましにコーヒーを毎日五杯は飲んでいる、完全にカフェイン中毒だった。本当は甘いコーヒーは嫌いだが、脳を動かすためだと、砂糖をスプーンに三杯いれるようにしていた。

「シャインレコーズの今回のオーディションは、デビューと同時に映画の主演を選ぶオーディションだった。それをなんとしてでも阻止しようとして、あんなバカな真似をしたと犯人の陸は自供したそうだな」

「はい、なんでも、その映画っていうのが、〈スサノオ〉をモデルにした映画になるらしくて、その主役が、あの二年前のライブ中に亡くなったGENをモデルにする予定だったらしいんです。それが陸には気に入らなかったと…」

「うーん…。それにしてもその程度の動悸で、あそこまでの犯行を実行するか?いくら殺傷能力が低いと言っても、ひとつ間違えば、殺人犯だ。実際に検察には殺人未遂で立件されるだろう。もうやつの人生は終わったようなものだ。バンドの活動も順調だったというのに」

 戸倉は少し温くなったコーヒーを一気に飲み干して、すぐにおかわりを頼んだ。

「そうなんですよ。御厨紗江子が殺されて、所属事務所の存続も危ぶまれていたんですが、〈スサノオ〉の人気のおかげで、親会社のシャインレコーズがそのままバンドのマネージメントは引き継ぐと決定した矢先の今回の事件ですから。これで本当にバンドの存続も危うくなりそうですね」

「マスコミへはまだ通達されてないのだな?」

「ええ、でも時間の問題ですね。オーディションでの爆弾事件なんて前代未聞ですからね。しかも犯人が人気バンドの一員とあったら、マスコミには恰好のネタですよ」

「まったく次から次へと、あのバンドがらみの事件が多すぎるよ。呪われているとしか思えん」

「あれ?戸倉さん、呪いとかそういう迷信は信じてないんじゃなかったでしたっけ?」

 そう言って、ニヤニヤしながら野宮は大好物の生クリームを頬張った。

「バカ野郎!たとえ話だよ。呪いなんて本当に信じちゃいないよ。GENという男の死からすべてが始まったのだと俺は考えているんだ…」

 戸倉は、今まであまり気にしていなかった、GENの事故死について、もう一度調べ直す必要があると感じていた。

 すでにこの世にはいない一人の男のために、まわりの人間が次々と人生を狂わせていく、GENこそが死神なのかもしれない。戸倉はそう考えると、背筋に軽い寒気を感じた。

 逮捕された陸は、さらにこう自供した。事故死したGENとは、友情以上の特別な感情を持っていた。肉体関係があったことを匂わせる供述も出てきた。

「GENは女だけでなく男色の気もあったようです。いわゆるバイセクシャルってやつですか。ますますGENという男がどういうやつだったのか分からなくなってきましたよ」

 午後の捜査会議を終え、再び同じ喫茶店で、二人の刑事は夕食をとっていた。

「戸倉さんはGENの死から事件は始まっていると言いましたよね?それってどういう意味ですか?」

 注文したカツカレーをぐちゃぐちゃに混ぜながら野宮が訊いた。

「しかし、おまえのそのカレーの食い方、毎回汚っねぇなぁ」

 そう言いながら戸倉は同じく注文したカツカレーを、ルーとライスとをきれいに別けながら自分の思惑を続けた。

「GENという男は、良くも悪くも、カリスマ的な存在だったらしいな。今でもファンの間では伝説として語り継がれていると、聞き込みでもそうあった。〈スサノオ〉というバンドも、もともとはGENを売り込むために結成されたバンドだと証言している関係者もいた。それほどGENという男は才能に恵まれていた。だが、不運にもライブ中の事故で命を失った。しかし、それがかえって、彼を神格化させていった…。俺の調べではGENには身寄りがなかったらしい。両親は彼が高校のころ心中している。その両親も、父親の方は生みの親ではないようだ。本当の父親は行方知れずのまま。かなり、不幸な生い立ちだ。彼には、本当に縋る物がギターしかなかったんだな。そして、そのギターの腕だけで、のし上がっていった。まさに芸は身を助けるだな。ただ、生い立ちがそうさせたのか、もともとそういう性格だったのか俺には分からんが、そうとう性格も歪んでいたらしい。同じ高校に通っていた同級生から話が訊けたんだが、高校のころから、万引き、シンナー、ゆすり、レイプまがいの事もしていたという噂もあった。高校を辞めてからも、女の家を転々としていた。最後に行きついたのが、あの殺された御厨紗江子のところだったと、そこまでの調べはついている。GENがもし、あの日死なずにすんでいたら、もしかしたらその先の事件は起こらなかったんじゃないかとさえ俺は思えてしかたがないんだ…」

 戸倉の話に、野宮の握るスプーンもカレーを乗せたまま止まっている。

「でも、GENの死が偶然の事故死だったってことはもう判明してますし、やはり関係はないんじゃ…」

 そう言う野宮を遮って、さらに戸倉は話を続けた。

「実はひとつだけ気になることがあってな、捜査会議でも話そうか迷ったんだが、杉田莉子誘拐事件も未解決のままだし、あまりにも話が俺の憶測でしかなくてな」

「それはどういうことなんですか?」

 野宮が身を乗り出して訊いた。

戸倉が話した推理の内容に、野宮は驚愕し、すっかりカツカレーを食べる気が失せてしまった。戸倉もカツカレーをほとんど残し、会計を済まして二人は足早に店を出た。

 二人が向かった先は…。


 4


 あのオーディションから明日で一週間が過ぎようとしていた。身体の傷は軽傷だったものの、嵩は自室から一歩も出ず、もとの引き籠りに戻っていた。爆破事件のショックで、精神的なダメージを受けて引き籠っているというわけではなかった。

 結局、あの日、父は会場に現れなかった。莉子の行方も分からないままだ。あの日の爆発事件の概要を、刑事が説明しに一度、嵩の自宅を訪ねたが、嵩の母が追い返していた。無理もない。絶対に安全は保障すると言った警察だったのに、危うく、嵩を死なせるところだったのだ。母は、警察への不信感でいっぱいだった。母の方が、嵩よりもショックを受け、今も自室で臥している。

 嵩はここ数日、部屋に備蓄している引き籠り用のお菓子類だけを食べて過ごしていた。あとは、ひたすらパソコンに向かっていた。

 あのオーディションの日の記憶は、実はあまりなかった。緊張のせいもあるが、演技審査もギター演奏も、誰かが、操り人形のように嵩を天空から見えない糸で動かしていたような、自分自身での行動ではない感覚が、嵩の脳裏に残っていた。

一言でいえば「覚醒」した状態だった。莉子と、初めてライブをした夜よりも、さらに一段階上のレベルに達していた。決して、自画自賛ではない。当の本人が、一番自分の「覚醒」に驚いていたのだから。

オーディションのあと、病院から帰って、すぐに嵩は眠りに落ちると思っていた。でも、脳が興奮して、一睡もできなかった。しかし一睡もできない状態が、苦痛ではないのだ。この数年、ずっと嵩の心に纏わりついて離れなかった、黒い鬱の鉄球はどこかに消え失せ、かわりに、いつしかすっかり忘れていた多幸感に包まれていた。もう一度、舞台に戻りたいという気持ちすら、嵩の心に芽生えようとしていた。そのくらい、嵩にとっては奇跡であった。

 ただし、不安がすべて消えたわけではなかった。原因はもちろん父、糸井忠光の事だ。あの日、必ず父に会えると勝手に思い込んでいた。

爆発事件の顛末は、警察からではなく、ネットのニュース速報で知った。犯人が人気バンド〈スサノオ〉のベーシスト、リクであったこと、不慮の事故で死んで伝説になったギタリストGENをモデルにした映画を、撮影中止にさせるために事件を起こしたこと、爆発物は、ギターアンプを改造して造られていたことなど、ワイドショーでも連日、大袈裟に取り上げられていた。ベーシストのリクと、GENの過去の愛憎劇まで、どこまでが本当で嘘かわからない噂レベルの話が飛び交っていた。

 嵩はひとつ気がかりに思っている事があった。あの日、エントリーされていた人物の中で、自分以外にも、ギターの演奏をする者は何人かいた。エントリー順で、自分が全ギタリストの中で、最初にギター演奏をした。あれはたまたまだったのだろうか?

 会場にアンプは一台しか用意されていなかった。例のフェンダーのアンプだ。きっと二次審査なので、まだそのあと、最終審査があって、その際はもっと音響のちゃんとした会場での実技審査があったのだろう。あれはあくまで演技審査がメインで、楽器演奏は、とりあえずの下見せの意味合いだったのだろうと、嵩は考えていた。

 だからこそ、スタッフも機材にあまり注意を払ってなくて、犯人のリクは、簡単に爆破装置付きのアンプと交換でき、その後、誰も不審に思わなかった。その点に不都合な箇所は見当たらない。

 嵩が不審に感じているのは、自分のエントリー順であった。あの日、なぜだか分からないが、実はオーディション直前に、嵩のエントリー番号が、一次審査を通過した時と変えられていたのだ。

 本当なら、もともとのエントリー順のままなら、自分より先にギター演奏する者がいた。それが、直前になって、自分が一番にギター演奏するようにエントリーされていた。それで、順番が早まって、焦って練習したのだ。あれは偶然だったのだろうか?

 最初から、自分を狙って爆破に巻き込むように仕組んであったのだとしたら…。ただ、もしそうなら動機がわからない。自分と、犯人との接点はない。〈スサノオ〉のベーシストがそういう名前だった事も、ニュースで初めて知ったのだ。

 やはりこれは偶然だったのだろう。たまたま自分が爆破事件に巻き込まれただけで、誘拐事件とは関係のない話だ。そう自分を納得させようと思うほど、心の隅に引っ掛かる物があった。

きっとなにかある…。いくら考えても真実は姿を現さず、雲散霧消に脳の奥で悪い気配だけが残った。

 嵩は、ここ数日、動画サイトに投稿された〈スサノオ〉のライブ映像を見続けていた。事件のせいで、オフィシャルな動画はすでに削除され、見られなくなっていたが、ファンが勝手にアップした動画は残されたままだった。その数に嵩は驚いた。数十どころではない、百を超える動画がアップされているのだ。こんなに人気のあるバンドだったと、嵩は初めて知った。

 動画の中には、まだメジャーデビューする前のライブ映像も多数あった。スサノオは三人編成のバンドだ。だが、映像の中では四人で演奏している。投稿された日を見ると、三年ほど前の日付だった。おそらく、このギターを弾いているのが、GENというギタリストなのだろう。ファンがホームビデオで隠し撮りした物だからか、映像は画質が荒く画面も暗くて、GENの顔がよくわからない。 

 女性ファンの黄色い声援が大きくて、正直、GENのギター演奏がどれほどすごいものなのか、この動画からは伝わってこない。ファンの反応からすれば、きっと人気は本物だったのだろう。

 母が、自室から出てこない嵩を心配して一度声を掛けに来たが、「大丈夫だから」と言い、嵩は、〈スサノオ〉の動画を片っ端から見ていった。音も画質も悪いのに、いくら見てもまったく飽きないのだ。それどころか、もっとライブを聴いていたい。嵩は、だんだん〈スサノオ〉の魅力が解かるような気がしてきた。

 演奏が上手いとかすごいとかではない、言葉で表現できない魅力が確かにこのバンドにはあると嵩は感じた。と、同時に、GENのギターに、底知れない孤独が存在していると感じとっていた。どこか自分と似ている…。ふとそんな想いが頭を過った。

 はっきりどこがと問われれば、上手く説明できないが、圧倒的な孤独の中で、この人は叫び続けている。その部分に共感を覚えた。

 GENの満たされない乾きが、ざらついた画面から溢れ出してくる。引き込まれるのに、嵩はどんどん哀しい気持ちになってきた。いつの間にか、自然と涙が頬を伝っていた。感動の涙ではない。それは絶望の涙だった。人並み外れた感受性を持つ嵩だからこそ、GENの持つ絶望感が、心に乗り移ったのだった。


 絶望と恍惚の混じった不思議な感覚のまま、動画を見続けていた嵩の気持ちが、ある曲の演奏でいったん止まった。

「あれ?この曲は聴いたことがある…」

 嵩は、演奏された曲に聴き覚えがあった。もう一度、マウスを操作し、頭から聴きなおした。やはり、憶えのある曲だった。動画の説明文を読むと、この曲は、違うバンドのカバー曲だと書いてあった。

 バンド名は、〈アマテラス〉!

 嵩はそのバンドをよく知っていた。一瞬頭の中が真っ白になった。

〈アマテラス〉もしこのバンド名が、あのアマテラスだとしたら、いや、この曲は確かに聴いたことがある。まだ幼いころ、父がギターを弾いて歌ってくれた歌だ。アレンジはパンク調になっていて、ずいぶん印象は違うが、確かにあの歌だった。

「自分は自分が一番嫌いだ。でも自分を生かしているのも自分自身なんだ」そういう内容の歌だった。

〈アマテラス〉それは、かつて、糸井忠光が、初期メンバーとして在籍していたバンドの名だった。

 母からいつか聞いたことがあった。父は、もともとバンドマンですごいギタリストだったのだと。でも、メンバーとの内輪もめで、バンドを脱退し、その直後、嵩が産まれたのだと、〈アマテラス〉はその後、人気が出て、メジャーデビューを果たしたが、メジャーに行ってからは鳴かず飛ばずで、そのまま契約を切られ解散してしまった。父があのままバンドに残っていれば、きっと〈アマテラス〉はもっと売れていたはずよ。と、まだそのころ芸能界で活躍していた嵩に、一定の理解は示していた母が、自慢げに話してくれたのだ。

 ただ、父が女と蒸発した直後、母はこんなことを嵩に告げた。

「あの人は、芸能界に復讐したかっただけなのよ。脱退したとはいえ、自分が愛したバンドが、少し売れなかっただけで解散に追いやられ、誰にも知られないままに消えてしまったことを、あの人は憎んでいた。だからあなたを使って、芸能界に風穴を開けたかったのよ。あなたは父親から利用されていただけなの。それなのに、結局あの人は負け犬のまま消えてしまった…」

 母のその言葉は、幼い嵩の心に大きな傷を残した。自分は父の操り人形だったのかと。

〈アマテラス〉の名を目にし、嵩の中で、なにかが繋がってきたような気がした。

 そして〈アマテラス〉の名が頭を駆け巡っているうちに、ある重大な事実が記憶の奥から実体を現してきたのだった。

 それは、音に対して特別な能力を持っている嵩だからこそ気づいた事実だった。まだまったく確証はない。本当かどうか確かめるためには、あの刑事の協力が必要だった。

 嵩は、以前、戸倉から「なにかあったら連絡してくれ」と渡されていた戸倉のケータイ番号の書いた紙を、どこかに放っておいたのを思い出した。急いで部屋から出る。

「母さん!母さん!」

 自室で臥せていた母を叩き起こした。

「あの刑事から貰った連絡先どこにやったか知らない?」

 嵩の母は、すっかりむくんだひどい顔で、目を開けた。

「そんなものとっくに棄てたわ!もう警察と関わるのは嫌だから」

 吐き捨てるように言うと、嵩の母は再び布団を頭からかぶって寝てしまった。

 どうしようか。直接警察に電話して、あの刑事を呼びだしてもらおうか?でも、警察に行くとなると母が猛反対しそうだし…。そう、嵩が迷っていた時、ちょうど玄関を叩く音が聞こえてきた。

「糸井さん、ゴメンください!警視庁の戸倉です。どなたかいらっしゃいませんか!」

 それは、まさに刑事、戸倉の声だった。

 事件が動く時は、あらゆる事象がシンクロしていくものだと、嵩は思った。あんなに警察嫌いだった嵩だが、この時ばかりは、神様が導いてくれていると感じたくらい、ドンピシャなタイミングだった。嵩は走って、玄関に向かった。

 いきなり玄関のドアが勢いよく開いたので、戸倉の方が驚いた。いつものコンビ、野宮も戸倉のすぐ後ろにいた。

 止まっていた事件は今、確実に動き出そうとしていた。

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