第7話 戻ってきた少年

俺のとっておきの内部情報源

俺は君の開いた傷口にキスをしよう

気にかけてくれて嬉しいよ

君のは臭くなって燃えているんだ


レイプして

レイプしてね、あなた

レイプして

レイプして、もう一度

 ― Rape me ―



 戸倉と野宮が「弁天」に訪れた時間から遡ること三時間ほど前、午後七時すぎ。嵩は莉子との二人だけの即席バンドで、ついにライブ本番を迎えようとしていた。だが、嵩が想像していたライブとはかなり掛け離れたステージになった。

「え?」

 嵩は、スタッフの一人に呼ばれ、緊張を越えた、全身が震えるほどの恐怖心に包まれながら、楽屋から舞台袖に移動した。莉子は、先に舞台に行っていて、さっさと機材の準備を始めていた。

 一応、客電(ホールに普通の電灯が付いている状態)は落とされ、セロファンで色付けされた照明が、舞台上を照らしてはいるが、リハーサルの時と、なんら変わらない状態だった。

 つまり、客席のホールに誰ひとりとして居なかったのだ。ホールの奥の方に弁天のオーナー一人だけが、腕を組んで立っていた。

「莉子ちゃん、もしかしてお客さん呼んでないの?」

 嵩は、莉子にだけ聞える小さい声で、莉子に耳打ちした。

「そだよ。だって、オーディションライブだもん。オーディションはお客さん無料で呼んでもいいんだけど、もしオーディション落ちたら恥ずかしいでしょ。だから今日は誰も呼んでないよ。他のバンドの人たちもそうみたい」

 つまりはこういう事だった。

 この「弁天」で定期的にライブを行うには、まず、音源の審査があって、それをパスすると、今度は実際に、月に一度、オーディション形式のライブを行い、そのパフォーマンスが良ければ、翌月から、定期的にライブができるようになるのだ。よほど有名なバンドでないかぎり、ほとんどのバンドがこのオーディションライブを通過して、晴れて正式なレギュラーバンドとして演奏を許されるのである。

「じゃあ、莉子ちゃんもライブ初めてなの?」

「初めてじゃないよ。去年の文化祭では演奏したもん」

「いやいやそういう話じゃなくて…」

「ね。安心したでしょ?私だって、嵩くんにそこまで無理させないよ。お客さんいないなら大丈夫でしょ?」

「そりゃそうだけど、でもオーディションなんでしょ?もし受からなかったら…」

「大丈夫だって。さっき他のバンドの演奏のリハ聴いてたけど、大したことなかったもん。うちには高級レスポールと嵩くんがいるからぜったい受かるよ」

 嵩は、莉子の作った楽曲が出鱈目だという部分には触れてはいけないのだろうなぁと思いつつ、じゃあすべては自分の演奏にかかっているんじゃないかと、余計に心配になってきた。もうシーケンサーには頼らずに、莉子の忠告は無視してアンプのボリューム最大(フルテン)で演ってやろうかと、半ばヤケクソな気持ちで、自分を奮い立たせた。

 そうでもしないと、またパニック発作が起きそうだった。

 もう今夜はどうなってもいいや。一生弾けないだろうと思っていたヴィンテージギターを弾けるのだから、どうせなら思い切り弾いてやろうと、現役子役時代以来のポジティブな思考で、緊張も不安も恐怖も、みんな吹き飛ばしてしまおうと覚悟した。

 覚悟した時の嵩に、敵はいない。

 嵩がギフテッドかどうかは別として、嵩の才能が煌めく時は、嵩自身も覚悟しなくては、能力は発動されないのだ。

 例えば一流アスリートが、極限状態で神経が研ぎ澄まされ集中し、普段発揮できないほどの力を出す〈Flow〉という状態に、それは似ていた。

 嵩は無自覚であっても、覚悟した上で集中した状態の嵩は、普通の人間では到達できない高みに、最初から翼が生えていたように、いとも簡単に到達してしまう。子役時代、何度も周囲を驚かせた嵩の力が、今まさに甦ろうとしていた。

 莉子が、機材の準備を終え、ホール一番奥で、偉そうに腕を組んで構えている弁天のオーナーに「じゃあお願いします。演奏始めまーす」と告げ、観客ゼロの初ライブはスタートした。

 嵩は、莉子の言っていたボリューム5を完全に無視し、つまみを最大まであげた。最初から、大音量のギターを鳴らしてしまったら、流石に莉子も歌を歌えないだろうと考え、ギター本体のボリュームつまみで音量は調節した。

 ポコスカポコスカとループする、シーケンサー内蔵の間の抜けたGM音源のシンセドラムの音に、嵩は気分がどんどん萎えてくる。でも、ここは我慢だ。サビが終われば、あとは、同じ旋律が、莉子が自分でシーケンサーの停止ボタンを押すまでループされていく。その部分がくれば、そこに自分のギターをブチ込んでやろうと嵩は決めていた。

 莉子の、アニメ声の可愛らしい歌が続く、その間は、嵩は楽曲に忠実なコードを、なるべく丁寧に弾いた。音を抑えて弾いているが、レスポールの一音一音がはっきりとした音は、チープな音色のシンセのリズムを、見事にマッシュアップさせていく。

 自然とグルーヴも生まれてくる。莉子も乗ってきたのか、声にハリが出てきた。楽曲は出鱈目であるが、莉子の歌声は、それほど悪くはなかった。決して声量のある歌声では無いものの、はっきりと個性があって、心地よく耳に届く、唯一無二な歌声だった。

 ホールの奥で険しい顔で立っていたオーナーも、嵩と莉子の曲に、自然と足でリズムを取りだしていた。

 なにより演奏している本人達が、初めてとは思えないグルーヴ感に、どんどん演奏が楽しくなってきた。

 嵩も、さっきまでは出鱈目で無茶苦茶な曲だと思っていた莉子の、自称テクノポップを、そんなに悪くないじゃないかと感じ初めていた。

 いよいよ、莉子のサビの部分が終わり、エンディングまでリフレインしていく部分に差しかかった。嵩は、ギター本体のボリュームつまみを全開にした。

 観客は店のスタッフだけでも、今までの深夜の憂鬱を埋めるための不毛な演奏とはまったく違う。なにしろ、ヘッドフォンを通してではなく、アンプから出す生の音だ。どんなに気持ち良いだろう。

 嵩は、自分の持っているありったけのテクニックを駆使して、ソロパートを弾ききった。

 早弾きには自信があった。六本の鉄弦を、縦横無尽に十本の指が動く。動くというより、駆け廻っているという表現のほうが合っている。指の動きが早すぎて、残像に見えると言っても大袈裟ではなかった。今日の暗闇を帳消しにするくらい楽しかった。今日だけではない。こんな夜があれば、またもう少しは生きていけるかもしれないと嵩は思った。

 ただし、ひとつだけ違和感があった。違和感の正体がなんなのか、その時は解からなかった。嵩はもっと演奏が無茶苦茶になるはずだと思っていた。それが、さっきまでのグルーヴ感がギターのソロパートに入っても持続していた。

 演奏していて気持ちいいのだから、このままでいいやと、嵩は少しだけ感じた違和感を、ポジティブに考えることにした。

 笑顔になっていた。前髪で顔のほとんどは隠れていたが、嵩は確かに笑顔だった。子役時代の演技での笑みではない、心からの笑顔。

莉子も、嵩のギターに合わせて踊っていた。芸能スクールでダンスの基礎はちゃんと習っていたので、莉子のダンスも、即興ではあったが様になっていた。

 結局、三曲演奏し、そのどれもが、その日オーディションを受けた他のバンドのパフォーマンスを越えていた。

 「弁天」のオーナーも、オーディションからこんなに跳ねたバンドはなかなかいないよと、ライブのあと、わざわざ楽屋に来て褒めてくれた。オーディションの合格もその瞬間決まった。

「嵩くんありがとう!」

 莉子は嵩に深くハグをし、異性からのハグなんて、母親以外からされたことが無かった嵩は、汗に混じって微かに香る、莉子の香水の匂いにドキドキした。このドキドキは悪い動悸ではないと、もう一人の嵩が、丁寧に脳内で説明してくれた。

 オーディションライブは大成功だった。

 しばらくは、楽屋で放心状態だった。もうなにも考えられない。


「嵩くんノド乾いたでしょ。そとでジュース買ってくるよ」

 莉子が言ったので、嵩も自分で買うから一緒に行くよと、楽屋を出た。外の空気が吸いたい気持ちもあった。

 想像以上に疲労していたせいで、外にあがる階段で、危うく転びそうになった。それくらい、嵩は短い時間ですべてを出し切ったのだ。

「弁天」のすぐ近くの自動販売機で、飲み物を買い、二人はしばらく都会の夜風にあたっていた。下水口から上がってくる腐った臭いが夜風と混じって、良い空気とは言えなかったが、熱った身体をじょじょに冷ましていってくれて、不思議と嫌な気はしなかった。ビルの間から吹く生温かい風が、気持ちいいとさえ嵩は感じていた。昼の、父の話など頭から消え去っていた。

 この興奮が夢でありませんようにと、嵩は、見えない都会の夜空の星に願いたい気持ちだった。


 その数十分後、二人の刑事が訪れたせいで異様な空気に包まれた弁天のホールに、嵩はなぜか居た。一粒の福音すら神様は与えてくれないのかと、嵩は、自分の人生を呪いたくなった。

 殺された少女を哀れむほどの心の余裕は、嵩にはまだない。むしろ事件を運んできた二人の刑事に奇跡の夜を台無しにされ、怒りさえ感じるのだった。


 2


「事件の概要はだいたい理解してもらえたでしょうか?」

 野宮の言葉にも、そこに集まった全員は無言のままだ。重苦しい空気が漂っている。

 張り詰めた空気に耐えかね、弁天のオーナーがまず口を挟んだ。

「でも、それって、事件に類似点があるだけで、たまたまうちの店が近くにあっただけって話でしょう?」

 その問いかけに戸倉が答える。

「ええ、もちろん可能性のひとつに過ぎないです。ただ、まだ犯人の目星もついてない状態です。可能性のひとつに過ぎなくても、一応捜査はしないといけないですし、みなさんを疑っているわけではありません。あくまで、形式的に、みなさんの、その犯行が行われたであろう時間帯のアリバイ…、すいませんアリバイなんて言うと、本当に疑っているみたいですね。言い変えます、皆さんがその時刻どこでなにをしていたのかだけを教えてくだされば結構ですんで」

 実際に、デカの勘だけに頼って、横暴な捜査はできない。あとで、違法捜査だとネットに書き込まれて、それがもとで警視庁から山奥の駐在所に飛ばされた同僚もいるくらいだ。己の保身のためではないが、事件が解決するまでは、捜査班から外されるわけにはいかない。戸倉は言葉を選んで、慎重に話を訊いた。本来なら、その場にいる人間の、少量の唾液でも採取できたら、DNA検査でクロかシロかははっきりわかる。だが、なんの確証もない今の時点では、そこまでの捜査には簡単に踏み込めない。

「えっと私からでいいですか?」

 弁天のオーナーが言う。

「はい、すいませんが順番に、午後六時ごろから九時ごろまで、どこでなにをしていたか説明願います。それではお願いします」

 野宮はまだ真新しい手帖をポケットから取り出し、メモの準備をする。それぞれの証言を言葉の通りに書き記していった。


 3


 弁天オーナー(田口文則)の証言

 その時間帯は、売上金を入金しに、すぐそこのATMまで行ったあと、店に戻り、それからはずっとスタッフルームで、店の帳簿をつけていた。〈オーディションライブ〉が始まってからは、ホールの一番後部座席から、ライブが終わるまでバンドの演奏を聴いていた。

注釈・オーディションライブとは、レギュラー出演者を決めるための、オーディション形式のライブで、月に一度行われている。今日はそのため、出演者とスタッフ以外の客は、ゼロ。ただし、オーディションライブは入場無料なので、場合に寄っては、客が来る場合もアリ。


 照明担当(笹部優子)の証言

 その時間帯は、照明のチェックを、リハーサルを通して行っていたため、トイレにいちど行った以外はずっとホールの照明器具の所にいた。


 PA、音響担当(成瀬彰人)の証言

 五時から八時まで、音響チェックのため、PAブースまたはホールないからは一歩も出ていない。リハーサル、本番を通してずっとPAブースにいた。


 その他スタッフ(三久保士朗)

 同じく、五時から八時まではずっとホールとスタッフルームの往復だけで、店内からは出ていない。


 その他スタッフ(田中大地)

 同、三久保士朗と行動を共にしていた。店内からは出ていない。


 出演バンド1(セルフ・ドーパミンズ)

 ギター兼、ボーカル(羽田浩次)

 ベース (古瀬奈央)

 ドラム (寺秋信二)

 リハーサル、本番時は、ステージ上。

 その他の時間帯は、楽屋で、談笑していた。一度も外出なし。


 出演バンド2(ザ・ベリーエイプ)

 ボーカル (本宮みずほ) 外出はなし。

 ギター (安田幸(さち))外出は、一度ジュースを買いにコンビニまで、それ以外はなし。

 ベース (香田光(ひかり))ギターの安田と一緒にコンビニへ。その他の外出はなし

 キーボード(来栖めぐみ)外出はなし。

 *このバンドは全員女性のため、犯人からは除外?


 主演バンド3(名前なし)

 ボーカル、シンセ (杉田莉子(りこ))リハーサル、本番を通して、外出はなし。ライブ後、午後九時半ごろ、ジュースを買いに店外へ。

 ギター (糸井嵩(すう))同、リハーサル、本番を通して外出なし。杉田莉子と、行動を共にしていた。


 これが、店内にいた人間のすべての証言だった。

 犯行が行われた時刻に、殺害現場まで行った形跡のある人物は、一見して見当たらなかった。ただし、スタッフルームに、午後六時ごろ籠っていた弁天のオーナーや、雑用スタッフの二人などは、アリバイに穴がある可能性も残されていた。


 ホールに全員を残し、野宮と戸倉はひそひそと、まわりに聞えない声で相談した。

「どうしましょう?これといって証言に不審な点もありませんし」

「ライブ中は、スタッフも出演者も、楽屋かホールにいたわけだしな。完璧でないにしろアリバイがあるといったらある。鑑識は、単独犯による犯行の可能性が高いと言ってたな。複数犯なら、なんとでもアリバイ工作は出来そうだが、長年の経験から言って、ああいう快楽殺人はまず複数犯は考えにくい…。今日のところは一度引き下がるか…」

 二人の刑事は、これ以上は無理だろうと、一応全員の連絡先を訊いて皆を帰そうという意見で一致した。

「お疲れのところお時間いただいて誠に申し訳ありませんでした」

 野宮の相変わらず銀行マンにでもなれそうなほど低姿勢の言葉に、そこにいた全員も安堵の空気に変わった。


 ただ、ひとりだけ、疑問を持っている人間がいた。

 

嵩だった。嵩は、ずっとなにかが心の隅に引っ掛かっていた。刑事たちが来る前から、自分たちが演奏していたライブの時から、最初は、その違和感の正体がなんなのか、嵩本人にも理解できなかったのだが、ここに集まった人たちの一人一人の証言を一緒に聞いているうちに、その違和感の正体が、ぼんやりと実体を現してきたのだった。それは確信ではなかったし、ただの可能性のひとつでしかなかった。しかし、もし、その方法で行ったのであれば、ある人物のアリバイは完全に崩せる。犯行も充分に可能だ。

嵩は迷った。自分の考えている意見が、とんだ見当違いで、人を傷つけるかもしれない。ただでさえ自分は、父親の事でこの刑事たちに顔を知られている。変な話をして心象を悪くすれば、あとでめんどうな展開になるかもしれない。

どうしよう。でも、自分の見解に間違いがなければ、そいつは意図して行った行動としか考えられない。

嵩が、なにか言いたそうにモジモジしているのを、隣りにいた莉子が気づいたのか、相変わらずのあっけらかんとした声で言った。

「刑事さーん。嵩くんがなにか言いたそうにしてるんですけど」

― ちょっと!また余計な事を! ―

 嵩は莉子が突然刑事に向かって忠告したので、背筋に悪寒がはしった。自分はなるべく透明な存在でいたいのにと、ライブ中とは違い、すっかり元の引き籠りの嵩に逆戻りしていた。

「おい、もうみんなの容疑は晴れたんだろ。明日もバイト早いから早く返してくれよ!」

 バンド〈セルフ・ドーパミンズ〉のヴォーカルが声を荒げた。

 嵩も、自分の見解に自信があるわけではなかったし、もうほっといてくれと言いたかった。


 4


「んーなんだ?なにかあるならなんでも教えてくれ」

 戸倉が、ざわつく皆を征して言った。

「い、いや、別になんにもないんですけど…」

 嵩の明らかになにかを隠しているそのオドオドした声に、戸倉は当然、「なにもないわけがないだろ」と思った。

「おいおい、怖がらなくてもいいから、なにか気づいたことがあるならどんな些細な話でもいいからしてくれ。そうしないと今度は君を疑っちゃうよ」

 戸倉はもちろん半分冗談のつもりで言ったのであるが、焦っていた嵩は、自分に容疑が向けられたらたまったものじゃないと、自分の考えている見解を、弱々しい声で話し始めた。

「え、えっと。ひとつだけ、皆さんの話した証言の中に、嘘っていうか…。おかしなところがあったんで…」

 皆がさらにざわつく。

「あーあー、すいませんすいません。みな様。少し黙って彼の話を聞いてやってください。申し訳ありませんね、いやほんとに…」

 野宮が他の全員を得意のお客様口調で落ち着かせた。

「ボクらのライブ中なんですが、あの莉子ちゃん…、えっと歌を歌ってた子なんですが、その莉子ちゃんが持ってきたこのシーケンサーっていう自動伴奏で曲のオケを流す機械があって、このシーケンサーにMIDIケーブルが繋いであったのに気づいたんです。莉子ちゃん、今回のライブにMIDIケーブルって必要だった?」

 訊かれた莉子は「なにMIDIケーブルって?」とそれ自体を知らない様子だ。

「ねぇ、嵩くんって言ったかな?そのMIDIケーブルっていうのはなんのことだ?」

 音楽機器に詳しくない戸倉が嵩に訊く。

「はい、MIDIケーブルって言うのは、そもそも、こういう音楽機材には、MIDI(Musical Instrument Digital Interface)っていう規格のインタフェースがついていて、これによって、他のMIDI端子がついている機材と、同期させたり、遠隔操作できたり、番号を合わせることによってさまざまなコントロールができるようになってるんです」

「なんだか難しい話だなぁ。もう少しおじさんに解かるように話してくれないか」

 メールを打つのですら苦労する昔堅気のアナログ人間の戸倉には、嵩の言っている話はちんぷんかんぷんだった。

「あ、すいません。ちょっとどうしても難しくなっちゃうんですが、要するに、そのMIDIケーブルを機材同士で繋げると、別の機材からコントロールできるようになるわけです。それなんですが、今回のボクたちのライブは、この莉子ちゃんの持っている機材ひとつあれば演奏できたライブで、そもそも遠隔操作なんかする必要がなかったんです。で、なんでそれなのにこのケーブルが繋がっているのかと、その時はちょっと不思議に感じただけだったんですが、ボクのギターを弾く箇所に差しかかった時、ボクは、大きい音でギターを鳴らしたくて、アンプのボリュームをリハーサルの時とは違い、最大にしていたんです」

 その話に、莉子の目じりがピクっと反応する。嵩は莉子にお尻を抓られて、思わず叫びそうになる。ごめんと莉子に囁いて、その続きを話す。

「で、ギター本体のボリュームつまみで音量を調節してたんですが、そのボクのギターソロの箇所に差しかかった時、つまみを最大にして、大音量で音を出そうとしたんです。でも、なぜか音は大きく鳴らなくて…、まぁ結果的にそれがちょうどいい音量バランスになって、良いライブになったんですが…」

「なんだよ、ただの自慢話かよ!」

 さっき声を荒げた〈セルフ・ドーパミンズ〉のヴォーカルがまた怒鳴った。まぁまぁと、野宮が間に入ってなんとか沈静させた。

 嵩は全身に冷や汗を掻きながらも、ここまできたからにはちゃんと最後まで話してやろうと、気力を振り絞る。

「ここからが重要なんですが、そのMIDIケーブルが繋がってた先は、PAミキサーだったんです」

「ミキサーって、あのなんかつまみがいっぱい付いてる難しそうなやつか?」

 戸倉が、PAブースを指差して言った。

「そうです。あのミキサーは、SSLってメーカーの、ボクなんかではぜったい買えないような高いデジタルミキサーなんですが、あのミキサーにはムービングフェーダーが内蔵されてまして…」

「ちょちょ、ちょっと待って、なにフェーダーって?だからおじさんに解かるように説明してよ」

 戸倉が口を挟んで、遅々として進まない話に、嵩は聞こえないくらいの小さい溜め息を吐いた。探偵気取りも楽じゃない。そう思った時、ふと過去の記憶の断片が、一か所に集まってきた不思議な感じがした。それは、数学者が新しい方程式を閃いた時に似ていた。

常に脳のどこかに答えはすでに存在している。ただ、その答えはひとつひとつ小さなピースに別れていて、普段はバラバラに存在している。断片だけでは解には到達しない。しかしその答えのピースが、ある条件で一か所に集合し、ワンピースの解となって脳内で完成するのだ。脳内補完。その時の嵩はまさにその状態だった。

ホールはオーディションライブが終了したばかりで、まだ客電に切り替わっていなかった。ライブが終わり、少し傾けられた照明のピンスポットがちょうどステージ近くにいた嵩に当たっていた。おそらくは、照明に照らされた状態が、子役時代、舞台に立っていたころの嵩の記憶を呼び覚ましたのだろう。外的世界と接触する時に開けられる心の抽斗に封印されたもう一人の自分。それは、いつもなら弱々しい心ばかりだった。だがこの時、鍵が開けられた抽斗に入っていた心は、過去一度だけ演じて、子役の新境地を開拓したとまで絶賛された「魔界少年デルタギヤ」の主人公、「ギヤ」の心だった。

嵩は決して多重人格者ではない。あくまで役に入りきっているだけで、もう一人の冷静な本来の自分が、ちゃんと空中から、キャラクターと化したもう一人の嵩をしっかりと制御し、操っていた。

嵩は弱い自分を、その刹那、完全に捨て去り「ギヤ」の性格になりきることにした。魔界一の問題児にして超高圧的な性格、魔界の王ルシフェルの息子。それでいて、曲がった事はこの世で一番嫌い。自分の思うままに突き進む最強の小悪魔「ギヤ」

これは、「魔界少年デルタギヤ」の一シーンだ。自分は「魔界の王子ギヤ」だ。心の抽斗を開放し、嵩は「ギヤ」の役に完全に入りきる。

もうどうせなら心を爆発させてやろう!嵩はライブの時のように、覚悟を決めた。アドレナリンが一気に溢れてくるのが自分で分かる。

 嵩は、顔半分を隠している長髪を額にかいた汗をワックス替わりにして、髪を後ろに思い切り掻き上げ、オールバックにした。瞳に力が入る。「これは舞台だ」そう自分自身に言い聞かせた。

「おいおいおいおいおい!ムービングフェーダーってのはなぁ、昔は、クソ高いデジタルミキサーにしか内蔵されてなかったんだ。最近になってようやくクソ庶民でも買えるような自宅録音用の安モンのミキサーやレコーダーにも搭載されるようになってきたけどな!おい、クソオーナー!貴様だよ!そこのしょぼくれたチョビヒゲのオヤジ。ちょっとだけ、このミキサーを触ってもいいな?いいだろ!」

 さっきとは違い、急にまったく真逆の高圧的な態度になった嵩に驚き、弁天のオーナーも思わず首を縦に振った。

「フェーダーってのはなぁ、音量を調節させるためのスライダー式のつまみの事だ」

 そう言って、嵩はミキサーの一番下の部分に平行に並んだ上下動するつまみを指で上げ下げしてみせた。

「これは通常、人の手で細かく調節させるんだ。下げると音が小さくなり、上げると大きくなる。アホでも分かる簡単な仕組みだろ?で、その上にずらっと並んでいるつまみが、音の、低、中、高音を調節させるEQ(イコライザー)だ。PAは、このミキサーをリアルタイムで操作し、ライブでの出音を調節するのが仕事だ。マイクが急にハウリングを起こした時は、EQの高音域を絞ったり、フェーダーを下げて音を抑えたりするんだ。だが、しかし!所詮は無力で愚かな人間の操作。咄嗟のハプニングに、それが起こったと同時に対処するなんてできっこねぇ。例えば、今回オレ様が急にギターの音量を上げた時のような、ビッグサプライズには!」

 嵩は、両手を大袈裟に、指揮者がタクトを振るように空中で動かし、言葉に抑揚をつけた。皆の目が、嵩の独り舞台に釘付けになる。

「その!ビッグサプライズを、制御するには、ふたつの方法しか無い!ひとつは、最初からそのサプライズを知っていること。しかーし、今回はオーディションライブだ。しかも、オレ様がギターを弾くのは今回が初めて!共演者の莉子にすら、ギターを本番では大音量にするとは知らせていなかった!ひとつ言えるのは、リハーサルの時、オレ様は一度ギターアンプのボリュームを瞬間的に最大にした。それを嫌がった莉子は、ボリュームつまみをすぐ下げやがった!なんという暴挙だ!ギタリストの音量を勝手に下げるとは!一番やってはいけない愚行だ!まぁオレ様も話の分からない男ではない。しかたなく、本番でのギター音量はそれ以上大きくはしないと約束してやった。だが、莉子にはすまないとは思ったんだが、ライブが始まったら身体が疼いて我慢できなくなってよぅ。オレ様は約束を、スッパリと破ってしまった!本番ではギターソロの箇所で、急に音を大きくしてやったんだ!ボリュームフルテンじゃないと、せっかくのヴィンテージギターの本来の音が出ねぇからな。オレだって、夢にまで見た、58年製のレスポールを思い切りかき鳴らしてみてぇじゃねぇか!そうだろ?なぁ!貴様もそう思うだろ?」

 嵩は、さっき怒鳴った〈セルフ・ドーパミンズ〉のヴォーカルにぐいっと顔を近づけて、レスポンスを強要した。男は、急変した嵩のテンションに完全に引いている。「は、はいぃ…」と畏縮した涙声で答えた。

嵩はさらにテンションを上げた。汗の水分でかろうじてオールバックになっていた髪を、現世(うつしよ)の苦悩を体現するかの如く掻きむしり、ベートーベンの肖像画のような、ぐしゃぐしゃのザンバラ頭になった。

「だが!だがしかーし!オレ様は確かにボリュームを最大にしてギターの鉄弦を思い切り鳴らしたのに、出た音はさっきとなんら変わらねぇじゃん!ああ、きっと優秀なクソPAが、音のバランスを考えてフェーダーを下げやがったんだと、その時はそこまで不審には思わなかった。でも、よくよく考えてみろ、突然に音を上げたはずが、最初から音が上がるのを知ってたかのように、完璧に制御されていたんだ!てめぇはネ申か!それともオレ様と同じ悪魔か!オレはPAブースを見た。だがその時は照明の照り返しで、PAブースに人影が見えなかった。いや、本当は影くらいなら見えるはずが、なにも見えなかった。まるで、そこに誰もいないかのようにな。ライブ中に、ミキサーの前からPAがいなくなるなんて、普通は考えられねぇ。オレ様も気のせいだと思っていた。ライブが終わってから、莉子のシーケンサーにMIDIケーブルがささっていたことに気づくまではな!」

「で、なにが言いたいんだ!」

 嵩の言葉に焦りを隠せない音響担当の成瀬彰人が、ついに我慢できず声を発した。嵩は、一度姿勢を正し、キッと成瀬の方を向き、鋭い眼光で成瀬を睨んだ。

「さっき、言ったよなぁ?このSSLのデジタルミキサーは、ムービングフェーダーだと。解からないそこのボンクラ刑事に解かり易く説明してやる。ムービングフェーダーというのは、手動でもフェーダーを上げ下げできるが、中にモータードライブが内蔵されていて、MIDIコントロールできるのだ。百聞は一見に如かずって言葉があるな、今からどういうことか見せてやろう」

 嵩はそう言うと、莉子のシーケンサーとミキサーをMIDIケーブルで繋ぎ、コントロール番号を同期するように合わせた。そしてシーケンサーのスタートボタンを押した。シーケンサーは、今はアンプに繋がれていない状態なので音は鳴っていないが、シーケンサーの液晶画面はBPM(曲のテンポ)に合わせて点滅していて、拍を刻んでいるのが分かる。それに合わせて…。

 アナログ人間の戸倉は初めて見る光景に、豹変した嵩の演技も相俟って、魔法でも見せられているんじゃないかと思った。ミキサーのフェーダーが、曲が進行するにつれ、自動で、上下している。もちろん魔法ではない。フェーダーにモーターが内蔵されていて、プログラミングしておくと、その通りにフェーダーが正確に動くのである。

「なっ。すげぇだろ?オレ様もムービングフェーダー内蔵のミキサーが欲しいが、この世はなんでも金、金、金。金を持っていないオレ様には買えない代物だ。人間から金を奪うのはオレ様の流儀に反するからな。そこのクソPAが羨ましいわ。だがな…。いくらムービングフェーダー内蔵ミキサーとは言え、ライブの、しかも初めて演奏するバンドの曲を、わざわざシーケンサーのBPMデータを取り込みプログラミングしてまで、こうやって制御するもんかね?少なくとも、ミキサーの前に座っているなら、自分自身でフェーダーは操作すると思うんだがな…。それとも、ライブの最中にどうしても抜け出さなきゃいけない理由があったのか?ああっ!どうなんだぁ!」

 嵩の怒髪天を衝く見事な啖呵にPAの成瀬は動けなくなった。

オレ様の話は終わりだと、嵩は告げ、スイッチが切れたように、PAブースの丸椅子に腰を下ろした。その瞬間、嵩の中の「ギヤ」も役を終え、心の抽斗に戻った。もし舞台であったなら、ピンスポットが嵩を照らしたのち暗転、といった具合だ。完璧な芝居だった。 

そこにいる全員が唖然として、しばらく時が止まった状態が続いた。はっと、我に返って、野宮が口を開いた。

「成瀬彰人さん。さっきの証言では、ずっとミキサーの所にいたと言っていましたね。皆さん、彼がライブ中にPAブースに居たのを目撃した人はいませんか?」

 野宮は少しだけ語気を強めてまわりの人間に訊いた。

「そういや、ライブ中はそれぞれに仕事があって、PAブースには目をやってないな。ぼくも彼らの演奏が良かったから曲に集中してたし」

「はい、私も照明始めたばかりで、自分の仕事に手いっぱいで他の人を見てる余裕はなかったです」

「ぼくたちは、成瀬さんに言われて、次のバンドの演奏で使うケーブルを用意してました。彼らのライブの時は見てないです」

「オレたちはずっと楽屋にいました」

「わたしたちも楽屋にいました」

 嵩たちのライブ中に成瀬を目撃した人間はいなかった。

「いや、あの、たまたま、フェーダーの状態を調べたかっただけなんですよ。最近調子悪かったから…」

 成瀬は言い訳するが、動揺は隠しきれない。

「調子悪いって、成瀬くんこのミキサー先週納入したばかりじゃないか。ライブハウスのミキサーにムービングフェーダーなんて必要ないだろって言ったのに、君がどうしてもって言うから」

 弁天のオーナー田口が、成瀬にとどめを刺す。

 長年刑事をしていると、人が嘘をついているのはすぐに分かる。アナログ人間の戸倉だったが、嵩の話で明らかに焦っている成瀬の心は簡単に見破れた。

「まぁ、令状があるわけでもないですし、今すぐはどうにもできないのですが…。成瀬さんすいませんが、少量でいいので口内の唾液を採取させてもらえませんでしょうか?ティッシュに少しでいいので」

 言葉は丁寧だが、戸倉の声は、まわりの人間まで震えあがるほど、一語一語に怨念に似た力があった。

「な、なんで。令状ないなら断れるんだろ。俺は拒否するぞ」

 成瀬も、唾液の意味くらいは知っていた。きっとDNA鑑定に回されるのであろうくらいは想像できた。

「まぁ、あくまで任意ですが、なにも疾しいところがなければ、むしろこれで犯人じゃないって証明されますし。どうかお願いできませんか?現場近くのコンビニにも防犯カメラありますんで、そのライブをしていた時間帯を調べればはっきりしますし。どうします?結局、罪が重たくなるだけですよ?」

 もう少しで落ちそうな成瀬を見て戸倉が鎌をかける。

「あ、あ、あいつが悪いんだ。あいつがいつもあんな短いスカートで俺を誘いやがるから!ガキのくせに色気づいてるからぁ!」

 ベテラン刑事が発する静かな気迫に耐えかねて、ついに成瀬は真実を口にした。

「成瀬さん、それは自白と捉えてよろしいんでしょうか?」

「う…。く」

 成瀬は絶句し、その場に崩れ落ちた。

「では、署までご同行お願いします。あ、安心してください。まだ犯人と特定されてませんから、手錠はかけませんので」

 野宮に促され、成瀬彰人は力なく立ちあがった。戸倉と野宮に両腕を抱えられて、店の外に連れていかれた。パトカーを呼んだのだろう。数分としないうちに、サイレンを鳴らしたパトカーが店に横づけされ、成瀬彰人は戸倉と野宮と共にパトカーに乗せられ連行されて行った。

 すぐに別の刑事がやって来て、また詳しい調書を取るために後日、署へと呼び出しがあるだろうと告げ、その場の全員はやっと解放された。

嵩にとって長過ぎた一日は、ようやく終わった。

 結局、嵩も莉子も、お互いの胸に秘めている闇を、お互いに知られることなくその日は別れた。

 その夜はいろいろな意味で忘れられない一日となったが、この後、それをさらに上回る事態に発展していくとは、嵩もまだ想像もしていなかった。その夜は、とにかく早く家に帰って、ゆっくりと眠りたかった。夢も見ないほどに深く深く、ただ眠りたかった。

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