第6話 鎌とギター

あいつはガキの歌が好きで

一緒に歌うのも好きで

(その程度の感覚で)射精するのも好きで

だけど、その意味もわかってねぇから呆れる


俺たちはなんでも手にできる

天然の淫売

傷だらけの果実

ガキの発情


―In Bloom(花盛りもしくは発情期)―



 死神は、死した人間の身体から、魂を抜きとり、あの世へと誘う。それ以上の死体への干渉は許されない。粛々と、無感情に己の仕事を全うしなければならない。だから、今、二人の刑事の心に去来した、死神を憎む心情は、本来なら死神に対する冒涜でしかない。だが、それでも死神を憎む気持ちに、一片の曇りもないのは、その結果を齎した死神の正体が、まだその実体を現していないからだった。

悪魔の仕業と言い変えてもいいだろう。そのくらい、むごい現場であった。人の仕業だと思いたくなかった。しかし、刑事は死神や悪魔を捕まえはしない。必ず、その結果を齎したのは人間である。そうでなければ自分達の存在は無駄でしかない。頭で理解はしている。なのに、捜査とは関係なく、見えない犯人への怒りの塊が止めどなく心から溢れ出てくるのは、その現場を見れば無理もなかった。

 死体は、絞殺された後、屍姦されていた。被害者は都内に住む女子高生。遺体側に落ちていた学生鞄の中から見つかった学生証から、名前と年齢、在学している高校名が判明した。

 名は、羽鳥愛子。年齢は十六歳、都内のS女子高等学校に通う、高校一年生だった。着衣に乱れがあったものの、制服は着たままだった。下半身の下着だけが脱がされていた。無理矢理引き千切られたような形跡がないため、おそらく、言葉で脅され、自ら下着を下ろしたのだろう。レイプ殺人の場合、ほとんどが、被害者が抵抗しようとして、犯人が、口を封じるために勢いで殺してしまったというのが、自然な犯行の流れだが、鑑識の調べで、この卑劣な殺人者は、まず、被害者の羽鳥愛子を絞殺したのち、屍姦した可能性が高いことが解かってきた。

 学生証に載っている、ぱっちりとした瞳で、少しだけ笑みを浮かべた無垢な少女の写真とは違い、すでに、抜け殻と化してしまった遺体の表情には、はっきりと、苦悶の痕が残っていた。絶望の闇の中でこと切れたのだろう、半開きのままの目が、毛細血管が切れたせいで、まさに血の涙を流していた。

 首の骨が折れるくらいに絞められ、どれほど苦痛であっただろう。ついさっきまで、同じ死に方をした少女、蟹江百合の当時の捜査資料を調べていた二人は、奇しくも同じ死を辿ったこの少女に、特別な感情を抱かずにはいられなかった。

「むごいことを…」

 戸倉は、それ以上は言葉に出来なかった。

「犯人は、同一人物でしょうか?」

 野宮の言う犯人とは、もちろん蟹江百合を絞殺し、屍姦した犯人を指していた。

「憶測で物を!…」

 戸倉はそう言おうとしたが、戸倉自身も、同一犯ではと、直感していた。デカの勘は、時々、自分でも嫌になるくらい当たってしまう。事件が起こるたびに、周囲を覆う負の空気を、何十年も浴びてきたのだ。死神の匂いを嗅ぎわける能力は、自然と身体に沁みついていた。戸倉もまた、警視庁捜査一課で長年生きてきた殺人事件のプロフェッショナルだった。

 もちろんただの憶測だけではない、少女が遺体となって発見された場所は、蟹江百合が最後に目撃されたライブハウス「弁天」から、ほんの数百メートルしか離れていない雑居ビルの、非常階段だったのだ。真夏の場合、遺体の腐敗はおそろしく早い、少女の発見が早かったのはせめてもの救いだった。

偶然、ゴミ捨てに出たそのビルのテナントに入っている中華料理屋の店員が、非常階段の踊り場に倒れている少女を発見し、すぐ警察に通報した。死後硬直の状態から見て、犯行はおおよそ、午後六時から午後九時までの間。

都会の喧騒に掻き消され、少女の助けは誰にも届かなかった。またしても都会の死角が、ひとつの未来を奪い去ってしまった。

「鑑識は、被害者に残った精液を採取しただろうな!」

 戸倉が感情をむき出しに叫ぶ。

 警視庁の優秀な鑑識班だ。もちろんその場で犯人の物と思われる精液を採取していた。本当なら一時も早く、少女の身体を綺麗に洗って、肉親の元に帰してあげたい。子を持つ親の心情は、痛いほど分かっている。自分の仕事が刑事でなければ、こんなに心を押し殺して、無言の少女の遺体を詳しく調べなどしたくはない。

 戸倉は、犯人が同一犯ではないかと考えれば考えるほど、罪悪感に似た自責の念が溢れだすのだった。

「もう、ぜったいに同じ被害者は出させねぇからな…」

 戸倉の地獄の底から響くような、鈍色の忿恚の声は、周囲の刑事たちにもその気持ちが伝わり、現場は異様な緊張感に包まれた。


 2


 その同じ日、嵩は、行方不明の父を知っていると言う、莉子という少女と会っていた。同じ芸能スクールに通っていた莉子を、嵩はほとんど憶えていなかった。面影すら浮かばない。おぼろげに、そういう名前の子がいたなぁくらいしか記憶にない。莉子は、嵩の父親、糸井忠光について知っている情報を、隠さず嵩に告げた。


 嵩の父、糸井忠光は、嵩が芸能スクールを辞めた直後に失踪していた。嵩は小学六年生だったが、幼少から、大人の世界で揉まれてきたため、他の子よりも、大人の事情には詳しかった。父が、同じ業界の、自分の知らない女と結ばれ、それが原因で失踪したのだと、はっきりと理解していた。母は、見た目だけはまだ幼さを残す嵩を気遣い、本当の話は決してしなかった。でも、嵩はちゃんと分かっていた。実際、スタッフが、父について話しているところも聞いていた。先日やってきた刑事が話していた御厨紗江子ではなかった。そんな変わった名前なら、嵩も憶えていたはずだ。もっと平凡な、どこにでもいる感じの名前だった。思い出せないくらいのごく普通の名前…。ただ、女の顔は、よく憶えていた。自分の母とは、正反対の、きつめの印象を持った女だった。俗に言う、きつね顔といった雰囲気だろうか。つり上がった目が特徴的だった。あとは、口の横に大きなホクロがあった。正直、どうしてあんな女に父が靡いてしまったのか、嵩は未だに理解できない。不倫自体、理解できないが、容姿だけならいくらでも美人のいる業界だ。もっと他に、心の動く女がいてもおかしくないだろうと、父への怒りとは別に、父の行動を不可思議に思っていた。大人たちへの不信感が大きくなったのも、そのせいなのかもしれない。人の気持ちは、痛いほど伝わってくるのに、その真意までは解からない。自分の欠陥だらけの能力に、嵩は絶望するしかなかった。父はなにを考えていたのか?あれほど、熱心に、自分を芸能界で成功させようと動きまわっていた父が、どう考えてもつまらない女一人のために、自分の人生どころか、家族まで巻き添えにして失墜していった。

 父の行方ももちろんだが、知っている事があれば、なんでも訊きたかった。悪夢の元凶を断ち切りたい思いでいっぱいだった。

 莉子の話を訊くまでは、まさか、さらに大きな絶望に包まれるとは、嵩自身、思ってもいなかった。


 莉子の母の名は、杉田良子。莉子がその名を口にした瞬間、嵩の記憶の奥底から、抜け落ちていたカケラが、はっきりと姿を現した。確か…。確かにそんな名前だった。ごく普通の、どこにでもいそうな女性の名…。

「嵩くんのお父さんは、うちのママと駆け落ちしたんだよ」

 実にあっけらかんとした口調で、莉子は事実を話した。

 嵩は、まわりの景色が、一瞬で色を失った気がした。

 

  3

 

「あれ?」

 嵩はなぜかカフェではなく、小さな部屋にいた。部屋と言っても普通に人が住んでいる様子はない。床は、コンクリートむき出しで、天井には、大きなミラーボールが吊るされている。目の前には、マイクが何本もスタンドに立てかけてあって、奥にはドラムセットがある。壁に、何枚もの宣伝告知が書いてあるボロボロのチラシが貼ってある。本当にコンビニでコピーをとっただけの粗末なチラシから、ちゃんとフルカラーで印刷してあるポスターも貼ってある。

「部屋じゃない…」

 嵩はすぐに、自分が居る場所が、特殊な空間だと認識した。いや、それよりもなんで自分がここに?

 記憶が何時間か何十分か分からないが、完全に飛んでしまっている。確か、カフェで、芸能スクール時代の同じ事務所に所属していた莉子という女の子と会って、そのあと、ひどい発作に襲われて…。

 嵩は、頭の中をなんとか整理しようとしたが、発作の原因となった莉子の告白が、脳に蘇りそうになるとまた、軽い吐き気をもよおした。そうだ、あのあと、カフェのトイレで嘔吐して。

「で?どうなった?」

 嵩は、時折、ひどい発作に襲われると、記憶をなくす症状があった。医者からはパニック発作でしょうと診断されていた。だから、あまり人のいる場所には行かなくなったのだ。電車も、実は一人で乗ったのは今日が初めてだった。子役時代はいつも、車しか使わなかったし、その後も電車で遠出する機会はなかった。電車に乗ったのは小学校以来か。父の情報が欲しくて、決死の想いで地下鉄に飛び乗ったのだ。約束した場所のある、最寄の駅に着くまで、ずっと目を瞑って、携帯音楽プレーヤーで、爆音で、自分の作った曲を聴きながら来たのだ。きっと、ヘッドフォンからは音が漏れまくっていただろう。でも人の迷惑など考えている余裕はなかった。

 そんなギリギリの状態で、莉子に会い、莉子の口から直接、父の、自分のまったく知らない過去を伝えられた。心に、直接爆弾を投下されたような衝撃を受けて、本当に心臓が止まるかと思った。

 で、ここはどこだ?思考が堂々巡りする。なんとなく、どういう場所なのかは解かる。音楽をするための場所だ。嵩は、音楽の機材には詳しかった。一種の安定剤の代わりか、無機質な機材群を眺めていると、いくぶんか気持ちが落ち着くのだ。嵩の自宅の部屋にも、父がかつて買い与えてくれた、或いは父がもともと所有していた楽器や音楽機材達が、所狭しと置いてある。機材に押しつぶされて死ぬのなら、巨大地震が来ても、それでいいやと思うくらい、音楽の機材は好きだった。

 ― 目につく機材は、だいたい分かる。あのマイクは、SHUREのMS58。どこにでもある代表的なヴォーカル用マイクだ。MS57もある。これは、楽器の音を録音するのに向いている。ヴォーカル用にも使えて、芯のある音が定評で、ガレージ系のパンクバンドのヴォーカルなどがよく好んで使う。ギターアンプは、マーシャルアンプが二台。ヤマハのアンプはキーボード用か?ベースアンプは知らない機種だな。PAのミキサーが、SSLのデジタルミキサーだ!こんな高級なミキサー使ってるんだ。ここってけっこう有名な場所なのかな?デジタルミキサーをPA用に使うってわりと珍しいんじゃないか?最近はそうでもないのか?もしかしたらレコーディングスタジオも兼ねているのかもしれない ―

 嵩は、機材群を眺めているうちに、だんだん落ちつきを取り戻していった。自分の立っている所が、ライブハウスと言われる場所だと理解した。

 大きなステージのあるコンサートホールは何度か仕事でも来た事があったが、こういう小さいライブハウスは初めてだった。発作が落ち着いてくると、嵩はうっすらとだが、ここまでの道のりを思い出してきた。

 莉子に手を引かれるように、きっと元気が出るよと言われ、半ば強制的に連れてこられたのだ。

 途中電車にも乗った気がするが、切符代は自分で払ったのか、それとも莉子が払ってくれたのか、まだ所々、記憶が抜け落ちている。

 それでも、莉子が「元気でるよ」と言ってくれた通り、この空間が心地いい。少しだけタバコ臭いのを除けば、しばらくここで休んでいたい気持ちになった。

 そういや、他に客がいない。誰もいないから落ち着くのかもしれない。壁に、秒針の壊れた時計が掛けてあった。この時計が正しいのなら、時間は五時半を少し過ぎたところだ。

 普通、ライブが始まるのは夜七時くらいだろうか?まだ開場もされていない店内に入って大丈夫なのか?嵩が考えていると、缶コーラを二つ持った莉子が、防音扉を開けて嵩のいるホールへと入ってきた。

「嵩くん大丈夫?ほんとは救急車呼ぼうかって思ったんだけど、嵩くんが大丈夫って言うから。心配したんだよ」

 莉子はそう言って、ふたつあるコーラのひとつを嵩に渡した。

 嵩は自分が「大丈夫だ」と言った記憶もなかった。こんなひどいパニック発作は久しぶりだった。あんな話を聞けば無理もないかと、納得はできた。いけない。莉子の話を思い出そうとすると、また気分が悪くなる。今はもう少し心が回復するのを待とう。どうせ事実はもう変わらないのだし。嵩は自分自身にそう言い聞かせ、貰ったコーラをひと口飲んだ。生き返った気持ちになる。

「ここ、まだ時間早いんじゃないの?入って大丈夫なの?」

 嵩が訊く。

「うん。私、常連だから。それに今日は私も出るから」

「出る?」

「そう。ライブするんだよ。あれ?メールで知らせたじゃん」

 そういや、メールの最後に、ライブをしているとか書いてあった気がすると、嵩は思い返してみる。父の事が気になりすぎてちゃんとメールも読んでなかった。

「ひどいなぁ。本当にお父さんのことだけで来たんだね」

 莉子が明らかに不満な表情になったので、嵩はどう返していいのか分からなくなる。やはり人付き合いはなによりも苦手だ。異性ならなおさら苦手だった。

「いや、ゴメン。いろいろあって…」

 その「いろいろ」をうまく説明できない。嵩は、どうにも言葉が出てこないのでもう一度「ごめんなさい」とさらに丁寧に謝るしかできなかった。莉子は、機嫌が直ったのかどうか、曖昧な表情のままだが、「別にいいけどね」と、一応許してくれたようだ。

「で、今からリハーサルがあるからちょっと待っててね」

 莉子はそう言うと、ステージの横にある、おそらく楽屋に通じていると思われるドアに向かって行く。と、ドアを開ける途中で、嵩の方に急に振り向いた。

「ねぇ。今日やる曲って、シーケンサーの打ち込みをオケにして歌うだけだから、嵩くんギター弾いてよ。コードも簡単だし。ね、そうしよう!」

 ひさしぶりの再会といっても、ほとんど記憶がないからほぼ初対面なくらいなのに、莉子がとんでもない提案をしてきたので、せっかく少しだけ発作が治まっていた嵩だったが、再び卒倒しそうになった。

 は?ライブに出ろって?そんなの無理に決まってる。

 迷うまでもなく、嵩は断ろうとした。莉子もそんな嵩の反応は分かりきった様子で、嵩の言葉も聞かず、楽屋へと行ってしまった。そして、数十秒と経たず、ギターを一本持って来たのだった。

 嵩は有無を言わさず、強引にギターを渡された。

 ずいぶん古いギターだが、嵩はギターにも詳しい。それがヴィンテージで、高級外車が余裕で買えるほどの価値のあるギターだとすぐにわかった。メンテナンスがしっかりしてて、状態も良い。

「これっ。このレスポール、58年製のやつじゃ…」

 ストラップも付いてないギブソンレスポールを急に渡されて、危うく落としそうになる。レスポールはエレキギターの中では重たい方で、価値を知っているからよけいに、ずしりと、掴んだ手にそのボディの重みが強く圧し掛かった。

「ああ、いいの。いいの。貰ったものだし」

「いや、貰ったものって、これすごい高いギターだよ」

「私ギターには興味ないもん。やっと最近チューニング憶えたくらいだし。ギターなんて高くても安くても、弾く人次第でしょ?」

 なんだかもっともな意見のようだが、嵩には莉子の言動がまったく理解できない。急にライブに出ろと言ったり、おそろしく高価なギターをおもちゃでも扱うように、ぽいと渡してきたり。

 だが、嵩は憧れのヴィンテージギターを手にして、気持ちが高揚しているのも、また正直な気持ちだった。父が残してくれたギターは、フェンダーのテレキャスター一本で、それもフェンダージャパン製のそれほど高くないギターだったので、ヴィンテージのレスポールは憧れだった。一生手にすることはないだろうと思いながらも、何度、雑誌のカタログを眺めては、自分が弾く姿を想像したことだろう。

「ね。ちょっと元気出たでしょ?」

 莉子に言われて、反論はできなかった。ヴィンテージレスポールを手にした途端、発作などどこかに行ってしまったのだ。

「鳴らしてみたいでしょ?私と一緒にリハーサルやったら弾けるよ」

 なんだかうまく騙されたような気もしたが、弾いてみたい欲求が、嵩の心にブワっと広がってきた。

「ちゃんと、エフェクターもあるから使っていいよ」

 こうして、嵩は、言われるままに、舞台に立つことになった。小さいとはいえ、舞台に立つのは六年ぶりだ。しかも、音楽の舞台はこれが生まれて初めての経験だった。

 莉子の言った通り、ライブで演奏する曲は、初心者でも分かる簡単な3コードの曲ばかりだった。ジャンルは、テクノポップだと莉子自身は言っているが、今流行っているようなテクノポップとはだいぶかけ離れた、なんというか、独創的な曲調だった。それは、贔屓めに嵩が述べた感想で、本心は、音楽の基本もまるでなっちゃあいない、滅茶苦茶のアレンジだと思ったが、これ以上機嫌を損ねられたら困るので、本心は伝えなかった。正直、こんな曲で、このギターを鳴らすのが、ギターに対して失礼だろとさえ言いたかった。でも、嵩にそんな権限はない。発作を起こした自分を介抱してくれた恩も、少しは感じていたし、なにかわからないが、とにかくギターの音を出せば、ずっと胸に居座っている黒い鉄球が少しでも軽くなるような気がした。

 まだ頭がぼんやりするのは、発作が完全に治まってないからだろう。ギターのシールドをアンプに差すと、普段はヘッドフォン越しでしか聴けない、生きたギターの音が、まだ誰もいないライブハウスの箱の中に響いた。その瞬間、不思議と、今まで靄のかかっていた視界が開けた気持ちになった。やっぱり、自分の持っている安物のギターとは音が格段に違う。普段、ヘッドフォンでしか聴いてないギターの音でも、嵩には違いがはっきりとわかった。興奮している自分に驚く。心を動かさないように、あえて封印してきた数年分の気持ちが溢れ出る。

「嵩くん、ちょっとギターの音大きすぎるよ」

 莉子の注意も耳には入らず、ボリュームつまみを全開で、音を出した。簡単なリフで指を慣らす。ほんの数節の短いリフだ。コードC、A、Dだけでのリフレイン。それだけなのに…。

 注意した莉子も、嵩のギターの音色に心を撃ち抜かれて、しばらく嵩のプレイから目が離せなくなった。

 嵩は、高級なギターが、この音色を出しているのだと感じていたが、それだけではない。嵩のギターの腕が、ギターに命を吹き込んでいるのだ。父の、英才教育で培った、確かな基本があったからこそであろうが、もともと嵩に宿っていた、プレイヤーとしての資質、才能が、ヴィンテージギターに呼応して、この音を作りだしていた。

 ハーメルンの笛吹きについて来る子どものように、誰も居なかったホールに、楽屋からか、スタッフルームからか、自然と人が集まってきた。莉子はリハを一時中断して、嵩に自由に弾かせてやった。

「すげぇ良い音…」

 誰かが呟いた。

 嵩はギターに集中し過ぎて、人の気配に気づいていない。ふと前を見ると、客席に数人の人が集まっているのにやっと気づき、驚いて弾いている手を止めた。

 音響の調整をしていたPA(音響担当)スタッフの責任者と思われる、長髪をゴムで後ろにとめて、蛍光グリーンのスタッフジャンパーを着た男が、ホール中央に出てきた。普通のコンサートホールや、ライブハウスなどは、PAブースは客席の一番後ろに位置するのが一般的であるが、ここのライブハウスは、ホールの設計上、PAブースは、ステージのすぐ斜め下にあった。その位置だと正面からの音のバランスが分からないので、中央で音のバランスをチェックする必要があるのだ。

「ごめん。君、もう一回音出してくれる?」

「えっ?は、はい。すいません」

 ギターのプレイとは逆に、声を出すと、いつもの気弱な部分が出てしまう。どう弾いたらいいのか分からず、開放弦でとりあえず音を出した。「ジャーン」と絞まりのない素のギター音が響いた。

「いや、もうちょっとさっきみたいに、なんでもいいから曲弾いてみてよ」

 そう言われて、初めてオーディションを受けた時のような緊張感が嵩の身体を硬くさせた。初めてのオーディションの記憶も忘れていたはずだったが、きっとこんなだっただろうと、いつものパニクった時に出てくるもう一人の離脱した自分が、冷静に自分の心境を分析した。 

「え、えーと…」

「ほら、単に出音の調整するだけだから、さっきみたいに自由に弾いていいよ」

 莉子に、促され、さっきと同じように音をだす。緊張に包まれたせいか、先ほどの命の宿った音ではない。それでも、ホールに出てきた、今日演奏するだろう他のバンドの人たちを、唸らせるほどの力強い音に違いはなかった。

 当の本人である嵩は、ライブ初心者である自分の様子がこの人たちに伝わって、馬鹿にされてはいないかと、冷や汗がでた。

「OK。OK。すごいね君のギター。じゃあ次、シーケンサーの音を出してください」

 PAの男が言った「すごいね」の言葉が、ギターの価値に対してなのか、嵩のプレイに対してなのか分からなかったが、嵩にとってはどちらでも良かったし、緊張のせいで、気にもならなかった。嵩は、ライブ一回終えたほどの疲労感でいっぱいになった。嵩が音を止め、今度は莉子が、シーケンサーでプログラミングした、出鱈目な自称テクノポップの音を流した。演奏は、機械が勝手にやってくれるので、スタートボタンを押すだけの簡単な作業だ。その曲に合わせて、歌う。マイクチェックのために、PAの男は一度ミキサーのあるPAブースに戻り、イコライザーやリバーヴの微調整をする。莉子のリハーサルは、すぐに終わった。

「最後に一曲通して、音出してください」

 PAにそう言われ、嵩はもう一度冷や汗をかくことになった。こうなったらと、覚悟を決めて、シーケンサーの音に合わせてギターを弾く。やはり出力の大きいギターの音の方が、シーケンサーの音源よりも勝ってしまう。莉子が、嵩がボリュームいっぱいまであげたアンプのつまみをこっそりと下げて、なんとか良いバランスになった。

「はい、ありがとう。本番よろしく。じゃあ次のバンド準備してください」

 PAの男は急いで次のバンドのリハの準備を始めた。

 全身に汗をかき、ぐったりしたままの嵩を、莉子は楽屋に連れていった。

「嵩くんたらリハなのに緊張しすぎ!もっと自信もって」

 ―そう言われたってしょうがない。誰だって緊張するだろう―

「本番はアンプのボリューム5のメモリより上げないでね」

 ―やっぱり本番に出演するのか?とんでもない状況になってしまっった。ステージで発作が起きたらどうするんだ―

「まぁでも、びっくりしちゃった。嵩くんのギターはやっぱり本物だったのね」

 ―君に本物か偽物かの違いが分かるのかよ―

「あーわたしも楽しみ。嵩くんとライブできるなんて夢みたい」

 ―ボクもこの状況が夢であって欲しいよ。なんで今ここにいるのか不思議でしょうがないよ―

 一方的な莉子のおしゃべりに、一言も返す気力もなく、嵩は心で言葉を返す。楽屋にある安いパイプ椅子に座り、残ったコーラを飲み干した。

椅子の前にある、化粧鏡に映る自分の姿を見ると、我ながら情けない気持ちになった。顔が半分以上隠れるほど伸び放題の髪。最近生えるようになった無精ヒゲ。か細く白い体躯。まるで死人じゃないかと思う。今日のために、なるべくマシな服を選んできたつもりでいたけど、街を歩く人たちと比べたら、自分の服装はひどく地味で、滑稽だ。

夏だと言うのに、マシな服がこれしかなかったからと、仕方なく引っ掛けてきた紺色のカーディガンも、良く見ると毛玉だらけだ。その下は、ただの白いTシャツ。三枚で千円のやつだ。ジーンズも穴だらけ。スニーカーも中一の時に買ったやつで、もうサイズがあっていない。ぜんぜんまともじゃなかった。こんなみすぼらしい恰好で舞台に立つのかと想像すると、哀しくなってきた。

「嵩くんの恰好、カートコバーンみたいでカッコイイね」

 突然莉子がそんな事を言うので、手に持っていた空になったコーラの缶を、思わず落としてしまった。カランと乾いた音が楽屋に響いた。

「カートコバーン!ボクが?」

 嵩は、その名を良く知っていた。二十七歳で、ショットガンで自らの頭を撃ち抜いて、ドロドロの脳ミソをぶちまけて死んだ、かつての象徴(ロックアイコン)の一人。バンド、ニルヴァーナのヴォーカルで、ギタリストでもあった、グランジ(音楽ジャンルのひとつで、薄汚いの意)のカリスマとまで呼ばれた男。

 普通にロック音楽をしている者なら、名前くらいは聞いたことがあるだろうが、嵩にとってのカートコバーン(発音はカートコベインが正しい)は、ある意味特別な存在だった。

 ファンと言うわけではない。むしろ、売れっ子になった重圧に負けて自ら命を断った、ドラック常習者の弱者だと、嵩はカートをそうとらえていた。特別な存在と言うのは、父の話に、よくこの男が出てきたのだ。なんの自慢にもならない話を、嵩の父は何度も嵩に言い聞かせた。

「こいつと俺とは、生まれた歳も誕生日も一緒なんだ。そして、こいつが死んだ日に、おまえが生まれたんだ」

 ― 父はなにが言いたかったのか?ボクがカートの生まれ変わりだと言いたいのか。父はカートと違って自殺しなかったと言いたかったのか? ―

嵩が物心ついたころには、グランジと呼ばれたロックの一ジャンルのカリスマだったこの男の話など、もう誰もしていなかったし、グランジという言葉自体死語になりつつあった。ロックは、オルタナ、ミクスチャー、ハードコア、メロコア、ポストロック、電子楽器と融合したデジタルロックやクラブミュージック、そしてかつてのパンク音楽への原点回帰など、様々な名で、どんどんジャンルが細分化されていって、グランジなど、完全に埋もれて音楽界の化石になっていた。

 そして嵩の父は、カートコバーンの話ばかりするくせに、嵩に教えていた音楽は、王道のビートルズから始まって、ニルヴァーナが売れるまで、洋楽のロックを席巻していたメタルミュージック中心だった。だから、嵩は、カートの名前と人生は良く知っていても、音楽自体はあまり聴いた記憶が無かった。

「嵩くんのギターの音もカートみたいだよ」

 莉子は、そう続けて、さらに嵩を驚かせた。

 父の音楽から離れたくて、独自に生み出した音が、カートコバーンの音に似ているなんて、皮肉にもほどがある。カートコバーンが、莉子にとっては褒め言葉であっても、嵩には、父との因縁めいた呪いのスペルでしかなかった。

「どうせなら、レスポールじゃなくて、カートが使ってたムスタングかSGか、それともフェンダー・ジャガーのほうが良かったかな?」

「もうその話はよそう。このレスポールの音気にいったし」

 嵩は、なるべく心の動揺を悟らせないように、話を逸らした。

「そうだね。良かった。気に入ってくれて。ギブソンレスポールはギタリストの憧れだもんね」

 莉子は動揺しているのに気づいてはいないようで、嵩はほっとした。

 

 4

 

「やはりここも聞き込みしといた方がいいですよね」

 ライブハウス「弁天」のあるビルの前まで来た刑事、野宮は、先輩の戸倉に次の指示を仰いだ。

「当たり前だ。こんだけ近い距離で、類似点だらけの事件が起きたんだ。なにかあるって考える方が自然だろ」

「ですよね。ここに出入りしている人物が犯人である可能性もゼロじゃないですしね」

「ゼロどころか充分可能性はあると思う」

「とりあえず入って話を訊いてみましょう」

「ああ行こう…」

 二人の刑事は、二年ぶりに訪れた「弁天」になにか因縁めいたものを感じつつ、ビルの横の、ライブハウスへ続く通路の奥へと入って行った。

 入口のドアを開け、階段を地下へ降りていくと、さらに金属製の重く分厚い防音扉があって、開けると金属の軋む嫌な音がした。二年前を思い出す。あの時は、GENの事故死から少女の遺体が発見されるまで時間が経過していたため、このライブハウスが、事件の重要な場所になるとは考えていなかった。

 当時、蟹江百合が最後に立ち寄った場所だと判明したのも、ずいぶんあとになってからだった。犯人は、百合のケータイを持ち去っていたため、足取りを特定するのに時間がかかったのだ。ケータイは、未だに発見されていないままだ。

 防音扉の先には、狭い受付ロビーがある。この、甘ったるいココナッツミルクに似た、なんとも言えないお香の匂いも二年前のままだと、戸倉は思い出した。

 二年前と変わらない、煤けた壁と天井。変わったのは、壁に貼られたポスターくらいか。ポスターの中に、あの〈スサノオ〉の物もあった。ここの人間はデリカシーが欠落しているのかと、戸倉は説教したい気持ちになった。

「戸倉さん!これ、スサノオのポスターがまだ貼ってありますよ」

「分かってるよ。それより、まだライブ中か?」

 ロビー奥に、まだもう一つ防音扉がある。その先がホールだ。扉から、誰かの演奏している音が漏れてくる。

「しかし、ここは何度来ても好きにはなれんな」

 戸倉は、ロビーのベンチに腰掛けて、胸ポケットからタバコを出し、百円ライターで火を付けた。

「スプリンクラー大丈夫ですかね?」

 野宮が、戸倉のすぐ頭上にあるスプリンクラーを心配する。

「こんなもんどうせ壊れたままだよ。二年前の漏電事故の時、消防の署員がスプリンクラーは作動してないって言ってただろ。見ろよ、灰皿が置いてある」

 確かに戸倉の言う通り、ベンチの横に、灰皿代わりの「防火用」とペンキで書いてある赤いバケツが置いてあって、真っ黒になった水の中に、何百本もの吸い殻がグズグズになって浮いていた。

「令状があるわけでもないしなぁ。ライブが終わるまで少し待つか」

 戸倉はそう言いながら、早くも二本目のタバコに火を付けた。

 野宮も、仕方なくベンチに座った。

「しかし、受付に誰もいませんね」

 野宮が言うように、ロビーの受付には誰もスタッフがいない。

「これ、タダでライブ見ようと思えば入り放題じゃないですか」

「そのへんは、音楽好きの人間同士のモラルっていうか、ルールがあるんじゃねぇのか?」

「そんなのあるんですかね?」

「知らねぇよ!ガキの世界のことなんかよ」

 戸倉は苛立っているのか、いつもより口調が荒い。タバコはすでに四本目だ。

「ちょっと吸いすぎですよ」

 野宮はタバコを吸わないので、先輩の身体の心配より、単に狭いロビーに煙が充満しているのが我慢できない様子だ。一旦外の空気を吸いに、野宮は再び階段をあがり、外に出た。

 外は外で、都会の、様々なものが混じり合った腐臭が路地に溜まっていて、決して、心地よくはない。淫残な現場を見たあとだったので、よけいに臭いが鼻につく。自分で選んだ仕事とはいえ、こう毎日、荒んだ現場に浸かっていては心が持たない。事件が解決したら休暇をとって、どこか自然のたくさんある綺麗な場所に行こうと、野宮は心に決める。ここからじゃ明るすぎて、星も見えない。

 野宮は観念したように、踵を返してまた「弁天」に戻ろうとした。その時だった。

「あっ!」

 野宮の背中に誰かがぶつかった。

「もうぼんやりしてるから。ごめんなさいね。ほら嵩くんも謝って」

 野宮はその少女の声に聴き覚えがあった。少女が言った「嵩」という名にも。

 野宮が振り返ると、よれよれのカーディガンと、髪で顔がほとんど隠れている少年が、少女に支えられるようにして立っていた。

「あれ?君はこないだの、糸井さんのとこの息子さんじゃないか。それにそっちの君は…」

 野宮が莉子の名を言おうとした瞬間、莉子は「あっ!」と声に出して、急いで逃げようとした。

「ちょっと!ちょっと待って!君!」

 野宮が叫んで、莉子の体は止まった。それ以上逃げないように、野宮は莉子の腕を掴んだ。

 嵩は、なにがなんだか訳が分からない。ただでさえ、初めてのライブのあとで、満身創痍な状態で思考がついていかない。

「ちょっとだけ来て貰えるかな」

 野宮に言われるままに、二人は戸倉のいる「弁天」のロビーまで連れていかれた。最後のバンドの演奏がちょうど終わったところだった。

「おい、こりゃどういうことだ。君は莉子ちゃんじゃないか?なんでこの子と一緒にいるんだ?」

― この刑事は莉子の事を知っているのか?父親がらみの話を莉子にも訊いていたのだろうか?じゃあ父さんが殺人事件に絡んでいる事も、莉子は知っていたのか? ―

 嵩は、刑事と莉子の間に立って、あれこれ考えを巡らせた。そして、当然のように次は自分に質問が来るだろうと、激しくなる動悸をなんとか落ち着かせようとした。

「あの?なにかありましたか?」

 刑事の次の質問が嵩に向かう寸前、男の声が刑事の間に割り込んできた。声の主は、弁天のオーナーだった。

「ああ、あなたはいつぞやの刑事さんじゃないですか?この子たちがなにかしたんですか?」

― オーナーも刑事を知っているようだ。ここで以前なにかあったのかな? ―

 嵩は状況がよく飲み込めていない。無理も無い、嵩は、この「弁天」で二年前に起こった二つの事件を知らないのだ。このライブハウスの名が「弁天」であることも、ついさっき、ライブを終えてから、初めて知ったのだ。

「まずはなにから話したらいいのかな?」

 野宮も戸倉も、嵩が莉子と一緒に、しかも「弁天」に入ろうとしていたので、少女殺害の件が先か、この二人の話が先か迷った。とりあえず、二人はどういう関係なのかと、嵩と莉子に尋ねた。

 嵩は父親がらみの話もせねばならない状態で、莉子に迷惑をかけるかも知れないと思い、なかなか言い出せない。

 莉子は莉子で、二年前の事件の時、蟹江百合と最後に会っていたのは自分だと嵩に知られたくない。いや、二年前の事件すら、嵩は知らないだろう。バレたら、益々、嵩に不審がられてしまう。

 二人は各々の思いを胸に無言のままだ。

「んー。まぁいいだろう。それは後から訊こう。それよりも、オーナーさん、すまないが、今この店内にいる人間を全員集めて貰えますか?」

 戸倉は嵩たちの話はあとにして、事件についての話を進めた。

戸倉に言われ、怪訝な表情を浮かべたまま、弁天のオーナーは、店内の全スタッフと楽屋に残っていたバンドの人間をぜんぶロビーに呼んだ。

ロビーでは狭かったので、皆でホールに移動する。

「ちょっと言いにくい話なんですが、これも捜査協力だと思って、しばらく私たちの話を訊いてくださいませんでしょうか?」

 野宮は物腰柔らかく、集まった人たちをなるべく怖がらせないように、優しい口調で言った。

 野宮の優しい口調がまったく無駄になるほどの、数時間前に起こったばかりの淫残な事件の概要が皆に伝えられ、その場に集められた人間は皆、強い衝撃を心に受けたのだった。

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