第5話 天才
ボクはだれにもなれない
でもモノマネはできるよ
日が暮れても
ボクは輝いてるよ
すっかり落ちぶれても
毎日を楽しんでるよ
ボクはバカなのか?
それともただの能天気?
きっとそうだと思うよ 幸せさ
心が破れても、貼りつける接着剤は持ってる
これを吸おうよ?一緒にキメよう
空をたゆたう 雲でひと休みして
また地上に堕ちて ひどい二日酔い また二日酔い
日を遮断して
寝るよ
消えてほしい
魂が軽いのは経験上、知ってるよ
祈ってほしい
醒ましてほしい
起こしてほしい
ボクはバカなんだろうな
バカなんだろう
― DUMB(バカ)―
「どう思います?」
訊いたのは、まだ顔つきに幼さの残る、刑事の野宮だ。幼いといっても、もうすぐ二十八になる。童顔は生まれつきだった。刑事課に配属されてから今年で三年経つ。結婚もしていて、二歳になる娘がいる。最近仕事が忙しいせいで、家に帰るのが深夜になる事もしばしばで、妻からも幼い娘からも、責められている。もっとも娘の方は、母の影響で、面白がってパパを責めているだけだが。
「そりゃ、まぁ普通に考えれば、二年前の事件と関係ないとは言い切れないかもしれんな。でも憶測で言っちゃならんぞ」
低い声が特徴の年配の刑事、戸倉が答える。
「いや、二年前の事件でなくて、糸井忠光と、御厨紗江子の関係の事ですよ」
「ああ、そうか、そうだったな。すまん」
戸倉が慌てた口調で切り返す。
「戸倉さんこそ、まだ二年前の事件を気にしてるんですか?確かにまだ、女子高生が殺された事件の犯人は捕まってませんし、戸倉さんが気にしてるように、あのギタリストの死も、同時期に起こったわけですから、確かに偶然にしては不可解な話ではありますけど」
戸倉より親子ほども歳の離れた野宮の方がしっかりとした口調だ。
「御厨紗江子も、女子高生の事件の時、散々調書取ってるから、よく知ってるんだわ」
「業界内ではかなり評判は悪かったようですね」
「正直、実際にこういう世界だと知ると心配になるよな…」
「娘さんの事ですか?」
野宮は話を逸らす。戸倉にも同じく一人娘がいて、もうすぐ中学を卒業するのだが、アイドル歌手を目指しているらしい。ダンス教室にも通っていて、本格的にプロを目指している。親としては、娘の夢を叶えてやりたい気持ちもあるが、まざまざと業界の暗部を見てしまうと、素直に応援もできなくなる。当たり前の親心であるが、当然、娘には嫌がられている。
「うちの事情はおまえが気にする必要ないんだよ!」
そう言って、戸倉は野宮のこめかみを、両方の拳でグリグリと挟んだ。
「イテテテ。すんません。余計な話でした」
「わかりゃいいんだよ。兎に角、糸井忠光を見つけ出すのが先だな」
「そうですね」
二人の警官は、短い昼食を牛丼屋で済まし、聞き込みを再開させた。結局地道にいくしかないのか、今夜も遅くなりそうだ。
野宮は、妻と幼い娘の顔を思い浮かべながら、早足で先に進む戸倉を追いかける。
2
二年前の雨の夜、ライブハウス「弁天」で〈スサノオ〉のギタリスト、GENが、演奏途中に死亡した。ギターのピックアップが焼け焦げていたため、当初は感電死が疑われたが、通常、ギターの感電で死亡する可能性は、ほぼゼロに近い。改造されたアンプや、昔使われていた真空管アンプなどを、劣化した状態で使用すると、まれに感電も在りうる。だが、人体がアースの役割を果たし、少し痺れを感じる程度だ。感電死の要因としては、いかに、直接心臓に電流が流れるかだ。ごく微量の電流でも、心臓を止めることは可能だ。かつて、十七歳の山田かまちが、改造したアンプとエレキギターで感電死したように、確かに、その夜、GENは感電していた。
消防と警察両方の調べで判明したのは、あの夜、天井裏の、電気配線は漏電していた。そこに、降りしきる雨の雫が、壁のヒビから伝い、天井裏まで浸みていた。そして、漏電個所でショートしたのだ。その瞬間、アンプにも過度の電圧がかかり、電流がアンプを通じてギターに流れた。もちろん、他のメンバーの楽器やマイク、音を調節するミキサー卓にも同じく電流は流れた。それで、ブレーカーのひとつが落ちた。
GENの弾いていたジャズマスターという名のエレキは、過去何度も故障していて、そのたびに改造されていた。そのせいで、他の、アースがしっかりしている楽器よりも、直接電流が流れ、完全にショートしていた。ピックガードが焦げるほどの電流が流れたのは確かだ。しかし、それでもGENが本当に感電死したのかは、はっきり判らなかった。死因は心肺停止によるものであったが、直接の原因は、感電によるものなのか、それが引き金になっただけなのか、結論はでなかった。
というのも、GENは、それ以前から、ドラッグの過剰摂取によって、心臓にかなりの負担がかかっていたのだ。いつ死んでもおかしくない状態だった。その事は、マネージャーの御厨紗江子が詳しく、事情聴取で話した。紗江子はGENがドラッグをやっている事実を知っていた。合法的なトランキライザーから、非合法のドラッグまで。メジャーデビューを目指すために何度も止めさせようとしたがダメだった。結局、警察は感電死の可能性を残しつつも、GENの死因をはっきりと特定させないまま、複合的要因が重なったことによる演奏中の突然死と結論付けた。GENは被疑者死亡のまま、違法薬物使用と所持の容疑で、書類送検された。
他のメンバーも薬物使用を疑われたが、ドラッグに身を染めていたのはGENだけだった。マネージャーの紗江子は、実際にGENが薬物を使用している現場を目撃した証拠がなかったので、証拠不十分で不起訴処分になった。本来であれば、店の漏電も含め、もっと詳しく捜査されても良さそうなものだが、警察の感心は、GENの突然死などではなかった。同じ夜、「弁天」に客として来ていた高校一年生の、蟹江百合が絞殺体で発見された事件の方が、警察にとっては重要事項だった。
蟹江百合が発見されたのは、「弁天」から歩いてわずか五分足らずの萌葱公園の女子トイレの中。清掃中の張り紙のせいで、発見が一日遅れたが、鑑識の調べで、死亡したのは、GENが死んだ同じ夜、ほぼ同時刻と判明した。殺害後に、この公園まで運ばれてきた事までは解かったが、その夜の激しい雨のせいで、容疑者のゲソ痕(足跡)も流されてしまい、遺体から指紋も検出されなかった。
ライブハウスから公園までは、大通りはなく、細い路地しか通っていないため、防犯カメラも設置されていなかった。目撃者もおらず、詳しい足取りもつかめず、車で運ばれたのか、直接、犯人に抱えられて運ばれたのかも解からなかった。警察の見解では、あのどしゃ降りの中、自力で運ぶのは困難で、車で移動したのだろうと推測されたが、その後の事件の進展はなく、犯人にたどり着く事はなかった。その夜、ライブハウスにいたスタッフを含め、チケットの半券を持ったすべての客が事情聴取を受けたが、小さなライブハウスの場合、決してセキュリティは万全ではない、一応、ロビーに受付は存在しているが、機材搬入口や、スタッフ専用の非常口から出入りしようと思えば、いくらでも侵入は可能である。本当に、何人の人間が出入りしていたのか、正確な人数を割り出せなかった。
事件は暗礁に乗り上げた。都会の片隅の匿名性が、まだ未来のある少女の命をあっけなく奪い去ってしまったのだ。
当時の新聞記事には、単に、絞殺体として発見されたとしか掲載されなかったが、百合は、死亡したあと、強姦されていた。いわゆる屍姦である。犯人がネクロフィリアなのか、単に、捜査をかく乱させるためにやった行動であったのか、真相は闇の中だが、少なくとも、少女の中に放たれた、汚れた精液は、犯人特定に繋がる有効な証拠の一つになった。もちろん後にDNA鑑定もされた。それでも、犯人にたどり着けなかった。当時の事件の担当刑事は戸倉だった。まだ刑事課に配属されたばかりの野宮も、捜査班の中にいた。
「御厨紗江子が、二年後に殺されるか…」
さんざん歩き回ったあげく、なんの情報も得られなかった二人の刑事は、行きつけの喫茶店で、一服していた。
「なんだか因果を感じますね」
童顔のせいではないが、野宮は大の甘党で、刑事に似つかわしくないチョコレートパフェを頼んで、口の周りにチョコクリームをつけたままで言った。
「因果?どこが?」
刑事のくせにチョコパフェなんて頼むなよといった呆れた表情で戸倉が訊き返す。
「だって、紗江子は敏腕マネージャーだったんでしょ?それが、一晩にふたつも事件を起こして、それであげく自分が殺されてしまうなんて、因果ってひうより、呪ふぁれてふぁすよね」
口いっぱいに生クリームを頬張っているので、語尾が情けない口調になる。
「バカ野郎!刑事が、呪いとか因果とか、そういう曖昧な話するんじゃないよ。事件には確実に犯人がいて、確実に理由があるんだ。それをつきとめるのが俺達の仕事だろが!」
普段はわりと大人しい戸倉が、珍しく声を荒げる。小さい銀メッキのスプーンをホットコーヒーのカップにカチャカチャと音が出るくらい突き立てて、苛立ちを隠せない様子だ。
まわりの客も、何事かと二人に目をやる。その視線に気づき、戸倉も一息ついて、冷静さを取り戻した。怒鳴られた当の本人である野宮は、まったく反省する様子もなく、添え付けのウエハースをシャリシャリと齧っている。こう見えて、この二人はなかなか良いコンビなのかもしれない。戸倉が冷静になるのを待って、野宮が続きを話す。
「こうは考えられませんか?二年前の少女殺人の犯人、もしくはなんらかの事情を紗江子は知っていて、今まで隠し通していた。でもついに警察にタレこみしようとした紗江子は、逆に犯人に見つかって殺されてしまった」
「それならなんで二年前にすぐ通報しなかったんだ?」
「ぼくの推測でしかないんですが、紗江子もなにか弱みを握られていたとか?それで今まで通報できなかった。それがなんらかの理由で、タレこみできる状況になって…」
「うーん。あまりにも推測があやふやだろ」
「でも、やっぱり二年前の事件とまったく無関係と考えるのも不自然な気がするんですがね」
「デカの勘てやつか?」
「いやぁ、まぁ…」
「アホ!おまえがデカの勘を使うのはまだ二十年早いわ」
「じゃあ戸倉さんはどう考えてるんですか?」
「そりゃ、俺も無関係とは思ってない。だから、二年前の捜査資料を徹底的に洗いなおしているところだ」
「え?いつの間に」
「おまえが、家族を大切にしている間にだよ。俺んちはもう家庭不和で大変だよ」
「うちだって、最近帰りが遅いって文句ばかりですよ」
「それがデカの仕事なんだがなぁ…」
「で、なにか解かったことがあるんですか?」
「ああ、ひとつ気になった事があってな。これからそれを確かめに行こうと思っている」
「じゃあこんなところで油売ってる暇ないですよ。すぐ行きましょう」
「だな…」
戸倉は、野宮の分の勘定も済ませ、喫茶店を後にした。
3
嵩は、外にいる。しかもひとりではない。嵩にとっての外出は、せいぜい近所のコンビニに、夜中の寂しさを紛らわすために出かけるくらいなもので、それでだって、もし、たむろしている不良グループなどに絡まれたら困るので、急いで用事を済ませて、誰にも見つからないように、五分弱で帰宅する。せいぜいこれが、ここ数年の外出であった。或いは、安定剤を貰うために心療内科に通院するくらいか。そっちの方は、最近は、母が貰ってきた薬を分けてもらうようになっていたので、よほどの発作に見舞われないかぎりは、昼間の外出はなかった。
それが、今、嵩は昼の繁華街にいる。繰り返しになるが、ひとりではない。相手は、嵩と同じ年齢の少女だ。少女自らの公表であるので、本当に同じ歳なのか、確定はしていない。見た目は、嵩よりも幼く見える。背も嵩よりずいぶん低く、嵩の見立てでは、百五十センチあるかないか。自分の母よりは確実に背は低い。それよりも、自分が、知らない人間、しかも若い異性と一緒に居る現状に、どうしていいかわからず、ひたすら気分が悪い。
嵩の緊張など、お構いなしに、少女は長年の友達のように、なんの気兼ねもない様子で嵩に語りかける。
「嵩くん。どうしたの?それ食べないなら私が貰うよ」
そう言って、嵩が注文したわけでもなく、少女が勝手に注文した、「野イチゴどっさりのきまぐれ小悪魔風ブラマンジェ」という、言葉に出して注文するのが恥ずかしい名の、えらく凝った作りのプリンに似たスイーツにスプーンを伸ばし、一番美味しそうなクリームの部分をすくうと自分の口に運んだ。
「うーん。超ヤバい。美味すぎこれ」
そう言って、さらにひと口食べる。もうぜんぶ食べていいよと、嵩は皿ごと少女に渡した。
「嵩くん、なんか機嫌悪くない?」
少女にじっと見つめられて、思わず顔をそむけてしまう。
「いや…。別に…」
嵩は早くここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
「もう。久しぶりの再開なのに、テンション下がるなぁ」
そう言いながらも少女のテンションが下がっている様子はない。
「何年ぶりだろうね?小学校以来だから、六年?七年?」
「さぁ。正直、あんまり君の事は覚えてないんだ。いや、君だけじゃなくて、スクールにいた他の子たちのもほとんど記憶にないって言うか…。ごめん」
「そうだね。嵩くんあのころ、無茶苦茶忙しかったもんね。レッスンだって週に一度会うくらいだったし、私たちみたいな下っ端の事なんて覚えてるわけないよね」
少女の「下っ端」という言葉の端に、嵩は少しだけ棘を感じた。
「そんな、下っ端なんて考えた事もないよ。あのころは父さんの言いなりで、わけもわからず働いてたんだから」
「そっかぁ…。嵩くんも苦労してたんだね。急に居なくなったから、スクールのみんなも心配してたんだよ」
「急にって言うか、自然と仕事が無くなって、もう中学校に入る時期だったから、レッスンスクールも普通に卒業しただけだよ。まぁ卒業って言っても、辞めただけなんだけど」
「私は、中学校までレッスンに通ってたんだよ。演劇コースと同時にモデルコースにも入ってたからね」
「で、あの…」
嵩は、昔通っていた芸能スクールの同じレッスン生だった少女と、昔話に花を咲かせる気分ではなかった。昔の話自体、あまり語りたくないし、ほとんど記憶にないのだ。それよりも、パートに出かけていた母に、パート先のスーパーで偶然出会ったからと言って、連絡先のメールアドレスを訊き、ぜひ自分に会いたいと、さっそくメールしてきた少女に、不信感でいっぱいだった。
もちろん最初は断った。中学生時代の同級生ですら会いたいとは思わないのに、もう忘れてしまった芸能スクール時代のレッスン生と会うなんて、考えただけで気分が悪くなった。
じゃあなぜ、今こうして、苦手な繁華街で、昼間から少女と二人きりで、まるでデートのような再会をしているのか。
父だった。少女は父を知っていると言う。しかも、父の居場所を知っているらしい。嵩の母に、その事を伝えなかったのには疑問が残るが、嵩にメールで連絡してきた時、父を知っているから会えないかと伝えてきたのだった。
ここ数日、嵩は父を忘れようと必死だった。警察沙汰になろうとも、もう自分とは関係のない話だ。これ以上、もう父親とは関わりたくない。そう思えば思うほど、余計に気になってしまい、音楽制作どころか、ろくに睡眠も取れない状態が続いていた。ひとつの事に縛られると、嵩はそこから抜け出せなくなるのだ。
「ギフテッドという概念がある。または「タレンテッド」(ギフテッドが全般的、学術的な才能を指すのに対し、タレンテッドは芸術的な才能を持つ者を意味する)
日本の教育ではまだあまり浸透してはいない。単に天才児、英才児と捉えられている場合が多いが、頭の賢い子だけがこれにあたるのではないので、単純に天才児を指している言葉ではない。天から与えられた才能(ギフト)を語源としている。ギフテッドの特徴としては、先天的に、得意とする分野において優れた才能を発揮、または他の子どもより、著しく高いレベルに、早期に到達できる。近年までは、IQテストによる結果でのみ、天才児かそうでないかの判断がされていたが、ギフテッドと言われる子どもの中には、IQ指数だけでの能力判断は難しい場合もあるとの研究結果が発表されている。これは、IQ指数では精神的資質までは測れないからである。それぞれの分野にあった専門的なギフテッド教育を受けることによって、能力は飛躍的に向上する傾向にある。また、他人との違いにより、しばしば孤立しやすい側面をもつ。またギフテッドの多くは、精神的うつ状態になりやすい傾向があり、これは、社会的な外的要因と、一般の人間よりも、感受性が豊かである事から、先天的な内面の要因、両方が考えられる。
ギフテッドの人間は、一般人と比べて、並はずれた集中力を発揮する半面、他人に理解されにくい行動をとってしまう者がある。この状態が、多動性障害、自閉症、その他の心理的障害と間違われて扱われる事もしばしばあるが、ギフテッド教育の専門家は、ポーランドの精神学者カジミェシュ・ドンブロフスキの理論を用いて、この状態を「積極的な分離」という人格形成理論と説明している。ギフテッドは、様々な刺激に対して、一般人以上に反応してしまう。これを、〈OE overexcitabilities 過度激動〉と言う。ギフテッドは、通常の人間よりも、刺激に対して、強く反応、経験する性質があり、これにより、精神を病み、自殺を引き起こす可能性もある。しかし、主体的に、分離し、他者から距離を置く事で、一般人より、より広い視野で、物事に対しての理解を深め、高いレベルでの認識を得る事ができるようになる。ただし、その「分離」の過程において、常に、過度の不安、うつ、罪の意識、といった精神的苦痛を伴いやすく、現実社会と己とのギャップに苦しみ、葛藤を余儀なくされる。生活においても様々な感情作用と連動しており、しばしば普通の社会生活が困難になる場合が多い。精神学者、ドンブロフスキは、OE(過度激動)を持つ人間は、高揚感と、うつ状態の気分、両方を味わう可能性があり、決して楽な人生ではないことを表して、OEを「悲劇的なギフト(天からの贈り物)」と呼んだ。―ウィキぺディア ギフテッドの項目から一部引用―
そのどれもが、糸井嵩には当てはまっていた。他人から見れば羨む才能も、嵩本人は苦痛であった。止めたくても止められない、飽きたくても飽きない、麻薬中毒患者にも似た、この脳の暴走を、誰かに鎮めて欲しかった。だが、その半面、動き出した脳は、本心とは裏腹に、歓び踊り出すのだ。天才ゆえの苦悩など誰にも理解されない。嵩本人でさえ、自分の脳を理解できていない。なぜ歓ぶ。なぜ踊る。止まればいいのだ。考えるのを止めたらいいだけの話だ。簡単じゃないか。しかし、嵩が神から与えられた才能は、夢の中までも休息を許してはくれない。浅い眠りの中で、脳は動き続けている。悪夢として具現化し負のビジョンが、嵩を襲う。
狭い部屋で、DAWソフトのREC(録音)ボタンを押し、ギターをかき鳴らしている時だけが、唯一、すべてを忘れさせてくれる。それでさえ、集中しすぎると、三日間一睡もせず録音を続けるといいう状態に陥る。子役時代、台本も一晩で覚えられた。役に感情移入しすぎて、たとえば親が死んでしまう設定のドラマの場合、本当に、親を失ったような絶望と哀しさが嵩を襲い、数日間高熱に魘されたりもした。
殺人鬼の役をすれば本当に殺人鬼になってしまうのではないかと、本気で恐怖し、大人になる前に、自ら、芸能界を去った。ちょうど仕事が減っていた時期だったので、誤魔化す事ができたが、本心は、早く、ここから逃げ出したかった。芸能スクールも大嫌いだった。まわりは嵩の才能を羨んだが、本人は苦痛でしかなかったのだ。
だから、あの時代の事は、なにも思い出したくなかった。父の蒸発も、嵩の心に大きすぎる傷を残していた。
それでも、この少女に会おうと決めたのは、あの刑事が来た日以来、毎晩のように、父の悪夢に魘され続けていたからであった。原因は解かっている。悪夢の元凶を、早く終わりにさせたかった。
そんな嵩の決死の覚悟など知るよしもない少女は、尚もあっけらかんと、昔話に花を咲かせる。
「嵩くんは本当に天才だったと思うよ」
少女は褒めているつもりでも、嵩本人はちっとも嬉しくはない。自分が天才だとは、一度も思った事はなかった。逆に、他人とは違うかもしれないという孤独感に縛られていた。
「私はどっちか言うと努力型ね。諦めの悪さだけなら誰にも負けないもん。だからまだ夢を諦めてないんだ…」
「あ、あの…。ボクは、今日は昔話しに来たんじゃないんだ。父さん…。父の事を訊きに…。なぁ、早く父の居場所を教えてくれないか」
嵩は精一杯の大きな声を出して、話途中の少女の言葉を遮り言った。少女は明らかに不満そうな表情になる。その顔を見て、嵩はまた吐き気が込み上げてきた。他人のストレスを敏感に感じとってしまうのも、嵩の悪い才能のひとつだった。
「んー…。そうだったね。私はなつかしの再会を楽しみにしてたんだけどなぁ。しょうがないよね。それが約束だったんだから。お父さんは実は、一週間ほど会ってないんだ。今どこにいるのかも知らない」
少女の言葉に、嵩は落胆を隠せない。
「あー嵩くんでもそんな表情するんだね。なんか昔から嵩くんてなに考えてるんだか分からないところがあったから、嵩くんのガッカリ顔って新鮮!」
そう言われ、ひどく腹が立った。嵩は思わず立ち上がった。
「なんだよ!いきなり人を呼び出しておいて、莉子ちゃんも、事情くらい知ってるだろ!いいかげんにしろよ!」
嵩から急に怒鳴られて、莉子と呼ばれた少女は、ぽかんとした顔で、嵩を見上げている。
「あ、いや、ごめん。怒鳴ったりして…。ボクにとっては重要な話なんだ」
嵩は、自分がこんなに感情的になった事に、自分自身驚いていた。さっきまで、楽しそうに話していた莉子も、流石に真面目な表情になった。
「こっちこそ…。ごめんなさい。そりゃそうだよね。お父さんが行方不明になったんだから、早く会いたいよね」
そう言った莉子を見て、嵩は、「そうか、この子は父さんが警察に追われているのをまだ知らないんだ」と理解した。
刑事が来てから、新聞を確かめたが、父が重要参考人として手配されている記事はどこにも載ってなかった。まだ容疑者にもなっていないのだ。だが、おそらく、このまま事件に進展のない場合、父に容疑が懸けられるのも時間の問題だと嵩は考えていた。
「なんでもいいから、父さんについて知ってることがあったら話して欲しい。頼む」
「…うん。分かった…」
嵩の真剣な眼差しに、莉子は、今度は素直になって、嵩の父、糸井忠光についての知っている情報を話し始めた。その内容に、嵩は驚き、カフェのトイレに駆け込み吐いた。発作で気絶しそうになった。嵩の知らない父の数年が、呪いのように嵩を暗闇に引きずり込むのだった。
4
「結局ダメでしたね」
野宮がネクタイを緩めながら言う。炎天下の中、一日中歩いたので、背中は汗でぐっしょりと湿っていた。早くシャワーを浴びたい。
「アテが外れたなぁ。もしやと思ったんだが…」
野宮と同じく上司の戸倉も、はっきりと疲労が顔に現れている。結果がでない苛立ちが、余計に疲労を増幅させる。
「二年前の、少女の遺体から見つかった精子のDNAサンプルと、糸井忠光のと思われるホテルで見つかった頭髪のDNAが、もしかしたら一致すると思って、科捜研に依頼してたんだが…」
「結果はシロでしたね…」
「二年前の殺人のホシは忠光ではなかったか…。あの日、実は糸井忠光はあのライブハウスに来ていた、っていう俺の推理は間違ってたようだな。俺の勘もあてにならないな」
「でも、ぜったいに御厨紗江子との接点はあるでしょうし、完全に的外れってわけでもないと僕も思うんですけどね」
「それも、デカの勘か?」
「もう、バカにしないでくださいよ。僕だって、二年前の事件の時は新米でしたけど、捜査班にいたんですから、ぜったいに事件を解決したいだけです!」
「そうだったな。すまん。俺も同じさ。仏さんの顔が忘れられなくてな。泥まみれになって、まだ幼くて、いっぱい夢もあっただろうにな。犯人はぜったいに許せんよ」
戸倉は、歳の近い自分の娘と、殺された蟹江百合の顔が重なって、やるせない気持ちでいっぱいになる。
野宮も二年前同じ現場にいたのだから、戸倉の気持ちが痛いほど分かる。
御厨紗江子の死と、二年前の殺し。どこかに必ず接点はあるはずだと、戸倉の長年刑事をしてきた勘が、そう叫んでいる。
「忠光さえ、見つかれば…」
やつはどこに消えたのか?すべてを飲み込んでしまう都会の雑踏が、戸倉には恨めしく思えて仕方がなかった。二年前、なにか見逃していた事はないのだろうか?少女が発見されるまでの空白の時間の中に、身落としている物がきっとあるはずだ。
「俺はもう一度、署に戻って、捜査資料を洗ってみる」
「もう資料は穴が開くほど見たじゃないですか」
「それでも、何度でも見るんだ。二年前の状況が分かるのが捜査資料しかないのだからな」
「分かりました。僕も手伝います」
「おまえは家庭があるだろ。今日はもう遅いから帰っていいぞ」
「それが、デカの仕事だって、さっき戸倉さんが言ったばかりじゃないですか」
「家庭不和になるぞ」
「大丈夫ですよ。そんな簡単に、家族の絆が壊れてたまりますか」
「家族の絆か…。おまえもだんだん父親の顔になってきたな」
「もう、いつもはガキの顔だって言うくせに」
「バカ野郎。たまに褒めてやってんだ。ありがたく思えよ」
こうして、二人の刑事は、夕刻の匂いが僅かに漂い始めた街を背にして、雑踏に消えていった。繁華街のネオンが、日が沈むのも待たず、街を淫らに染めていく。
名を知らぬまま行き交う人間の渦に紛れ、新たな死神がまた蠢きだす。獲物は決まって、一番弱い者たちだ。
戸倉も、野宮も、まだ死神が生きている事を知らない。
もちろん、嵩も。
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