第4話 土砂降りの雨の中で

○一緒に遊んでる時はおひさまが部屋に射しこむんだ

でも君がどっかに行ったとたん雨が降るんだよ

×おまえとヤッてる間は天気良いのに

おまえが帰ったとたんドシャ降りだ!クソが!


―SON OF A GUN(サノヴァガン)―


 二年前


 その夜は、雨が降っていた。一度、止みかけたが、すぐにまたドシャ降りになった。豪雨と言っていいほどの激しい雨が、コンクリートの道路に打ちつけて、麻薬取引中のマフィアが警官隊とはち合わせた時の、或いは、戦場の最前線で、新兵が死の恐怖からパニックを起こした時のような、残弾数など気にしていない一斉射撃が、地面に無数の穴を開けていく。街の喧騒も掻き消けされ、雨粒の弾幕の音しか聞こえない。だが、そんな外の様子も、ここまでは届かない。分厚い防音扉越しでも、微かにベースの重低音が、狭いロビーに漏れている。扉の内側は、雨音など比べ物にならないくらいの轟音が、満員になった箱の中で、猛り狂っている。ケガ人が出るからと、店内では禁止されているモッシュダイブを、スタッフの制止を振り切って、興奮した若者が嬉々として敢行する。それに続けと、もはやルールなどお構いなしで、次々と人の渦に飛び込んでいく。人の渦は、波の如くうねり、その上を、サーフィンでもするかのように、上半身裸の汗臭い男達が滑っていき、肉の塊になって沈む。

ぜったいに無傷では済まないであろう無謀なパフォーマンスも、それをさらに上回る客達の熱気の中で、有耶無耶にされてしまう。  

オールスタンディングでも五十人で満員になってしまう会場は、演者の舞台も低い位置にある。そのぶん客との距離は無いに等しい。手を伸ばせば、簡単に届いてしまう。

実際に、熱狂的なファンが、なにを思ってか、演奏している最中の楽器に掴みかかり、一瞬、バンドのグルーヴが狂う。もちろんそんなマナー違反の客には、それなりの報復が待っている。いくら興奮で、脳髄がハイヴォルテージに達しようとも、ほとんどの客は音楽が聴きたいのだ。音の波を乱す者は許されない。楽器に手をかけた、顔中ピアスだらけの男は、客の渦に引き戻され、埋もれて、そのまま消えてしまった。まさか死んだわけではないだろうが、おそらくスタッフから相当のお灸を据えられて、会場から退場させられただろう。

 その夜のライブのラストアクトはもちろん〈スサノオ〉だった。客は〈スサノオ〉を聴くために、こんな雨の夜でもまったく関係なく、この小さなライブハウスに集まったのだ。普段なら、もっと大きな会場でライブをしているスサノオだったが、場所が狭い分、来ている客はコアなファンばかりで、〈スサノオ〉のライブの愉しみ方を熟知していた。

 GENの、リズムなど遠の昔に忘れてしまったと言わんばかりの、超高速アルペジオと、ライトハンド奏法の波状攻撃が、自然と楽曲のBPMを上げていく。出鱈目に弾いているようで、実は鉄弦の一音一音が、的確に、コードを捉えている。アルバムに収録されている楽曲より、スピードはすでに倍ほども早い。GENのギターも凄いが、その神がかった演奏に、しっかりとついてきているユキトのドラムや、リクのベースも同じく神の領域に近い。普段は気の弱いユキト。飄々としたリク。だが、今舞台で演奏する二人は、カリスマに操られ、否、突き動かされ、完全に別人だ。もちろん、この轟音で荘厳な音の壁に、ヴォーカルのシオンの声も埋もれてはいない。決して歌が上手とは言えないが、錆びた二枚のカミソリを擦り合わせたような、金属的で特徴のあるしゃがれ声が、天然のディストーションとなって、楽曲をより、ロックに、パンクに、極致(オルタナティヴ)へと導いていく。異質ではあるが、孤高とも言える。

〈スサノオ〉のパフォーマンスが産みだすグルーヴは、出演した他のバンドとは、別次元のものであった。〈スサノオ〉がレコ発ライブを行うと言うので、普段ならワンマンでライブを行っている、確かな腕を持ったバンドを、ライブハウスサイドもブッキングしていたはずだった。しかし、箱の中の一体感からしても、〈スサノオ〉には足元にも及ばないと、負けを認めるしかなかった。完全に噛ませ犬。前座ですらなかった。すべての客も、さっきまでの他のバンドの演奏などまったく記憶に残っていない。名前すらも。

最初から、対バン方式にする必要などなかった。それどころか、なぜ、メンバーの意思を無視してでも、もっと大きな会場でライブを行わなかったのか。会場で唯一、マネージャーの御厨紗江子だけは、後悔の気持ちでいっぱいだった。

これからのバンドの未来を考えたら、もっとドライに、ビジネスライクに支える事こそが、マネージャーの努めであるはずなのに、つい、感情に絆されて、言われるままに動いてしまった自分自身を紗江子は責めた。まだまだ私は甘い。

GENの言いなりに生きていた過去の自分は、〈スサノオ〉のマネージャーになると決めた日に、しっかりと置いてきたつもりでいたのに。

GENの全てを愛していた過去を忘れる事はできない。だけど、今は、彼の才能だけを信じて、女である自分を捨て、マネージャーになったのだ。決して見返りを求めているわけではない。尽くした先に、たとえなにも無くても、彼を、〈スサノオ〉を世に出して、オーディエンスに認めてもらえればそれで良かった。

私の人生は、もうそこで終着駅を向かえてもいいのだと、紗江子は本気で思っていた。「自分の存在など烏有に帰してもいい。礎に成れれば、それこそが私の幸福論だ。礎なんておこがましい、生け贄でもいいのだ。骨も残らなくても。GENさえ、GENさえ認められたら…私は喜んで死を選ぶ」

紗江子もまた、GENという才能の悪魔に、完全にとり憑かれていた。これまで何人の女が、GENの虜になって、身を滅ぼしてきたのだろう。GENも、悪びれる事もなく、それが当たり前の自分の才能だと自負していた。ギター一本で食っていくには、人を惹きつける生まれ持ったカリスマ性がぜったいに必要なのだと考えていた。その才能が自分にはあるとも。天狗になるまでもない、根っからの自信家であった。

一線を退いたとはいえ、業界に太いパイプを持っている紗江子を、己の毒牙で傀儡と変えて、意のままに操る。〈スサノオ〉だって、たまたま己に見合った才能を持った人間が、運良く集まったに過ぎない。ある程度まで大きくなれば、いつだって捨て駒にしてもいい。

 GENはそういうヤツだった。

 御厨紗江子も、薄々は解かっていた。だが、この業界に、同じような考えを持った男がどれほどいるのかも知っていた。GENの過剰な自信も、この世界で生き残っていくために必要な資質である。自分が傀儡だと思われていてもいいのだ。GENより、八歳年上の紗江子は、精神もGENよりずっと大人だった。方法は間違っていても、結果さえ出せばあとはついて来る。いくら、一人の女として、GENを愛していたとしても、その信念だけは、昔からまったく揺るがない。紗江子も、女である以上に、プロフェッショナルだった。

〈スサノオ〉が売れないはずがない。GENが伝説にならないわけがない。本当はこの中の誰よりも、最前列で彼の音を浴びていたい。でもそれは、もう来世でいい。

 

 2

 

紗江子は、奇跡のライブアクトをきわめて冷静に傍観しながら、もう次のプランを練っていた。プロの冷徹な瞳に映る未来予想図。

「次は、大晦日の、年越しカウントダウンライブか…。集客は少なくても二万人は来るはず」

 すでに、古いコネを使い、出演の確約をもらっていた。あのディレクターは、私が少し口で銜えてやったら、ものの数秒ですぐに果ててくれた。楽なジョブだった。このくらいなんて事はない。今までも、何度もこうして業界を渡ってきたのだ。

 最初は、都内の大型レコードショップのただのアルバイト店員だった。音楽が好きで、週に一度は必ず誰かのライブを見に行った。短大を卒業しても、就職先が決まらず、かといって、実家に帰る気など毛頭なかった。都会はたくさんの刺激を私に与えてくれる。実家の田舎じゃ、せいぜい農協あたりに勤めて、当たり前のように見合い結婚して、子どもを産んで、女の一生は終わってしまうだろう。不安定でも、まだ都会にしがみついて生きていた方がよっぽどマシだ。

紗江子に転機が訪れたのは、二十二歳の時だった。音楽は本当に好きだったので、好きなバンドのCDには、必ず詳しい解説と、人の目につきやすいオリジナルの字体で書いた派手なPOPを商品棚に付けるようにしていた。実際に、紗江子の書いたPOPのCDはよく売れた。そのPOPが、たまたまインストアライブに来ていたバンドの所属する事務所のスタッフの目に止まった。

「今度、うちの事務所が発行してるフリーペーパーにCDのレビュー書いてよ」と、最初は軽い誘いだった。

 紗江子にしてみたら、天にも昇るほど嬉しかった。音楽業界の仕事に、バイトであっても携われるのだ。夢のようだった。

 紗江子のレビューは、幸運にも好評を得た。それからも、レビューの依頼は続き、二年もすると、メジャーの音楽雑誌で、小さなコーナーを持つほどになっていた。そうなると、もう立派な音楽ライターである。ただし、紗江子もそのころはまだ純粋で、真っ白な「やる気」だけを武器に活動していたので、女の身体を武器に仕事を取るなんて邪道な手段は使わなかったし、自分がそのあとすぐに、そうなる事すら考えもしなかった。今思えば、一番自分が輝いていたのはあの頃だったのかもしれない。真っ黒に汚れた今も、過去の思い出に縋りたくなる時もあった。縋ったところで、昔が取り戻せるわけがないのは、紗江子自身もよく分かっているのに、そこがまだ自分の弱い部分なのだろうと、過去を思い出すたびに、紗江子は反省する癖がついた。

 こうして、音楽ライターになった紗江子だったが、次第に、ただアーティストの論評を書く仕事に飽きてきた。音楽に携われる事自体は愉しかったし、自分のレビューによって、CDの売れ行きが変わってくるのも、神様になったような気分で、悦に浸る自分もいた。だが、所詮は外部の人間の戯言に過ぎない。戯言で、お金を貰えてしまう現実にも、どこか違和感を覚えた。本当はもっとアーティストの側で、彼ら達の才能を支えてあげたい。そう思うようになった。運が良かったのは、紗江子がライターの仕事をしていた出版社は、もともと母体が、音楽ソフト専門の会社であり、移動を願えば、マネージメント部にでも、制作部にでも、行けるチャンスがあったのだ。紗江子はダメもとで、人事に掛け合ってみた。

 紗江子はまだこの時、自分の女としての魅力に、自分自身が気づいていなかった。一応、普通のOL並に、身嗜みのために化粧くらいはするようにはしていたが、CDショップのアルバイト時代も、ライターになってからも、仕事現場はずっと地味だった。通っていた短大も、女子短大だったので、異性の目に触れる機会はそれほどなかった。人並みに彼氏がいた時期もあったが、自分がモテるほどの魅力の持ち主だとはまったく考えた事もなかった。と言うより、異性からの目線を気にして生きてこなかった。紗江子には、誰もが手に入れたい、女の魅力が満ち溢れていた。

 人事担当の男は、紗江子からの移動願いを、紗江子の女の部分を条件に、叶えてやると要求してきた。紗江子は、一瞬言っている意味が理解できなかった。二十歳を遠に過ぎ、年齢的には大人の女性になっていたが、こんな露骨な、大人の闇の世界が現実に存在しているなんて信じられなかった。そして、そんな悪魔の囁きに、自分が靡いてしまった事にも…。

慣れない酒に流されただけと、自分に言い訳もした。人事の男が、少しだけ自分のタイプだったからと、身体を許した事実を正当化しようともした。しかし、目的が願い通り達成された瞬間から、すでに、あとには戻れない茨の道に入ってしまったのだ。

 罪悪感に毎日悩まされた。後悔もした。と、同時に、心のどこかで、「世間なんて、簡単なものね」と、悪魔の術を覚えてしまった自分に酔っている部分もあった。これが本来の私の姿なのかも知れないと、紗江子はなにかに目覚めたようだった。

 願い通り、紗江子は出版部から、マネージメント部へと移動した。最初は、まったく売れない、もう契約打ち切りが決まっているバンドの、地方の営業まわりに同行するだけといった、他人からすれば一番やりがいのない仕事ばかりだったが、紗江子の才能は、女の魅力だけではなかった。どうやっても売れなかったバンドを、己の立案したプロジェクトで、復活させ、ミリオンヒットを出し、一躍、部署内で注目されるようになった。

 身体を売って仕事を取ってくるという、邪道な手段を許さない社員もいたが、結果がすべての世界だ、紗江子の仕事ぶりに隠れ、悪い噂は、真実にはならず、あくまで噂で終わっていた。もちろん女の武器だけでのし上がれるほど甘い世界ではない。それは最終手段であって、紗江子が成功させたプロジェクトの数々は、紗江子の本当の実力の賜物であった。

 いつしか、紗江子は自他共に認める敏腕マネージャーに成長していた。まだ二十代半ばの話である。社内でも異例の出世だった。

 だが、茨の道には、茨と言われるだけの無数の棘が存在しているのも事実である。思わぬ所に落とし穴が潜んでいた。

 異例の出世を良しとしない他の社員に、身体を売って仕事を獲った現場の、決定的な証拠を、ある週刊誌にリークされてしまったのだ。

「敏腕マネージャーの夜の別の顔」と題した記事が、大きな記事になって掲載された。相手の男も、有名な音楽番組のプロデューサーで、妻子持ちであったことから、話はさらに大きくなった。結果を出し続けた紗江子であったのに、紗江子を庇う者は誰もいなかった。最初に身体を許した人事の男でさえ、知らぬふりを決め込んだ。

 紗江子は汚れた女として、業界から追放されてしまった。自業自得だと、自分でも思った。こうなるのは時間の問題だったのだ。一時でも夢が見られたのだから、もうこれでお終いでいいやと、紗江子は潔く、業界を離れた。もう二度とここには戻ってこないだろうと、その時は完全に諦めていた。

 一年後、GENと出会うまでは。


 3


 GEN。本名は篠田源三。源三という、じいさんみたいな名前が大嫌いで、音楽を始めたころから、GENと名乗っていた。家は、幼少時代からずっと貧乏で、父親は、GENが高校を中退するまでに、三度変わった。母も、水商売で深夜まで働いていたので、昼間はいつも寝ていて、GENが学校から帰ると、すでに家には居なかった。ラップの被された、粗末なオカズが、テーブルに置いてあって、それをレンジで温め直して、一人で晩ごはんを食べるのが日課だった。三度変わった父親は、みな決まって、GENを疎ましく思い、暴力を振るうか、あとは、どこかに遊びに行って家に帰らない日の方が多かった。もっとも、最初の、本当のGENの父親は、GEN自身、顔も覚えていなかった。だから正確には、四度、父が変わった事になるが、最初の父は存在していないも同じだった。否、他の父も、GENは一度も父親だと認めはしなかった。

 母の恋人。または、死んで欲しい人。または、ただのクソ野郎。

 暴力を振るわれても、母は庇ってくれない。飯さえ作れば、母親としての仕事を全うしているのだと勘違いしている、そんな母も大嫌いだった。早く死ねばいいと本気で思うようになった。まさか、本当に死んでしまうとは思ってなかったが。

 GENの母親は、GENが高校二年の時、三度目(本当は四度目)の父親と、仲良く手を繋いで、首を括って死んだ。発見したのも、GENだった。遺書は、たった一言。

「レンジで温めて食べてね。ごめんね」と、汚い字で、スーパーのチラシの裏に書かれてあった。その側に、GENが唯一、母の作る料理で好きだった酢豚が、すっかり冷めた状態で皿に盛り付けられて置いてあった。GENは二度と、酢豚を食べられなくなった。

 親戚もなく、頼れる人もいない。GENは高校を中退して、独りで生きて行くしかなかった。学校を辞める時、先生から施設を紹介されたが、いまさら施設に入ったところで、どうなるとも思えない。知らないやつらと仲良くなれるとも思えない。GENは、教師からの提案を無言で断り、住んでいた街を去った。

 都会にさえ出れば、なんとかなるだろう。若かった。若いどころか、まだ幼さも残っていた。むしろ、すべての時間を自由に使えると、嬉しさの方が勝っていた。もう暴力を振るわれる事も、冷めた飯を暗い部屋で食う事もない。ひったくりで捕まったって、失うものはない。俺は自由だ。GENは、自分が大きくなったような気持ちでいた。

GENには、ギターがあった。家では、そんなものを弾いていたらすぐに拳か足が飛んでくる。ギターを折られたりしたら、それこそ相手を刺殺していただろう。ギターは、学校の部室のロッカーに、二重に鍵をかけて、厳重に保管していた。親は、GENが楽器をしていることさえ知らなかった。学校では、GENのバンドは有名だった。軽音楽部に、GENは入部していた。先輩から、二万円で買った、傷だらけのフェンダー・ジャガー。トーン切り替えのスイッチはすでに壊れていて、ボリュームつまみしか機能しない。それでも、このエレキギターを、GENは、この世で一番大切な宝物として扱っていた。後に、新品に買い変えた時も、同じモデルを買った。買い変えたあとも、このボロボロのギターを手放しはせず、ライブでも、一番大事な曲では新しいギターではなく、この古いフェンダー・ジャガーを使った。GENにとって、一生苦楽を共にした愛機であった。

このギター一本と、数枚の服とズボンだけを持って、GENは住み慣れた街をあとにした。

知らない街の駅前で、アンプにも繋がれていないフェンダー・ジャガーを、なるべく大きな音に聞こえるように、硬めのベース用のピックで掻き鳴らしながら、お世辞にも上手いとは言えない歌を唄って、小銭を稼いだ。昼、公園か、ファーストフード店で寝るようにして、毎晩、毎晩、歌い続けた。生きるための演奏は、次第に、彼の才能を本物に成長させていった。

捨ててあった、電池式の小さいギターアンプを直して、音は悪いが、エレキ本来の音も出せるようになった。そのころには、GENは、寂しそうなOLや、独り暮らしを始めたばかりの女子大生など、自由と金だけは持っている独り身の女の家を、転々とし、それなりに、人間らしい生活を送れるようになっていた。女の扱いは、軽音時代から誰よりも上手かったのだ。

駅前の演奏が、御厨紗江子の目に留まるのに、そう時間はかからなかった。紗江子はもう、ただのフリーターに戻っていたが、GENとの出会いが、紗江子を再び蘇らせた。

ただの恋であった。どこにでもある、汚れた恋の話だ。ミュージシャン志望のただのガキと、夢を失った孤独な大人の女との出会い。「私が支えてあげる」

「オレ、ぜったいに有名になってみせるよ」

 白々しくも、お互いの言葉に決して嘘はなかった。ただ、その恋愛の姿が正しいのかどうかは、誰にも判断できない。間違っているかもしれないし、これも恋愛の形のひとつなのかもしれない。

男は女を、のし上がるための手段として利用し、女は、利用されているのを知りながらも、尽くす自分に酔いしれている。

どこにも嘘はなかった。すべて真実の話だ。ただ、この終着駅が、天国でなく地獄であるかもしれない事も、二人は覚悟しておかなければならなかった。少なくとも、この時の二人には、地獄の風景は見えてはいなかった。

底だと思っている場所に、底など存在しない。堕ちたら、あとはただ永遠に堕ち続けるだけだ。終わりはない。



さっきまでの、轟音の壁と人のうねりが、今は幻であったように静止している。空調のブーンという乾いた音が、静寂の箱に、虚しく鳴っている。なにが起こったのか、そこにいる誰もが理解していない。客席と、ほとんど高低差のない舞台に、汗だくの男が大の字になって倒れている。覗きこむメンバー。何人かの客は、これもパフォーマンスのひとつだと思っている。次のリアクションがまったく起こらないので、「フー!」とか「ヒュー!」とか、適当なレスポンスで、演者の次のアクションを促す。だが、演者は動かない。ドラムのユキトが、不条理な沈黙に耐えかねて、とりあえず、シンバルを一回叩いた。それでも、中央で大の字に倒れたGENはピクリとも動かない。狭いホールが、微かに焦げくさい。ビニールが焼けたような、鼻につく刺激臭が漂っている。GENのすぐ側らのフェンダー・ジャガーから、煙が上がっている。見ると、音を振動させ電気信号に変換しアンプに送るシングルコイル・ピックアップ部分が、真っ黒に焼け焦げている。ビニールの焦げた匂いは、ギターボディに取り付けられている、ピックガードの合成樹脂が熱で溶けた匂いだった。

最初に異変に気づいたのは、マネージャーの御厨紗江子だった。曲はまだ途中だ。〈スサノオ〉に、曲の途中で演奏を止めるパフォーマンスはない。いつも、どうやったら一番ライブが盛り上がるのか、事前に、メンバーと会議をして、大凡の展開は決めてあるのだ。もちろんライブであるので、一度演奏が始まってしまえば、カンペで指示を出す事もないし、演奏の流れはメンバーに任せている。それでも、曲の途中でいきなりすべての音が止んで、曲が止まるなんてパターンはぜったいにありえない。

客も、最高潮の気持ちを、突然打ち切られて、どうしていいのか呆然としていたが、やがてざわつき出した。

紗江子は、客をかき分け、GENのもとに走り寄る。ライブハウスのスタッフもようやく、事態の収拾に動き出す。

「ミキサーに電気来てません!」

「照明もダメ」

「ブレーカー落ちちゃってる?」

何人かのスタッフが、自分の仕事に徹して、状況把握に走り回る。ライブで、音が出ないのは、電気系統になにかトラブルがあったからだ。だからスタッフが、機材をチェックしだすのは当たり前の行動である。だが、事態は電気だけの問題ではなかった。

「誰か!救急車呼んで!早く!GENが息してないの!早く!」

 ざわつくホールが、紗江子の叫び声で、また一瞬静まりかえる。

「イヤー!」

 女性客の誰かが、悲鳴を上げる。

〈スサノオ〉メンバーの三人がGENに駆け寄る。会場はパニックに陥る。スタッフも、どうしていいのか分からず、とにかく客を外に誘導するので精一杯だ。

「救急車!救急車ぁぁ!」

 半狂乱になった紗江子が、目を見開いて、倒れたままのGENを抱きかかえ、叫び続ける。

 最高の夜が、暗転し、シュールすぎる光景に、ユキトもリクもシオンも、ただ立ち尽くすしかなかった。

 GENは、もはや糸の切れた操り人形だ。

 もう動かない。おそらく、二度と。

 愛用していたフェンダー・ジャガーは、動かないGENの手にまだしっかりと握られたままだった。GENと共に、天国のドアを叩くか、或いは、地獄に堕ちていくだろう。長い旅はようやく終わった。

 GEN自身は自分の旅が終わったことすら気づかずに、きっとまだ、唯一の友であるボロボロのジャズマスターを弾き続けているに違いない。GENが涅槃に到達したのか誰も分からない。登り続けるのか、堕ち続けるのかも。

 ロビーに通じる防音扉は開けられ、ビルの外からホールまで、路上を打つ雨音が聞こえてくる。客達は、外が雨だった事に初めて気づく。一度止みかけた雨は、いつの間にか、再び激しく降り出していたのだ。

 雨のせいで、外に出るのを躊躇(ためら)った客達が、狭いロビーで、ぎゅうぎゅうに停滞している。

やがて、救急車のサイレンの音が、雨音の向こうから近づいてくる。


あれから二年が経ち、バンド〈スサノオ〉は伝説になった。


二年経っても、まだ終わらない雨の夜の歌…。

サノヴァガン!誰かが叫ぶ。

GENに対してか?GENを連れて行った死神に対してか?

死神は誰だ!

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