第3話 夏の闇

オレは壊れてはいない 愛しの君よ

オレは壊れるわけがない 君が好きだ

オレは壊れてなんかないんだ! 君を殺しました

オレは壊れてない 壊れてないんだ

―リチウム―


来訪者はある日突然やってきた。糸井家の玄関チャイムが鳴る事は絶対にない。玄関ドアの横にボタンはあるが、大元の電池が抜いてあるのだ。突然のチャイム音が心臓に悪いと、母の信子が抜いたのだ。たまにネット通販で買い物をした時は、あらかじめ近くのコンビニ留めにしておいて、荷物はコンビニまで取りに行くことにしていたし、公共料金もすべて引き落としになっていた。だから、親戚も、近所付き合いもなくなったここ数年は、滅多に玄関の戸を叩く人などいなかった。いたとしても、居留守を使った。

 ドンドンドン!ドンドンドン!

 鉄製のドアを叩く大きな音が部屋中に響いた。母は不在だった。

嵩は音には気づいていたが、いつもの居留守を決め込んでいた。とにかく他人と関わるのは避けたい。どうせ、新聞屋か、新興宗教の勧誘だろう。もう少し生活が豊かならば、オートロックのマンションに引っ越ししたい。だが、そんな贅沢が言える生活ではなかった。最近になって、やっと週に三日だけ、母がパートで勤めるようになり、月の食費くらいはなんとか悩まなくても過ごせるようにはなったが、それでもまだ生活は苦しいままだ。パートだって、これ以上行くと今度は生活保護を打ち切られてしまう、そうなったら本当にお終いだ。

 嵩は、また将来を悲観して鬱々考えながら、あくまで居留守を続けた。

 ドンドンドン!ドンドンドン!

「ちっ、しつこい。なんだよ。誰もいないっての。早く帰れよ」

 外に聞こえないように奥歯を食いしばって、呟く。

 ドンドンドン!糸井さん!いませんか?

 ドンドンドン!糸井さん!警察の者ですが。

「え?警察!」

 外の声が警察を名乗ったので、嵩は驚いた。

 警察ですがー。お留守じゃないですよねぇ。糸井さん。

「なんで警察が?もしかして、母さんになにかあったのか!母さんになにかあれば、ボクは一人では生きていけない」

 居留守を続けていた嵩だったが、流石に警察だという声を無視できなかった。なぜそうしたのか自分でも分からないが、おそらく怪しまれたくないと咄嗟に防衛本能が働いたのだろう、一度鏡を見て、寝癖を無理に手ぐしで押さえつけ、(結局寝癖は直らずよけい妖怪レーダーのようにピョコンと飛び出てしまった) ゴムの伸びきった灰色のスウェットを上げ直し、急いで玄関に向かった。

 急いで向かったものの、すぐドアを開けるのは怖い。嵩は、恐る恐る、ドアに付いている覗き穴から外を見た。

 声の通り、外には、刑事らしき男二人が立っていた。実際の刑事を見るのは初めてだったが、子どものころ出演したドラマに出ていた刑事の風体と、ドアの外に立っている二人の男が、そっくりそのまま重なって見えたので、なんの疑いもなく、嵩は本物の刑事だと認識した。果たして、二人の男は、本当に刑事であった。

 ゆっくりとドアを開けると、二人の刑事は、一応形式通りに自分の警察手帳を嵩に見せ、まるで当たり前のように、無遠慮にズカズカと家の中に入ってきた。

 なにもない、ただの職務質問であればここまで無遠慮な事は、いくら刑事であってもしない。きっとなにか、確信めいたものがあるから、なんの断りもなしに部屋に入ってきたのだろう。

 嵩は、動悸が激しくなっているのに、やけに冷静に状況を分析した。子どものころからの癖なのだ。本当は気が弱いのに、大人たちに必死についていかなくてはならない仕事現場で、心と思考が完全に分離して、物事を、もう一人の自分が空から見下ろしているような、妙な客観性が、自然と身についてしまった。業界を離れた今でも、まだこの癖が抜けてないのだなと、さらに動悸は激しさを増すばかりなのに、心とは裏腹に状況分析は尚も続く。

 母さん早く帰って来ないかなぁと、呑気に構えている自分もいる。本心は怖くてしかたがないというのに。

 二人の刑事は、部屋の中に他に誰か潜んでいないかを調べているのか、たった三室しかない嵩の自宅を入念に見回した。

 流石にむっとした嵩は、自分でも悲しくなるくらい弱々しい声で、「いったいなにがあったんですか」と刑事に訊いた。

 一人の刑事が、嵩以外誰もいない事を確認すると、それまで纏っていた緊張の鎧を少しだけ外し、一呼吸おいてから話し出した。

「お父さんはここにはいないの?」

「お父さん?」

「そう、君のお父さんだよ。糸井忠光であってるよね?」

「はい。確かに、うちの父の名は忠光ですけど…」

「そのお父さんだけど、今家に居ないの?」

「うちは、今パートに出かけてますけど、母とボクとの二人暮らしです」

「ずっと?」

「ええ、父は、もう何年も会ってません」

「こっちの調べじゃお母さんとは離婚はしていないようだけど」

「ええ、突然居なくなってしまったから…」

 そう言いながら、嵩は、この刑事たちは、すでにうちの家庭環境もある程度は把握していて、ここに来ているのだと気づいた。父がなにか事件を起こした事は間違いないようだ。やっと最近、父親の夢を見る回数が減ってきたというのに、まだあいつはボクを苦しませ続けるのか。人の人生を滅茶苦茶にしておいて。別の心の抽斗から、怒りの感情が顔を出す。だが、子役のころに身に付けた演技力で、人の心を読むプロである刑事二人を簡単に騙せるほど、完璧に冷静を装う。冷静すぎるのもかえって相手を怪しませる。そこはかとない動揺を、ごく自然に表しつつも、自分が父を恨んでいる事実を悟らせないように、刑事の心理を誘導する。嵩自身も自分の本当の才能に気づいてはいない。すべて、無意識に出来てしまうのだ。多重人格とは少し違うが、嵩は自分の心に、幾つもの抽斗を持ち、また神である自分が、自分自身を天空からコントロールする術を、子どもの頃に身につけてしまった。人間性という点では、歪な才能とも言えた。こうして、久しぶりの他人との接触であるのに、嵩の脳内は水を得た魚の如く、グルグルと活発に動きだすのだった。

 刑事は、仕方がないといった雰囲気で、嵩の父になにが起こったのかを嵩に教えた。嵩が未成年であることは、父と母がまだ婚姻関係にあるのをとっくに調べていた刑事であるなら知っていて当然だ。普通なら、なにか事件であるなら、保護者である母の帰宅を待って、母親に話をするのが、正当な捜査手順であるはすだ。それを、未成年の嵩にいきなり話始めるところに、なにか切羽詰まった事情があるのだろうと、嵩は敏感に感じとっていた。

 刑事の説明はこうだった。


 数日前、都内のビジネスホテルで(本当はラブホテルである事を、刑事は濁した。もちろん嵩はすぐにラブホテルであると感づいた。行きずりの男女がビジネスホテルで一時の逢瀬など交わすものか。それに、ホテルの場所が歓楽街である事くらい嵩も知っていた)

女の他殺体が発見された。ニュースで見たかもしれないから、隠さず伝えるが、ガイシャの名は、御厨紗江子三十三歳。芸能プロダクション「ブリーチ」の代表取締役。ようは女社長だ。プロダクションを立ち上げたのは一年前。プロダクションといっても、所属タレントは、名前も知られていないような、おもにイベントの司会業を専門に活動している数名のタレントと、プロダクションの屋台骨を支えている、ロックバンド〈スサノオ〉だけだった。社長自らが、バンド〈スサノオ〉のマネージャーも兼ねていた。その女社長が、ホテルの一室で殺されていた。詳しくは言えないが、刃物状の物で刺殺されていた。心臓を一突きで、ほぼ即死状態。

 そこまで聞いて、嵩は込み上げる嘔吐感を我慢できなくなった。冷静を装ってはいたが、そこまで具体的な事件の話をされると、これまで社会から断絶した場所での生活をおくっていた自分にとって、あまりにも刺激が強すぎた。それに、父を追って来ているのなら、父が容疑者という事になる。これまでだって、父親の顔を思い浮かべるだけで吐き気がしたのに、父が犯人かも知れないと考えると、これまで抱いていた嫌悪感以上の、もっとドス黒い何かが、新しい心の抽斗から産まれ出ようとして来る。

 とても恐ろしかったが、胃の中身を吐きだすために駆け込んだトイレから戻った嵩は、震える自分を抑えながら、刑事に、一番重要な父についての質問を、勇気を出して訊いた。

「父が…。その事件の容疑者だと言うのですね…」

 二人の刑事は少し困ったような表情を浮かべ、お互い顔を見合わせて、目で合図を送り、初老に手が届きそうな年配の刑事が、重い口を開いた。

「これは、まだ捜査段階だから、なんとも言えないんだが、確かに君のお父さんは、その殺された女性と同じホテルにいたんだ。防犯カメラに二人が一緒にホテルに入っていく様子が映されていた。目撃者もいたしね。ただ、お父さんが容疑者かどうかはまだ解からないんだよ」

 嵩は、刑事の話を聞くかぎり、九分九厘、犯人は父親でないかと思ったが、刑事は結論を濁している。なぜなんだ?と、嵩でなくても、疑問を抱くのは当たり前だ。

 刑事は話していいものか迷ったが、ここまで話したのだからしかたないだろうと、詳しい状況説明を続けてくれた。

「君のお父さんと被害者が同じホテルに居たのは確かだ。だが、犯行時刻が合わないんだよ。死亡推定時刻ってわかる?そのくらいはテレビなんかで聞いたことあるだろ?それがぜんぜん合わないんだよ。防犯カメラに映っていた君のお父さんがホテルを出たのが、犯行があった前日の午後九時ごろ。なぜだかはまだ解からないが、お父さんはひとりでホテルを後にした。で、ホテルの従業員が、被害者を発見したのが、翌日の午前十時すぎ。チェックアウトの時間を過ぎても、何度電話でコールしても出ない被害者を不審に思い、部屋に入ると、すでにベッドの上で彼女は死亡していた。そしてすぐに警察に通報した。そのあとが肝心な部分だが、司法解剖の結果、胃の内容物の消化具合から、被害者の御厨紗江子が殺されたのは、遅くても午前三時前後。お父さんがホテルを出てから実に六時間の差がある。最近は科学的な鑑定もしっかりしてきてね、犯行時間にそこまでの誤差が生じるのは、よほどの環境変化が起こらないかぎりはまず考えられないんだよ。もちろんドライアイスなどで死亡推定時刻を操作する事だって可能ではあるんだが、科学鑑定の結果、そういう意図的な操作が行われた形跡も見つからなかった。お父さんはその後、別の防犯カメラにも映っていたからアリバイがある。ただ、やはり直前まで被害者と一緒にいたのは確実だ。まぁ本当に居たのかどうか、ホテルの部屋から見つかった頭髪のDNA鑑定をすればもっとはっきりするんだが。どちらにせよ、お父さんがなにかしらの事情を知っている可能性は大いにある。だからお父さんの行方を捜しているんだよ」

 刑事は、未成年である嵩に一応の配慮をして、なるべく解かり易い言葉で事件の時系列を話してくれた。嵩は少しバカにされているような気がして、気分が悪かったが、状況は良く理解できた。父は殺人の実行犯ではないようだが、重要参考人である事は間違いないようだ。

 父親とはとっくに縁を切ったんです。だからなにも知りませんし、父親の行方もわかりません。うちとは関係のない話です。そう、はっきりと刑事に言ってやろうと、嵩は呼吸を一度整えた。

 ちょうどその瞬間、パートに出かけていた母が、帰宅した。

嵩に話したと同じ内容を刑事から聞かされ、母は軽い眩暈を起こし、床に倒れ込んでしまった。

 刑事もその日、それ以上は聞かないで、もし父親が現れたらぜったいに通報して欲しいと言い残し、自分の名刺を嵩に渡して帰った。

 母は夜になっても、気分が悪いからと横になったままで、その晩はレトルトカレーで済ませた。曲作りの続きが残っていたが、電源を入れる気持ちになれなくて、父のお下がりの、黒のフェンダーテレキャスターを、気もそぞろにつま弾いていたが、お下がりのギターに触れている事自体、だんだん気分が悪くなってきて、嵩はギターを、ベッド横の洗濯ものでいっぱいになった一人掛けソファーに無造作に投げ捨て、何年も洗っていない、ぺったんこで黄色く変色した布団に潜り込んだ。

 いろいろな疑問や想いが錯綜して、結局朝方近くまで一睡もできなかった。不安の黒い鉄球が、胸の中でどんどん膨張していくのを、嵩は身体全体で感じ、底なしの沼に引きずり込まれていくような恐怖を覚えた。

 御厨紗江子…。どこかで、聞いたことのある名前だ。不吉な予感は、どうやっても頭から離れてくれず、孤独ではあるが、静かだった五年間が、また動き出したような気がして、理由の解からない吐き気が、夜の闇の中で、嵩を苦しめ続けるのだった。

 次の夜も、昼も、また繰り返す同じ夜も。

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