山原燕の事情-Ⅰ
もちろん、
それが決まるきっかけというのは、得てしてひどく些細なことだ。
たとえば、私が見捨てた友達のように。
彼女はそれまで、取り立てて目立つような子ではなかった。
けれど、クラスでも人気のある男子と、同じ係になったことでちょっと特別に親しくした――
――たったそれだけの理由で、敷島晴海は転落した。
皆が特別に示し合わせたわけですらない。
彼女は、【空気】に、【雰囲気】に、【印象】に追い詰められた。
【あいつは嫌なやつだから関わるのはやめようぜ】。
【こいつは、殴ってもいい相手だ。皆で殴っているやつだ】。
繰り返す。
いわゆる主犯、元凶はここにはいない。
最初に投じられたきっかけへ、それぞれが別個に『反応』を示しただけだ。
だが、個々行動の些細さなど何の免罪にも値しない。
無責任に垂れ流される幾筋の廃水が清流を汚すように、敷島晴海は蝕まれた。
そこに唯一幸いがあるとすれば、卒業が近かったことだ。
彼女は予定を変え、父が単身赴任している遠方の中学へと進学した。
私は。
山原燕はその一連の事態を、対岸の火事として眺めていた。
否。
より正確に言うならば――自身に火が着いたとわかった直後、敷島晴海は自ら己を対岸へ運んだ。
それまで親しい友であったはずの私を、あちら側から無視して距離を取り始めた。
悲しかった。
悔しかった。
心の底から、怒りを覚えた。
実体も無い認識を拠り所に、身勝手な動機で友人を傷付ける連中に。
そして同時に――私を自分から遠ざけた、彼女に。
彼女は、良かれと思ってそれをしたのかもしれない。自分と同じ苦しみに巻き込まれぬよう、せめて友人だけを守ろうとしたのかもしれない。
けれどそれは私にとって、他の誰が何と言おうと、どのように解釈しようと、裏切りでしかなかった。
切り捨てられた、と思った。
山原燕では、敷島晴海を救えないと、一方的に突きつけられたに等しかった。
私のことを。
諦められた、とそう感じた。
彼女にとって私は、諦められる程度の存在でしかなかったのだと。
彼女が街を去り、ほどなくして、父と母が離婚した。
私は短気で感情的な母より、思慮深く穏やかな父について行きたかったが、親権を得たのは母だった。
弁護士の許可を得て最後に会った父は、やつれていた。母の代理人と繰り返した話し合いに、心の底から疲弊していた。
『自分も父と共に行きたかった』。そう話すと、父は疲れ切った目で、弱々しく私の手を握り、「ありがとう」とだけ言った。
そうして父は弟の椿と共に、“山原”ではなく“本条”の人間になった。
子供の我儘だとはわかっている。
それでも私は、また思った。
【山原燕は、手に入れることを諦められたのだ】と。
春が来て、中学生になった。
子供を親の装飾品としか考えていない母に決められた進学校は肌に合わず、環境を一新したというのに、またも押し付けの階級制度は付いてまわる。
これから一生、この感覚の中から脱することが出来ないのかと考えると、気が遠くなった。
一年が経ち、最早私の我慢は限界で、だから、その日。
私は始めて、学校を無断欠席した。
通学途中、鞄を投げ捨て、普段絶対に歩かない時間の街を、繁華街をうろついた。
余程様子がおかしかったのか、警察に呼び止められた。平日の昼間に制服姿でうろつく円芭中学の生徒など、確かに只事ではない。
『君、何をしてるんだい。円芭中学校の子だよね。今日、学校は?』
話の途中で逃げた。
肝心なことは何一つ助けてくれないくせに、御定まりのルールからはみ出したことだけは咎めてくる連中が、鬱陶しくて腹が立った。まともに取り合う気もなかった。
だから、馬鹿にしてやろう、と思った。
からかってやろう、という気が湧いた。
近くの服屋で、男物の服と化粧道具を買い込んだ。
鼻をつく臭いの漂う公園のトイレで、山原燕は、山原燕で無くなった。
忘れもしない。
その快感を。
その発見を。
世界の色が、塗り変わった瞬間を。
男装した私は当然のように街を歩く。
誰も咎めない。
誰も気付かない。
誰も、私を叱らない。
こんな簡単なことで。
私自身は本当は、何も変わっていないのに。
ぞくぞくした。
生まれて始めての、それはある種の絶頂だった。
股下から背筋を走り脳天へと突き刺さる、背徳感。
そう。
つまり、とてもとても簡単な変化。すごくすごく単純な認識。
【他人に期待なんてするから、馬鹿を見る】。
【不本意な基準に所属しようと思うから、苦しまされる羽目になる】。
誰も気付かない。
誰もわからない。
女から男に変わった私は、山村燕と思われない。
もう、擦り切れさせられる必要も無い。
適当に生きよう。
適切にあしらおう。
どうでもいい相手に心血を注ぐなんて、笑えてくるほど非効率。
私には私がいる。
私には私がある。
【山村燕】は、
【本条文弥】を持っている。
なんて素敵な拠り所。
なんて自由な存在証明。
私はこうして無敵になった。
親しい相手なんていらない。どうせ失望させられるから。
どんな苦難もやり過ごせる。だってそこに逃げ場がある。
徐々に他人への関心は薄れていく。
哀れみたければ哀れめ。周囲から孤立しているだとか、いくらでも侮り同情すればいい。
何をされても届かない。
どうせ私に気付かない。
中学時代もそうだった。
高校一年、過ごしても。
私は私の中で生きる。
確信の中で生きていく。
休日は本条文弥。私が私でいられる時間。何にも縛られない時間。
山村燕でいない時だけ、私はきっと生きている。
だから。
「――――――――燕?」
あの日。
いつもの街中で、そう呼ばれた時。
私は多分、呼吸を止めた。
混乱する頭で、振り向いた先に、夢を見る。
「――――――――晴海?」
それは、四年振りの邂逅。
切り捨てた過去、切り捨てられた悲哀との遭遇。
かつて、着飾るなんて言葉を知りもしなかっただろう彼女が、いかにもクラスの中心といったような――化粧もこなし、くっきりと華のある装いになっている敷島晴海を確認した私の
口からは、思わず、率直な感想が口を付いて出た。
「……変わったわね、貴女」
間抜けな台詞だ。
それこそ、鏡を見るべきだろう。
私と彼女は場所を変えて話しあい、そして一つの契約を交わした。
男装趣味――この弱みを口外しない代わりに、私は晴海の【彼氏役】を演じる。
それが、父の長期出張終了と共にこの春故郷の高校へ戻ってきた、【新しい環境に馴染まなければならない】敷島晴海への交換条件だった。
そんな関係がいつまで続くかはわからない。
私は心臓を握られていて、相手の気まぐれひとつで何もかもが破綻する。
けれど、多分。
この趣味を始めてから、今が一番、どきどきしている。
◆
「おはようございます、母さん、
おざなりな返答。二つ三つ程度のやりとりが終わると、それだけで会話は絶える。朝食のフライパンに集中する振りをし、或いは新聞に目を落とし、【話さなくていい理由】に縋る。
再婚から二年、新しい夫婦仲は冷め切っていた。元々仕事上での立場、権力を固める為に行われた縁組であり、そこには互いの利潤以外のものをわざわざ追及しようとするような熱意など存在しない。
だから私は毎朝改めて確認する。
たとえ家族でも、自分以外の誰かに期待する無意味さ。
【心から分かり合える相手】なんてものが、空想でしかない現実を。
朝食はいつも通り、そこにあるものしかない。
パンはパンの味で、サラダはサラダの味で、ベーコンエッグは肉と黄身の味で、そこに、それ以上のものはない。
家族でしている食事なのに。
一人の時と、変わらない。
「ごちそうさまでした」
いつか私も、これを、誰かに強いる時が来るのだろうか。
料理の味しかしない食卓を、一切の不要が混じらない時間を、与える側に回る時が。
考えてみて、ぞっとした。
誰かにこんな気分を味わわせるぐらいなら。
私は、一人で構わない。
「行ってきます」
送り出す声も無い。
当然失望などは無い。
通学の鞄と、そして、放課後の為の着替えを持って、私は今日も、帰ってきたくない家を出る。
「おはようございます、燕さん」
――その一歩目で、面食らった。
「今日はとても素晴らしい寧日ですね。なので、一緒に学校をサボりませんか?」
上から下まで、観察する。
玄関の外、私の家の前に立っていたのは、懐かしい、円芭中学の男子制服、いわゆる学ランを着た少年で、ええと、その、
だから、整理が追いつかない。
「――――何をしてるの、晴海」
「
◆
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