第3話 観世音菩薩殺人事件
世の中にはときどき不思議な話があるようですが、これはぼくが最近経験した不思議な話です。
ぼくは去年、大学を卒業し、大手出版社に勤める新人編集者です。
月刊誌『社会公論』をご存じでしょうか。
もともとは時事問題、世界情勢、政治、経済など、硬い話題を専門に扱った雑誌らしいのですが、数年前からリニューアルして、芸能、スポーツなど娯楽ネタも幅広く掲載するようになりました。インテリ層向けの総合誌といったところでしょうか。
ぼくが配属されたのは『社会公論』編集部です。
とは言え新人ですから、仕事内容は雑用とパシリに近いです。上司や先輩の仕事を見ながら、あるいは怒鳴られながら、仕事を覚えている見習いの状態です。
政治家兼テレビタレントの佐伯雄二先生が、エッセーを連載していますが、その原稿を取りに行くのが、現在のぼくの仕事です。
二ヶ月前、正午近くに佐伯先生から電話があり、原稿が出来たので新宿の某レストランまで来てくれとのことでした。
佐伯先生は自宅は大阪ですが、東京に複数のマンションを所有していました。いつもは事務所に使っている渋谷のマンションに原稿を取りに行くのですが、その日、なぜか先生はレストランを指定して来ました。
書籍編集部の先輩の話では、以前、佐伯先生の原稿を取りに行こうとしたら、先生が経営するホストクラブに来るように指示されたことがあるようです。ホストクラブに行ってみると先生本人はいなくて、アキラというホストが出てきて、先生から預かった原稿を渡したそうです。それを考えれば、レストランの方がまだましかなとも思いました。
なにしろ佐伯先生は少し癖のある人で、常識が通用しないようなところがあります。
佐伯先生は電話を切った後、レストランの地図をぼくのスマホにメールしてくれました。
ぼくの勤め先は池袋なので、新宿まですぐでした。
レストランは高級フランス料理店です。こういう店にはぼくはこれまで滅多に入ったことがありません。
佐伯先生は店の奥の個室にいて年代物のワインを飲んでいました。
肩に触れるぐらい伸ばしたライオンのような、もじゃもじゃの髪。顔の下半分を隠してしまう髯。恰幅のいい体。
佐伯先生はぼくを見つけると、手招きしました。
「君、食事まだだろう。おごるから付き合えよ」
「先生、それは困ります。すぐ帰るように編集長から言われてまして・・・」
「まあ、いいじゃないか。君の上司には私から話をつけとくから」
ぼくは佐伯先生に言われるまま、フランス料理のフルコースをいただくことになりました。
佐伯先生は今日ぼくにご馳走した理由を、オードブルを食べ終えたときに説明しました。
実は原稿はまだ出来ていなかったのです。
連載原稿はすべて佐伯先生の秘書の佐藤さんが書いているとのことですが、ぼくを電話で呼び出した後、先生は鞄の中に原稿が入ってないことに気づいたとのことです。
折り返し、佐藤さんに電話したところ、実は原稿はまだ完成していないので、これから書くとのことでした。
実は今朝、原稿が一度は完成したのですが、佐伯先生が一度目を通して後半部分を書き直すよう命じ、そのことを先生自身がうっかり忘れていたのでした。
注文してからデザートを食べ終わるまで、一時間以上かかったでしょうか。
食事が終わっても佐伯先生はぼくを帰してくれません。
今度は年代物ワインを注文し、ワインの薀蓄を長々と語り始めました。成り行きで、ぼくもワインのご相伴に預かりました。
午後二時を少し回った頃、不意に佐伯先生のスマホが鳴りました。佐伯先生は電話を受け、二言三言しゃべってすぐ電話を切りました。
「佐藤からだ。原稿は完成したみたいだ」
佐伯先生はタクシーを呼び、ぼくを乗せて渋谷のマンションまで行きました。
エレベーターで二十階まで上り、ドアの手前まで来ると、佐伯先生はポケットから鍵を出してぼくに渡しました。
「すまんが、鍵を開けてくれないか。靴の紐がほどけたみたいなんだ」
佐伯先生はその場にしゃがみ込みました。ぼくは言われた通り、ドアの鍵を開けました。
マンションに上がり、廊下を進むと仰天しました。
応接室のドアの前で佐藤さんがロープで首を吊っていました。
反対側のドアのノブにロープの一端を結わえ、ドア上部をまたがせ、もう一端に輪を作り、そこに首を吊っていたのです。
ぼくと佐伯先生は急いで佐藤さんの体をロープから降ろしました。
佐藤さんの体は冷たかったですが、死んでいるのか、まだ息があるのかはわかりませんでした。
ぼくがスマホで救急車を呼ぼうとすると佐伯先生は遮り、
「救急車は自分が呼ぶ。窓が開いてないか、確認してくれ。誰かが殺したのかもしれない」
ぼくは言われた通り、マンションのすべての部屋のすべての窓を確認しました。ベランダに出るサッシも確認しました。しかしどれも内側から鍵が閉まっていました。
リビングルームを入ったとき、ぼくは少し驚きました。
これまでこの部屋は入ったことがありませんでしたが、等身大の金の仏像が七体、二列に並んで立っているのです。直立しているので観音様でしょうか。
政治家の道楽でしょう。何億円するのかわかりませんが、普通の人では買えない装飾品であることは間違いありません。
「ちょっと君、マンションの外で待機してくれないか。救急車が来たらすぐこの部屋まで連れてきてくれ」
佐伯先生の声がしました。
ぼくは言われるままマンションの外の駐車場に出ました。
すると一台の車が猛スピードで駐車場から走り去りました。
車を運転していたのは、信じられないことに先ほど見た金の観音様でした。
ぼくは反射的にスマホを取り出し、近寄って写真を撮りました。
車が見えなくなると、入れ替わるように救急車が到着しました。
ぼくは救急隊員を佐伯先生の部屋まで誘導しました。
救急隊員は佐藤さんが死亡していることを確認し、警察を呼びました。
その日、ぼくは結局、夜遅くまで佐伯先生のマンションから帰れませんでした。警察から聴取を受けなければならなかったからです。
警察に金の観音様が車を運転していた話もしましたが、聞いてもらえませんでした。
気のせいかも知れませんが、リビングルームに戻ると仏像は六体しかありませんでした。つまり一体減っているのです。
ただし佐伯先生に訊いてみると、最初から仏像は六体しかないとのこと。また車を運転していた観音様の話をしてみると、
「それは多分、マンションの住人にはコスプレ好きの若者がいたんだろう。仏像が歩き出すなんて馬鹿なことはありえない」
と一蹴されました。
その後、この事件は不可解な点がいくつかあることがわかりました。
解剖の結果、佐藤さんは縊死でなく、後頭部を鈍器で殴られて死亡していること。
死亡推定時刻は正午から午後二時までの間とのこと。
ぼくの記憶では確か、午後二時少し過ぎに佐藤さんから佐伯先生に、原稿が完成したことを告げる電話がありました。つまりすでに死んでいるはずの佐藤さんが電話したのでしょうか。
死亡推定時刻はやや誤差があるのかも知れませんが、死亡原因が不可思議です。
それに佐藤さんが自殺する理由も釈然としません。自殺の動機が最後までわかりませんでした。
佐伯先生が正午からフランス料理店にいることは店の人に確認されていましたし、十二時半くらいからはぼくが先生と一緒にいましたので、先生のアリバイは完璧です。
マンションの鍵は佐伯先生しか持っていません。ですから部屋は完全な密室で、佐藤さんを殺害できるのは物理的に先生しかいません。その先生にはアリバイがあるのです。
最新のマンションの鍵はセキュリティー対策のため、簡単に合鍵は作れないようになっています。マンションの管理人でさえ、合鍵は持っていません。
そうなると仏像に魂が宿り、佐藤さんを殺害したのでしょうか。仏の法力を持ってすれば、密室も自在に出入りできるのかも知れません。
警察では結局、自殺と断定して捜査を打ち切りましたが、ぼくはどうしても納得いかないのです。
最後にぼくが撮影した車を運転する観音様の写真をこのブログに添付します。
*****************
「ところでブログを読んでくれたかい」
森沢君はタブレットPCのディスプレイをぼくに見せつける。
ディスプレイいっぱいに拡大したJPEGの写真。観音様が自動車の運転席でハンドルを握っている。
越谷の喫茶『珈琲塾』では、森沢君、涼子さん、ぼくの三人がいつものように奥の席に座り、三人とも店の名物、金魚鉢入りアイスティーをすすっていた。
森沢君はぼくの大学の友人でフリーのウェブデザイナー、その妹の涼子さんは同人誌漫画家だ。
森沢君はネットから不思議な話を見つけ出してぼくたちに紹介してくれる。昨日、メールでブログのURLを送ってきた。
若い男性で『社会公論』の編集者のブログだった。
政治家、佐伯雄二の秘書が事務所で首つり自殺したが、どうも他殺に思えるという内容だった。だが他殺だとすると密室殺人事件になる。
「今度こそ完璧な密室殺人事件だろう。犯人は観音像しか考えられない」
「アニキったら」涼子さんが言う。「またくだらないブログ見つけてくるんだから」
涼子さんはスマホを取り出し、しばらくいじった後、森沢君とぼくに拡大した写真を見せた。
スマホの画面にはイケメンの若い男性の顔がクローズアップされている。
森沢君が見せた観音様にそっくりの顔をしている。
「彼がこの殺人事件の犯人よ」
まるで手品のようだった。
「この人、誰なんですか」ぼくが訊く。
「アキラというホストよ。佐伯が経営するホストクラブで一番人気のホストらいしわ。ネットで調べると、佐伯はアキラとゲイの関係みたいね」
「なぜ彼が佐藤さんを殺したんですか」
涼子さんは金魚鉢入りアイスティーをすする。
「殺す動機があったのは多分、佐伯の方よ。この事件の真犯人は完璧なアリバイがあるはずの佐伯。アキラは共犯者に過ぎないわ。
佐伯のようなステイタスのある男が人を殺す場合、どうすると思う?普通、金で殺し屋を雇い、自分の手は汚さないわ。この場合、実行犯の殺し屋が真犯人?殺し屋を雇ったスポンサーの方が真犯人じゃないかしら。おそらく殺人の計画を考えたのも佐伯の方よ。
わたしの直感だけど、佐藤は日頃から佐伯の弱みを握って脅迫していたんじゃないかしら。だから佐伯は佐藤の殺害を計画したのよ。
佐伯は政治家やテレビタレントだけじゃやなく、作家としての顔もあるでしょう。たくさんのエッセーを出しているし、その大半がベストセラーよ。佐伯の原稿を書いていたのは佐藤でしょう。でも印税や原稿料はすべて佐伯に入る。佐藤は秘書として佐伯から給料をもらってたけど、それ以上の額を要求したんじゃないかしら。
ネットを調べれば、この他、佐伯の黒い噂はいくらでも出てくるわ。政治汚職や暴力団との交際。佐伯を脅すネタなんて、秘書の佐藤からすればいくらでも手に入ったはずよ。
それに佐伯がゲイであることも脅しのネタになるわ」
「ネットでばれてるんだろう」森沢君が言う。「だったら脅しのネタにならないよ」
「政治家、佐伯の支持層は高齢者が多いのよ。彼らはテレビしか見ない。ネットを情報源にしてないわ。テレビでは佐伯はクリーンなイメージの政治家でしょう。それにネットの情報だけだとガセネタも混じってるから信用されないところがあるわ。もっとメジャーな媒体で取り上げて、初めて高齢者は佐伯の真の顔に気づくはずよ。
今、思いついたんだけど、もしかしたら佐伯と佐藤、アキラは三角関係のゲイだったんじゃないかしら。だとしたらアキラにはなおさら佐藤を殺す動機があるわ。佐伯はアキラが勤めるホストクラブのオーナー。つまりアキラのボスよ。ボスから佐藤を殺すよう命令された。でもそれだけじゃなく、アキラは自分のゲイの愛人でもある佐伯を取り戻すために、ゲイとしてのライバル、佐藤を殺したんじゃないかしら」
「動機はわかったから」森沢君が言う。「具体的な経緯を説明してくれ」
「そうねえ。あの日、佐伯はフランス料理店に編集者を呼び出して、自分の完璧なアリバイを作った。
その間、マンションではアキラが佐藤の後頭部をバットのようなもので殴って殺したの。アキラは佐藤の死体の首にロープを巻き、首吊り自殺をしたかのように偽装工作した。さらに自分の全身に金粉を塗って観音像のコスプレが完了したところで、佐伯のスマホに電話した。準備オーケーということを告げたんだわ。ところが佐伯は編集者に今の電話は佐藤からだと嘘をついた。
つまり、死亡推定時刻をぎりぎり過ぎてから死人から電話がある、というのはこういうトリックだったの。
マンションにつくと、佐伯はマンションが密室であることを執拗に編集者に確認させたわ。ドアをわざと編集者に開けさせて施錠してあることを確認させる。窓やサッシが施錠してあることを確認させる。おかしいと思わない。意図的に密室を強調しているのよ。これだけでも佐伯が事件に関係している証拠だわ。密室であれば、他殺とは思われない。つまり共犯者のアキラは疑われないというわけね。
その間、アキラはリビングルームの仏像に混じって佇んでいた。
佐伯はわざと編集者をマンションの外に出させた。その後、アキラは凶器のバットなどをリュックにでもしまって逃走したわけなの。
そしてマンションの駐車場に停めてある車に乗って逃げた。
マンションの駐車場は、マンションの住人の車以外は、普通、駐車できないわ。駐車できるとしたら、マンションの住人があらかじめ管理人に来客用駐車場を開けてもらうか、管理人の許可で出入り業者が車を駐車するかしかないでしょう。
アキラの場合、どうやったと思う?多分、佐伯があらかじめ管理人に来客用駐車場を開けてもらい、そこにアキラは自分の車を駐車したんだわ。
一つだけ彼らに誤算があったとすれば、アキラが車で逃走するところを編集者に目撃されて、写真を撮られたということね」
「全部推測の域を出ないな」と森沢君。
「チーズケーキ飽きたから」涼子さんがぼくに言う。「今日は違うのおごってくれる。シフォンケーキなんか、おいしそう」
ログハウスの『珈琲塾』は日当たりがよく、午後の日差しが頬に少し熱かった。
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