第8話 バイトとの話3
チョキチョキチョキ チョキチョキチョキ
バスルームにリズム良くハサミの音が響く。
「はーい、ちょっと頭下げてくださいねー」
チャッチャッチャッ チャッチャッチャッ
「戻しますねー」
そう言いながら彼女は俺の頭を水平に戻す。いちいち報告する必要があるのだろうか?
バイトとの相談から一時間半ほど時間が経過していた。現在、何をしているかというと、彼女に髪を切ってもらっている最中である。
何やらこのバイトは将来美容師を目指しているそうで、一度家に戻って道具を一式持ってきてくれた。これは非常にありがたかった。
俺は外で散髪をしたことが一度も無い。小さい頃からずっと母に切ってもらっていた。一年前、自宅の様子を見に来た母に一度バッサリ髪を切ってもらっていたが、それから一年間また放置しっぱなしであった。
伸びた髪はどちらかというと邪魔ではあったが、わざわざ髪を切る為だけに外に出向く気力は無く、かといって自分で切るという発想も無かった。
「髪は短い方がいいのか?」
俺はバイトに質問した。
「短くても長くても構いませんよ。要は清潔感があればいいんです!」
彼女は器用に手を動かしながらこちらの質問に答えた。
「清潔感?」
「そうです!伸ばしっぱなしだとか、無精ヒゲだとか、そういうだらしなさそ~、汚そ~な雰囲気が無ければいいんです!そこさえきちんとしておけば、長い短いなんてのは好みの問題ですから!」
ふーむ……抽象的でいまいちピンと来ないな。こういう事も学んでいかなければならないのだろうか。
ちなみに、髭は髪を切る前に全て剃ってしまった。バイトが家に戻る際、「さすがにおヒゲは自分で剃ってくださいね!あとお風呂!私が戻ってくるまでにちゃーんと全部やっておいてください!」と言われたので、渋々剃ることにした。慣れない事をするのは非常に疲れる。
「今回はどうするんだ?」
俺は続けて質問した。
「そうですねー、せっかく伸ばした髪なので、それを活かした髪型にしましょう!」
そう言いながら、彼女はテキパキと手を休めずに髪を切っていく。美容師を目指しているだけあって、母よりは数段手際が良いように感じた。今まで、散髪に費やす時間ほど意味のないことは無いとさえ思っていたが、少しずつ頭が軽くなっていく感覚も、意外と悪くはないものであった。
「おおお……!我ながら中々……!」
散髪の終わった俺を見て、バイトは目を輝かせた。
「いいですよ博士!なんだか、中高生に人気なバンドのボーカルみたい雰囲気です!」
それは褒められているのか?例えが良く分からん……
ともかく、髪を切ってくれたのは非常に助かった。今までは長くなったら短く切るの繰り返しだったため、きちんと整えられた髪というのは初めての経験だった。前髪は目に少しかかる程度に切られており、横髪は耳下程までの長さになっていた。彼女曰くちょい重めミディアムのマッシュウルフらしい。訳が分からん。髪の量自体は相当減っているようで、軽くて快適である。
「話は戻るが……お前から見て、俺はどう評価できる?」
ようやく話を本題に戻した。元々は結婚を阻止する話である。
彼女はうーんと口を顎に当てながら答えた。
「そうですねー。まず、首から上は問題なしです!ちゃんと毎日おヒゲ剃ってくださいね!次は……服装ですね」
彼女は俺が着ている真っ黒のMAJIUTSUジャージをジロジロと見た。
「これは駄目なのか?」
「別に家で着る分には構わないですけど……人と会う時ぐらいは着替えないとダメです!あとなんですかそのロゴ!超ダサいですよ!……そうだ!」
ポン、と彼女は手をたたいた。
「次のバイトの時、兄のおさがりを持ってきてあげます!見た感じ背丈は同じぐらいなので、サイズは大丈夫だと思います!」
「兄がいるのか?」
「はい!2つ上の大学生です!」
彼女は答えた。ちなみに俺に兄弟はいない。
「これで見た目については大丈夫ですが……」
そう言うと、彼女は一旦言葉を切り、
「今の博士を恋愛面で評価するなら、ハッキリ言って『ナシ』ですね!」
そう言い放った。
「何故だ?」
俺は理由を問いた。
「失礼を承知で言わせてもらいますと、そもそも博士は常識が無さすぎます!」
常識__その言葉は心に響いた。俺の感覚が世間一般と離れていることは自覚していた。今までは全く気にしていなかったが、ここへ来て常識を求められることになるとは思ってもいなかった。
「モテるためのテクニックもそうですが、まずは基本的なことから直していかないと!」
そう言われながらビシッと指を突きつけられる。
「例えばどんなことだ?」
俺は試しにそう聞いてみた。
「色々ありますけど、そうですねー……人の呼び方とかですね」
「呼び方?」
「博士、人を呼ぶ時『お前』って言いますよね。それは止めたほうがいいです!『お前』は印象最悪ですよ!ちゃんと名前で呼ばないと!」
「そうなのか?」
基本的に人を呼ぶときは全員に対してお前と言っていた気がする。今まで気にもしたことが無かったが、印象が悪いのなら改めた方がいいのかもしれない。
だが、こいつの名前が思い出せない。確か履歴書に書いてあったはずだが……いや、そもそも履歴書に目を通しただろうか……
「……博士。もしかして、私の名前覚えてないんですか?」
ジッとした目で見てくるバイトに対し、俺は素直に答えた。
「ああ」
「ひっどーい!博士、人の名前を覚えてないのは完全にNGですよ!人としてダメです!」
あり得ない、とでも言いたげにバイトは大げさなリアクションを取った。
そうだったのか……同時に複数の人と話す機会が少なかったからか、名前をわざわざ呼ぶ必要のある場面がなかった。一対一の会話は『お前』で事足りるため、結果的に人の名前を覚えておく意味がなかったのである。なるほど、これも改める必要があるのか。
「私の名前は
小針友莉近……よし、覚えた。別に名前を覚えるのが苦手な訳ではない。必要でない情報は頭に残しておきたくなかっただけである。
「はぁー、結婚までの道は遠いですね……でもなんだか燃えてきました!」
小針はそう言いながら顔をこちらに近づけてくる。
「博士を一人前のモテ男に育てちゃいますよ!名付けて『博士の壊した結婚式』作戦です!」
彼女が一人で盛り上がる様を見ながら、今日の疲れが一気に押し寄せてきて、俺は小さなため息をついた。
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