第9話 放課後仕事とひとつ溜め息
それからの午後の授業も、隣の彼はなかなか健闘していた。いや健闘というほど力を使って居ない気がするが。起きようと思えば、起きられないこともないようだった。今までどんなに体力を温存していたのだろうか…。
六時限目が終わって、彼は息をついた。
「流石につかれたよ」
と、私を横目に見やって。
本来は全部起きているのが当然の筈なのに、私は多分お人よしだからか、それとも彼の独特の雰囲気に巻き込まれるせいか、「がんばったね」なんて甘すぎる言葉を口に出していた。「うん…、大豆バー……」と、彼はそれに答えているのかいないのかよくわからない中途半端な単語を発して改めて机に突っ伏した。
そんなに大豆バーが効いたのか。ここまでくると面白いくらいだけど。名上さんのいうように、彼は燃費がいいのかな。
ホームルーム中も、授業が終わったことで彼は完全にスイッチが切れたのか、いや自分で切ったのか、ぼーっとしていた。前から回ってくるプリントも、だらりとした腕で受け取って適当に畳んでいた。それなのに角がぴったり合って綺麗に折られていたのはなんだか彼らしい。
今日は当番が休みで掃除もないから帰り支度をしていると、山背君のところに名上さんが鞄を持ってやってきた。一言二言交わして、それから「うわ、いつもよりまして眠そうじゃん」と面白そうに声をあげた。
「今日は久々に起きてたから」
「いや、つーか元々起きてんのが普通だろ」
といういつも通りの二人の会話を耳にして笑いながら、私も何となく会話に加わっていたのだが、その間に人もまばらになったとき、先生が適当に私達を見つけて仕事を託した。プリントを数学職員室に運んでほしいらしい。誰でもよいのだが丁度良くまとまった生徒の集まりがあったから私たちに声を掛けたんだろう。
悪いね、と先生に先手を切られては名上さんも「大丈夫っすよ」と無難な言葉を返していた。山背君はいつもの表情のまま動かないが、たぶん肯定的なことは思っていないんだろうな。私もちょっと面倒なことに当たっちゃったな、と失礼なことを思ったが、別に急いでもないし、一人だけの仕事ではないから大したこともなかった。
先生が忙しそうに教室を去っていくと、名上さんは調子よく「まーた目を付けられちゃったな~」と頭を掻いていた。山背君も「め、めんどくさ・・・」と口癖の様な慣れた口調で呟いていた。
「皆川さんもごめんね、俺らと話してたから巻き込まれちゃって。時間は大丈夫なの?」
と名上さんが気さくな調子を崩さずに気を遣ってくれたから、大丈夫だよと返すと彼はへへ、と笑った。「じゃあ道連れだ」なんて言い、私達もつられて笑ってしまった。
結構な量があったから、三人で手分けしてプリントを持ち、名上さんが一歩前に、そして私たち二人がその後ろを歩いた。名上さんは殆んど体を横に向けて歩きながら絶えずこちらに話しかけてくれる。話すこと自体が好きなんだろうな。
数学職員室の前に着き、ノックをしてから名上さんが人あたりのよい笑みを浮かべながら一番に入って行った。私たちもそれに続く。
担任からの依頼で、と、数学の藍川先生に話すと、コーヒーを片手に「おつかれさま」と言われた。
手元には添削中と思われる紙の山。机から離れられないようで、ジェスチャーで「そこに置いといてね」と指示を受ける。
藍川先生は穏やかな、まだ二三十台の歳だがいかにも紳士といった安定感がある。将来はきっと更に落ち着いた老紳士の先生となって女学生から絶大な支持を得そうだ・・・なんて勝手に思う。
山背君はさっさと用事を済ませたいのか、急ぐ様子こそないものの、書類をぽん、と指定された場所に置くとすぐに「失礼します」と断りつつドアを開けた。
うん、ありがとう、…との言葉の後に、先生は私たちの名字にすべて「さん」を付けてそれぞれ優しく呼び掛けてくれた。忙しそうなのに丁寧な人だなあ。
名上さんもそれに続いて挨拶をしてドアへと向かう。最後に先生に私の名前だけを呼ばれたので、何かと思って返事をすると、椅子をくるりと回して顔を覗かせている藍川先生が、私のテストの成績がいつも以上に良かったことを指摘して褒めてくれた。まさかこの二人の前で褒められるとは思っていなかったので何だか照れくさいような気もして、短い相槌ぐらいしか返せなかったし、無駄にぺこぺこしてしまったような気もする。「次も頑張ってね、その調子で」といかにも先生らしい台詞を付け加えられ、私も思い切り返事をしてしまった。…ああ、頑張らなければ…。どちらにせよ頑張るけれど。先生に宣言してしまったら頑張るしか選択肢もなくなってしまった。
私も数学職員室を後にして、先に待っていた二人と合流する。
早速名上さんにさっきの事をつつかれる。流石だなぁ、と真っすぐな言葉。皮肉めいてもいないので嫌な気はしない。隣の山背君は相変わらずの無表情に近い顔だけど、目が合うと手を二回ぱちぱちと叩いてくれた。
無表情とその動作が妙にミスマッチで笑ってしまいそうだったが、その所為もあってかなんとなく偉い人に褒められたような気分になった。実際、彼は成績優秀だから、その人に褒められるのは光栄なことだ。我ながらちょろいけれど、素直に嬉しい。
教室に戻り、まだ途中だった帰り支度を整えた。私たちは席もそこまで遠くないのでその間も世間話が続いた。外はまだ明るいけれど、教室からもう生徒の姿はなくなっていた。私達三人だけ。他のみんなは部活動や近場のカフェに寄り道しに行ったり、遊びに行ったりで早速放課後を謳歌している。
私達がのんびり帰る準備を整えたところで、名上さんが切り出す。
「俺たちも帰ろう。あーでも俺は放送室に寄ってからだな。そういや明日の準備がまだあったわ」
そう言って一足先に教室を後にしていった。確か名上さんは放送委員だったっけ。
何となく、隣の山背君に「お疲れ様」を改めて告げると、彼はそれではじめて自分がなした仕事を思い出したように、急にちょっと疲れた顔になって「うん…働いたのに何もくれなかった……」と薄い息をついた。
それに「たしかに大豆バーもくれなかったね」なんてつい笑って返していると、彼の方から案外に話を変えて来て、「そういえばもう帰り」と最小限の単語を並べて語尾をゆるく持ち上げて訊いた。
いつもは一緒に帰っている友達が今日は休みで居ないので、一人だ。その旨も添えると、「そう。僕も」と返ってくる。
それから何となく一緒に話しながら教室を出たので、成り行きで一緒に帰るのかと思ってしまったが、彼が「家はどっち」と訊いてきたので本当に一緒に下校するらしい。確かに方向が一緒ならわざわざここまで来て時差を付けて帰る事もない。幸い、…幸い?同じ方向だったし、同じコンビニの前を通るようだったから並んで帰る事にした。この時ばかりは徒歩通学で良かったなどと思ってしまった。
思いがけず彼と長時間…いや、少しといえば少しの時間だが、比較的ゆっくり話をする機会が出来てちょっと運の良さを感じた。担任の先生には、はじめこそ面倒な仕事を任されてしまったなぁと思ったけれど、今に至ればきっかけをくれたので感謝の想いしかない。たまには雑用も悪くないかな、いや、雑用と言っても山背君のあの不思議な空気と共にだったからそれさえ面白くて、全く苦ではなかったな、…と、ここまで思ってから自分はなんて単純で幸せなんだろうかと、あきれてしまいそうになった。
校舎を出ると右手に大きなグラウンド。にぎやかに球技や陸上に励む生徒たちを横目に、それとは対照的とすらいえる程の、彼ののんびり、気のはいらないトーンと会話を打ち交わしながら歩みを進めていった。
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