第4話



7.

 今年のセミはいつもよりもうるさかった。

 まだ、夏の暑さが残るものの、夏の気配は薄れてきた。夕暮れのこの時間ともなれば、いよいよ秋が近いことを匂わせていた。

 思えば、あの病室にはセミの声は聞こえなかったな。

 もう彼女の病室に行かなくてもよくなってから、一か月が経った。面会4回分になる。

 僕は今、一人、駅から降りて、家までの帰り道をなぞっていた。



 柚子は居なくなってしまったみたいだ。



      ****** 



 先月の今日。光景がふっと浮かびだした。忘れられない、だけど、素直に記憶が思い出してくれない。彼女との思い出が無意識の奥底に沈んでいくのかもしれない。



 互いに面識がある柚子の母親からの電話。あれに出たときは家で寝転がっていた気がする。「柚子はベットにいる癖に、今の俺みたいな姿勢は取れないであろう」なんて思ってしまうような仰向けで、ただ寝転がっていた。

 そんな時に来た電話。それに対する事務的な返事。あの時の僕の声はいつも通りだったのだろうか。


 病室で眠る柚子の姿。改めてしっかり見た彼女の姿は、女性にしても異様なまでにやせ細っていた。


 数えられるほどしか着ていない喪服を、柚子のために引っ張り出した記憶。このために使うつもりではなかったはずなのに。喪服が思ったよりきれいで、虫食いの穴もないことに安心した夜。


 彼女の葬式には彼女の高校や、大学の、僕が知らない人がたくさんいた。彼女の知り合いがいたこと、そして、僕が知らなかったことに驚いた。若い生命力のある人間たちが特定の集団になって黙り込んでいたのは、葬儀場ではかなり違和感があった。


 

 彼女が別れに言った言葉。


 結局、僕は何もなかった。何も言わなかった。



 記憶の順番がつかない。柚子の居なくなった日から、僕の時計が壊れてしまったようだ。

 彼女が死んだことは全く信じられなかったのは、最初の電話だけだった。


 あんなにかんたんに消えてしまったら、また簡単に帰ってくるよね? ねぇ?


 一人になった僕には。そんなどうしようもない言葉を飲み込むが精一杯だった。

 


      *******


 

 ひとり「ただいま」の声を出して靴を脱いだ。着替えようとして、服がタンスの中に無いことに気付く。そういえば昨日まとめて洗濯したんだっけ。そう思い出して、ベランダを見るとかなりの量の服がぎゅうぎゅうに竿につるされて並んでいた。果たして乾いているのだろうか。


 僕が洗濯物を確認しようとしたとき、後ろから声がした。


 ちゃんと日ごろからちゃんとしていないとだめだよ、ねぇ、


 急いで後ろを振り返る。一瞬だけ心臓がとまる。目が見開く。

 だけど、ふり返ってもそこには玄関の扉と先ほど脱いだ靴があっただけだった。柚子はいなかった。気のせいか何かの聞き間違いだろう。ここ最近頻繁に起こるようになった。柚子の声ばかりだ。


 落ち着け、もうんだ。

 わかっているのに。もう居ないことは。だけど、声が聞こえたと思う度に、ほんの一瞬だけ柚子が生きているような錯覚をする。その時だけ心臓に血が通ったような気がする。死んだような1か月を過ごしている僕の心臓を動かしてるのは、皮肉にも柚子の声の幻聴なのかもしれない。


 ひとりでそんな考えに浸っていると、玄関の扉に郵便物があるのに気付いた。しかも、ひとつじゃなかった。果たして、なんだろうか? と疑問に思った。

 僕は洗濯物を取り込んでから、郵便物を確認した。


 1つ目は、簡素な封筒だった。機械的な印字だった。

 新聞社からだった。新聞社……? 何か悪いことでもしたかな……? 指名手配的な……? と疑問に思っていると、

「あっ」

 声が漏れた。思い出した。

 そういえば、2か月前、柚子が居なくなる少し前に短編を送ったんだった。

 封筒を開いて中身を確認すると、どうやらその内容のようだった。

 どうやら佳作に選ばれたようだ。賞金の代わりの図書券がついてきた。

 何月何日に掲載予定です。と文章の下に書いてあったのが印象的だった。


 2つ目も簡素な封筒だった。

 相手の名字を見てすぐに分かった。柚子の実家からだった。一応、柚子も住んでいたのだが、彼女は入院が長かったので、僕等の中では、なんとなく実家みたいになっていた。

「あのさ、まーくんなんか新しい本ちょうだいよ。暇なの」「実家からなんか送ってもらったら?」「あはは。実家なんだ。確かにそうかもね」「またお母さん来るんでしょ」「うん。まぁ来るけどさ……実家ってことは私は病院に嫁いでるのかな?」「結婚してるよ」「旦那さんが居ないよ、まーくん」「きても週一だね」「あーそれは悲しいな」


 封筒の中は、四つ折りされた一通の手紙と1枚の小さなメモ紙だった。

 僕はメモ紙を見た。


 『お久しぶりです。誠君。柚子の母です。

  

  柚子については大変お世話になりました。とても感謝しています。小さなころから柚子と仲良くしてくれて、家族みたいに接してくれて、ありがとう。

  いつも柚子がよくあなたの話をしていて、あの子が楽しそうで、嬉しかったわ。最後まで面会に来てくれて、私もすごく救われたの。私からも言わせてください。ありがとう。

  この手紙は柚子からのあなたへの手紙です。柚子が死んだら送るように遺言に書いてあったわ』


 自分でも神妙な顔をしてるのが分かった。柚子は前から『いつか』が来ることを分かっていたんだと思う。だから手紙まで書いていたんだろう。


 ゆっくり、柚子の手紙を開いた。久しぶりに見る彼女のきれいで繊細な文字だった。

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