3ビンめ ラバルツの魔術書

 かたく閉じたまぶたをサッと片側だけあけてみても、無数のどろどろの尻尾がぐるりと四方八方を囲ってて、逃げる隙間も何も無かった。

 何も無いと見えたのは確かだった。

 少年は、いつの間にか〈毒尻尾〉づくりの石室ではなく、どことも知れない空中に浮かんでたのだが、まぶたの開いたのが僅かの間だったので、自分の足元や自分を囲んでる無数のどろどろ尻尾以外の景色は、ほとんど認識のうちに入ってなかった。

「まずい、まずいまずいまずい……ッ!!」

 勢い良く、ほほのあたりを吹き抜ける冷たい気圧が不安な気持ちをズンズンとがらせてく。まぶたをかたくかたく閉じきって、脚をふんばってみようと思ったが、いくら伸ばしてみてもどこにも脚はひっかからない。

 吹きまわる黄色い風と押しよせる空気は、次第々々に速度をあげて止まらず、どんな音さえき消すような大きな音が鳴り響いてるだけだった。


「………………」

 ぴとっ。

 かたくかたく閉じきったまぶたの真横あたりで湿気をふくんだ音が鳴ったことに、とび茶色の髪の少年は気がついてない。

「息するの忘れたのやめないと、困るんだな」

 ぴとっ、と湿気を含んだ音をたてて細長い指が少年のこめかみのあたりに触れる。その指の持ち主は波うつような長い髪の女で、冷たげな視線を向けてじれったそうにする。

「……ひっ!!!!!!!?」

 ほんの数ミリまぶたを開いてみた少年は、ガラスをこすったような声をたてて顔をそむけ、再びまぶたをかたく閉じる。女の細長い指についた湿しめっぽさの元凶が、濃い赤色の液体だったことが恐怖をかきたてた。

「動くな、ってのを従順にきいてて欲しかったのは移動の時だけだからさ、そろそろ動いて欲しい」

「………………」

 ぴとぴとと赤い液体にぬれた指先が、こめかみから次第にほほへと動く。

「じゃあ、こう」

 女はそういうと、肌着のようなやわらかい素材の黒い衣裳をスッと長めにたくしあげて、その布ごしに少年の鼻をつまんだ。はたから見れば、鼻をかんでもらってるような光景だが、そのつまみ方は鼻での呼吸を停止しにかかって来ている強さだった。

「このまま肺臓、動かなくする?」

「………………うっ」

 とび茶色の髪の少年は口をひらいて細く呼吸し、まぶたを閉じたままに耐える。

 つままれた鼻先を包んでいる女の衣裳に吐息があたり、心地の悪い湿っぽさが口元にじわじわと生じて来る。

「こういう我慢は、もう少しあとなんだから、そろそろ動け」

 女は、そう言う鼻から手を放しながら、もう一方の手でツンと少年を後ろへ突き飛ばした。決して強い力での押しではなかったが、少年は尻尾の重心とりを失わせながら、ふらふらよろけた。

「ゲホッ、ホッ…………うぇッ……」

 両手をゆかについてせきこむ少年の動きにあわせて、板張りのゆかがきしむ。その音に乗って、女の足音も響いてくる。

 この空間はどうやら地面の上にあるようでは無いようで、板の隙間からはときどき屋内に向かってシュウゥゥと風の入り込む音がするし、心なしか部屋全体もふわふわ浮いてるような感じもした。――しかし、少年はそんなことよりも、一体全体どうして自分が突然こんなところに持って来られたのかについてだけ思いをめぐらせ、困惑に脳と尻尾をふるわせてた。

「大事な魔術書に息をかけるな」

 呼吸を慌ただしく整えなおした少年の肩を女が起こしてひざで立たせる。

「はっ……、ハ……、え……?」

「息・を・か・け・る・な」

 そう言うと女はまた自分の衣裳をシュッと勢いよく引き上げて、今度は少年の鼻ではなく口を押しつつんだ。少年はただコクコクと首を縦に振るだけだった。



 浮かんだあぶらのかたまりみたいな、どろどろ尻尾を無数に生やしてる存在。――それは〈けらむしの里〉の住民たちの尻尾と見くらべても異世界のシロモノで、、といった感じに映る。

 ところどころに気泡のようなものが浮いては、また姿を隠す。尻尾の皮膚ひふ呼吸なのか何なのかはわからないが、そのどろどろ尻尾の相貌かたちは、爬虫はちゆう類のような小さな少年の尻尾とは、まったくもって異相の尻尾だった。


 長い髪の女はそんな無数のどろどろ尻尾をあとにひきながら、とび茶色の髪の少年の近くにあった数冊の書物を手に持って一枚一枚、そのページをひらいて何か一心不乱に確認してる。

 少年は「息をかけるな」と言われたせいか、口に手をあてて、なるべく女のほうに顔を向けないようにして黙ってる。

(……ほんとにいったいなんなんだ……)

 ぐるりと見渡すが、空間の中はどよ~んとした空気で薄暗く、板張りのゆかや、吊り下げられている何枚もの濃い茶色の紗幕しやまくが確認出来る程度で、どことも知れない一室――空中でも、〈毒尻尾〉づくりの石室でも無い、というひとかけらの現実しか把握することは出来ないままだった。

(……本、ってやつは何か書き込んであるもんだろうけど……、あれは……何も無い……)

 ときどき横目でチラリと見える女の眺める書物のページがほとんど文字も記号も何も無い様子なのを少年はひときわ怪しんでた。

「良かった――気化きかしてない気化してない」

 どろどろ尻尾の女の大きなつぶやきに少年は肩をびくつかせ、女の坐ってるのと逆の向きに体をまわす。

「誰かさんに息かけられて驚いたが」

 どろどろ尻尾のうちの一本が少年の膝の上にポンとのせてくる。軟膏をつける指のような妙な感触を再びまぶたを閉じて我慢してると、いつの間にかどろどろ尻尾ではなく女の手のひらがそこにあり、顔のすぐそばに顔が近づいてた。

「やっと見つけたんだから、一冊もこれらを気化させたくない、わけ」

「…………ひっ……」

 そう言いながら、少年の口元にまた自分の衣裳を押し当ててくる。そして、片手に持った書物の見開きを見せつけるように持ち上げて示す。

 見開きには何も記されてない……と、おぼしかったが、少年の目にはぼんやりと何か小さなにわとりの影ような形のが映り込みはじめた。書物のページの上なのか、自分の視界の中に見えた淡い影のようなものなのか、曖昧あいまいなものだったが、ゆっくりと距離が離れて行く書物の見開きのページの上でそのの鶏が「コケコッコーゥ」と鳴いてるようなそぶりを見せて動いたような気がした。

 すると、女は素早く書物をゆかに置いて閉じ――

「このラバルツの魔術書をね」

 ――そうささやいて、口元に押し当ててきた衣裳ごしに少年の唇のあたりを一、二回なぞった。

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