シュレディンガーの箱庭 6
「どういうことだよ」
五木が呻くようにして言った。
「何であの二人が消えてんだよ。実川なんて、条件に合致しない最たる例じゃなかったのかよ」
僕たちの昨晩の推測では、市川、二宮、五木、武庫川の四名が能力者かもしれなかった。正確には二宮は自分が能力者であることを自覚しているから除外され、残り三人のうちの誰かになるはず。だから、三人と接触した人間を分けていた。もし消えるとすれば、その分けたルールに従って消えると推測していたのに。
「市川さんと接触したのは武庫川さんだけ。であるなら、武庫川さんが能力者と考えられます」
二宮が言うと、武庫川が自分の体を抱きしめる。震える姉を後ろから七尾が支えている。
「ですが、私たちの考えたルールであれば、彼女だけ消えていなければおかしい。実川さんは武庫川さんと接触していないのですから」
実川と接触したのは、二宮と僕だけだからだ。
「おい、どうなんだ。あのおばさんとどっかのタイミングで接触したとか、ないのかよ」
認めろと脅すような口調で五木が武庫川に迫る。少し後ずさりしながら、しかし武庫川は首を横に振った。
「触ってないです。あの人、弟に失礼な態度を取ったから。近づきたくもなかった」
「ふん、だから逆に触ったとか、そういうオチじゃないよな」
五木は言うが、彼本人もそれはあり得ないとわかっているからそれ以降追求しなかった。僕たちがルール分けしてから、誰も他人に触れようとしなかったし、そもそも誰が能力を持っているかは誰にもわからないからだ。
「ルールが間違っていたのでしょうか?」
二宮が、あまり考えたくないことを口に出した。しかし考えなければ進めない。
「別の条件ってことか。でもあんた、今回の能力は特定型とかいう、接触しないと発揮されないタイプの能力じゃなかったのかよ」
「ええ。特定型は、ほとんどは接触しなければ発揮されないはずなのです。ですが、今回のケースには当てはまらない」
「ふざけんな。例外なんか考え出したら、きりねえぞ。ルールわかる前に全員消えちまう」
五木が嘆きたい気持ちは痛いほどわかる。一度正解だと思っていた事が違っていたら、また考え直さなければならない。ぬか喜びほどメンタルが重たくなるものはない。命がかかっていればなおさらだ。どうでもよくなってくる気持ちを何とか抑える。考えなければ、次に消えるのは僕かもしれないのだから。
「最終手段を、使いましょう」
二宮が立ち上がった。
「二宮さん、何する気ですか」
わざわざ聞いた。聞かなくてもわかることを聞いたのは、一応止めようとしたという免罪符が欲しいと無意識が働きかけたからだろうか。
「指紋認証を行います。最初から私が試しておけばよかった」
「待ってください。そんなことしても意味がない」
「そうですよ」
武庫川も彼を止めようとする。
「タブレットに書かれていたことを忘れたんですか。違ったら死んじゃうんですよ」
「承知の上です。ですが、今のところ特殊な人種、能力者とわかっているのは私しかいない」
「わかっているから、違うんじゃないんですか。タブレットには、そのことに気づいていない人ってあったんですよ」
武庫川の言う通りだ。タブレットの指示が正しければ、指紋認証が通るのは二宮ではない。
「実川さんが言っていた通り、それが正しいとは限らない。それに、もしかしたら私も気づかないうちに新しい能力に目覚めた可能性もある」
二宮がタブレットに近づく。武庫川が彼を掴もうとして、途中で手を止めた。自分が能力者かもしれないと躊躇ったのだ。五木は止めない。彼も能力者かもしれない、というだけでなく、止めるつもりがないのだろう。こちらに背中を向けて、二宮の方を向こうとしない。
二宮がタブレットに手を触れようとして、その腕が横から掴まれた。
「七尾君」
二宮の腕を両手で掴みフルフルと首を横に振りながら、彼はおそらく、この場で初めて声を出した。
「駄目です」
女性のように高い声だ。弟と聞いていたのだが、まだ声変わりの前なのか。
いや、違う。
「あり得ない」
その高い声が僕の頭を貫いた。気づいた時には、僕は彼らのそばに立ち、二宮の腕を掴んでいる七尾の腕を掴んでいた。
「君は、誰だ?」
七尾は一瞬きょとんとした顔で僕の顔を見つめ、そして、にたっと笑った。あどけない少年の笑顔は、僕には悪魔の微笑みに見えた。掴んでいた手を離し、ひきつった声をあげながら僕は彼から距離を取る。
「君は、男じゃ、ないのか。だったら、君では」
はたと気づくと、いつの間にか皆が僕を囲み、見つめていた。タブレットを掴んでいた二宮も、彼を掴みかけた武庫川も、背を向けていた五木も、皆が直立して僕の方を見ていた。
「な、何?」
「気にせず続けてください。何に気づいたんですか。何がわかったんですか。何が違うというのですか」
七尾が、七尾ではない声で僕に尋ねた。
「だって、君が、君が能力者じゃないの、か」
「何故です?」
何も知らない顔で、しかし全てを見通しているかのように、七尾は尋ねた。答え合わせをしてやろうという、そんな上から目線の顔に見えた。恐れながら、僕は答えた。
「僕たちが考えたルールは、米澤さんと接触した人間が能力者だという仮定で進めていた。でも、それは間違いだった。だから、逆に考えた。接触していないから消えたんじゃないかと」
その条件で行くと、うまい具合に絞ることができる。米澤に触れなかったのは僕と七尾、そして実川だ。次に市川と実川に触れなかったのは七尾しかいない。
「つまり『私』以外に該当者がいないというわけですね。じゃあ、私が気づいていない能力者なわけだ」
「でもそれはあり得ない」
「どうして? 条件に当てはまるのは『私』だけなのに」
私、私と、七尾はそこを強調するように話している。
「だって、君は」
「君は、何です? 他にどんな条件があると?」
「君は、女性じゃないか」
何か決定的なことを口走ったような気がする。だが、それに僕は気づかない。
「君は、誰なんだ」
「そっちこそ」
五木が馬鹿にした口調で言った。
「え?」
「お前こそ、一体誰だよ」
「ぼ、僕は、社」
「年齢は?」
畳みかけるように二宮が問いかけた。
「二十五歳、です。あの、年齢は自己紹介の時に話したと」
僕の言葉を遮って、武庫川が言った。
「その割には、ずいぶんと老け顔なんですね」
弟と同じ、悪魔の笑みを浮かべて彼女は続けた。
「それとも、男性の二十代って皆そんな感じなんですか?」
「おい、失礼なことを言うな。同い年だけど、俺はそこまで老けてねえだろ」
五木は自分の顔をさすりながら冗談を口にするが、僕から視線を逸らさない。
「な、何なんですか皆して。僕が何だっていうんです」
「君は気づいてないかもしれないけど、もしくは気づいていて無視していたのかもしれないけど、たまに変なことを言っていたんです」
二宮が言った。
「能力者を特定しよう、という話になった時、君は能力者のことを『彼』と呼びました」
「いや、それはその前に五木さんが彼と言ってたからつられたんじゃ」
「いいや、俺は『見つけたら殺す、ってことで良いのか』と言っただけだぜ。で、あんたはその後続けたんだ。『そんな彼を追いつめるような真似をしたら』ってな」
言ったのか、いや、確かに言った。何故だ。その時は男性だと特定されていなかったのに。今の僕は、能力者が男性であると断言できる。何故だ?
「だから、君は七尾君が女性であることに驚きを隠せなかった。君にとって、能力者は男性だからだ」
次に、と二宮は続けた。
「つい今しがたの話です。指紋認証をしようとする私に、君は何と言ったか覚えていますか?」
「確か、待ってくださいと、指紋認証を止めるように言ったはずですが」
「ああ。その通り。そしてこうも続けた。そんなことをしても意味がない、とね。何故意味がないと?」
「だって、能力者は自分の能力に気づいていない人間です。二宮さんは自覚し、能力も把握していた。だから」
「だから意味がない、と?」
「違うでしょう?」
横から武庫川が言った。
「本当は、誰が正解か知っていたから意味がないと言ったんでしょ?」
「違う、いや、違わない、のか。二宮さんが正解であるわけがないんだ。だってドアを開けられるのは」
「開けられるのは?」
開けられるのは。喉からでかかった言葉は、何だ。僕は何と言おうとした。
「良いでしょう。では最後に、君が七尾君に対して問いかけたことについて」
言葉に詰まった僕をもどかしそうに見ながら、二宮が言った。
「なぜ、七尾君に誰だと聞いたんです?」
「それは、だって、彼は武庫川さんの弟だと」
「それは、そんなに重要なことですか。何か理由があっただけなのではないですか?」
二宮が武庫川に話を向ける。
「ええ。うちの母が男の子が欲しかったみたいで。でも二人とも女の子だったから、この子のことを男の子のように育てたんです。とかね?」
悪戯っぽく武庫川が言った。それが真実でないことは彼女の口ぶりからもわかる。
「普通尋ねるのは『妹』、女性だったのかということです。『誰か』などとは聞きませんよ。だって武庫川さんのお身内で、七尾という名前は間違いないのだから。ではなぜ、あなたは普通聞かない疑問を口にしたのか」
二宮が矢継ぎ早に言葉を投げかける。
「あなたにとって、七尾君は男性でなければならなかったのはなぜか。能力者は男性だと思っていたのはなぜか。私では指紋認証が通らないと思ったのはなぜか。理屈は簡単です。あなたにとって、そうでなければならないから。それが正解だから。なぜ正解でなければならないのか」
言われたことが理解できない。いや、理解できる。だって間違っていると理解しているからだ。
そして二宮は、今の僕にぴったりの言葉を告げた。
「なぜなら、あなたにとって今起こっている事は、二度目だからです」
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