シュレディンガーの箱庭 3

「どのような能力か、教えてもらっても?」

 米澤が二宮に問うた。

「もちろんです。ですが、期待に応えられるような、大した能力ではないのです。実際に少し、やってみましょうか」

 二宮が失礼、と断って米澤の肩に手を置く。

「米澤さん。好きな数字四桁を頭の中だけで思い浮かべてください」

「わかりました」

「では、数字を記憶したまま、少し離れてもらっても? 代わりに、五木さん。こちらに来ていただけませんか」

「え、俺?」

「お願いします。同じように座っていただけますか」

 米澤が場所を空け、五木が彼のいた場所に胡坐をかく。

「え?」

 驚いた顔で、五木が二宮の方を見た。まだ言わないで、と二宮が人差し指を口元に当てて五木に言う。

「では次は、市川さん。五木さんと交代してもらえますか? 同じように胡坐で」

「私も?」

 恐る恐る、市川が同じように五木が座っていた場所に胡坐をかく。彼女も同じように驚き、口に手を当てた。

「では、五木さん、市川さん。せえの、で一緒に数字を言ってもらえませんか。せえの」

「「4251」」

 二人の数字はぴったりと一致した。僕たちも驚いたが、もっと驚いていたのは米澤だ。

「俺が思い浮かべた数字です」

 米澤の答えを聞いて、言ったはずの二人が驚いた。

「私は『同期』と呼んでいます」

 二宮が説明してくれた。

「人の記憶を固定し、この場に残すことができます。同じ場所に来た人はその記憶を受け取ることができます。ただし、いくつか条件がありますが」

 二宮が言う条件は。


 同じ場所にいること。誤差三十センチ以内。

 同じ曜日の同じ日時にいること。誤差十分以内。

 同じ姿勢を取ること。

 記憶を残したい人物の肩に二宮が触れること。

 触れられた本人の記憶に残っていること。


 以上を満たして、記憶が受け渡されるらしい。

「他人同士だと、体のつくりが違うためか少ししか記憶を引き継ぐことはできません。それも、肩に触れていた時に最も意識した記憶くらいでしょうか」

「記憶を残した俺と、受け取った五木さん、市川さんは全くの別人だから思い浮かべた数字くらいしか受け取れないってことですね」

 おっしゃる通りです。と二宮は肯定した。

「では、例えば僕のクローンがいれば」

「条件さえ満たせば、まったく同じ記憶を持つ米澤さんのクローンが生まれるでしょうな。ただし、問題が一つ発生します。記憶の混合です」

「記憶の混合?」

「ええ。記憶を写すまで、クローンにはそこに至るまでの記憶があるはずです。その記憶は消えるわけではない。しかし、米澤さんには存在しないものです。二人分の記憶が脳に刻まれて混同するわけです。しかも、必ず記憶を置いた時間と記憶を得た時間にずれが生じるので、その不具合によって混乱が生じると思われます。そのせいで、やはり本人の記憶の大半は失われるでしょう。それでも、まったくの他人よりかは多くの記憶を得ることができるでしょうが」

「生まれたての、まっさらな状態でなければ記憶を丸々渡せないのか」

「じゃあ、本人同士ならどうなるの?」

 武庫川が尋ねた。二宮以外の全員が首を傾げた。本人の記憶を本人に残すことに意味があるのだろうか。元々本人の記憶なのだから、写す必要がないのではないか。しかし二宮は「良い質問です」と嬉しそうに言った。

「実は、武庫川さんの質問に答えることが、同期と命名した理由になります」

 二宮がコップを二つ並べた。一つに三分の一だけお茶を入れる。

「お茶を入れた方を、過去の武庫川さんだとします。そして、こちらの空っぽのコップを、今の武庫川さんだとしましょう。本来、過去から現在に記憶を受け渡すのは、こういうイメージだと思います」

 空のコップへとお茶を移し替える。同じ量のお茶が空のコップに入った。過去から現在へ記憶が移動したイメージだ。

「しかし、私の同期の場合はこうです」

 今度は、お茶の入ったコップを空のコップに重ねた。

「記憶している本人という状態そのものを移すので、今の武庫川さんが過去の武庫川さんになってしまいます」

「単純な、データの移動ってわけじゃじゃないのか」

 米澤が唸る。

「その通りです。厄介なのは、この状態が起こると過去から現在に至る、全ての武庫川さんに影響が出るという事です」

「え、どういうことですか?」

 首をひねる武庫川に、そうですね、と二宮が例を挙げた。

「小学校の頃の武庫川さんの記憶を、今の武庫川さんに移したとします。そうすると、体の成長はさておき、記憶という部分では小学生の武庫川さんになります。そうなると、中学校の武庫川さんも小学校の武庫川さんでなければならない、という理屈になります」

「ちょ、ちょっと待ってください。まさか、時間の流れを無視して変化するという事ですか?」

「そうです。そしてもしそうなれば、武庫川さんに関わる全ての人に少なからず影響します。すると何が起きるか。武庫川さんの周囲で未来が変わる、いわゆる過去の改ざんが起こります」

 本人ではなく、世界に影響を与えてしまうと言うのか。それも、誰も気づかないうちに。

「それは、ちょっとリスクが大きいような」

「ええ、自分の記憶は失われてしまうのに、過去は変化してしまう。しかも良い変化である可能性は低い。例えば株式で稼いでいた人が過去の自分と同期してしまったら、過去の自分は株式で成功していないし、自分が成功するはずだった株の売買がそもそも失われチャンスを失う。どころか、彼らにとって最も大切な時間が奪われるのです。これだけ見ても、私の同期が使えない能力だというのがわかっていただけるかと思います」

「ちなみに、なんですけど」

 僕は二宮に尋ねた。

「そこから元に、この場合は今の自分に戻れたら、どうなりますか? 同期なのですから、過去の自分に良い影響が出たり、とか」

「可能性はあります。過去の自分に、今の自分の記憶が移せたり、でしょうか」

「だったら」

 試す価値はあるのではないか、と言おうとした僕を制するように、先んじて二宮は言った。

「ですが、過去の自分が、それが自分のこれから起こる記憶と認識しなければ、それはただの白昼夢に終わってしまいます。膨大な記憶が一気に流れ込んできたら、資料として残るわけではないその全てを覚えきることはできない。時間の経過ごとに薄れ、消えていくでしょう。余程その時に必要な記憶だと過去の本人が認識しない限りは」

「結局、上手い話というのは存在しないのね」

 武庫川がため息をついた。

「テストで楽できると思ったのに」

 どうやら、過去の自分に一夜漬けをしてもらって、テスト中に記憶を思い出してもらえばいいと考えたらしい。勉強は自分で頑張りましょうと二宮は笑った。

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