言わぬが花

 曽根崎さんが無くなったことを知った小野田さんは落ち込み、寝込んでしまった。二、三日休むらしい。曽根崎さんが亡くなったのは悲しいことだし、残念なことだと思う。しかし、私たちを待つ利用者さんには、冷たい言い方かもしれないが彼女の死は関係ない。つまり何が言いたいかというと、小野田さんが寝込んだ分のツケが、私に回ってきたという愚痴だ。

 顎に滴る汗をぬぐい、小野田さんが回るはずだった予定をこなしていく。いや、病気やケガなど、不測の事態は誰にでも起こる。仕方ない。それは仕方のない事だ。

 頭ではわかっているが、この、体をさいなむ不快感と積もっていく疲労感が理性をぶん殴る。「仕方ないだと? ふざけんな!」と。

「次は、と」

 自転車を停める。周りは高校生ばかりだ。彼らは近くの予備校に吸い込まれていく。曽根崎さんが通っていた予備校だ。身近にいた仲間が死んだというのに、彼らの興味は手元の小さな四角のようだ。

 曽根崎さんは、自宅で毒を飲んで死んでいた。原因は受験ノイローゼらしい。毒と言ったが、農薬の一種だから一般人の彼女でも買える。ネットで自分で購入したことも警察の調べで分かっていた。

 だが、と考える。曽根崎さんは、自分から死を選ぶような人間には見えなかった。いや、もちろん人間の内面など他人にわかりはしない。今時の若い女の子の心理などなおさらだ。

 それでも、私は彼女が自殺したとは到底考えられない。自殺と報じられているが、遺書は見つかっていない。それに、彼女と最初にあった時の印象が違うと訴えているのだ。

 彼女は確かに、誰に対しても分け隔てなく接する人だった。だが、あれは優しさだったのだろうか。よくフィクションで、誰にでも優しい人は、誰にも興味のない人、と表現されるが、彼女はそれに当てはまる気がしてならない。小野田さんが心配していた野良犬に対する彼女の接し方と、私たちに対する接し方や目線が同じように感じたのだ。

 また、彼女は私が見たネズミの死骸を、他の女子生徒のように気味悪がるわけでもなく、小首をかしげてじっと観察していた。まるで実験結果を見守るような目線だった。

 そういう、御幣を恐れずに言うならば冷静な人間が、受験に追い込まれてノイローゼになり、自ら死を選ぶものなのだろうか。それに、小野田さんの話では彼女は非常に優秀で、志望校の合格率もかなり高かった。あの性格だから内申点も高かっただろうし、推薦も貰えるだろう。なおさら受験に関する悩みがあったようには思えない。同じ理由で友達や学校の先生との関係も良好だろうから、学校での悩みもなかったのではないか。

 学校でなければ家庭に悩みがあったのか。父親は大手企業に勤め、母親は献身的に家庭を支える、まさに絵にかいたような幸せな家庭だと、これも小野田さんから聞いた。小野田さんは仕事中に何を女子高生と話し込んでいるのだろうか。むしろそっちの方が気になってきた。

 つつっ、と後頭部から背中に向けて汗が流れた。こんな暑いところで立ち止まっている場合ではない。私は、生きている人間の相手で精一杯なのだ。


「この前はゴメンね、休んじゃって」

 事業所で待機していたら小野寺さんが外から戻ってきた。私の顔を見るなり申し訳なさそうに頭を下げる。実に一週間ぶりの再会だ。四日前には復帰していたが、シフトの都合で顔を合わせない日はよくあることだった。

「いえ、ショックなのはわかります。小野寺さんが一番親しくしていたでしょうし」

「うん、子どもと同じくらいの子が亡くなったと思ったら、なんか、なんかやりきれなくて、辛くてね。だから、これからはもっと自分の息子と向き合って、話し合うことにしたよ。うざがられてるけど、少しでも悩みをくみ取って、少しでも手助けができればと思ってね」

「良い事だと思います」

 話はそこで終わった。お互い次の利用者の元へ行かなければならないからだ。道具を用意し、カバンに詰める。ふと見ると、小野寺がペットボトルの水を飲んでいた。

「小野田さん。あれから水は大丈夫ですか?」

「へ? 大丈夫って?」

 飲み口から口を離し、小野田さんが私に尋ねかえしてきた。

「ほら、前に水を外に出しっぱなしにして、傷んでたって話があったでしょう?」

「ああ、あったあった。うん。あれからは何ともないよ。心配かけてごめんね」

「問題なければいいんです」

「でも、何か変なんだよ」

 キャップで栓をし、小野田さんはペットボトルをカバンにしまった。

「変?」

「うん。あの日以降、例えば今日なんかも、実はうっかり自転車のカゴに忘れてたんだ。でも、飲んでみたけど特に傷んでない」

 今日も外は快晴、先日よりも暑い酷暑だ。しかも小野田さんはそんな中、一時間以上もカゴに置きっぱなしだったらしい。

「それ、大丈夫なんですか?」

「大丈夫だったよ」

 飲む? と鼻先に突き出されたペットボトルを、丁重に押し返す。

「一時間も放置したのに、傷んでなかったんですね」

「前は三十分以下だったんだけどね。痛む基準がよくわからないな」

「まずは痛まないように気を付けるべきだと思いますが」

 小野田さんにはそう言いつつも、確かに気になる。三十分で痛むのに、一時間で痛まないことなんてあるのか? この前と何が違ったのだろうか。昔テレビのバラエティで、ペットボトルの飲み物はすぐに飲んだ方が良いと聞いたことがある。口をつけたら、時間が経過するごとに雑菌が繁殖するからだそうだ。しかし、今日は前回よりも夕方に差し掛かる遅い時間だ。時間経過が原因なら今の水だって傷んでいるはずだ。しかも、前回よりも長時間外にあったのだから、傷むとすれば今日のはずだ。

 では、自転車の置き場が違ったのか。日陰になっていれば、その分温度が低く保たれる。シフトの予定表を見る。さっきまで小野田さんがいたのは、私も訪問したことのある一軒家だ。駐輪場として指定されているのは庭先で、屋根はなかったはず。

 原因は時間でも、日当たりでもない。

「小野田さん」

「どうしたの?」

「ペットボトルの水って、昨日のに継ぎ足しすることとかあります?」

 尋ねると、得心がいった、という風に小野田さんは答えた。

「ああ、昨日のをそのままにしてたから傷んだってこと? それはないよ。だってほら、水は確実に飲み干すし、残ってても仕事終わりにここで飲んでペットボトルを捨ててっちゃうから。ゴミを持ち帰りたくないんで」

「ですよねぇ」

 これも違う。やはりたまたまだろうか。前回と今回との違いは何なのだろう?

「あ」

 ふと思いついた。大きな違いが一つある。だが、考えられない。考えたくないことだ。しかし、気づいたからには確認しておきたいという欲求が生まれた。

「小野田さん。そう言えば、曽根崎さんに最後に会ったのって、その日でしたっけ」

「あ、うん、そうなんだ。あの時の会話が最後になるなんて、思いもしなかったよ」

「ちなみに、何を話したんですか?」

「大したことじゃないよ。お体大丈夫ですか、調子崩してませんか、みたいなことだったと思う」

「いつもそんな話をしてたんですか?」

「いつもってわけじゃないし、話す内容は色々だったと思う。彼女、介護職に興味があるのかこれまでに色々聞かれたなぁ。仕事は大変ですか、とか、休んだらどうなるんですか、とか」

「へえ、興味ですか。で、先輩としてどう答えたんですか?」

「仕事はきついことも多いし、休んだら大変だけど、そのためにチームで動いているよって答えたかな。その時は。そしたら彼女、笑顔で「小野寺さんがいなくなっても、代わりはいるんですね」って、こいつぅって、どういう意味だって拳骨、くらわして」

 小野寺の声に涙が混じり始めた。彼女との思い出が想起されたらしい。

「ごめん、思い出しちゃって。最近涙もろくて嫌だな。これじゃ、天国の彼女にまた心配かけちゃう」

 そこで、小野寺は思い出したように言った。そういえばあの日は、なぜかずいぶんと体の心配されたな。

「こちらこそ、辛いことを思い出させてすみません。この話はもうやめときましょう。じゃ、時間なので行きます」

 私はカバンを担いで、そそくさと事業所を後にした。本当はまだ時間に余裕はあったが、早く彼のもとから離れておきたかった。どういう顔をしているか、自分でもわからないからだ。

 嫌な想像が、どんどん連鎖していく。

 曽根崎さんが毒を飲んで死んだ。これは疑いようがない事実だ。警察の捜査でも判明している。しかしだ。自殺ではないかもしれない。

 予備校の近くで小動物や昆虫が死んでいるのをよく見かけた。他のスタッフも、猫が死んでいたとか、カラスが死んでいたとか、そういう話を口にしていた。暑さだけで、こんなに死ぬものだろうか。

 実験をしていた、とは考えられないだろうか。野良猫や野良犬、ネズミ、カラス、ゴキブリに毒を飲ませていたのではないか。

 彼女は毒を手に入れた。なぜ手に入れたのかはわからない。家庭菜園でもしようとしていたのかもしれない。そこでふと、彼女は思ってしまった。自分の手元にあるものは毒にもなるが、本当に毒なのか?

 いや、こんな思考回路に普通はならない。なるはずがない。でもなったとしたら、きっと試したくなるだろう。教科書やネットに書かれていることは、本当に正しいのか。だから試した。死んでも誰も困らない生物で試してみたのだ。興味、好奇心はエスカレートした。

 小動物には効果があった。では、人間には効果があるのか。

 試したくても、彼女の周りの人間に試すわけにはいかない。なぜなら、もし死んでしまったら彼女が困るからだ。疑われるかもしれないし、受験に影響が出るかもしれない。

 だから、自分にとって困らない相手を、小野寺さんを選んだ。仕事を休んでも代わりのいる小野寺さんを。きっとそれまでは、小野寺さんが死んだら利用者に迷惑がかかるとか思ったのかもしれない。影響が大きいと、それこそ自分にも波及するかもしれない。けれど、彼は休んだら自分の代わりはいると言った。

 じゃあ、いいか。突然いなくなっても困らないなら。

 曽根崎さんは、小野寺さんが毎回ペットボトルを自転車のカゴに置いていくのを知っていた。そこに毒を混ぜた。小野寺さんのシフト上では、すぐに移動しなければ次の訪問先に間に合わない。彼女はそのことも知っていた。きっと、自分にとってどうでもいい人が知らないところで死ぬから、自分に影響はないと考えた。

 だが、小野寺さんは死ななかった。どころか翌日もピンピンして働いていた。彼女は不思議に思ったに違いない。毒を飲んだのになぜ死んでいないのか。そしてこう続けた。人体には影響がないのではないか。もしくは、今まで小動物が死んだのは毒のせいではなく、たまたま、例えば暑さのせいではないか。

 届けられた商品に疑いを持った曽根崎さんは、これまたあり得ない話だが、自分で口にした。そして死んだ。遺書がないのは、そのためだ。

 そこまで考えて、私は頭を振ってその考えを追い出した。馬鹿馬鹿しい。あまりにも荒唐無稽すぎる。農薬とわかりきっている物を口にする馬鹿がどこにいる。水から異臭がしただけで、話が飛躍しすぎだ。

「暑さにやられたかな」

 きっとそうだ。ちょっと働き過ぎた。そろそろ有休をとろう。

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