知らぬが仏、言わぬが花
知らぬが仏
「やべえなあ」
私が訪問介護先から事業所に戻ると、先輩の小野田さんがペットボトルの飲み口に鼻を近づけているのが見えた。中の匂いを嗅いでいるようだ。どうしたのか気になるが、まずは洗面所で手を洗う。いや、いっそ顔も洗ってしまうか。カバンからタオルを出し、首にかける。石鹸で念入りに手を洗った後、蛇口から流れる水を手のひらに受け、ジャバジャバと水を顔に叩きつける。冷たい水が火照った顔の温度を下げていく。水しぶきが襟元と濡らすが、構うものか。どうせすぐ乾く。
「お疲れ様です小野田さん。どうしたんですか?」
タオルで顔を拭きながら小野田さんの方へ近づく。
「ああ、社君。お疲れさん。いやね、ペットボトルに入れといた水が、ちょっと臭うんだよ」
「臭う?」
嗅ぐ? とペットボトルを鼻先に突き出されたので、丁重にお断りを入れて尋ねる。
「中身って、ただの水ですよね?」
「そう」
小野田さんは空いたペットボトルに水を入れて持ち運び、仕事中に飲み干して事業所に捨てていく。家にゴミをためたくないらしい。風水的に悪いのだそうだ。
「前のお茶の臭いが残ってたとかですか?」
「ううん、違うと思う。朝飲んだ時はそこまで気にならなかったし」
もしかして、あれかなあ、と何か心当たりがあったようで、小野田さんは窓の外に目をやった。私もつられて外を見た。エアコンのかかっている事業所内から窓一つ隔てた外は、三十八度を超えた猛暑の世界が広がっている。
「まさか小野田さん、外に置きっぱなしにしてました?」
「短時間だから、大丈夫だと思ったんだけどなぁ」
私たちの仕事である訪問介護の業務は、人様のお宅にお邪魔し、利用者様のケアを行う。お宅に向かうための移動手段は主に会社から支給される自転車を利用するのだが、その自転車のカゴの中に貴重品と作業道具以外の荷物を置いたままにしてしまう人が多数いる。着替えやレインコート、そして水筒などだ。人のお宅にお邪魔するのだから、気を使ってなるべく荷物を持って入りたくないという心理が働く。また、小野田さんが言う短時間のケアは、おそらく掃除系のケア内容だろう。中には三十分ほどで終わるケアもある。三十分だけなら、と置いたままにしてしまう気持ちはわかる。
「三十分で、傷んだってことですか?」
「それしか考えられないよ。他に原因思いつかないってのもあるけど」
真夏の太陽に戦慄を覚える。
「そうそう、この前もさ、その訪問先の近くで野良犬が横たわってたんだよ」
気の毒そうに小野寺が顔をしかめた。
「息苦しそうにこう、口を開けてさ。口元は吹いた泡で可哀相だったな。次の日に行ったときいなくなってたけど、あの犬、どうなったのかな」
「暑さのせいですかね。そういえば私もネズミの死骸をみました。あとゴキブリも」
「ゴキブリが死ぬって、とんでもないよね。水くらい傷んで当然か」
もったいないけど捨てるか、と小野田さんはペットボトルを逆さに向けて、シンクに流していく。
「後四件、水なしじゃ無理だよなぁ」
シフトの予定表を見ながら小野田さんが項垂れる。電気代でお金がどんどん出ていく時期、少しでも出費を減らしたいのは私も同じだ。だが。
「単純計算で四時間でしょ? 加えて移動時間もある。脱水症状や熱中症になりますよ。買うべきです」
「コンビニや自動販売機で買うと、何か負けた気がするんだよ」
「負けた気がするのと病院に運ばれるの、どっちがいいですか?」
ちなみに、熱中症で入院すると一日当たり二万円以上かかる。一泊したら五万近くになる。一本二百円で予防できるなら安いものだ。しかもコンビニに入れば冷房が効いている。体を冷やす意味でも立ち寄る意味がある。
「だよねぇ。曽根崎さんにも『お体大事にしてね』って言われたし」
小野田さんが鼻の下を伸ばす。曽根崎さんは、訪問先の近くにある予備校に通う女子高生だ。小野田さんは彼女の落とし物を拾い、届けたことで知り合ったという。その話を聞いた時は漫画の様な出会い方だと笑ったものだ。訪問時間と予備校の時間が同じなので、その後もよく会い世間話をする仲らしい。
私も会ったことがあるが、誰にでも分け隔てなく気さくに話しかけてくれる、笑顔の素敵な可愛らしいお嬢さんだ。小野田さんがデレデレするのも致し方ないことだと思う。
ただ彼には言えないが、私は少し苦手だ。ま、それはあの予備校に通う生徒全員に言えることかもしれないが。どうも彼らは私たちを下に見ているように思ってしまうのだ。ああはなりたくない、と教室の窓から私たちを見下ろしている気がしてしまう。きっと彼らは、私たちのことなど同じ人としては見てはいない。時計と同じような位置づけではないか。毎日規則正しく、同じ時間にやってくる。じゃあもうすぐ授業が始まるな、のような感じだ。
受験に失敗した、私のただの僻みかもしれないが、それでもそう感じてしまうのだから仕方ない。ネガティブな考えを振り払うようにして、明るい声を出して冗談を言う。
「小野田さん、女子高生に手を出したら駄目ですよ」
「出さないよ。僕の事なんだと思ってるの」
「いつも彼女の事を嬉しそうに話すから、てっきり」
「違うよ。これはなんというか、アイドルというか、推しにファンサービスをしてもらったみたいな喜びというか。そもそも自分の息子くらいの年の子をどうこうするつもりないって」
「ああ、そういえば息子さん反抗期だって前に嘆いてましたっけ」
「うん。最近ようやく話が通じるようになってきたけどね。だから余計に彼女の優しさが沁みるんだわ」
そろそろ行かないと。小野田さんは荷物をまとめて、事業所から次の訪問先へと向かった。私も次の準備を始め、残りの予定をこなしていかなければならない。だから私たちの中では、ペットボトルの中の水が痛んでいた話はこれで終わった。
数日後、曽根崎さんが亡くなった。自殺だった。
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