偶然
偶然 1
私の勤める認知症対応型共同生活介護施設、いわゆるグループホームにて、一人の人間が死んだ。
グループホームで人が亡くなるのは、稀ではあるが発生する。入居しているのは高齢の利用者ばかりで、認知症以外にも多くの内臓疾患を抱えている場合が多いからだ。いつ寿命を全うしてもおかしくない。
だが、今回の件に関しては、死亡した人間が天命を全うしたわけではない。強制的に終わらされたのだ。
死亡したのはグループホーム職員の同僚、阿久戸太郎。彼は今、テーブルの下に突っ伏して倒れている。施設から支給された白いエプロンと彼が良く着ていた幾何学模様の入ったシャツが、彼の流す血でゆっくりと赤く染まっていく。
その傍らに立つのは利用者、六科喜一。アルツハイマー型認知症で介護度二。中核症状は記憶障害、それに伴う周辺症状は不穏、幻覚、暴力など。六科の手には、阿久戸の命を奪ったハンマーが握られている。赤い雫がぽたりと垂れて、床の血だまりと融合した。
発狂する利用者や怯える他職員に混ざりながら、私は救急車と警察に連絡した。
救急車は五分で到着し、阿久戸を近隣の病院に搬送したが、間もなく死亡したと連絡が入った。六科は警察官によって連行されていった。残った私たち職員は警察官によって順番に事情聴取されることになった。私も、そして他職員も正直に、見たままのことを報告した。私たちを担当したのは、二人組の警察官だった。一人が年配で、一人が若手。ドラマで見たのと同じポジションだ、とひそかに思った。質問は主に田中と名乗った年配の警察官がして、若手の佐藤がメモを取る、という形だ。休憩室に呼び出された私は、名前や年齢などパーソナルな事を利かれた後、本題の質問をぶつけられた。
「志賀、健司さん。事件について、わかる範囲で話してください」
頷き、答えた。
レクリエーションにて、簡単な工作を行っていた時だった。六科の近くで利用者たちの作業の補助をしていた阿久戸は、六科の足元に折り紙が落ちているのを発見した。阿久戸がそれを拾おうと屈んだところ、六科は机に置いてあったハンマーを手に取り、屈んだ阿久戸の頭部にそれを振り下ろした。ハンマーが頭部にめり込み、阿久戸は痙攣しながら倒れた。その後、出血多量によって死亡した。
次に聞かれたのは、阿久戸と六科のことだ。
まず阿久戸についてだが、利用者に対する態度はひどかったと伝える。暴言など日常茶飯事だったし、指示の通らない利用者に対しては相手の許可を求めず強引に誘導するなど、職員の都合を押し付けて業務を優先していた。誰も確認してはいないが、虐待を行っていたのではないかと噂になっていた。
ではなぜ誰も通報していなかったのかと問われた。私たちは虐待の可能性があるだけでも通報の義務があるからだ。だが実際のところ、その義務は噂や疑いだけでは果たしづらいのが現状だ。虐待の噂が立つだけでも、施設は痛手を被る。家族は利用者を別の施設に移すだろうし、下手すれば訴えられて潰れる。職員はその施設で働いていたというだけで世間からは白い目で見られるし、再就職も危うい。これは、仮にただの噂で間違っていたとしても、同じような結果になる。噂だけで自分の首だけでなく同僚たちの首も一緒に絞めるような真似は出来なかった。
それに、当の阿久戸は一番の古株で、私たちは彼に逆らうことが出来なかった。面倒な仕事は後輩の私たちに押し付け、結果は全て自分の手柄にし、失敗は私たちの責任にする、テンプレートのような嫌な先輩だった。だからこそ上司に取り入るのが上手く、私たちがどれだけ阿久戸の横暴を訴えても簡単に握りつぶすことが出来た。
言い訳は百も承知だが、二重の理由で、証拠を持たない私たちは通報することが出来なかったのだ。
続いて六科についてだが、これに関しては日常生活を記録した介護記録を提出した。それを捕捉するように、口頭で六科の生活態度を自分の感想を踏まえて報告する。
介護度は二で、見守りや声掛けによる介助があれば、日常生活を送れるほどには自立度は高かった。手足の麻痺はなく、自立歩行、トイレ、入浴、食事なども特に目立った障害はない。家族はなく、後見人が資産を管理していること、認知症による記憶障害、特に短期記憶の障害は出ていること、職員を息子と間違えたりすること、頑固でプライドが高く、上手く言葉を使わないと職員の指示を拒否し不穏になること、そのため、時々阿久戸と言い争う事があったと付け加えた。
最後に、どうしてこんな事故が起きたか、という話になった。
ハンマーがどうやって六科の手に渡ったかという質問については、これは阿久戸の不注意としか言いようがない。本来であれば利用者の手に届くところに工具などの危険な物は置かないルールだ。だが、阿久戸はそれを守らなかった。工具箱を利用者の前に置きっぱなしだったのがそもそもの間違いだ。
なぜ六科は阿久戸を殺したのかという質問については、正直わからないと答えた。推測になるが、阿久戸は六科を虐待していて、その事で六科が恨んでいたのではないか、と答えた。認知症なのに虐待の事を覚えていて恨むものなのか、と追加の質問に対しては、行為自体は覚えていなくても、恐怖や怒りといった感情は強く残ることがあると答えた。別の利用者でもそういう事はよくあることで、リハビリ嫌いの利用者はマッサージ師の顔を見ると途端に不穏になるし、入浴嫌いの利用者は風呂場の方向に誘導しようとすると途端に拒否し始める。反対に、丁寧に対応すれば信頼して素直に指示に従うし、優しい職員には顔を見ただけで笑顔を向けて自分から近寄っていく。
私の報告と、他の職員の報告は、細部こそ違えど概ね同じだろう。
その後は阿久戸の日常の勤務態度や六科の不穏になるスイッチについてなど、二人の細かなところを質問された。私はそれに対しきちんと答えながら、これからの事を考えていた。
警察官が事故、という言葉を使ったところを見ると、彼らの中では、これは不幸な事故という扱いになりつつあるのだろう。認知症の利用者の責任能力を問うことは出来ない。連れていかれた六科は、おそらくもう事件の事を覚えてはいない。なぜ警察に連れていかれたのか理解すらできない。そんな人間に、日本の法律は殺人罪を適用することが出来ないからだ。
佐藤が田中の方を見て、田中が頷き返した。それを見て、佐藤は手帳を閉じた。これで終わりか、とこっそり息を吐いた。
「あ、あともう少しだけ、良いですか?」
佐藤が笑顔で尋ねてきた。
「六科さんって、ダンスを踊るんですか?」
佐藤が見ていたのは、施設の壁に貼ってあるイベント時の写真だった。そういう日常的なところからも、六科の可能な活動、行動を見ようというのだろう。急に尋ねられ驚いた、跳ね上がった心臓を落ち着けながら答える。
「当施設では、週に何度かボランティアの方が来て、色んなイベントを行っているんです。その時の写真ですね。ダンスのほかに、合唱や、夏にはお祭りも」
そう説明して利用者たちが並んで歌を歌っている写真や的当てをしている写真を指さす。
「色んな事をされているんですね。もしかして、こちらで覚えたのでしょうか?」
「ええ。最初は出来なくとも、何度も同じ曲を歌ったり、同じ動作をしていると体が覚えていくのです。認知症の方も新しく何かを始めることが出来れば、その方の生きる活力になりますので、新しいチャレンジを積極的に取り入れています」
「素晴らしい試みだと思います。へえ、合唱では聖歌を歌われて、お祭りでは金魚すくいにダーツですか」
「ピアノ演奏はボランティアの方ですし、金魚やダーツの針部分のティップは私たちが作った偽物ですけどね。でも、皆様に楽しんでいただけましたたよ。娯楽に乏しいですから、ゲームなんかは熱中したりするんです。ついつい力が入ったりして。確かこの時六科さん、勢い余って的を壊してしまったんですよ」
「そうなんですねぇ」
佐藤の言葉はそれで途切れた。今度こそ終わりか、と思ったところで、今度は田中が口を開いた。
「私からもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
「普段レクリエーションを担当されているのはあなたですよね?」
「その通りです。ただ、こういう仕事はシフト制ですので、私がいないときは他のスタッフが行いますよ」
「ああ、では事故の時、あなたの代わりに阿久戸さんがレクリエーションをやっていたわけですね?」
「はい。その時、他の方の誘導をしておりましたので。でもそれを考えると、私は危機一髪だったんでしょうか」
「というと?」
「普通であれば、私が折り紙を拾おうと六科さんの足元にしゃがみ込むところだったんです」
「ああ、もしかしたら、死んでいたのは自分だったかもしれない、ということですか」
私は頷いた。
「だとすると、志賀さん。あなたは実に運がいい」
またご連絡するかもしれませんので、その時はご協力ください。そう言って二人は引き上げていった。
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