神は隠さない 10
矜持だと?
男が言い捨てて、敷地から出ていこうとしている。若造が、知った風な口を。
ポケットを探り、注射器を取り出す。糖尿病の自分用に常備しているインスリン注射だ。健康な人間に投与すれば、最悪意識を失うことを知っていた。
まだ終わっていない。事件の全容を知っているのはこの男だけ、証拠はこの男のスマートフォンだけ。男を殺して埋め、スマートフォンを処分すれば何も問題はない。私ならできる。私ならやれる。二回できたら三回目もできる。
隙だらけの背中に迫る。老人を相手にしているという油断、驕り、死んでから後悔するがいい。自業自得だ。
「あなた」
第三者の声が私を縫い留めた。
「響子さん…? どうしてここに?」
男が驚いた声を上げた。男の影になって見えないが、どうやら敷地の外に、男の妻が立っているようだ。
「買い物帰りの通りで、あなたの声が聞こえたから探してたの。どうしてよそ様のお宅に?」
「ああ、ちょっとね。こちらの方の荷物を運ぶのを手伝ってあげたんだ」
男が振り返る。とっさに手を後ろに回した。あげた、だと? また、そんな上から目線で物を言うのか。
「あ、そうだったんだ」
どうも、と女はこうべを垂れた。旦那が旦那なら、妻も妻だ。旦那の失礼な言い分を訂正するでもなく、どころかそれを誇ったようにしやがって。どいつもこいつも、私を見下して。いっそこの男を人質にして、夫婦ともども殺してやろうか。
ふと思いついただけの考えが、妙案に思えた。男はまだこちらの注射器に気づいていない。首筋に突きつけ、女を脅せばできるのではないか。いや、できる。やれる。私はやれる。今までだって、これからだって。出来る。でき…
しかし、動けなかった。女と目が合ったからだ。
顔を上げた女は、こちらを見据えていた。まるで、私が考えていることなどお見通しと言わんばかりの目だった。薄く微笑んですらいる。地面が震える。地震、ではない。私の膝が震えているのだ。手も震えている。低血糖じゃない。これはなんだ。これは。
「さあ、長居してはご迷惑よ。一緒に帰りましょう?」
「え、う、うん」
私の異変に気付いた男だが、女に手を引かれて、そのまま二人一緒に夕闇の中消えていった。二人が完全にいなくなったのを確認して、ようやく息を吐いた。それまで息を潜めていたのに今更ながら気づいた。
「何者だ。あの女」
手の震えも足の震えも収まっている。しかし、心はまだ震えている。あれは、これは、これが。
恐怖、なのだろうか。
翌朝、寝ぼけ眼で起き上がる。一緒の布団にくるまっていたはずの響子さんはすでに起きて、朝食の準備をしていた。後ろ姿だけど、なんとなく機嫌が良いように見える。鼻歌まで歌って。
寝ぼけた頭は、奥さんが嬉しそうで何より、とそのままスルーし、テレビをつけた。丁度、朝のニュースが始まったところだ。
『行方不明の女児、遺体で発見される』
寝ぼけ頭が一気に覚醒した。
朝のニュースキャスターが、事件の続報を告げている。
【本日七時、市内の自宅に住む八十歳の女性『真辺たえ』が遺体で発見された。この家に週三回訪れる訪問ヘルパーの女性がいつものように訪れたところ、居間で座ったまま亡くなっているのを発見した。そばのちゃぶ台には遺書と書かれた用紙があり、『取り返しのつかないことをしてしまった。死んでお詫びする』などと震えた文字で書かれていた。遺書の中に今月行方不明になった片山菜月ちゃん、そして、市役所職員の奥寺加奈子さんを殺害した旨が書かれており、庭から二人の遺体が発見された。
真辺は軽度の認知症を患っており、認知症には暴言や暴力等の症状が現れることもある。突発的に暴力をふるい、二人を殺害したと考えられている】
「自殺…」
この時脳裏を駆け巡ったのは、僕が追い込んでしまったのではないかという思いだ。不用意な僕の行動で、真辺が死んだ。
「どうしたの?」
いつの間にか、彼女が食卓に現れ、僕の方を見ていた。出来立ての卵焼きを、皿に移して運んでくれたようだ。
「いや、あの事件、解決したみたいなんだ」
「自首、じゃないんだ。あ、犯人、自殺したのね。そっか…法の裁きを受けるべき、なんでしょうね。被害者のご家族のことを思えば」
「そう、だね。そうだよね」
「ねえ、変なこと考えてない? 自分が追い詰めた、とか」
昨日のことは、全て彼女に伝えてある。そもそも彼女がすべて推理していたのだ。話さなくても気づいていただろうけど。
「もっと他にやりようがなかったかな、とは、思う。自首とか待たずに、すぐに警察に音声データを持っていくべきだった。そしたら、犯人は死なずに済んだのに」
「馬鹿。あなたはできる範囲で最善を尽くしたわ。どうやって犯人の目星をつけたのか、とか根掘り葉掘り聞かれる。夢で見ました、なんて信じてもらえると思う? 下手すればあなたが疑われたかもしれないのよ。言ったでしょ。私にとって、一番大事なのはあなたなの」
彼女が僕を抱きしめた。
「すぐ切り替えろ、なんて無責任なことは言えない。けれど、これだけは言える。あなたは、亡くなった二人、そして何十年も前に亡くなった方の仇をとったの。ご遺族の無念を晴らした。あなたが行動しなければ、被害者はさらに増えていたはず。未来の被害者を救った。もしかしたら、私も救われたのかもしれない」
「う、ん。うん。ごめん。ありがとう」
しばらく抱き合って、僕が落ち着いたのを見計らって彼女は離れた。味噌汁をよそってくれている。
彼女の言う通り、すぐには切り替えることはできない。いや、一生この思いを抱え続けていくことになる。これは僕に課せられた罪なのだ。すべてをさらけ出す勇気もなく、自分だけが責められずにいたいという、自己保身に走った僕の罪だ。けれど、黙して生きていく。そう心に決めようとして…
次のニュースキャスターの言葉に、僕の意識は囚われた。
【真辺は身支度を整え、死に化粧を自ら施していた。遺書にも不審な点はないと警察は判断し、被疑者死亡のまま書類送検するとのこと】
死に化粧…化粧だと?!
僕はゆっくりとテレビから視線を離し、響子さんの後ろ姿を見た。彼女は相変わらず鼻歌交じりでご機嫌だ。
主よ御許に近づかん
いかなる苦難が待ち受けようとも
汝の為に我が歌を捧げん
主よ御許に近づかん
美しい旋律の讃美歌だ。僕が初めて見た殺人鬼の夢でも、この歌を殺人鬼が歌っていた。その殺人鬼は、殺した相手を美しく飾る特徴があった。化粧も飾る行為の一種だ。
いや、ありえない。これは、自分の弱さが起こしている。自分のせいだと認めたくない心のどこか、頭のどこかが、彼女のせいにしてしまおうと考えているに違いない。
だが、一度意識するとどこまでも思考が囚われ、絡まって、答えの出せない迷宮から抜け出せない。
僕が真辺の家にいた時、彼女が現れた。買い物の帰りに声が聞こえたからと。あれは僕たちの段取りになかった。彼女は陰で隠れて様子をうかがい、危険を察知した時だけ現れる手はずだった。最初は一緒についていくと譲らなかったが、二人そろってつかまっては元も子もないと説き伏せ、待機してもらっていた。
そう、現れたのだ。彼女なりに、危険を察知したから。僕は真辺に背を向けていたから気づかなかったが、もし真辺が僕を口封じに殺そうとしたなら、あのタイミングしかなかったはず。
自分で言っていて身震いした。殺されかけていたかもしれない事実が後から僕の心胆を寒からしめた。
ならば、と考えを変える。僕を殺そうとしたということは、真辺に自首するつもりも自殺するつもりもなかったということになる。確かに、あの様子ではお詫びとか申し訳なさとか、微塵もなかったように見受けられた。全て他人の自業自得、お前らが悪いと言わんばかりだった。反省するとは思えない。死ぬはずのない人間が取るはずのない手法で命を捨てるなんて、あるわけない。ならば誰が?
目が彼女の姿を追う。ありえない、と再び頭を振った。
昨日、僕は彼女と眠った。同じ布団にくるまって、事件解決祝いとかふざけて愛し合っていた。だから僕は朝、なかなか起きれなかったのだ。彼女に真辺を殺害することなんてできるわけ…
言い切れない。僕は、完全に熟睡していた。それこそ薬を飲んだのではと思えるほど。
彼女は今、何を考えているのだろう。見た目通り、人の死を悼んでいるのだろうか。それとも…
朝食を食卓に並べ、二人一緒に手を合わせる。事件のニュースは終了し、次の話題に移っていた。
「本当、可哀相にね」
ぽつりと、彼女は零した。
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