神は隠さない 9

 老婦人がよろめいた。これでもかと見開いた眼は血走っていて、口は半開きだ。まさか僕の人生の中で、こんなセリフを使う時が来るとは夢にも思わなかった。

「どう、やって、手、足」

 ぼろぼろと、歯の隙間から単語が零れ落ちる。僕なりに解釈して、どうやって手足の結束バンドを外したか、という意味だろうか。こればっかりは経験の差だ。手足を一度でも縛られたことがある人間は、手の中に小さな刃物を隠し持つようになるものだ。僕の場合は文具用の小さなスプリングで開くタイプの鋏を最初から握りこんでいた。それをひらひらと目の前で振ると、彼女は天を仰いだ。うつ伏せにされたときばれやしないかとひやひやしたが、今思えばばれても多分確証は得られただろう。倒れるように眠った相手に声もかけず、いきなりうつ伏せにひっくり返すような人間は怪しいに決まっている。

「最初から、疑っていたんですか?」

 落ち着きを取り戻したのか、観念したのか、老婦人が訪ねてきた。

「疑っていたといえば、そうなります。さっきも言いましたけど、手当たり次第に確認していく予定だったので、出会う全ての高齢者を容疑者扱いする予定でした」

 そして彼女の話を聞くうちに、なんとなく言動の端々に引っかかるものを感じた。彼女は痛ましい事件と言った。早く解決してほしいのに、と続けた。一週間経過していない失踪事件を、痛ましいと表現するものだろうか。解決してほしい『のに』。『のに』は、この後に反対の言葉が続くもの。解決してほしいのに、次の事件が起きた、とか。神隠しのことを尋ねると庭を見た。植木鉢で十分な大きさの花を植えただけにしては妙に広い範囲の土が掘り返されている庭を。そして彼女の『可哀相』という言葉。悪夢の時に聞いた声にかなり酷似していた。ただ、ここまではただの僕の『かもしれない』というただの憶測だ。それでも僕らには十分な戦果なのだが、最後まで会話を続けていた。似合わないセリフを吐いたから、似合わない正義感がどこからかあふれたのかもしれない。気の迷いってやつだ。

 昨日の響子さんとの会話を思い出しながら答える。

「僕らは、行方不明になった片山菜月さん、奥寺加奈子さん、彼女らが無理やり連れ去られたのではなく、自分から犯人に近づいたんじゃないかという前提で推測をスタートしました」

 僕の悪夢の件を話すと面倒なので、ミステリーマニアにありがちな、世間の事件を基にして勝手にミステリー風にする人間を装う。

「自分からついていく理由を挙げていくうちに、彼女たちの似ている点に気づきました。ニュースでは、小学生の女の子は、近所でも評判の優しい子だったと報じました。市役所の女性職員は親切丁寧な対応で重宝されていたのは知っていました。勝手な偏見かもしれませんけど、そういう人は、多分当たり前のように困ってる人に優しくするんじゃないかな、と考えました。例えば、重たい荷物を持っている高齢者の方がいたら、家まで運び込んであげるくらいはするだろう、と。犯人はそれが狙いだった。そうやって家に招き、睡眠薬でも入った薬を盛り、眠らせて台車で運んだと推測しました」

 高齢者の確率が高いのではないか。僕が悪夢で感じた奥寺加奈子のセリフを響子さんに伝えると、彼女はそう推測した。

『知り合いでもないのに無条件で大丈夫と判断してしまうのは、幼い子供とかなりの高齢者。共通点は【自分より劣っている者】ってとこかな』

 赤ん坊ならまだしも流石に目上の相手にそれはないよと反論したら『本当に?』と尋ね返された。

『劣っている、は言葉が悪いと思ってる。それを自覚して言うわ。親切って、自分より下の人間にしかしないでしょ』

 反論しようとして、出来ない自分がいた。座席を譲るのは誰だ? 怪我人、妊婦、高齢者、体力では確かに劣っている。

『極論だし、もっと丁寧な言い方とか表現とかがあるかもしれないけど、残念ながら私にそこまでのボキャブラリーがないのでゴメンと言わざるを得ないんだけどね。差別とか、蔑むつもりは全くなくて。いずれ私たちもそうなることを理解しているからこそなんだけど』

 大丈夫だよと彼女に声をかけた。彼女の言いたいことは理解できた。そして、これから彼女が告げるであろう犯人の動機についても。

『犯人は、精神が高齢者じゃないのよ』


「動機は、親切にされたから、ですか?」

 確認するように尋ねた。しばらく黙っていた老婦人が呟いた。

「私はまだやれるわ」

 先ほどの穏やかな声とは一転、音程は同じなのに地面から這い出してきたみたいに腹に響く。

「私はまだできるのに、誰もがみんなできないと思ってる。『もういいから』『こっちでやっておくから』『時間がかかるから』『代わるから』『手を出さなくていいから』と、私から全てを取り上げる」

 スーパーに行くのはもう辛いでしょうから宅配を頼んだらどうですか。

 家事をするのが辛いでしょうからヘルパーを頼んだらどうですか。

 トイレに行くのが辛いでしょうからリハビリパンツやパットを使ったらどうですか。

「余計なお世話なのよ。欲しいものぐらい自分で買いに行けるわ。電車にもバスにも間違わずに乗れる。席を譲ってもらわなくても結構。立てる足があるの。家事だって大好きなの。料理は皆に褒めてもらえたし、掃除も洗濯もそこらの若い奥様連中より手早く効率的にできるの。トイレに行かなくて済むように? 漏らしても良いように? あんな美しくもない紙のパンツを履けって? ふざけないで。トイレに行くのは、自分のしもの世話は最後の尊厳なのよ」

 感情が爆発していた。

「そんなことを私に言うのは、決まって自分もいずれ老いるということを理解していないような、若い人たちだった。軽やかにどこまでも走ることができる足と体力があって。トイレだって誰も心配しなくて。他人を見下せる若さがある連中ばかり」

「そんなに嫌なら、僕の時も、彼女たちの時も、断ればよかったじゃないですか」

「目上の者として、年長者として、人生の先輩として、そんな他人の手を振り払うような失礼なこと出来るわけないでしょう!」

 無茶苦茶なことを言っている。殺人は最低最悪の失礼な事、いや、それは失礼に対して失礼か。

「だから証明したのよ。私が出来るということを。若くても出来ないようなことを!」

 そんなことで二人も殺したのか。聞いているだけで吐き気がしてきた。

「それで、失礼ではないあなたは、遺体の上に花を供えてあげた、と?」

「可哀相ですからね。自分の愚かさで死んだ、自業自得ではあるけれど。礼儀が備わっている者なら当然、死者を弔うわ」

「ちなみに、過去の神隠しはどうして? あなたもまだ、あなたが毛嫌う若者だったはずですが」

「私が知ってるのは一件だけ。殺したのは近所の悪ガキ。事故だった。悪戯が過ぎて、ちょっと叱りつけて、突き飛ばしたら運悪く頭を打って死んだ。こんな悪さばかりするガキはいない方が世のため人のためでしょう? だからそこに埋めた。ちょうど神隠しのうわさが流れていたから、同じように神隠しに遭ったのだと誰もが思った。素行の悪さが評判だったから、警察はろくに調べもせず自分から失踪したと断定し捜査を打ち切った。素行の良い私は疑われもしなかった」

 十分だ。得意げな証言は取れた。胸ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、老婦人に見せながら告げる。

「自首を、お勧めします。僕が気づいたくらいですから、いずれ捜査がここに及びます。素行の良い女の子と同僚たちや地域住民から愛された女性職員の捜査ですので。しかし、一日経っても自首の気配が見受けられなければ、僕はこのスマートフォンを警察に届けます。証言だけですが、ここを調べるだけの興味は持ってくれるでしょう」

 立ち上がり、彼女の横を通り過ぎる。

「せめて、人間として、最後の矜持を持たれていることを祈ります」

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