神は隠さない 8
ふう、ふう、ふう
肩で息をしながら、買い物袋を運ぶ。何度も休憩を挟み、ようやく家まで後半分を切った。年々体力が落ちていくのを、こういう事で実感するたびに、己の中で時間に対する反骨精神が芽生える。認めたくない。まだまだ自分はやれる。大丈夫だ。額から流れる汗をぬぐい、重量挙げのバーベルを押し上げる一歩手前の選手のように一息入れ、いざ。足腰に力を込めようとしたところで、声を掛けられる。
「大丈夫ですか?」
顔を上げると、見知らぬ男性が立っていた。二十代から三十代の若い男性だ。
「手伝いましょうか」
すっとこちらに向けて手を差し伸べてくる。何の思惑もない、ただの厚意。いや、彼にとっては何も考えず、困っている人が目の前にいた、だから手を指し伸ばした。自然な厚意なのだ。
彼の手を、そこから腕を視線が辿る。しわの無い手の甲。つやつやした前腕。きっと、彼の肌は水を弾くのだろう。膝に水がたまったこともなさそうだ。
「すみません、よろしいんですか?」
震える腕で荷物を差し出すと、彼はひょいと持ち上げた。重さを感じさせることなく肘が曲がる。細いように見えたが力強い。
「どこまでですか?」
重さに顔を歪めることもなく、平然とした顔で彼は訪ねた。
「少し行った先の、角を曲がったところにうちがありますが…良いんですか?」
「わかりました。行きましょう」
迷うそぶりもなく即答だった。私の歩くペースに合わせてゆっくりと歩く。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げる。彼がどんな顔をしているかは見えない。
「そうですか、ここに住まわれて長いんですね」
縁側に座った男性が、ぐるりと我が家を見渡しながら言った。少し広いだけが取り柄の、古い家だが、若い人には珍しいようだ。
「ええ、私の祖父の代から住んでいます」
麦茶を出しながら答える。「どうもありがとうございます」と彼は手に持った。私はそれを目で追う。
ここまで荷物を運んでくれたお礼にお茶でも、と彼を誘ったのだ。最初は遠慮していたようだが、断り続けるのも悪いと思ったか、ついてきてくれた。
「あなたは、この辺りの方?」
「最近越してきたところなんです。前は東京でサラリーマンをしてて」
「まあ、東京に? でもどうしてここに…あ、Iターン、でしたっけ?」
「そうです。色々あって会社を辞めて、こちらの市役所で働かせてもらってます」
「ああ、そうなんですね。私もいつもお世話になっているんです。市役所のみなさん、良い方ばかりですよね」
「ありがとうございます」
「でも、そういえば最近、いつも対応してくれた女性職員の方がおられないようですが。どうかしたんでしょうか。あなた、何かご存じですか?」
「…申し訳ありません。部署が違うので僕には」
「そうですか。丁寧で親身になってくださる方だったのでよく覚えていて、気になったものですから」
彼女の顔を思い浮かべる。いつ行っても嫌な顔をせず、優しく丁寧に対応してくれた。
「あ、それ」
こちらを振り向いた男性が、何かに気づいて指さした。つられて顔を向けると、そこにあったのは近所で配られていたビラだ。
情報提供お願いします。小学五年生、片山菜月、十歳、服装、赤い半袖Tシャツにハーフパンツ、ナイキのスニーカー。
笑顔の少女の写真と一緒に彼女の情報が箇条書きで記入されていた。
「ニュースでやってました。この辺りに住む小学生のお子さんが行方不明になっているって」
「ええ、そうなんです。よく見かける、近所に住む礼儀正しい女の子のお母さんが…。お母さんが目撃情報を集めるためにビラを配っている姿が痛々しくて、見ていられません。本当に、可哀相にね。こんな痛ましい事件、早く解決してほしいのに」
「…本当ですよね」
からん、と氷が鳴った。彼のグラスは空になっていた。お注ぎしましょうかと聞くと、彼は丁重に断った。
「そういえば、こちらに古くから住まわれているんですよね?」
「ええ」
「ニュースでは、この辺りでは昔から度々神隠しがあるとか、オカルトの専門家の方が言ってたんですが、ご存じですか?」
「神隠し…ええと、そうですね」
記憶を探る。視界はぐるぐると巡るが、見えているのは過去の映像だ。今見えていた過去の記憶が、現実と重なった。庭の花壇もどき。縁側からみて奥へ行けば行くほど雑草が生い茂っている。昔はすべて手入れしていたのだが、今では億劫になって奥まで手入れができていない。それでも意地のような何かで体を動かして、縁側に近い部分は手入れをして、新しい花を植えた。客人の彼からは新しい花が見えているだろう。また手入れをしなければ、という自分の計画はさておいて、今は彼の質問だ。
「ええ、ありました。当時も子供が行方不明になった騒ぎが」
「その時も、その、結局?」
彼は聞きにくそうに、しかし確認するように問うてきた。頷き、肯定する。
「何か、あるんですかねぇ。この街は」
思わず、といった風に彼は呟き、慌てて否定した。
「す、すみません。失礼なことを。そういうつもりじゃ、ええと、悪く言うつもりはなかったんです」
「ええ、ええ、大丈夫です。ここに住まわれて、そんな事件が近所で起きたら、誰だって不安になります」
私はそう答えたが、男性は慌て、急ぎ別の話の種を求めるように家や庭をぐるぐる見渡していた。
「園芸が、趣味なんですか?」
取ってつけたような質問だったが、彼の慌てぶりに免じて答える。
「趣味、というほどのものでは。御覧の通り、今は手の届く範囲だけしか手入れできなくて、向こうは雑草が生い茂ってしまって」
「昔は…奥にも花を…?」
男性の頭が一瞬重力に負けた。驚いたように彼は頭を持ち上げるが、だんだんつらくなってきているらしく、首をぐるぐる回して重力に逆らっている。
「はい。でも、そうですね。今度は奥にも植えようかな」
気づかないふりをして、質問に答える。
「それがいい、いいと思います…あれ…」
「どうされました? 体調でも崩されましたか?」
「みたいです。すみません、ここらで失礼します」
「そんな状態で道路に出たら危ないですよ。無理せず、ゆっくりここで休んでいってください」
「いえ…、そうは…行きません。ご迷惑をおかけしてしまいます」
「良いんですよ。気になさらないで。こちらも助けていただいたのですから」
話している間にも、男性の体の揺れは大きくなっていき、首から、今度は上半身が前後左右に揺れて、ついには縁側に横倒しになった。
「大丈夫ですか?」
尋ねるも返事はない。代わりに静かな寝息が返ってきた。すっと立ち上がり、棚から結束バンドを取り出す。近頃は百円均一でこんな便利なものが売っている。誰でも買えて、一切怪しまれない。縁側に戻り、眠っている彼の体をゆっくりと優しくうつ伏せにし、後ろ手に両手首を縛る。ぐっと握りしめた拳が、突然体を襲った睡魔への抵抗の跡のように見えた。次は足を揃え、同じように縛る。これで身動きは取れない。次は、台車だ。玄関から持ってこなければ。膝を抑えながら立ち上がっていったん離れる。玄関から台車を押して運んできた。スーパーもこれを使えば良いのだろうが、使う気はなかった。
「ああ、それを使って運ぶ気なんですね」
心臓が止まるかと思った。もしかしたら、本当に一度心臓発作か不整脈か何かで止まったのではないだろうか。ズキンと痛みが走り、呼吸が止まった。声の方を向くと、男性が先ほどと同じように穏やかな顔で縁側に座っていた。
「ど、して…」
掠れて小さな声だったが、大きな通りから外れた静かな庭では十分に声が届いたようだ。
「すみません。出されたものを捨てる、なんて失礼なことをしてしまって」
苦笑しながらそういう男性の足元の土は濡れていた。家の中からでは気づかなかった。
「確証は全くありませんでした。正直、手当たり次第に確認していくつもりだったんですが、まさか一発目で当りを引くとは思いませんでした」
男性が笑う。爽やかに見えていた笑顔は、今では得体のしれないおぞましいものとなった。
「あなたが、神隠しの犯人、ですね?」
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