神は隠さない 6
「何かあったんですか?」
出勤し、いつもと様子が違うことに気づいた。
「ああ、志村か。おはよう」
おはようございますと挨拶を返すが、敷島はすぐに思案顔になってしまった。普段の軽口が返ってこないというだけでも、差し迫った状況なのが伺える。
「実はな、職員が一人、無断欠勤しているんだ」
「無断欠勤、ですか?」
社会人として褒められた話ではないが、あり得ない話でもない。前の会社でも話を聞いたことはある。前日の酒が抜けなくて、とか、電車に意図的に乗り間違えた、とか。決まってストレスのかかる業務の多い部署でよく発生したみたいだ。僕の方は、憧れの上司に会うために休むなんか考えられなかった。熱が出ても這って出社して「風邪を他の社員に移したらどうするの!」と追い返された事がある。
「それがな、休んでんのは、地域課の奥寺さんなんだ」
あの奥寺、みたいに言われても。この市役所内で知り合いは自分の課の人間だけだ。体質上、縁を広げたいとも思わないし。
「ああ、そっか、お前あんまり飲み会とか参加しないもんな。奥寺加奈子さんは、地域課の相談窓口を担当している女性だ。三十二歳。彼氏有り。真面目で人当たりも良いから、地域課での信頼は厚い。親切丁寧な対応で相談に来る方にも課の皆からも重宝されてる」
「真面目な人だから、連絡も無しに休む事はない、ってことですか?」
「それもあるが、それだけじゃない。彼女、昨日家に帰っていないようなんだ。同棲している彼氏が朝早くから地域課にかけ込んで来て、事態が発覚した」
「警察に連絡、とかは」
「既に届けを出したそうだ。彼女の御両親にも連絡して、実家に帰っているわけでもないらしい。ちなみに、彼氏とも家族とも喧嘩はしていない。家出の線も薄い」
「じゃあ、電車の遅延とかはどうですか。真面目な人なら、電車内で電話を使うのをためらってるとか」
言っておきながら、自分でもありえないと断じてしまうほどには確率の低い可能性だった。
「ありえないな。彼女は徒歩通勤だ」
当然のように否定される。そうだろうなと、それ以上持論に喰いさがらない。自分が提案出来る材料は早々に尽きて、しかして敷島たちほど心配出来てない自分が薄情なのではないかとそっちの方に気をとられてしまう。奥寺女史との接点がそもそもない僕にとっては、彼女の失踪は、言い方は悪いがテレビの向こうの出来事のような、どこか他人事だった。
「そういや、志村。お前も市内に住んでるよな。彼女、帰りとかに見かけなかったか」
この女性だ。敷島がスマートフォンを操作して、画面をこちらに向けた。いつかの飲み会の時の集合写真だろうか。知った顔も知らない顔も、皆笑顔で横並びになっていた。敷島がその画面から一部を拡大させ、一人の女性をクローズアップした。
奥寺の事はよく知らない、と言いかけて、そのセリフの代わりに悲鳴を上げかけて、ゆっくりと呑み込んだ。
似ている。目隠しされていたし、服装も違うから絶対とは言えないが、悪夢で見た顔だ。
「どうだ、もしかして、どこかで見かけたか?」
僕が画面を凝視しているのを、心当たりがあるのではと勘違いした敷島が尋ねてきた。どう答えれば良い? 下手に彼女の事を話して、すでに死んでいる事を話すと大事だ。なぜそんな事を知っているのかから始まり、最悪僕が犯人にされかねない。僕は犯人以外で秘密の暴露が出来てしまうからだ。
「昨日、相談窓口に座ってた女性、ですよね」
少し強引だが、記憶を遡っている風を装う。不自然ではないはずだ。
「ああ、そうだ。見たか?」
「すみません。見てないです」
現実には、と心の中で添えて首を横に振る。
「そうか…。もし見かけたら地域課の課長に教えてやってくれ」
「そうします。後、今日の帰りにでも奥寺さんがいないか見回りながら帰ります」
「おお、助かる。悪いな」
「いえ、敷島さんが謝ることじゃないです。同じ職場の同僚なんですから、それくらい協力しますよ」
丁度、始業のベルが鳴った。僕達はそれぞれの座席に戻り、業務を開始する。パソコンを操作しながらも、僕の気はそぞろで全く集中出来ない。
他人事ではなくなりつつある。被害者が全くの他人から、直接の知り合いでないとはいえ職場の同僚になった時、テレビ画面から飛び出して、危機が擦り寄ってきているような感覚に襲われる。いや、そもそも他人事ではなかったのだ。子どもが殺される悪夢をみた時点で。子どもだけでなく、大人もターゲットになる。このラインを超えた事は、犯人にとってかなり大きな意味を持つだろう。出来る、という成功体験は、人の意識を変えるものなのだから。
そしてもちろん、響子さんも犯人のターゲットに成り得る。
「じゃあ、今度はあなたの同僚が被害者に?」
家からは既に夕飯の良い香りが漂っていて、僕の心を少し和ませてくれた。テーブルに料理を運ぶ響子さんに、ネクタイを外しながら市役所での話を伝えた。
「うん。子どもだけじゃなくて、近所の大人が被害にあった」
「そう…」
沈痛な空気も食卓に並ぶ。新鮮な野菜のサラダが萎れ、暖かいスープが急激に温度を失っていく。
「解決しましょう」
部屋に漂う不穏な空気を払拭するように、響子さんは言った。
「解決って、響子さん。どうやって?」
「もちろん、犯人を見つけるの。それで万事解決でしょう」
「そりゃそうだけど」
「無茶だと思ってる?」
こちらに火の粉が降りかかる前に、犯人を見つけたいのが本音だ。けれど現実的に考えて無茶で無謀だ。前に犯人について話し合った時も、犯人像を絞り込むどころか、可能性ばかりが広がって際限つかなくなった。しかし、彼女は自信ありげだ。
「今日の情報で、少しは絞る事が出来るわ。それに、私たちは警察じゃない。犯人を当てる必要はない。最低限、疑わしい人間を見つければ良いの。その数は複数でも構わない。そこから距離を取ればいい。酷い事を言うけど、私としては、あなたが被害に遭わなければ良いの。もちろん、誰も被害に遭わないのが最上で最高よ。けれど、一番はあなた」
思わず彼女の真剣な顔を見返した。
「どうしたの?」
「いや、同じ事を僕も考えていたんだ。徒歩圏内在住の女性が被害に遭ったってことは、響子さんにも被害が及ぶかもしれないって。なんとかしなきゃとは、思うんだ。でも、その方法が分からなくて、途方に暮れていた」
二人して顔を見合わせ、ふっと緩める。
「響子さんとなら、なんとかなりそうな気がしてきたよ」
「そうでしょう? なんたって、私はあなたの妻なんだから。頼っていいのよ。この前の悪夢みたいに、一人で抱え込まないように」
鼻先が彼女の人差し指で軽くつぶされる。肝に銘じるよと笑った。
「ただやっぱり、もう被害は出てほしくない」
「もちろん。だから考えましょうか。これ以上、自分も含めて誰も傷つかない方法を」
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