神は隠さない 4

「何が目的なんですか」

 怒りと怯えを滲ませながら、目の前の女性はタオルの猿轡を外した途端口を開いた。手にある猿轡には彼女の涎が多量に含まれていて、付けている間も何度も外そうともがいたり、大声を上げようとしていた様子が伺える。子どもと違い、まだ諦めていないのだ。生への渇望は、若い方が強いわけじゃなく、年経るごとに強くなるのだ。

「こんな事をして、ただで済むと思っているの。あなたがやっている事は犯罪よ」

 目隠しされているにも拘らず、彼女はこちらの方に顔を向けた。気配に敏感な女性だ。大声を上げて無駄と分かったら、今度は強気に食って掛かってきた。どんな手を使ってでも生き残る。そういう強い思いを感じられた。

「悪い事は言わないから、早く開放してください。訴えたりしませんから」

 反応は返さない。反応は返すものではなく、返されるものだ。こちらが何の反応も返さない場合、彼女は何と反応するのだろう。

 彼女の言う通り開放するでなく、ただじっと観察していたら、次第に彼女の口調は懐柔、そして情に訴えるものと変化していった。

「目的はお金ですか? だったら、あるだけ上げます。カバンの中に、二、三万入ってたはずだから。貯金もあるから。全部上げるから」

「ねえ、そこにいるんでしょう? お願いだから、早く助けて。ね?」

「何か言ってください。ねえ。何か目的があってこんな事してるんでしょう? 目的を教えて。出来る事は協力します。ね? 何でも言って」

「お願い。助けて。私、今度結婚するの。これまで色々あって、自分は幸せになれないって思ってた。けど、そんな私を受け入れてくれる人がいるの。ようやく、幸せを掴んだの」

「赤ちゃんがいるの。おなかの中に。この子の為にも、生きたいの。だから、助けて」

 可哀相に。聞いているだけで胸が苦しくなってきた。愛する人がいて、その人との愛の結晶が体に宿っている。幸せの絶頂にいる彼女が、どうしてこんな目に遭うのだろうか。

 ゆっくりと近付く。手を伸ばすと、彼女はびくりと体を震わせた。首に両手をかける。「いや、止めて!」

 彼女が体を強く揺さぶった。予想以上の抵抗だ。これまでと同じようにするのは少し難しいかもしれない。出来ない事はないだろうが、こちらも怪我をしたくない。

 仕方ない。このまま弔うしかないか。再び、猿轡を手に取り、彼女の背後に回った。



 目を覚ましても暗闇が目の前にあった。視界が利かない代わりに、他の感覚が活躍し出す。鼻を一度、二度嗅げば、清潔感のある石鹸と微かに甘い柑橘系のフルーツのような香りが鼻腔を通り抜けて胸を満たした。顔一面に、何かが触れている。暖かい、ふわふわとぐにゅぐにゅを合わせた質感。これの香りだ。質感から一瞬毛布を連想したが、すぐに違うと断じた。毛布は、こんなに柔らかな弾力を返して来ないし、規則的に当たる面積が増減しない。そして、どっどっどっど、と、生命力に溢れたビートを刻まない。

「う、ん」

 顔を捩ると、悩ましい声が頭上から聞こえた。なるほど、全ての謎が解けた。僕は今、響子さんに抱きしめられている。響子さんが、子どもをあやすように僕の頭を包みこんでいるのだ。

 悪夢のせいか緊張でガチガチだった心と体が、解きほぐされて緩んでいく。脳内から幸せなときに出る脳内物質のセロトリンが大量に分泌している。これは、人を駄目にする温かさだ。しかし抗えず、僕はぐずるように頭を揺すり、更に彼女の中へと潜り込もうとする。半分寝ぼけているからか、彼女が殺人鬼かもしれないという疑惑は、都合の良い事に目を覚まさない。彼女の体に腕を回し逃げられないようにして、顔を彼女の体に擦りつけた。彼女の匂い、柔らかさ、暖かさを堪能し、心の底から甘える。

「くすぐったいわ」

 眠たげな、それでいて優しい声が耳をくすぐり、脳を蕩かす。



「やっぱり、悪夢を見たのね」

 ご飯を茶碗によそいながら、響子さんは少し怒った顔をしていた。早朝に漂っていた、甘い空気は霧散して、ダイニングテーブルでは事情聴取が始まっていた。

「この前も、今回と同じように寝息が途中から荒くなったのよ。もしかして、と思ってたけど」

「ごめん。心配かけたくなかったから」

「馬鹿ね」

 茶碗を僕の前に置いて、響子さんは隣に立った。

「困った事があるなら頼りなさい。夫婦でしょ。隠し事をされる方が嫌よ」

 本気で僕の身を案じている。もう一度、ごめんと謝った。自分の分をよそい、響子さんも向かいの自分の席に座った。

 なぜ恐怖に怯えながらも彼女と別れないのか、理由は多分、これだ。結局の所、僕は彼女を心底恐れながらも、それと相反する感情を同程度の強さで抱いていて、嫌いになれないのだ。もしかしたら心のどこかでは、彼女に殺されるなら本望、とすら思っているのかもしれない。もちろん、殺されたくは、ないのだけれど。

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