神は隠さない 3

 Iターンで首都圏から田舎に転職し、今年から市役所に勤務している。市役所と言えば、戸籍謄本や住民票、婚姻届などの書類や手続きを思い出すが、実際はそれ以外にも多岐に渡って業務と、それに対応する課が存在する。僕が配属されたのはイベント企画課だ。前職がイベント企画会社で勤めていたので、前歴が無駄にならないのも良かったし、想像していた窓口業務がほぼ皆無で、決まった同僚と取り組めるというのも気兼ねしなくて良い。窓口でクレームや無理難題を吹っかけられる担当者を実際に見て、不謹慎ながらも良かったと胸を撫で下ろしたものだ。現に今も、早朝から老婦人のたわいないおしゃべりに付き合わされ、無碍に追い払う事も出来ずに困っている女性担当者がいる。彼女は人が良いから、老婦人の話を打ち切られずに困った笑顔を浮かべて座りっぱなしだ。地域課の人は大変だ。住民の相談が多く寄せられ、解決のために奔走する。地方に付き物の高齢化はこの地域にとっても人事ではなく、年配の方からの要望が多い。内容も、家の電球を交換して欲しいとか、庭の雑草をどうにかして欲しいとか、時には害虫、害獣駆除の依頼まで寄せられ、職員が自宅まで訪問することもある。

「よう、今日はいつも以上に隈が酷いな」

 回らない頭でパソコン画面を眺めていたら、同僚の敷島が机の上にカップを置いてくれた。礼を言いつつカップを持ち上げると、コーヒーの香ばしい匂いが鼻から頭の前の方に突き抜けた。

「美人の奥さんと夜遅くまで何をしてたんだよ? え?」

 茶化しながら人の頭を小突いてくるのを容認する程度には、敷島とは仲が良い。中途採用は何かと肩身が狭い思いをすると覚悟していたのだが、入ってすぐ、夏休みの市の企画が佳境に入っており、肩身が狭いとか言ってる場合ではなかった。徹夜で企画書を練り上げ、関係各所に挨拶と陳情行脚で駆けずり回って、イベント終了後には打ち上げの乾杯の音頭で全員が戦友となった。

「羨ましければ、敷島さんも結婚すれば良いんですよ」

「簡単に言うねえ」

 がははと笑う敷島は今年三十五歳。僕よりも十歳年上だ。本人は、一人が楽だとか、自分に結婚は無理そうだとか諦めたようなことを言っているが、本当の所はどうだろう。ぼさぼさの髪と無精ひげは人を選ぶと言う。すなわち『だらしない』か『ワイルド』の二種類だ。敷島は後者に当てはまる。浅黒く焼けた肌に過酷な業務で鍛えられたがっしりとした体は、色白でヒョロヒョロした僕よりもよほど男らしい。性格だって悪くない。がさつに見えるが、その実かなり周囲に気を配っている。今も僕の体調を気遣ってコーヒーを入れてくれたし、課の人たちにもよく声をかけている。別部署からも信頼が厚い。きっと彼は、人との心理的な距離を測るのが、絶妙に上手いのだ。相手が怒るライン、嫌がるラインをきちんと見極め、それ以上踏み込まない。これは逆に、相手が言ってほしい言葉やして欲しい事も察する事が出来るということでもある。また、他の人が言えば嫌われるような言葉も、彼なら嫌味に聞こえない。表情や声のトーンを上手く調整していると思う。

 結論を言えばナイスガイだ。その気になれば、結婚相手、恋人に不自由するようには思えない。それで不足していると言うなら、意識無意識に関わらず自ら遠ざけているか、ストライクゾーンが極めて特殊かだ。例えば、二次元とか、同性とか、熟女以上とか、逆に年下…。

 眉間をつまみ、強く目を瞑る。悪夢がちょっとしたきっかけを足場にして意識に昇ってきた。強すぎる記憶は、簡単に記憶の引き出しから溢れる。

「おい、本当に大丈夫か」

 一転、気遣うような口調で敷島が僕の肩を叩いた。

「すみません。大丈夫です。ちょっと寝不足なだけですから」

「そうか? なら良いんだが。無理はするなよ。調子悪けりゃ早退したってかまわねえんだ。イベントとイベントの間の、この時期は許されるんだぜ? 無理して体壊すくらいなら休め。仕事がお前の看病してくれるわけじゃねえぞ。有給だってあるんだろ?」

「ありがとうございます。無理そうな時は、敷島さんに仕事全部任せて帰りますから」

「馬鹿、止めろ。そこは片付けて帰れ」

 笑いながら、敷島は自分のデスクに戻っていった。見送ってから、コーヒーをすする。苦味が口内に広がって、飲み込んだときにはすっきりした後味だけが残る。気合を入れ、キーボードに両手を添えた。

 横目で敷島が席につくのを確認する。敷島から視線をゆっくりと課の同僚達に巡らせる。

 僕の生活行動圏内で、主に視界に入るのは敷島を含めて課の五名。信じたくはない。この中に殺人犯がいるなど。だから、殺人犯ではない可能性を求めて、昨晩目を覚ましてから考えていた。

 僕が見た殺害シーンを思い出す。犯人は一人。小学生の子どもの手足を縛っていたのだから、誘拐してからは犯人が運んでいた。小学五年生女児の平均体重は三十五キロ前後。かなりの重さだ。連れ去るには車が必要かもしれない。もしくは、ちょっとしたキャリーバッグ。取り押さえるのにも力がいる。その点を中心に考えれば、男性の方が可能性は高い。敷島、課長の守山の二人だ。

 だが、気になっている事もある。子どもに跨ったときすぐに手が喉元に伸びて届いた。視線も、それほど高くなかったように見えた。その事からも、犯人は小柄なのではないかと推測できた。敷島は百八十センチを超える長身、守山は僕と同じくらいだから百七十センチ前後だろう。あの視点は、もう少し低いような気がした。ならば、犯人は残りの女性陣、戸川、西島、斉藤の三人だ。背格好は戸川が最も高く、斉藤が真ん中、西島が一番小柄だ。百五十センチから百六十センチの間で収まるだろう。

 次に、五人の住所。同じ市内だが、敷島は市役所の最寄駅から五駅離れた県境、守山は逆に市役所に徒歩十分の距離だ。女性陣は全員電車通勤で、斉藤、戸川、西島の順に一つずつ駅が離れている。事件があった場所は、市役所のある番地に近い。となれば、守山が、二つの要素で有利になる。

 あれこれ考えて結局、素人の僕で考えつくのはこの程度だ。何の確証もないから、可能性ばかりが広がって収拾がつかなくなる。そもそも、顔を良く合わせるのは彼らというだけで、市役所内で顔を合わせる人間はもちろんいるし、外出先、通勤電車、駅、全ての行動範囲で人の顔は視界に入ってしまう。他に手がかりになるようなものは見ていない。僕の生活範囲内にいるというだけでは、犯人を絞り込む事など不可能だ。自分が思いついた要素の全部に合致する人間がどれだけいると思っている。その結論に至って、僕は思考を手放した。けれど、網膜に焼きついて離れない光景と、手に残る感触が僕を眠らせてくれなかった。

 犯人を捕まえられるとまでは、思わない。けれど、ある程度の当たりはつけておきたい。

 近付きたくないのだ。感覚を共有するというのは、共有した相手の感情も共有する。つまりは、相手が快楽殺人者だった場合、殺人を犯した時に快楽を覚えるわけで、意識を共有している僕もその時快楽を覚えてしまうのだ。起きた後は恐怖と罪悪感と嫌悪感で吐き気に襲われる。もちろん、あの感情は他人のもので、本来の僕から生まれ得るはずのないものだと思っている。思ってはいるのだが、それでも、万が一の可能性、僕自身にも、殺人に快楽を覚える素養があるのではないかと、考えてしまう。意識を共有とか、そんなのは全て僕の妄想で、これは僕が引き起こしたものではないか、とか。

 可能性のある人間に近付かなければ、悪夢を見る事も無い。我が身可愛さのために、僕は犯人を推測する。

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